17年前の今日、阪神淡路地域に未曾有の大地震が発生しました。
その当時、テレビ、新聞が悲惨な状況や死者数などを競って発表する中、私たちは「私たちに何ができるのか?」と南信州の地で考えました。
数回、現地神戸市に足も運び、街の状況を肌で感じました。
マスコミから受けるイメージと現地の状況はかけ離れていると感じました。
平衡感覚を失うほど街がゆがんでいました。
全国から集うボランティアの活発な姿や、ガレキと化した家の前にいけられた花が目に映る中、私たちは考えました。
「被災児童の疎開受け入れができるのでは。もしニーズがあるのであれば、私たちの今までの経験と教育の場が役立つことになるのではないか」と。
そんな折り、伊丹市の市民団体と私たちの地元泰阜村当局の両方から「被災児童の長期受け入れができないか」という要請がありました。
そして、市民団体が現地状況の調査と募集、泰阜村行政が財政支援、私たちが児童の受け入れという、今思えばパートナーシップ事業のモデルとも言えるような協力体制ができあがりました。
1995年4月から1年間、西宮市の小学4年生女子2人が、1年間の山村留学事業:暮らしの学校「だいだらぼっち」に元気に参加しました。
その夏休みには、2人が通っていた学校のクラスメイト17人を泰阜村行政が夏キャンプに招待し、企画運営を私たちが担いました。
続いて1996年4月から2年間、神戸市灘区の小学5年生1人が暮らしの学校「だいだらぼっち」に参加し、1998年3月に泰阜南小学校を卒業しました。
暮らしの学校「だいだらぼっち」で、彼らはたくましく育ちました。
現地で復興に向けて親子が力を合わせるのと同じ位、離れた地でがんばることは大事なことでした。
そう自分に言い聞かせて暮らす姿はいじらしいほどでした。
そしてそんな彼らを受け入れた仲間たち、村の人々がいました。
様々な立場のこどもたちが共同生活する「だいだらぼっち」は、まさに「違いは豊かさ・多様性の共存」をこころに刻む学びの場となりました。
そして厳しい自然環境のなかで助け合いながら生きるひとびとの住む泰阜村での生活は、まさに「支えあい・お互い様」を身体に刻む学びの場となりました。
その3人ももう27歳。みな社会人です。
「阪神でもたくさん亡くなってるけど、それ以上だった昨年の地震は、津波の恐ろしさというのがよくわかるね」
「俺もそうやけど、地震のトラウマって結構あると思うから、これからの被災者のケアが大事やなあって思ったわ」
「やっぱりしんみりしてて、でも経験した私たちだからこそみたいな東日本を応援する声が一番多くて感動するよ」
彼らからさきほど届いたメールです。
阪神地域はすっかり復興したと聞きます。
しかし、復興とは元に戻ることだけではないでしょう。
建物や道路はもちろんですが、価値観も再構築されてさらに磨きがかかります。
大震災が私たちに伝えるものは、この価値観の再構築だと考えます。
私たちは「違いは豊かさ・多様性の共存」という価値観を、「支えあい・お互い様」という価値観を、こどもたちと共にもう一度築き上げていこうと強く想います。
そうしてはじめて、復興と言えるのだと想います。
多くの災害が日本を襲うたび、私たちNPOが担う人づくりの役割もまた磨きがかかります。
阪神・淡路で被災して心も身体も傷ついたこどもが、小学生時代に泰阜村の風土に包まれて育ち、青年になった今、東日本の傷ついた声なき声に寄り添おうとしています。
今後、彼らが果たす社会的役割に期待です。
▼今日の暮らしの学校「だいだらぼっち」
2012年1月17日。
太平洋気候に属する南信州泰阜村は、珍しく大雪でした。
次回は、この3人からいただいたコメントを紹介します。
代表 辻だいち
その当時、テレビ、新聞が悲惨な状況や死者数などを競って発表する中、私たちは「私たちに何ができるのか?」と南信州の地で考えました。
数回、現地神戸市に足も運び、街の状況を肌で感じました。
マスコミから受けるイメージと現地の状況はかけ離れていると感じました。
平衡感覚を失うほど街がゆがんでいました。
全国から集うボランティアの活発な姿や、ガレキと化した家の前にいけられた花が目に映る中、私たちは考えました。
「被災児童の疎開受け入れができるのでは。もしニーズがあるのであれば、私たちの今までの経験と教育の場が役立つことになるのではないか」と。
そんな折り、伊丹市の市民団体と私たちの地元泰阜村当局の両方から「被災児童の長期受け入れができないか」という要請がありました。
そして、市民団体が現地状況の調査と募集、泰阜村行政が財政支援、私たちが児童の受け入れという、今思えばパートナーシップ事業のモデルとも言えるような協力体制ができあがりました。
1995年4月から1年間、西宮市の小学4年生女子2人が、1年間の山村留学事業:暮らしの学校「だいだらぼっち」に元気に参加しました。
その夏休みには、2人が通っていた学校のクラスメイト17人を泰阜村行政が夏キャンプに招待し、企画運営を私たちが担いました。
続いて1996年4月から2年間、神戸市灘区の小学5年生1人が暮らしの学校「だいだらぼっち」に参加し、1998年3月に泰阜南小学校を卒業しました。
暮らしの学校「だいだらぼっち」で、彼らはたくましく育ちました。
現地で復興に向けて親子が力を合わせるのと同じ位、離れた地でがんばることは大事なことでした。
そう自分に言い聞かせて暮らす姿はいじらしいほどでした。
そしてそんな彼らを受け入れた仲間たち、村の人々がいました。
様々な立場のこどもたちが共同生活する「だいだらぼっち」は、まさに「違いは豊かさ・多様性の共存」をこころに刻む学びの場となりました。
そして厳しい自然環境のなかで助け合いながら生きるひとびとの住む泰阜村での生活は、まさに「支えあい・お互い様」を身体に刻む学びの場となりました。
その3人ももう27歳。みな社会人です。
「阪神でもたくさん亡くなってるけど、それ以上だった昨年の地震は、津波の恐ろしさというのがよくわかるね」
「俺もそうやけど、地震のトラウマって結構あると思うから、これからの被災者のケアが大事やなあって思ったわ」
「やっぱりしんみりしてて、でも経験した私たちだからこそみたいな東日本を応援する声が一番多くて感動するよ」
彼らからさきほど届いたメールです。
阪神地域はすっかり復興したと聞きます。
しかし、復興とは元に戻ることだけではないでしょう。
建物や道路はもちろんですが、価値観も再構築されてさらに磨きがかかります。
大震災が私たちに伝えるものは、この価値観の再構築だと考えます。
私たちは「違いは豊かさ・多様性の共存」という価値観を、「支えあい・お互い様」という価値観を、こどもたちと共にもう一度築き上げていこうと強く想います。
そうしてはじめて、復興と言えるのだと想います。
多くの災害が日本を襲うたび、私たちNPOが担う人づくりの役割もまた磨きがかかります。
阪神・淡路で被災して心も身体も傷ついたこどもが、小学生時代に泰阜村の風土に包まれて育ち、青年になった今、東日本の傷ついた声なき声に寄り添おうとしています。
今後、彼らが果たす社会的役割に期待です。
▼今日の暮らしの学校「だいだらぼっち」
2012年1月17日。
太平洋気候に属する南信州泰阜村は、珍しく大雪でした。
次回は、この3人からいただいたコメントを紹介します。
代表 辻だいち