それぞれの神社では、会社同様、役職順位を決めています。伊勢神宮においては「宮司」の上に「祭主」という立場の人がいるようですが、普通の神社においては「宮司(代表)」・「禰宜(ねぎ=幹部)」・「権禰宜(ごんねぎ=一般職)」となっているようです。
伊勢神宮においては天皇家の先祖を祀っているとは言いながらも、経営は相当苦しかったようです。なにしろ江戸時代まではほとんどの天皇が参拝に行っていません。天皇家が「一大事」と言う時には宇佐八幡宮に行った記録が残っているくらいですから、天皇家からいくばかりかの荘園をもらって細々と経営していたのでしょう。伊勢神宮は、「天皇家に逆らって滅ぼされた豪族」の「崇り」を恐れて彼らを祀っていた神社と思われます。
それはとにかくにも、伊勢神宮では下級の「権禰宜」クラスまで食べさせて行くことができず、彼らは平安時代あたりから、リストラ(配置変え)させられて、地方で「営業活動」をするようになりました。彼らを「御師(おんし。ただし伊勢神宮以外では「おし」)」と言いましたが、庶民の間では「太夫(たゆう)」と称されたようです。
伊勢神宮の近くに住みながらも地方回り。具体的にはどういうことをしたのかと言うと、
①地方に行って名主・庄屋宅をまわり、伊勢神宮の「御札」を配布して、伊勢神宮を宣伝しました。
②地方の祝事・災事の時は、神官として祝詞を読んだり、祈祷をしたりしました。
③伊勢までの案内人になりました。
④伊勢で旅館経営をしました。
⑤南北朝・室町時代になると、金融業もやったのです。(伊勢御師の古文書を見ると金融関係の文面も出てきます。)
要するに、出張神官兼旅行代理店兼ホテル経営兼銀行という訳です。ひとりでできるわけありませんから、室町時代になると今で言うところの会社組織をつくってやったと思われます。こうなると、もうリストラ解雇された立場ではなくなり、本家伊勢神宮の上級神官も実際は「御師」に頭が上がらなくなり、「御師様様」と言う訳です。「御師企業」の中には序列が生じ「中小」は「大企業」に買収されるようにもなりました。
こうした伊勢神宮の御師の活躍は、現在の津島神社(津島牛頭天王社)にも影響を与え、室町時代後半(戦国時代)から、津島神社の下級神官も地方まわりをするようになったと思われます。江戸時代には津島牛頭天王社の御師が頻繁に関東に現れるようになりました。「伊勢神宮にお参りする途中に津島牛頭天王社がありますから是非こちらにもいらしてください」という訳でしょう。
津島市のホームページでは旧御師宅(氷室作太夫宅)を紹介しています。
「幕末頃の嘉永2年(1849年)に建てられたといわれるこの建物は、玄関口は鳥居の形にかたどられ、式台のある玄関や高い縁、2階に設けられた大きな神棚など、他の住居には見られない珍しい構造をもっています。この氷室家は津島神社の『社家』のひとつで、御師(おし)として活動していました。御師は太夫名を称して地方に信徒(檀那)を持ち、信徒が津島参りをするときには、ここで神楽を催してもてなし、宿泊もしてもらっていました。」(津島市ホームページより)
東京多摩市の多摩市文化振興財団では『富沢家日記』(天保14年~弘化5年)と言う冊子を発行しています。富沢家というのはこの地方の名主の立場にあった家です。その日記の中には
「天保十五年十一月廿八日「津島御師来一泊」
「弘化二年 十二月十七日「対馬天王尊御師泊ル」
「弘化四年 十一月廿九日「津馬御師泊 十二月朔日丙午曇 津嶋御師出立 」の文字が見られます。
当時は「漢字検定」なるものがありませんでした。いろいろな書き方が許されていました。「対馬」「津馬」「津嶋」でもよかったのです。
伊勢神宮においては天皇家の先祖を祀っているとは言いながらも、経営は相当苦しかったようです。なにしろ江戸時代まではほとんどの天皇が参拝に行っていません。天皇家が「一大事」と言う時には宇佐八幡宮に行った記録が残っているくらいですから、天皇家からいくばかりかの荘園をもらって細々と経営していたのでしょう。伊勢神宮は、「天皇家に逆らって滅ぼされた豪族」の「崇り」を恐れて彼らを祀っていた神社と思われます。
それはとにかくにも、伊勢神宮では下級の「権禰宜」クラスまで食べさせて行くことができず、彼らは平安時代あたりから、リストラ(配置変え)させられて、地方で「営業活動」をするようになりました。彼らを「御師(おんし。ただし伊勢神宮以外では「おし」)」と言いましたが、庶民の間では「太夫(たゆう)」と称されたようです。
伊勢神宮の近くに住みながらも地方回り。具体的にはどういうことをしたのかと言うと、
①地方に行って名主・庄屋宅をまわり、伊勢神宮の「御札」を配布して、伊勢神宮を宣伝しました。
②地方の祝事・災事の時は、神官として祝詞を読んだり、祈祷をしたりしました。
③伊勢までの案内人になりました。
④伊勢で旅館経営をしました。
⑤南北朝・室町時代になると、金融業もやったのです。(伊勢御師の古文書を見ると金融関係の文面も出てきます。)
要するに、出張神官兼旅行代理店兼ホテル経営兼銀行という訳です。ひとりでできるわけありませんから、室町時代になると今で言うところの会社組織をつくってやったと思われます。こうなると、もうリストラ解雇された立場ではなくなり、本家伊勢神宮の上級神官も実際は「御師」に頭が上がらなくなり、「御師様様」と言う訳です。「御師企業」の中には序列が生じ「中小」は「大企業」に買収されるようにもなりました。
こうした伊勢神宮の御師の活躍は、現在の津島神社(津島牛頭天王社)にも影響を与え、室町時代後半(戦国時代)から、津島神社の下級神官も地方まわりをするようになったと思われます。江戸時代には津島牛頭天王社の御師が頻繁に関東に現れるようになりました。「伊勢神宮にお参りする途中に津島牛頭天王社がありますから是非こちらにもいらしてください」という訳でしょう。
津島市のホームページでは旧御師宅(氷室作太夫宅)を紹介しています。
「幕末頃の嘉永2年(1849年)に建てられたといわれるこの建物は、玄関口は鳥居の形にかたどられ、式台のある玄関や高い縁、2階に設けられた大きな神棚など、他の住居には見られない珍しい構造をもっています。この氷室家は津島神社の『社家』のひとつで、御師(おし)として活動していました。御師は太夫名を称して地方に信徒(檀那)を持ち、信徒が津島参りをするときには、ここで神楽を催してもてなし、宿泊もしてもらっていました。」(津島市ホームページより)
東京多摩市の多摩市文化振興財団では『富沢家日記』(天保14年~弘化5年)と言う冊子を発行しています。富沢家というのはこの地方の名主の立場にあった家です。その日記の中には
「天保十五年十一月廿八日「津島御師来一泊」
「弘化二年 十二月十七日「対馬天王尊御師泊ル」
「弘化四年 十一月廿九日「津馬御師泊 十二月朔日丙午曇 津嶋御師出立 」の文字が見られます。
当時は「漢字検定」なるものがありませんでした。いろいろな書き方が許されていました。「対馬」「津馬」「津嶋」でもよかったのです。