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持続可能な発展目標

2022-01-01 | 日記

このところ毎年のように、BS放送で正月に未来について語る番組が組まれている。今年もそんな番組を見ていたのだが、最近の流行り言葉のようになった「SDGs:持続可能な開発目標」が一つの大きなテーマだったように思えた。個人的には、Development は「発展」と解釈しており、テーマの意味する所は「持続可能な発展目標を設定しよう」ということと受け取っている。

 様々な問題点や取り組みが番組の中で取り上げられていたが、ふと「果たして、日本のどれくらいの場所が現実に持続可能なのだろうか」と思い始めた。ある程度の規模とインフラ・人口が揃っている市や町はこれからも「存続できる」だろうから、その中で「持続可能な発展目標」を見つけるのは可能なのかも知れない。しかしほとんどが山間地である日本では、その面積の大きな部分を農村・漁村を含めた過疎地と呼ばれる場所が占めている。その「過疎地」の人々に、10年後を目指した「持続可能な発展を目指す取り組み」という言葉はどのように受け止められているのだろうか。

 「過疎地」は人口が少ないというだけでなく、若い世代の人口が極端に少ない共通性がある。そこで「10年後の社会」と言われても、その村や町そのものが存続できなくなっている可能性も大いにあるのだ。「持続可能な発展」というよりも先に、「存続可能な生活環境」を如何にして形成するかと言う方が大きな課題となっているわけだ。

 思えば、ある時期までは「過疎地」が日本社会の大きな問題として取り上げられていたが、「地方の自立」という言葉が使われ始めた頃から、いつの間にか「過疎地は自分達で何とかしろ」という雰囲気を感じるようになって来た。2030年頃には現在の「過疎地」の多くがほぼ「無人に近い地域」になってしまい兼ねないし、2050年まで考えれば日本の山間部で暮らしている高齢者のほとんどが既に居なくなってしまうと想像される。

 巨視的なレベルでの「持続可能性」を追求し話し合うのも重要だが、実際的に「持続可能」を達成するには、人々の集落や自治体の規模をも持続・保持可能なものにしなければならない。現実の人々の暮らしをもっと深刻に捉えることなく、概念的なSDGsを語り続けても、それは所詮「絵に描いた餅」のままで終わってしまうだろう。では果たして、現在の日本の「過疎地」と呼ばれる地域においての「持続可能な発展」とはどういうことなのだろうか。番組を見ていても、まだ、自分ではその姿を思い描くことが出来ないままだった。

 果たして、10年・20年後に消えてしまいそうな過疎の地域を考慮に入れた上での日本の「持続可能な発展」とは、どのようなものだろうか。さらに、世界が本気で「持続可能な発展」を目指すならば、真っ先に世界から戦争を無くすことを目指さなければならない。戦争によって無残に破壊される国や地域に住む人々には「命の継続」こそが最重要課題であり、「持続可能な発展」など到底思い浮かべることもできない話なのだから。

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