牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

御師(おし)の活躍と牛頭天王信仰

2013-07-29 06:34:29 | 日記
 それぞれの神社では、会社同様、役職順位を決めています。伊勢神宮においては「宮司」の上に「祭主」という立場の人がいるようですが、普通の神社においては「宮司(代表)」・「禰宜(ねぎ=幹部)」・「権禰宜(ごんねぎ=一般職)」となっているようです。
 伊勢神宮においては天皇家の先祖を祀っているとは言いながらも、経営は相当苦しかったようです。なにしろ江戸時代まではほとんどの天皇が参拝に行っていません。天皇家が「一大事」と言う時には宇佐八幡宮に行った記録が残っているくらいですから、天皇家からいくばかりかの荘園をもらって細々と経営していたのでしょう。伊勢神宮は、「天皇家に逆らって滅ぼされた豪族」の「崇り」を恐れて彼らを祀っていた神社と思われます。
 それはとにかくにも、伊勢神宮では下級の「権禰宜」クラスまで食べさせて行くことができず、彼らは平安時代あたりから、リストラ(配置変え)させられて、地方で「営業活動」をするようになりました。彼らを「御師(おんし。ただし伊勢神宮以外では「おし」)」と言いましたが、庶民の間では「太夫(たゆう)」と称されたようです。
 伊勢神宮の近くに住みながらも地方回り。具体的にはどういうことをしたのかと言うと、
①地方に行って名主・庄屋宅をまわり、伊勢神宮の「御札」を配布して、伊勢神宮を宣伝しました。
②地方の祝事・災事の時は、神官として祝詞を読んだり、祈祷をしたりしました。
③伊勢までの案内人になりました。
④伊勢で旅館経営をしました。
⑤南北朝・室町時代になると、金融業もやったのです。(伊勢御師の古文書を見ると金融関係の文面も出てきます。)
 要するに、出張神官兼旅行代理店兼ホテル経営兼銀行という訳です。ひとりでできるわけありませんから、室町時代になると今で言うところの会社組織をつくってやったと思われます。こうなると、もうリストラ解雇された立場ではなくなり、本家伊勢神宮の上級神官も実際は「御師」に頭が上がらなくなり、「御師様様」と言う訳です。「御師企業」の中には序列が生じ「中小」は「大企業」に買収されるようにもなりました。
 こうした伊勢神宮の御師の活躍は、現在の津島神社(津島牛頭天王社)にも影響を与え、室町時代後半(戦国時代)から、津島神社の下級神官も地方まわりをするようになったと思われます。江戸時代には津島牛頭天王社の御師が頻繁に関東に現れるようになりました。「伊勢神宮にお参りする途中に津島牛頭天王社がありますから是非こちらにもいらしてください」という訳でしょう。

 津島市のホームページでは旧御師宅(氷室作太夫宅)を紹介しています。
「幕末頃の嘉永2年(1849年)に建てられたといわれるこの建物は、玄関口は鳥居の形にかたどられ、式台のある玄関や高い縁、2階に設けられた大きな神棚など、他の住居には見られない珍しい構造をもっています。この氷室家は津島神社の『社家』のひとつで、御師(おし)として活動していました。御師は太夫名を称して地方に信徒(檀那)を持ち、信徒が津島参りをするときには、ここで神楽を催してもてなし、宿泊もしてもらっていました。」(津島市ホームページより)

 東京多摩市の多摩市文化振興財団では『富沢家日記』(天保14年~弘化5年)と言う冊子を発行しています。富沢家というのはこの地方の名主の立場にあった家です。その日記の中には
「天保十五年十一月廿八日「津島御師来一泊」
「弘化二年  十二月十七日「対馬天王尊御師泊ル」
「弘化四年  十一月廿九日「津馬御師泊   十二月朔日丙午曇 津嶋御師出立 」の文字が見られます。
 
 当時は「漢字検定」なるものがありませんでした。いろいろな書き方が許されていました。「対馬」「津馬」「津嶋」でもよかったのです。


東京町田と相模原の境、境川流域の牛頭天王信仰

2013-07-09 07:35:09 | 日記


東京都町田市金森326  杉山神社
神奈川県相模原市南区上鶴間本町9-17-32 長嶋神社
相模原市上鶴間本町5-30-20 金山神社


東京の町田市(武蔵の国)と神奈川の相模原市(相模の国)の境を流れる境川は昭和50年代まではんらんを繰り返していました。境川の流れが変わると、武蔵の国の領が相模の国の領になったり、その逆が生じたりしてきました。今でもその名残があり、神奈川県に東京都の土地が入っているところがあります。
江戸時代の、末端の農民や町人たちにとって、実際は、相模の国であろうと武蔵の国であろうとどうでもよく、川の安全と豊作と商売上の自由な交通が期待されていたようです。
 川のはんらんによる不衛生状態は赤痢などの伝染病を生じさせ、「疫病退散」の神の御利益が求められ、もともとの「土地の信仰」のほかに、牛頭天王信仰がこの地にももたらされたと思われます。ということで、境川流域の神社の境内社には八坂神社(旧牛頭天王社)がよくみられます。
 町田市金森の杉山神社、相模原市上鶴間の金山神社、相模原市中和田の長嶋神社には境内に八坂神社があります。中でも、金山神社では由緒書に八坂神社が牛頭天王を祀っていたことを明記しており、今でも地元の人たちに「天王様」と言われています。しかし、お祭りは「天王祭」「祇園祭」という名では行っていません。
 三社とも境内は大変きれいです。地域の中核的存在になっていると思われます。


上鶴間金山神社境内社八坂神社


上鶴間金山神社の由緒書


上鶴間金山神社付近の看板


金森の杉山神社


金森の杉山神社境内社八坂神社


長嶋神社と境内社八坂神社

舎人氷川神社境内社牛頭天王社

2013-07-01 08:57:33 | 日記
舎人氷川神社  
 東京都足立区舎人5-21-34


 JR日暮里駅北改札口を出て、舎人ライナー(運転手のいない、全コンピュータ制御電車)に乗り舎人駅下車。徒歩7,8分。見沼代親水公園方向に、舎人ライナー沿いの大通りを進みます。舎人氷川神社交差点を過ぎるとすぐ左に見えてきます。
 広い境内はきれいに掃除されていて気持ちよく、境内裏手は公園になっていて遊具もあり、地域に開放されています。町内会のための倉庫もあり、地域の中核としての役割も担っています。好感のもてる神社です。その境内に牛頭天王社があり、中には「牛頭天王」と書かれた御札が入っています。牛頭天王信仰が今も生きている神社です。
境内社牛頭天王社

牛頭天王社の中の御札


舎人ライナー先頭車両から見た風景