牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

牛頭天王と金神(こんじん)信仰

2010-10-31 09:35:24 | 日記
 地震・落雷・水害・干ばつなどの天災がなく、豊かな実りの続く原始時代でしたら、当時の人々が自然物へ信仰心をもったとは考えられません。氏神信仰は生じても、自然信仰は生じなかったでしょう。恵みと災いとがあったからこそ、自然物への信仰心が高まっていったのだと思います。縄文時代、神とは災いと福をもたらす存在でした。日之神も木之神も蛇神もそういう神様でした。
 ところが、飛鳥・奈良・平安時代と仏教や儒教や陰陽道など様々な神様・考え方が入ってきて、神様が「専門化」するようになったっと、わたしは想像しています。それには仏教・陰陽道の影響があったとも想像しています。仏教の仏様は薬師様のように「専門化」していますし、陰陽道では方位神の「祟り」を重視しています。「祟り」「災い」の専門神が登場して、それを「荒神」と称したり、「凶神」と称したりしたのでしょう。
 鎌倉時代・南北朝時代と神仏習合が一段と進み、陰陽道が武士階級や一般大衆の中にも入り出すと、「荒神」「凶神」は「金神(こんじん)」として登場するようになったと思います。さらに時代が下って、牛頭天王に滅ぼされたはずの巨旦(こたん)は金神として復活したとする考えも登場するようになりました。
 川越市立博物館が保管している『牛頭天王縁起絵巻』(18世紀半ばの作品。川越市立博物館発行『川越学事始め』による)には、川越市石原町の八坂神社の縁起を中心に主催神についても述べています。それによりますと、
「当社は三座也 第一素盞嗚尊是則(これすなわち)牛頭天王の本地薬師如来武荅天神ト云也  第二稲田姫俗少将井ト云沙女□(1文字不明「糸+昌」の文字)羅龍王ト云其遊行スル所歳徳尊神ト云是波利女也  第三八岐大蛇是巨旦変作也蛇毒鬼神ト云其遊行スル時ハ金神ト云鬼門之主也」とあります。要するに、巨旦はヤマタノオロチに変わったり、蛇毒鬼神となったり、金神になったりしていると云うのです。この神社ではヤマタノオロチの冥福を祈ると共に、神として、しかも巨旦金神として祀っていたのです。書物や民間伝説をつなぎ合わせた結果でしょう。

 飛鳥・奈良・平安時代は、「荒神」「凶神」へは、「お祓い」「お清め」や「福神」到来の「祈祷」などが大切にされたと思われます。
 鎌倉・南北朝・室町時代の武士の時代になると、「荒神」「凶神」を「金神」として認め、その通り道を「保障」しておき、人はそれを避けるようにすればいいという考え方に変わったと思われます。さらに、江戸時代になると、「金神」を讃えることによって幸せになると言う宗派も登場するようになったと思われます。「金神信仰」の変化をわたしなりに簡単にまとめてみましたが・・・・。

牛頭天王信仰と山王信仰

2010-10-30 06:25:05 | 日記

 2005年に『最澄と天台の国宝』と題して天台宗開宗1200年記念特別展が京都国立博物館で行われました。(上野の国立博物館では翌年開催)天台宗に関する仏教美術作品だけでなく「山王神道」に関する美術作品も見ることができました。最澄は比叡山に寺を建立するにあたって、元々山にいた「地主神」を重視したと思われます。
 比叡山は元々「日枝山(ひえのやま)」と呼ばれていて、その神は大山咋神(オオヤマクイノカミ、またの名をヤマスエノオオヌシノカミ。スサノヲノミコトの孫ということが『古事記』から分かります)でした。最澄は奈良の三輪山から大物主大神(オオモノヌシノオオカミ。『古事記』には「大物主神」とも書かれています)をも勧請し、天台宗延暦寺の基礎を築きその守護神としたと思われます。その精神は弟子たちに引き継がれ、その神は「山王」と称され日吉大社が建てられ「山王神道」が生まれることとなったと思われます。日吉大社の分社は、元々の山の名をあてて「日枝神社」と称されたり、「山王神道」の「山王」をあてて「山王神社」と称されたりしています。
 現在の日吉大社では主祭神は大物主神ではなく、大己貴神(オオナムチノカミ=オオクニヌシノミコト)になっています。それは『日本書紀』が「大物主神=大国主神」としているからです。『法華経』に記されている八王子も当初は日吉大社で祀られたと思いますが、陰陽道の浸透、牛頭天王信仰の隆盛と重なって、いつしか陰陽道の八将神や牛頭天王の御子八王子神に変えられて、「八王子」というと陰陽道の八将神か牛頭天王の御子八王子神と思われてしまうようになりました。しかし、全国の数多くの日吉神社・日枝神社・山王神社では、八王子のお父様である牛頭天王は祀られていませんし、祇園祭も天王祭も行われていません。日吉大社関係のお祭りは「山王祭」です。
 明治維新政府の神仏分離の法律により、延暦寺と日吉大社とは「別存在」となり、八王子神は「大山咋神の荒魂」として祀られることとなったと思われます。最澄は寺院建立にあたっては「地主神」「日本古来からの神」を大切にし、「守護神」とすべきという立場だったと思いますので、弟子たちも牛頭天王という天竺(インド)の山の神は招かなかった訳です。京都では、天竺の山の神牛頭天王様は祇園社で祀られることとなりました。しかし、延暦寺は京都祇園社を「支配」する程の力を強めた時期があったとのことです。


牛頭天王とお札配り

2010-10-29 07:01:50 | 日記
 20日ほど前、江戸時代後半の江戸の町の文化について紹介したNHKの番組があって、そこで「わいわい天王」などの大道芸も登場したとのことです。わたしは見ていませんが・・・。
「わいわい天王」は18世紀末から19世紀の初め(寛政・享和の頃を中心)に江戸の町で活躍した大道芸人で、天狗のお面をかぶり、山の神牛頭天王になったつもりで「わいわいわい、わいわいわい、わいわい天王囃すのお好き、けんかは嫌い、なかよく遊べ。」などと言いながら、「天王札」をばらまき、拾った子どもの家に行って「初穂銭なり」と言ってお金を要求したとのことです。
 お医者さんにかかるとものすごくお金のかかった時代ですから、「無病息災」を祈って、親たちは子どもが手にした天王札にお金を払ったのでしょう。恐喝まがいの芸当と思われますが、トラブルも起きず商売として成り立ったのでしょう。
 神奈川県の戸塚の八坂神社では、夏祭りの時に今でも10人の男たちが踊りながらうちわで札をばらまく「札配り」を行っているとのことですが、「わいわい天王」の芸はこういう行事を下地にしていたのかもしれません。

牛頭天王札と蘇民将来符

2010-10-28 04:54:18 | 日記
 一昔前(昭和20年代)ですと、日本中無医村のところが多く、野辺の仏様や庚申様にすがる状態でした。家々にはお札やお符も飾られ一年の無病息災を祈ったものでした。今日では医療が発達して、保険制度とあいまって長寿国日本と言われるようになりました。身体面でお札・お符に期待する人は激減しました。
 しかし、今の日本、精神病が蔓延。精神科医は3分間にひとりの患者さんを見るといった状態と聞きます。精神科医が過労で精神病になるという危機的状態とも言われます。神社・仏閣に行けば大量の絵馬とおみくじが木々指定場所に付けられています。「困ったときの神頼み」は21世紀の科学の発達した時代にも続いています。
 以前にも書きましたが、科学が発達すればするほど不安は大きくなっていくようにも思えます。不安解消のために、占い・宗教・お守り・お符・お札の力に期待する人は多くなっていると言っていいでしょう。
 見出し写真は、先週、根津神社で行われた下町まつりの時の『わいわい天王』踊りの時に配られた「牛頭天王札」です。本文中写真は、東京四谷の須賀神社で配付している「蘇民将来の茅の輪」のお守りと、信濃国分寺配付の「蘇民将来符」です。根津神社で配られた「牛頭天王札」は無料配付ということもあって、完配だったようです。

牛頭天王と八王子

2010-10-26 09:01:38 | 日記
 そもそも「八王子」という言葉は『法華経』にあって、牛頭天王の八人の王子のことでも、陰陽道における「方位神(八将神)」でもなかったと思われます。比叡山延暦寺の開祖最澄は『法華経』の「有八王子 一名有意 二名善意 三名無量意 四名宝意 五名増意 六名除疑意 七名響意 八名法意 是八王子」を重んじたと言われます。弟子の円仁(のちの慈覚大師)は東国を回り、民衆の中に入り『法華経』の普及に努めました。「八王子」は『法華経』の精神で、円仁の東国への修行・民衆教化の努力によって、浸透していったと思われます。平安時代前期のことでした。
平安時代中期になると、堕落したヤマト朝廷と摂関政治(藤原氏の私利私欲に充ち満ちた政治)に期待しない地方の豪族たちは武士団を形成し自衛しました。中には反旗を翻す者たちも出ました。「新皇」と称した平将門はその代表と思われます。「反乱軍」は、中央権力に「ゴマする」藤原秀郷ら地方武士団によって次々に鎮圧されましたが、結果的には地方武士団の台頭を許すこととなり、ヤマト朝廷・貴族の権力は衰えていきました。そういう状況にあって、牛頭天王信仰は少しずつ成長していったと思われます。
『新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)』とは、江戸時代の後半(化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌ですが、そこに、延喜年間山頂で修行中の僧侶妙行に牛頭天王とその御子八王子が出現したので祀ったということが書かれており、それが現在の東京都八王子市の名前の起こりと言われます。(八王子市はそのホームページで市名の起源が牛頭天王の御子八王子から来ていることを紹介しています。)化政文化の頃、牛頭天王信仰は絶大な人気をもっていました。ですから、こうした話が生まれるのは当然と言えば当然です。しかし、考えてみればおかしなことで、牛頭天王様と王子様のお姿が現れたのであれば、名と称すべきは「天王」「天王山」「天王寺」であり、「八王子」ではないでしょう。お父様を差し置いて子どもの方をたてるというのはおかしなことと思われます。
 平安時代、山頂で修行して、脳内のドーパミンが高まって八王子の出現を見た僧侶がいたとしても、それは牛頭天王とその御子八王子ではなく、『法華経』の「八王子」だったと思われます。ところが、戦国時代になって、その地の重要性を見て取った北条氏は築城します。北条氏は、当時人気急上昇の牛頭天王を主祭神にして、「最強の神が守る山城」として、配下の者たちに地域の者たちに暗示をかけたと思われます。残念ながら、この山城は豊臣秀吉の大軍によって陥落してしまいましたが・・・・。
「陥落した」、「本来の謂われとは違う」とは言われても、牛頭天王を再評価したいわたしとしては、現在の八王子市の名前がが牛頭天王の御子から来ていると思われることはうれしいことで、ぜひ、「八王子まつり」でも牛頭天王に関するイベントを行ってもらいたいと思う次第です。それはとにかくも、牛頭天王信仰は、スサノヲモミコトと合体し、「蘇民将来伝説」「茅の輪」を取り込み、海神「龍王」や蛇神を取り込み、『法華経』の「八王子」を取り込み、陰陽道の「八将神」を取り込み、本地の薬仏薬師如来をはるかに超える「御利益」のある存在になっていったのです。

牛頭天王と牛

2010-10-25 04:40:22 | 日記
 わたしは東北の農家の生まれです。60歳以上の農家出身の人なら思い出すでしょう。牛や馬は人と同じで母屋にいて、大切にされていたということを・・・・。わたしの父親の実家の場合は、牛や馬を飼っている隣が台所でした。ですから、牛や馬にたかるハエが台所にやって来るというわけです。当時は「とりもち」をつかったはえ取り紙を天井から10本くらい台所に垂らしていたのですが、3,4日で「とりもち」はハエで真っ黒。
 納豆にはハエがくっついて羽をバタバタさせています。そのハエを捕った後に、納豆を食べるのです。不衛生とお思いでしょうが、誰も赤痢にはなりませんでした。抵抗力がついていたからでしょう。ハエが押し寄せるのを承知の上で母屋に牛や馬を住まわせたのです。大切な労働力で、人間以上の働きをしてくれるからです。
 古代の人たちが「こういう動物には神様が宿っている」または「こういう動物は神様に守られている」と思うのは自然とも思われます。牛のような角を持った神様とかいろいろ想像していたに違いありません。そんな時に、牛頭天王なる神様が現れたとしたら、「牛」の文字がつくので牛を司る神様と思い込み、牛頭天王を農業神として崇拝することになるということが考えられます。
 神奈川県の江島神社の境内には庚申信仰の石搭もあるのですが、その横にサルタヒコノカミが祀られています。庚申の申はサルだから、サルの文字のつくサルタヒコをも祀ったと言うわけです。中国から伝わった庚申信仰とサルタヒコノカミとは全く関係ありませんが、世の人々の想像力が両者を結びつけてしまったという訳です。
 薬神牛頭天王と農業神スサノヲノミコトとは関係ありません。しかし、同じような論理展開で牛頭天王は「牛の神」。スサノヲノミコトは「製鉄技術でいい農機具をつくった神様」。どちらも、農業に関係あるから、「一緒の神様」ということで習合させてしまったのかもしれません。わたし個人としては、不自然性を感じますが・・・・。
 備前市吉永町田倉の田倉牛神社(たくらうしがみしゃ)は、その名のとおり牛神様を祀っている神社ですが、新年の行事や祭りの時には「野上牛頭天王宮」の幟を立てるようです。自然信仰の延長としての牛信仰を守り続けていたところに、牛頭天王という神様の存在を知って、「牛の守り神」としての牛頭天王をイメージしたに違いありません。こうして幟が誕生したのだと想像します。
 埼玉県の神仏習合の牛頭天王寺院竹寺には、丑(うし)年生まれの人の参拝も多いと聞きます。牛がつく神様だから、「うし年生まれの人の守り神でもある」と思うからでしょう。丑年と牛頭天王とは全く関係ないのですが・・・・・。

 中国最古の王朝は殷(イン)王朝ということですが、その前の夏(カ)王朝の存在こも認められつつあるようです。夏王朝より以前となると、日本でいう「神話」の世界になり、初代の王様は「神農(しんのう)」とのことです。王様というか、神様というか、「神農」様は大変民衆に好かれていたとのことです。理由は「農業と薬の神様」だったからのようです。しかし、そのお姿は、鬼のようで角を生やしていたとのこと。
 日本においては、角が生えていると、「鬼」と思われて「悪者」「異常」といった観念を抱いてしまいがちですが、角は「力強さ」「勇気」「正義」の証と考えた方が「正常」なのです。その証拠に、日本の戦国時代の武将の兜(かぶと)には角のようなものをのばしている場合がありますし、同様にヨーロッパの戦士の兜にも角を生やしたものが目立ちます。
 古代中国において、角のはえている「神農」様が「英雄」であり「慈悲深い神様」であり崇拝の的であったことは十二分に想像できることです。この「神農」様が日本に伝わったと想像することもできます。地獄には亡者を取り締まる「牛頭馬頭(ごずめず)」なる者もいるようです。農業で活躍する牛を守る「牛神」様もいます。「神農」様、「牛頭馬頭」様、「牛神」様・・・・・・。ビャクダン(牛頭栴檀)の森の神様はいろいろな神様と混ざり合って、牛頭天王様になっていったとも考えることもできます。



牛頭天王と薬師如来

2010-10-24 00:13:43 | 日記
 薬師如来が飛鳥時代後期(白鳳時代)を代表する建造物であることは広く知られています。飛鳥時代前期を代表するものが法隆寺であることも、次の奈良時代を代表するものが東大寺であることも知られています。これらの寺院は国家権力によってつくられた寺院であり、そこに祀られている仏様・神様は、国家権力のための仏様・神様であることを当時の人たちには分かっていたと思います。聖武天皇は仏教による国家統一を進め、全国に国分寺を造ることも命じました。これらは一般民衆の重税の上にさらに追い打ちをかけるように造られたのです。
 国分寺の仏様は多くの場合、薬師如来像です。薬師如来像は飛鳥時代より、国家権力のための仏像だったのです。ところが、飛鳥時代後半ものすごいことが起きました。ヤマト朝廷は唐・新羅の連合軍と戦い、大敗を喫したのです。世に言う「白村江の戦い」です。薬師如来像の「御利益」なく、日本兵は悲惨な状態で死んでいきました。この時点で、国家権力の宣伝する薬師如来像の「御利益」については下級豪族には疑問視されたと思います。「白村江の戦い」後、日本を二分する「壬申の乱」が生じ、たくさんの豪族や手下たちが悲惨な死を遂げました。薬師如来像の「御利益」はここでも疑われたと思われます。にもかかわらず、権力者たちは薬師如来像を本尊にする薬師寺の建造、さらに奈良時代になって国分寺建造を始めたのです。
下級豪族たち(のちの武士団)が、表向きの顔は別にして、本心から薬師寺や国分寺の「御利益」を期待したとは思われません。国分寺は「仏教伝搬」という目的の他に、中央権力が「地方の情勢を把握する」という目的ももっていたと思われます。地方の下級豪族(のちの武士団)にとって、場合によっては「目の上のたんこぶ」だったに違いありません。いざ戦となったら、「国分寺周辺は仏様がいらっしゃるところだから戦場にするのはよくない」という観念なんぞすっとんで、戦場となり跡形もなく消え去るという事態が生じる場合もありました。それが武蔵国分寺で、今は跡地(原っぱ)としてしか見ることができません。もっとも、新田義貞が再興のために努力したようですが・・・・。
 要するに、多くの下級豪族や一般民衆は、「御利益のない」飛鳥時代からの国家権力のつくった薬師如来像でなく、新たな薬神を求めたと思います。その要求に答えてくれたのが牛頭天王だったと思われます。牛頭天王の本地は薬師如来ですが、そんなことはおかまいなしに、牛頭天王は、武士団・一般民衆に、薬師様とは「別存在」として、強い支持をうけることとなるのです。何も薬師様が悪い訳でなく、無謀な戦争と重税の中での寺院建立が悪かったのですが・・・。
 ところで、「一般民衆向け」の薬師如来信仰もあり、地域によっては薬師如来を支えに暮らしていた人々もいたことを否定することはできません。東京の新井薬師もそういった期待に沿った寺院と思われます。新井薬師について言えば、一般民衆の中に入っていった弘法大師様の「徳」がこの寺院への人々の信仰心を強めたといえるのではないでしょうか。


牛頭天王と海神

2010-10-23 05:18:20 | 日記
日本古来の「海神」は龍ではありません。それは『古事記』を読むと分かります。日本古来の「海神」は鮫(ワニ=サメ)です。「海幸彦と山幸彦」の物語の章に出てきます。岩波文庫の『古事記』に沿って見ていきます。
 海幸彦は漁師で、弟山幸彦は猟師でした。山幸彦はたまには道具を交換して仕事をしてみようと言いましたが、兄は承知しません。3回頼み込んでも承知しなかったのですが、4回目に承知して、海幸彦は山へ、山幸彦は海へ行きました。なれない仕事ですから、山幸彦は釣れないばかりか、大切な釣り針を海の中に落としてしまったのです。そこで、山幸彦はお詫びに千本の釣り針をつくりました。ところが、兄は承知しません。元々の釣り針を探し出してもってこいというのです。
 山幸彦は海で泣いていました。すると、シオツチノカミがやってきて、「善き議(ことはかり)なさむ」と言って、「海神」のお宮に案内してくれました。山幸彦はそこで、「海神」の娘豊玉毘賣(トヨタマビメ)と出会い恋愛関係になり、「海神」も承知してふたりはご結婚と相成りました。落とした釣り針は「海神」が魚たちを集めて探し出してくれました。山幸彦は釣り針を持って、豊玉毘賣をつれて、地上に戻りました。
 妊娠した豊玉毘賣は言いました。「凡 (すべ)て、他国(あだしくに)の人は産む時に臨(な)れば、本つ国の形をもちて産むなり。故、妾(あれ=わたし)今、本の身もちて産まむとす。願はくば、妾をな見たまひそ。」要するに、「海神」の娘は、元の姿になって子供を産みますから、その姿を見られるのははずかしいので、見ないでください。」と言ったのです。ところが、山幸彦は見てしまいます。豊玉毘賣はなんと大きな鮫だったのです。耐えられなくなった 彼女は海に帰っていきます。しかし、我が子のことが気になり、妹玉依毘賣(タマヨリビメ)を地上に送り養育を頼みます。
 娘が鮫ですから、「海神」の本来の姿も鮫と想像でき、海を司っていたのは龍ではなく鮫という観念のあったことがわかります。
 もうひとつ分かることは、「海神」もその子も普段は人の形をしていますが、時と場合によっては、元の形に戻るということです。「半人半獣」ではないということです。「海神」もその娘も、自然神と人格的神の「中間的存在」の神像であることが分かります。牛頭天王のお后婆梨采女(ハリサイジョ)も、豊玉毘賣と同様の「中間的存在」なのかもしれません。
1.動物そのものを神とする。
2.「半人半獣」神像を神とする。
3.時と場合によって、人になったり獣になったりする像を神とする。
4.人格的神が、動物を司るとする。
 こうした、変化の中でも、第3段階に位置づけられるのが『古事記』であり、牛頭天王が南海の龍王の娘と結婚する話もこの段階の話と想像するのですが、夜、たまたま元の姿に戻ることはなかったのでしょうか?


牛頭天王と蛇神の地

2010-10-22 20:35:30 | 日記
 前回紹介した井の頭公園の「人頭蛇身(半人半蛇)」像は、地元の人はあくまでも「弁天様」としてつくったものです。こういった「人頭蛇身(半人半蛇)」像も弁天様として祀られている現実があります。
 東京の池尻大橋駅付近(渋谷の隣)にある池尻稲荷神社の主祭神はウガノミタマノカミですが、境内社には白蛇が祀られています。「かれずの井戸」がありそれをお守りしているとも思われます。しかし、もしかすると、この稲荷神社はもともとは蛇を祀る神社だったのかもしれません。神社を出て本殿を見ると「三重の造り」の本殿のようにも思えます。一番奥に祀られている神様が気になるところです。
 井の頭公園の弁財天や池尻稲荷神社では、牛頭天王やスサノヲノミコトは祀られてはいません。ただ、牛頭天王やスサノヲノミコトを祀っている神社には併せて、稲荷神としての宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ、ウガノミタマノカミ)を祀っている場合も多く見られます。すでに紹介した羽村の八雲神社もそうでした。
 南会津の、会津田島駅近くにある田出宇賀神社 (タデウガジンジャ) では、牛頭天王も祀られていて祇園祭が行われており、日本三大祇園祭のひとつになっていると言います。
「ウガ」「ウカ」は穀物を意味すると研究者たちは言います。正しいと思いますが、わたしは次のように想像しています。
ウ・シ=牛。 ウ・マ=馬。 ウ・オ=魚。 ウ・サギ=兎。 
ウ・ゴク=動く。 ウ・ム=産む(生む)。ウ・ク=浮く。
ウ・ミ=海。 
「ウ」の語源としての意味は、「誕生」「生命活動」を意味するのではないでしょうか。さらには、「生き生きとしている状態」「次々に生まれ出る状態」「永久に存在する状態」をも示すようになったのではないかとも思います。
では「ウ・カ」は何かという・・・・・。「ウ・カカ」の短縮形で、「生き生きと動く蛇」を意味する言葉ではないかということです。そして、「蛇神様のいるところは食糧も豊富」ということで「穀物」という概念が生じたのではないだろうかということです。
 
 話は違いますが、「ス」は「すばらしい」「すてき」の「ス」と考えます。古代朝鮮語の「ス」も「すばらしい」「すぐれた」「最も上等」と言う意味をもっていたといいます。すると、「スガ=須賀」は「すばらしい蛇神様(豊富な食糧を与えてくれる神様)」となりますし、「ウガ=宇賀」も「次々に食糧を与えてくださる生き生きした蛇神様」となります。「アスカ=飛鳥=明日香」も「ものすごくたくさんの食糧を与えてくださるので、驚くほどすばらしい蛇神様」ということになります。これらは、蛇信仰と土地を結びつけて考えたわたし個人の想像でしかありませんが・・・・・。
「宇佐」は「ウ」と「サ(砂鉄を意味した朝鮮語の古語と言いますが、しかし、日本人は金属系=鉱物資源を総称したとも考えられます)」で、「鉱物資源がたくさんとれるところ」または「鉱物資源を活かしたところ」だったのかもしれません。
「飛鳥」については、朝鮮語の「アンスク(安住)」が変化したものと解く人もいるようです。飛ぶ鳥の名の「イスカ」の変化と説く人もいるようです。「浅い川(アサカ)」が変化したものと説く人もいるようです。
「カ」の意味も、蛇ではなく「地」「処」と考える人もいます。どの説も、それぞれ根拠を持ち、完全否定はできないと思います。
 話を牛頭天王に戻しますが、信濃国分寺所有の『牛頭天王之祭文』にしろ、京都大学附属図書館蔵の『牛頭天王御縁起』にしろ、眷属の中でも蛇神を重視したのは「豊饒」の根底には蛇が存在するという認識があったからとも考えることができます。


牛頭天王と蛇神

2010-10-22 00:58:10 | 日記

 信濃国分寺の所有する『牛頭天王之祭文』の後半には次のように書かれています。
「牛頭天王 婆梨采女(はりさいめ、または、はりさいじょ) 武荅天神 八王子 蛇毒気神王等之部類眷属(けんぞく) 愛愍(あいみん)垂(たれ)納授(のうじゅ)ヲ給ヘト 敬(うやまいて)白(まおす) 再拝々々」とあります。
 眷属(けんぞく=部下) の中では蛇毒気神王が代表で書かれているのです。 
 京都大学附属図書館蔵の『牛頭天王御縁起』の後半においても、
「南無大悲牛頭天王 武答天神 婆利采女 八大王子 相光天王 魔王天王 倶摩羅天王 徳達神天王 羅持天王 達尼漢天王 侍神相天王 宅相神勝天王 蛇毒気神王 興官受福神 摩訶羅大黒天神 各々 八万四千六百五十余神等眷属」と書かれ、蛇毒気神王 は眷属の中でもトップに書かれています。
 そもそも「蛇毒気神王」とは何者なのでしょうか。「ヤマタノオロチ」のことではないかという説があります。「ヤマタノオロチ」の御霊を弔うために祀ったという訳です。正しいかもしれません。しかし、わたしは想像するのですが、蛇の中でも毒蛇を司る神様のことを指すのではないでしょうか。原始時代・古代初期においては蛇は神様、または神様の使いでした。ただ、マムシなどのように毒をもったものもおり、ネズミを捕るなど「ありがたい」存在であると共に、「恐ろしい」存在でもあった訳です。その蛇を司る神をも眷属にしてしまう偉大な存在が牛頭天王様という考えから『牛頭天王之祭文』にも『牛頭天王御縁起』にも書かれたのではないでしょうか。
 
 宗教史・精神史から考えるのですが、自然信仰の原始時代は、樹木や蛇そのものが敬われ、さらに時代が下り、蛇を司る人格的神の存在が登場することになったと思います。蛇毒気神王もそういう人格神のひとりと思いますが、もしかしたら、動植物そのものを神とする観念と人格神を創り出した観念との、「中間的観念存在」もあり、それが「人頭蛇身(半人半蛇)」の像で、蛇毒気神王は「人頭蛇身(半人半蛇)」なのかもしれません。違うかもしれません。
 井の頭公園(東京都)の池には弁天様が祀られています。弁天様の近くには上り坂があって、のぼったところに「人頭蛇身(半人半蛇)」像があります。恐らく、縄文時代の水神様の蛇と、仏教伝来以降の水神弁天様を、江戸時代の人が「合体」させたのでしょうが、さらにさらに古い時代から動物神と人格神との「合体」観念はあったと思われます。


羽村(東京都)の稲荷神社・八雲神社

2010-10-21 03:02:24 | 日記

 羽村駅から歩いて5,6分のところにある神社。本殿と、それに続いて奥にある社も同じ大きさで、二つの神社が合体されているという印象をもつ神社です。奥が八雲神社で正面が稲荷神社でしょうか。しかし、名称は「稲荷神社」で、「稲荷神社・八雲神社」とはなっていません。そこが、同じ東京でも、以前このブログで紹介した稲城市の「稲荷神社・津島神社」とは違います。
 八雲神社については、祇園の神様を勧請したということのようです。かっては天王社だったのでしょう。春まつりの時に、お神輿を担いで多摩川に入る水中渡御が見応えがあり人気のようです。今この神社では「天王祭」という名前でお祭りは行ってはいません。
 この神社は稲荷神社といい、宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)をお祀りしているのですが、神様のお使いのきつねの姿が境内に見あたりません。不思議な気持ちがしました。


南千住(東京)の素盞雄神社

2010-10-20 05:28:39 | 日記
「素盞雄大神(スサノオオオカミ)と飛鳥大神(アスカオオカミ)を御祭神とする荒川区内でもっとも広い氏子区域をもつ神社」とホームページの表紙に書かれています。
 ここで気になるのは、「アスカオオカミ」ですが、境内には牛頭天王と飛鳥大神とが並んで祀られているお社があります。その周りには、普段から「蘇民将来符」がたくさん並んで立てられています。恐らく、この神社は元々は「飛鳥大神」を主祭神として祀っていたのでしょう。その後、牛頭天王も主祭神として共に祀るようになったのでしょう。明治維新以降はスサノヲノミコトを主祭神としたという「歴史」があるのでしょう。
 現在は境内には牛頭天王や飛鳥大神の他、菅原道真公やお稲荷様など、たくさんの神様を祀っています。荒川区の「中核的神社」とも思われます。
 6月に行われている天王祭は盛大で、その時に蘇民将来符が配付されるとのことです。  それにしても、飛鳥大神とはどういう神様なのでしょうか。「飛鳥文化」「飛鳥時代」の「飛鳥」の文字ですが・・・・・・。

北鎌倉の山ノ内の八雲神社

2010-10-19 00:05:25 | 日記
 関東管領の上杉憲房(のりふさ)が京都の祇園社の牛頭天王の霊を分霊したと伝えられています。それが正しければ、主祭神は牛頭天王ですが・・・・。現在の主祭神はスサノヲノミコト。例大祭は盛大で、御神輿を大きくゆさぶって北鎌倉駅前を行き、近くの八雲神社の御神輿と「出会いの儀式」をするということです。境内には石碑があり、大己貴大神と常立導御嶽大神と少彦名大神の三神の名前が書かれてあります。恐らく、元々は三神を祀っていた村社だったのでしょう。その後、牛頭天王が招かれたのでしょう。
 牛頭天王について詳しく記した『ホキ内伝』の編者と言われる安部清明に関する石も敷かれており、不思議な雰囲気のする境内です。

相鉄線天王町の橘樹神社(旧天王社)

2010-10-18 05:38:10 | 日記

 横浜と海老名駅を結んでいる相鉄線の天王町駅にある神社が橘樹神社。駅を降り、神社に続く商店街には、「シルクロード天王町商店街」と書かれた横断幕があり、町は活気に満ちているようです。昔はこの地は橘樹郡と言われていたようで、それが神社の名前にもなったとのことです。立派なお社です。現在はスサノヲノミコトを祀っていますが、「天王町」という駅名・「天王町」という地名から、もう牛頭天王を祀っていた神社ということが分かります。神社は細長く、奥に祀られている神様が他にもいらっしゃるように思えるのですが、それはわたしの思い過ごしでしょうか。

沼袋氷川神社境内の天王社

2010-10-17 05:05:17 | 日記

 西武新宿線の沼袋駅を降りて3,4分くらい歩いたところにある氷川神社。七福神も祀っていますが、境内社が3つ並んでいるのが目立ちます。天王社・稲荷神社・御嶽神社。 スサノヲノミコトは牛頭天王と習合したのですから、天王社は必要ないと思いますが、そこがこの神社のいいところで、別にきちんと祀っているのです。
 この神社を見ながらわたしは、次のように想像しました。天王社には、疫病退治を期待。稲荷神社には、農業の御利益を期待。御嶽神社(みたけじんじゃ)には、(わたし個人としては「み」は「蛇」「水の神」と解釈していますから)水の御利益を期待したのでしょう。農民の実生活に直結した神社だったと想像します。