*埼玉県飯能市の竹寺の「牛頭明王像」
新年明けましておめでとうございます。
旧年中はなかなか牛頭天王信仰調査のできなかった私ですが、
今年は私は68歳。もう無理のできない年ですので、
映画制作・出版・パフォーマンス企画はやめて、
本来の仕事、絵画・マンガ執筆を軸に生活することにしました。
ですから、昨年までよりも牛頭天王調査旅行はできると思っています。
今年も日本海方面の牛頭天王信仰を調べたいものです。
絵画・マンガ軸とはいっても、私は大学では史学科出身ですので、
古文書については続けていくつもりでいます。
ある古文書の会に入っているのですが
年末会員の方から「牛頭天王について話してください」と言われました。
以前とあるところで話した内容を語ることにしてしぶしぶ承諾しました。
以下はその時の一部で、中学生・高校生に牛頭天王について語るとすれば
どのように語ろうかと考えた時のレジメです。それをご紹介。
牛頭天王(ごずてんのう)とは
(1)祇園祭りや天王祭りの神様
京都の祇園祭りについては、多くの日本人が知っていますが、それでは、そのお祭りの祭神はというと、ほとんど知られていません。「スサノヲノミコト」と答える人はある意味あっていますが、ある意味間違っています。
「祇園」とは仏教の言葉です。スサノヲノミコトは日本神道の神様で仏教の神様でないからです。そもそも仏教のお祭りですから、仏教の神様が祭神のはず。ということで、祇園祭の神様は牛頭天王なのです。江戸時代は「牛頭天皇」と書くことも多くありました。では、なぜ、牛頭天王はほとんど知 られていないのでしょうか。それには理由があります。
明治維新政府が「牛頭天王を祀ることを禁止する通達を出したからです。(慶応4年・明治元年)
ではなぜ、明治維新政府は牛頭天王信仰を禁止したのかというと、
1.牛頭天王は江戸時代最も人気のあった神様で、「てんのう」といえば「牛頭天王」を指す状態で、天皇陛下を軸に政治を動かそうとするときに、とんでもない名前の神だと思われたからでしょう。
(今でも埼玉県の南部では牛頭天王を祀るお祭りを単に「てんのうさま」と言う場合が多くあります。)
2.仏教より神道を上位に持って行きたかった明治維新政府は牛頭天王関係の祭文・経文・像を、実際には焼き払うことを勧めたのです。(廃仏毀 釈)。
ということで、牛頭天王関係のものは明治になって多くが消え去ることになったので、牛頭天王の名前も忘れられることとなりました。代わりに祇園祭りの神様はスサノヲノミコトと神社側もしたのです。 仏教の祭りの言い方に神道の神様が祭神という変な言い方になってしまったのです。
(2)牛頭天王の御利益・・・疫病退散
牛頭天王の御利益は、一言で言えば「疫病退散」で、伝染病をやっつける神様です。もっともはじめは伝染病を広める悪い神様と思われていました。しかし、「その悪い神様でもきちんと拝んで御願いしていれば救ってくれる」と思われるようになり、そういう結果も出たので、人々は「いい神様」と思うようになりました。そして、「善神」としての物語も南北朝時代までにはつくられました。それが『ほき内伝』です。その後、牛頭天王信仰はどんどん勢いづいていき、織田信長など戦国大名たちの中にも期待する者が出るようになりました。
(3)牛頭天王信仰の本質
①『ほき内伝』を読めばわかりますが、日本神道の神様は出てきません。古神道の「蛇神」が登場するだけです。
②『続群書類従』には、祇園社が疫病(疱瘡)を退散させることができたのに、日本神道の神様やその神社伊勢神宮や稲荷社にはそれができなかったことが書かれています。
③「チンリンキという化け物が仲哀天皇を殺したという伝説」が瀬戸内地方にはありますが、そのチンリンキが牛頭天王と義きょうだいになったことが京都大学所蔵の『祇園牛頭天王御縁起』には書かれています。
④「牛頭天王」 という神様はインドにはいません。埼玉県飯能市の竹寺という牛頭天王寺院には、中華人民共和国の民間人が寄付した「牛頭明王像」が設置されています。地上に降りないのが天王なのです。地上に降りた神の物語であるならその神は「明王」でなくてはなりません。
仏教について、中国の古代の神などについて、大変詳しい『ほき内伝』作者はなぜ「牛頭明王」とせず、あえて「牛頭天王」と書いたのでしょうか。
これは私の想像です。①②③からも想像できますが、牛頭天王信仰の中核を作っていった人たちの基本的理念は「反天皇制(反朝廷制)」というか、「牛頭天王制」を目指したかったのではということです。
彼らは天皇家を解体させたかったというのが私の想像です。
南北朝で天皇家は分裂 。蒙古襲来では天皇家は無力。源平の合戦と言われるように、この時も天皇家は無力。いいかげんせよ!という気持が牛頭天王信仰の成立・発展に向かわせたのではないかと思われるのです。
そういう牛頭天王信仰の本質を知ってしまったからこそ、明治維新政府は牛頭天王信仰を弾圧したとも思えるのです。
*千葉県市川市の礼林寺