下九沢八坂神社の記念碑からこのお社が旧牛頭天王社であったことが分かります。
ご遷座の石碑から、江戸時代から平成十二年までの間、九沢の西の端下九沢字西久保2970の1に鎮座されていて、その土地は鳩川の源泉を守る森でしたので、人々から「天王森」と称され大切にされていたと言うことが分かります。しかし、八坂神社は都市化の波によって平成十三年に今の地の下九沢字中宮1991の3にご遷座したとのことです。本殿は新しいのできれいなのは当然ですが、境内の掃除も行き届いていて大変きれいでした。芭蕉の句碑もあります。
「天王森」「天王塚」「天王台」「天王山」などの地名は、駅やバスの停留所の名前として残っている場合は地図で探しやすいのですが、そうでない場合は、地元の人との語らいや、偶然に通りかかったときに知ると言ったことが多くあります。
わたしの場合、埼玉県の北本市や吉見町といった荒川付近にある「天王山」「天王塚古墳」「きゅうり天王」といった地名・呼び名を知ることとなったのは地元との人との語らいからでした。
先週は、神奈川県・東京都にある「天王森」について、数日にわたってこのブログに記してきましたが、江戸時代の栃木(下野国)群馬(上野国)・神奈川(相模国)・東京埼玉(武蔵国)はたくさんの「天王森」があったと想像します。
農村地帯にあった牛頭天王社は実際は広い森に囲まれてあったはずで、その森のことを地元の人々は「天王森」と言っていたと思われます。薬神牛頭天王信仰と「天王森」「天王山(てんのうやま)」は「当たり前の関係」だったと思われます。関東では森のことを山ということが多く、食糧・薬木薬草の宝庫である森や山を、当時の人たちが牛頭天王が宿っている、または牛頭天王に守護してもらおうとして「天王森」「天王山(てんのうやま)」言ったと考えることは自然でしょう。軍事上重要な地であればなおさらのことです。 明治時代になって、明治維新政府の牛頭天王信仰への攻撃がはじまると、「天皇陛下」と似ている「てんのう」という呼び名を避けて異なる呼び名にした場合が多かったと思われます。また、川崎市中原区や相模原市九沢のように都市化の波によって、森が無くなっていった場合もあるでしょう。しかし、昔からの呼び名は日本の歴史を知る上で重要です。「天王森」「天王塚」「天王台」「天王山」などの地名は大切にしたいものです。
相模原市下九沢の現八坂神社の向かいには木々の多い公園相模原北公園が広がっています。わたし個人としては「相模原天王森公園」と言う名称にしてもらいたい気持ちです。本文中の木々の写真は八坂神社の向かいに広がる相模原北公園の木々です。