ペタンク爺さん

ペタンクで遊ぼうよ!で20年

朝鮮人との悪いイメージはガキの頃に逆のぼる

2015年03月01日 19時24分54秒 | 自叙伝

故郷の小さな輪西の町の一角に朝鮮人一家が住みついていた、私より少し年長の少年で一緒に遊ぶ事はなかった、ただ道端で出会うと決まって悪口を吐いていた、この言葉がこの歳になっても脳裏から消えない、未だに言葉の意味も解らないまま70年も過ぎてしまった、現在の隣国の韓国大統領の態度に、戦慄を覚えるのは私ばかりかと思う供に、最後は供に未来思考で解決出来ればと結論付けでいる。

さて子供の喧嘩の啖呵は次のセリフ「ニキビシバラカシナコノモジヘタウマチョンデナー」と囃すと片言の日本語で言葉の反撃に出ていた、「朝鮮、朝鮮とバカニスナ同じ人間ドコチガウピンノカケラデブタタクド」の応酬があったが、何時も口喧嘩で 治まっていた。

戦争が終わると私の故郷も一変した、大きな製鉄所の城下町、強制的に労働の一角を担う為に中国人が大勢いた、終戦と共に中国人がグループを作り大手を振って闊歩していた、中国と日本は対戦国だが、朝鮮は日本の植民地になったこともあり、恨み骨髄に達していた、戦後間もなく治安もままならなない環境のなかの出来事で中国人グループは朝鮮人を見っけると殴る蹴るの乱暴狼藉が毎日の様に町のあちこちで起きていた、兄が中学卒業の年に久し振りに帰宅途中、朝鮮人と間違われ大怪我を負う。

後日中国人代表が我が家迄、謝罪に来て持参の鶏を使って中国料理を作り皆で食べたことを覚えている。

20代後半に衣料品店の経営に行き詰まり、債権者達が様々な対応をしてくる、その中の一人で直接債権者でもないのに、日本刀を持ち込み勝手に泊まり込んでしまつた、その人は朝鮮人で戦中の仕返しをしていた、中国人が帰還すると今度は朝鮮人が台頭して来る'最初は日本 が手を出さなかったパチンコ屋で成功していってる。

自主トレ特別メニュー三日目

自走歩行マシン~~3/1~500歩

 

 

 

 

 

 

 



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