牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

市川本町駅付近の祇園通りと須佐之男社

2011-02-23 05:34:45 | 日記

身延線市川本町駅を下りて県立市川高校をめざします。その途中にあるのが祇園通り。そこを越えて、県立市川高校近くにあるのが須佐之男社。写真で見てわかるようにとても神社には見えません。倉庫のようです。鳥居も狛犬もありません。ここではお祭り祇園祭はできないということで、祇園通りにある山梨県民信用組合という金融機関の広場で、臨時に鳥居をつくりお祭りをするとこのです。
 ここの祇園祭では人々がキュウリを2本もっていくとのこと。他の人の提供したキュウリの1本をもらい、それを食べると一年間病気にならないという言いつたえがあり、今でも行っているようです。「キュウリ天王祭(祇園祭)」と言うことができると思います。子ども御輿も出て毎年7月に祇園通りは大変なにぎわいになるとのことです。
 須佐之男神社から少し離れたところに曹洞宗の天王山慶福院というお寺があります。江戸時代にはこのお寺が須佐之男神社を管轄していたのでしょう。


横浜市の天王山長福寺と和泉(いずみ)の天王様

2011-02-19 00:07:48 | 日記

神奈川県を走る相鉄線のいずみ中央駅を下りて徒歩2,3分のところにある天王山長福寺。その境内にあるかのような須賀神社。江戸時代までは須賀神社は長福寺の管轄であり天王社であったことが分かります。
 地元の老人何人かに訊いてみましたが、お祭りは「天王祭」ではなく「須賀神社のお祭り」と言っていました。「天王祭」という言葉は浸透していないようです。
 もっとも、横浜市泉区のホームページには「『和泉の天王さま』といわれ信仰されており,お祭りの神輿の『おわたり』は,昔から近郷に知られ,今でも大変賑やかに行われています。」と書かれてあります。

相模原市下九沢の八坂神社および地名について

2011-02-18 00:48:51 | 日記



 下九沢八坂神社の記念碑からこのお社が旧牛頭天王社であったことが分かります。
ご遷座の石碑から、江戸時代から平成十二年までの間、九沢の西の端下九沢字西久保2970の1に鎮座されていて、その土地は鳩川の源泉を守る森でしたので、人々から「天王森」と称され大切にされていたと言うことが分かります。しかし、八坂神社は都市化の波によって平成十三年に今の地の下九沢字中宮1991の3にご遷座したとのことです。本殿は新しいのできれいなのは当然ですが、境内の掃除も行き届いていて大変きれいでした。芭蕉の句碑もあります。


「天王森」「天王塚」「天王台」「天王山」などの地名は、駅やバスの停留所の名前として残っている場合は地図で探しやすいのですが、そうでない場合は、地元の人との語らいや、偶然に通りかかったときに知ると言ったことが多くあります。
 わたしの場合、埼玉県の北本市や吉見町といった荒川付近にある「天王山」「天王塚古墳」「きゅうり天王」といった地名・呼び名を知ることとなったのは地元との人との語らいからでした。
 先週は、神奈川県・東京都にある「天王森」について、数日にわたってこのブログに記してきましたが、江戸時代の栃木(下野国)群馬(上野国)・神奈川(相模国)・東京埼玉(武蔵国)はたくさんの「天王森」があったと想像します。 
 農村地帯にあった牛頭天王社は実際は広い森に囲まれてあったはずで、その森のことを地元の人々は「天王森」と言っていたと思われます。薬神牛頭天王信仰と「天王森」「天王山(てんのうやま)」は「当たり前の関係」だったと思われます。関東では森のことを山ということが多く、食糧・薬木薬草の宝庫である森や山を、当時の人たちが牛頭天王が宿っている、または牛頭天王に守護してもらおうとして「天王森」「天王山(てんのうやま)」言ったと考えることは自然でしょう。軍事上重要な地であればなおさらのことです。 明治時代になって、明治維新政府の牛頭天王信仰への攻撃がはじまると、「天皇陛下」と似ている「てんのう」という呼び名を避けて異なる呼び名にした場合が多かったと思われます。また、川崎市中原区や相模原市九沢のように都市化の波によって、森が無くなっていった場合もあるでしょう。しかし、昔からの呼び名は日本の歴史を知る上で重要です。「天王森」「天王塚」「天王台」「天王山」などの地名は大切にしたいものです。
 相模原市下九沢の現八坂神社の向かいには木々の多い公園相模原北公園が広がっています。わたし個人としては「相模原天王森公園」と言う名称にしてもらいたい気持ちです。本文中の木々の写真は八坂神社の向かいに広がる相模原北公園の木々です。

茨城県笠間の牛頭天王信仰

2011-02-17 08:19:29 | 日記


 
 今回は茨城県笠間の牛頭天王信仰についてです。笠間市は焼き物や笠間稲荷神社・出雲大社分社・笠間祇園祭で有名です。
 栃木県茂木(もてぎ)町の小貫という地域にはかっては牛頭天王社があったと言われています。またその付近の森は「天王森」と言われていたのことです。しかし、地図上ではどこを地域を言うのかは分かりません。ここの牛頭天王社を勧請して造営されたのが茨城県笠間市にある笠間稲荷神社近くの八坂神社(旧牛頭天王社)とのことです。
 もう少し詳しく言いますと、小貫の牛頭天王社を勧請して笠間に牛頭天王社が築かれた場所は今の地ではなく、笠間の石井神社近くの地でした。現在この石井神社境内には「天王塚神社」の由緒書の碑があります。
 はじめに築かれた牛頭天王社は「天王塚神社」だったのです。今は住宅の一角にあるような小さなお社です。しかし、「御本家様」です。その後、牛頭天王の御霊は、笠間稲荷神社近くの、氏子の多くいる三所神社に移されました。この三所神社の主祭神はオオクニヌシノミコトです。神仏習合の考えにおいては大黒様でもありますが、スサノオノミコトの「義理の息子」。牛頭天王は神仏習合においてはスサノヲノミコトでもあります。「父親が息子のところに世話になっているのはよろしくない」とのことで、三所神社のすぐ近くに牛頭天王社を造営して(現在の八坂神社)、「独立」したとのことです。この八坂神社が中心になって祇園祭が行なわれているとのことですが、御神輿は必ず「御本家様」である「天王塚神社」に「あいさつ」(渡御)するとのことです。
 たまたま地元の人から、神社の歴史、「ご先祖様」を大切にしている笠間の人々の牛頭天王信仰についての話を聞くことができて、うれしく思いました。

川崎市の天王下の八雲神社

2011-02-16 23:03:27 | 日記
 聖マリアンナ大学方面の稗原付近にある市バスの停留所「天王下」。その近くにあるのが 八雲神社。「天王様」と表記されています。地域の人たちによって「天王祭」が行われているようです。

石仏も見られ、江戸時代の「神仏習合」の時代を知ることのできるお社です。

川崎市の天王森バス停・木月祇園町と牛頭天王信仰

2011-02-14 03:17:43 | 日記
川崎市中原区の元住吉駅付近(法政大学第二高等学校側)には「木月天王森」というバス停があります。法政二高に近づくと、木月祇園町という地名があります。それでは近くに旧天王社があるのではと思い探したのですが、この付近には神社はありません。元住吉駅の近くには住吉神社がありますが・・・・。  明治維新の時に牛頭天王神社は取り壊されたのかもしれません。氏子たちは元住吉駅付近にある住吉神社に牛頭天王を合祀してもらい、5月に天王祭を行っているとのことです。 現在天王森のバス停付近には森は見あたりません。町並みが広がっています。地名だけでも残すことはいいことだとは思いますが、わたしとしては森も残してもらいたかった気持ちです。

横浜市泉区の天王森

2011-02-13 00:41:36 | 日記
 横浜と言えば「モダン」なイメージをもちがちですが、水田・畑作地帯も広がる泉地区。その泉地区にあるのが天王森泉公園。わたしは小田急線湘南台駅からタクシーで行きましたが、歩くと4、50分かかるかも・・・・。川の水の流れのきれいな地域です。河川工事を「自然浸透式」にして、コンクリートで囲まないようにして水を浄化してきれいにしているのでしょう。水の神様辨財天をも祀っています。
 さて、この地域の森が「天王」とつくので、江戸時代までは天王社、または天王寺院があったのではと思って半日さがしましたが、地元の人もわからないとのこと。少し離れたところに琴平神社がありその境内社に八坂神社がありましたので、恐らく、江戸時代までの天王社は、明治維新政府の「牛頭天王弾圧」施策のために「独立」できず、琴平神社の境内社八坂神社として存在することになったのではないでしょうか。

東京都多摩市天王森の八坂神社

2011-02-05 23:15:02 | 日記

東京都多摩市のはずれ(多摩大学裏手)にある天王森。この地がなぜ天王森と言われるようになったのかは分かりません。ここ一帯の豪族が牛頭天信仰の信者だったので名付けたのか・・・・。この付近では一番の高台になる地なので、神様に見下ろして頂こうと言うことで、江戸時代になって時の流行牛頭天王を勧請し、一帯を天王森と言ったのか・・・・・。
 今はブランコなどの遊具があり公園となっていますが、小さいながらも八坂神社があります。最近再建した神社と思われます。色がきれいでした。

牛頭天王像と八王子像

2011-02-05 22:53:24 | 日記

 滋賀報知新聞(2011.2.05記事)によりますと、甲賀市教育委員会は八坂神社(甲賀市水口町嵯峨)の牛頭天王とその子である八王子神の神像を有形文化財に指定したとのことです。檜材一木造素地仕上げで、顔表現は墨描で、平安時代の作品のようです。