牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

牛頭天王信仰と神職の倫理

2010-11-30 08:01:46 | 日記
 きのう紹介した東京都と埼玉県の境にある狭山丘陵には天王山があり、牛頭天王信仰の拠点だったと思われます。と言うより、関東では江戸時代の半ばには、今でいう東京都・埼玉県・群馬県・栃木県全域において牛頭天王信仰は浸透していたと思われます。明治維新政府によって、神仏習合の牛頭天王信仰はつぶされ、ほとんどの神社が名前を変えましたし、主祭神もスサノヲノミコトにしました。しかし、ご先祖様は牛頭天王であり、そのご先祖様を大切にして、正直に出すことが宗教者倫理であるとわたしは思っています。もちろんその前の先祖神がいらっちゃったこともありますから、分かる限り紹介すべきでしょう。
 東京都日野市にある旧牛頭天王社、八坂神社(写真)では冊子をつくっています。『遷座四百四十年記念八坂神社と日野』という冊子で大変わかりやすくていねいに当神社と地域について記してあります。きちんと牛頭天王の名前を出し、その信仰が起源だったことを述べています。神社の運営とはこうであらねばならないとわたしは思いますが・・・・。
 
 

牛頭天王と旧天王社

2010-11-29 08:23:17 | 日記
 宮司と氏子のトラブル、宮司と地元とのトラブル、これらは今に始まったことではありませんが、きのうはテレビで、東京都八王子市にある神社のトラブルが紹介されていました。
 とある県の旧天王社の宮司、地元の自治会に寄付金を要求したため、地元住民が怒ったとのこと。当たり前と言えば当たり前で、寄付金は基本的には氏子がするものです。信教の自由ですから自治会が特定の宗教に係わることはできません。戦前の国家神道とは違うのです。この旧天王社のこの宮司、困ったものです。そもそも牛頭天王はお金は要求しないのです。お金を要求せず慈悲の心を説くのです。

 先週狭山丘陵にある天王山遊歩道を歩いてきました。天王山というのですから、牛頭天王を祀った山(丘陵地)でもあり、頂にはどんな神社があるのかと思いました。写真がその神社。神社の「篇額(看板)」の文字が読みにくい状態で、しめ縄の状態も写真のとおり・・・。この社の後ろにはお地蔵様と思われる石仏などがあり、仏教の地だったことが分かります。牛頭天王はどうお思いでしょうか?

牛頭天王と祇園大明神

2010-11-27 19:04:34 | 日記
 ウィキペディアというインターネット百科辞典に紹介されている牛頭天王の絵には「祇園大明神」と書かれています。この絵がいつ頃の時代のものか分かりませんが、江戸時代には牛頭天王はスサノヲノミコトであり「祇園大明神」でもあったと思われます。
 わたしの想像ですが、祇園社にはもともとはいろいろな神様がいて、簡単に「祇園明神」と呼ばれていました。いつしか薬神牛頭天王と農業神スサノヲノミコトが残り、習合されて「祇園大明神」となったのではないかと・・・・。どちらも外来神ですから、習合は帰化人によるものかもしれません。

牛頭天王舞の口上

2010-11-26 07:54:19 | 日記
牛頭天王祝舞の口上
 天竺の山の神 御牛頭天王 栴檀の森を守り給う  続きて
 祇園精舎の守り神となりて 御仏の教え広め給う その功徳
を讃え 我らが幸多からんことを 願い奉りて 御牛頭天王舞
 披露する也

 一木一草命也 山々命に満ち輝く也 その輝きもちて 御牛
頭天王 山々の神々 御仏の路 照らし給う 御仏は 神々に
優れし御力を授け給う 神々はその御力をもちて 世の災いを
 のぞく給う 衆生 ひとりびとり 光明をいただきて その
生を得る也


牛頭天王厄除け舞口上
 掛けまくも 忝なくも 恐れ多くも 
 疫病退散 五穀豊穣
 御牛頭天王はじめ 神々に感謝致し候
 此度  (         )するに付きて
 御牛頭天王 はじめ神々
  この地に 厄あらば除き給へ
( )の志を御納受垂れ給えと
 祈り願い奉り 上酒を散供す
 
 世の移ろいに 惑わされることなく 
 御牛頭天王 神々と共に 永久に 永久に 生きる 生きる

牛頭天王と対権力闘争

2010-11-25 04:31:26 | 日記
 牛頭天王は、富者のくせに泊めなかった巨旦(こたん)一族を皆殺しにしたのですが、そのとき巨旦も攻撃されないように策を練ったのです。京都大学附属図書館蔵の『牛頭天王御縁起』には次のように描かれています。
「千人の法師ならび為(い)て大般若を読誦す。彼六百巻の経は くろがね四十丈六重の辻となり経の箱は天蓋となる。更以(さらにもって)入べき様もなし。」
 しかし、牛頭天王は言いました、
「千人の法師の中に片目にきす(傷)ある法師 飯酒(眠り)で経をよまず。時に驚くといへども文字にあたらずいわれなき字をよむ法師あるべし。」
 牛頭天王の眷属は、だらしのないその僧侶の所から乗り込んでいって、巨旦一族を皆殺しにしたと言うのです。
 ここで、次のようなことが言えます。「昔から、貧しい者の味方にはならず、権力や富者にゴマする坊主が多くいた」ということ。
 京都大学附属図書館蔵の『牛頭天王御縁起』からは、千人のゴマすり坊主共が皆殺しになったのか、頭丸めて坊主なり人生やり直すようになったのか分かりません。おっと、元々頭丸めている坊主だから、これ以上は丸められない・・・・。貧しい者の味方をしないで巨旦のような富者の味方をした坊主は牛頭天王からこっぴどい仕打ちを受けたことは間違いありません。権力を利用して富者になり貧しい者の味方をしない者、権力を握っても貧しい者への慈悲のない者へ、同様に、牛頭天王は厳しい仕打ちをするに間違いありません。貧しい蘇民将来を救ったように、牛頭天王は慈悲ある貧しい者の味方なのです。牛頭天王は対権力闘争の象徴のように思うわたしですが・・・・・。
 京都大学附属図書館蔵の『牛頭天王御縁起』の作者は、大切なことは、茅の輪を購入することでも、札を購入することでも、符を購入することでもなく、「お唱え」をすることを述べています。「お唱え」の言葉はタダです。お金のない貧しい者にでもできるのです。『御縁起』の中の皆殺し物語は慈悲の精神ではありません。この作者は「屈折した」人物と以前推理したわたしですが、一方自分なりに貧しい者の味方になろう努力したのかもしれません。
 食っていくためには、権力に迎合する場面もありますし、金持ちの協力も必要になる時もあります。親のすねかじりのように、ノーテンキなことは言っていられません。しかし、「降る雪と金は 積もれば積もる程 道を失う」の名言があります。天下の国学者本居宣長の言葉のようですが・・・・。金持ちや権力との距離が必要とのことでしょうか。『御縁起』の作者もその距離を保とうとしていたのかもしれません。

牛頭天王祭と蘇民将来祭と・・・・・・

2010-11-24 01:07:54 | 日記
地方の疲弊が続いていて、シャッター通りが目立っています。牛頭天王のお力を借りるのが一番ではないでしょうか。 
 牛頭天王のお祭りと蘇民将来の祭りとがタイアップするといいと思いますが・・・・・。どうも、牛頭天王のお祭り天王祭・祇園祭と、蘇民将来のお祭り蘇民祭とは別々のところでやっていて、全く関係ないように展開しているのが実情でしょう。この際、牛頭天王の八王子のお祭り八王子祭も、牛頭天王のお后婆梨采女(歳徳神)の祭り「どんと焼き」も加え、さらに牛頭天王の義理の父君龍王のお祭りを加えて、年中お祭りをして、グッズも販売すると、地方が活性化すると思いますが・・・・・。
 たとえば
1月15日:どんと焼き(婆梨采女祭)
2月4日頃:蘇民祭
4月下旬ゴールデンウイーク:八王子祭
6月、または7月:天王祭・祇園祭
9月:龍神祭
11月:全神集合大仮装祭

グッズ例
○牛頭天王冒険の旅パソコンゲーム
○牛頭天王・八王子・婆梨采女・龍王の一家紹介の塗り絵本や人形
○牛頭天王Tシャツ・龍王Tシャツ
○牛頭天王像(子宝至宝像)
○オリジナル蘇民札
○オリジナル牛頭天王札
○無添加美容石けん「婆梨采女」
○栴檀お香

祇園祭と天王祭

2010-11-23 00:29:18 | 日記
 祇園祭と天王祭、元々はどちらも牛頭天王を祀ったお祭りです。八坂神社系統の神社では「祇園祭」と言い、津島神社(旧津島天王社)系統では「天王祭」と言う傾向があるようです。しかし、これはあくまでも傾向であって、村々の八坂神社が「天王祭」ということも多く見られます。明治以前のお祭りの名前を引き継いでいるのは当たり前と言えば当たり前なのです。
 急に「神仏分離」だと政府が叫んだところで、何百年としみついた言葉を消すことができないのが一般の人々の気持ちです。言葉は、ソ連のスターリンが言ったような伝達手段としての「道具」という以上に、「生活そのもの」なのですから・・・。
 強権発動の結果、権力にゴマをする輩・日和見の輩が「禁句」にしたところで、巷の人々は生活に染みついた言葉を遣っていきます。明治政府が「権現」を禁止しようと、明治の文学には「根津権現(現在の根津神社)」は登場しています。
 神社側がたとえ「例祭」だの「夏祭り」だのと言ったところで、村人たちには「天王様のお祭り」なのです。「天王様」は活きているのです。
「言葉は生活そのもの」ということもありますが、日本の場合は「言霊」「祟り」の観念があります。「言葉には魂が宿る」「ご先祖様の言葉をないがしろにすると祟りがある」ということです。ご先祖様の遣ってきた言葉を無視すると、ろくなコトには成りません。そして、それが日本の伝統精神でもあります。

牛頭天王と慈悲の物語

2010-11-22 09:10:35 | 日記

『古事記』は推古天皇の記事で終わります。しかし、そこには聖徳太子も「十七条憲法」も出てきません。岩波文庫版『古事記』における推古天皇の記事はたった二行半です。近親相姦や身内への仕返しなど、朝廷に不利と思われる話を載せるくらいなら、「十七条憲法」や「遣隋使」などについて載せるべきと思う訳ですが、載っていないのです。そのことからしても、聖徳太子の実在が問われます。最近は聖徳太子不在論が登場しているようですがわたしもその同調者です。
 聖徳太子実在論に立って述べても、「和を以て貴しとす」という御仁が武力で物部氏を滅ぼしたのですからあきれかえります。彼は仏教推進者でした。彼が仏教推進者となったのは「慈悲(愛・思いやり・共同)の精神」を広めるためではなく、支配階級の理論武装のためであり、建築・織物・農業などの科学技術導入のためであり、律令制度導入のためだったと思われます。要するに彼は権力確立のために仏教を利用したのです。
 その後継者が天智天皇(大化の改新を起こした中大兄皇子)でした。天智帝は白村江の戦いで大敗を喫し、以前にも書きましたが、その後の日本は地域の神々や各部族のご先祖様の神々を復活させて、再び多神教の道を歩むことになります。勿論仏教も重視されました。ただ、聖徳太子や天智天皇の飛鳥時代とやや変わって、仏教本来の「慈悲の精神」が入るようになったと言えるでしょう。 
 奈良時代の聖武天皇のお后光明皇后はハンセン氏病患者を見舞います。日本の福祉活動の原点とも言われています。これは「慈悲の精神」抜きには考えられません。
 平安時代になると空海が庶民のための授業料無料の学校をつくりました。綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)と言いました。こうした動きは日本仏教にようやく本来の「慈悲の精神」が生じた、その現れと思われます。
 わたしは思うのですが、奈良時代には多くの「慈悲の物語」ができたのではないかと。『古事記』に見られるオオクニヌシノミコトの「因幡の白ウサギ」を助ける話はその代表とも思えるのです。
『備後国風土記』(逸文)に描かれている武搭神と蘇明将来の物語そのものを受け入れることはできないとしても、貧しい民が旅する神を泊めたり祀ったりしてその後富者になると言った話の原型が『備後国風土記』にはあったということは想像できます。これも「慈悲の物語」と見ていいでしょう。
『浦島太郎』の物語の原型も奈良時代につくられたと思われます。これも「慈悲の物語」でしょう。
 早ければ奈良時代に牛頭天王は伝来したと思われます。しかし、奈良時代において牛頭天王の慈悲物語は見あたっていません。もし牛頭天王が奈良時代に伝来したのなら、何らかの「慈悲物語」があったとわたしは想像していますが・・・・。
 後世、牛頭天王信仰には宿を提供した蘇民将来および彼の子孫までを助けるという物語が生まれることになります。それは「慈悲の物語」の一種には違いありませんが、子孫の中には自分さえよければ人はどうなってもいいという根性の者も出る場合があり、そんなバカを助けるのであれば、そういう神様のオツムを疑わざるを得ません。バカを改心させるのであれば別ですが・・・・・。まあ、牛頭天王のご加護がありますから、自分勝手のバカは生まれないと考えたのでしょう。
 以前にも書きましたが、仏教は改心の宗教でもあるのです。お釈迦様は鬼畜女を改心させ鬼子母神信仰の誕生となったのです。お稲荷様ももともとは鬼畜だったのです。お釈迦様の御心によって改心したのです。まずは改心させてから救うべきでしょう。それに関係して、牛頭天王信仰に当たっては、巨旦(コタン)を滅ぼすのではなく改心させる慈悲の物語が必要だったと思っています。

 福島県棚倉町のホームページに、「宇賀神社のおこり」についての物語が載っています。これも「慈悲の物語」ですが、なんと、蘇民将来の物語に似ているのです。要約すると、
聖武天皇の時代に、岩城郡飯野村(現在の棚倉町)に信仰心の厚い農夫が住んでいて、西国を巡礼しようと思い、一軒の宿に泊まることにしました。農夫はその夜不思議な夢を見ました。老人が現れて自分は宇賀の明神で東国にゆかりの土地があり、もしおまえの籠に入れてその地まで連れていってくれれば自分はその地の氏神となり永く万民の仕合せや利益を守るが、絶対に籠のふたをあけてはならぬというようなことを言いました。 翌日、農民は不思議に思い、西国には行かず籠を背負って東国に戻ることにしました。宿を取ると再び夢の中に老人が現れて、ここがゆかりの地で自分はここに留まり氏神となるが、お礼にお前の子孫を永く守ろうと言ったといいます。 翌朝、籠を開けてみると、白蛇が出て金色に輝き、たちまち広い野原に姿を消したとのこと。宿の主人はこの話の一部始終を聞き村人に話しました。村人も役人も新しい神殿を建てて宇賀の明神を祀りご利益を得るようにしたというのです。やがて、その分霊を現在の地棚倉町にお迎えして宇賀神社としたというのです。
 この話は、以下のことを教えてくれています。
(1)「宇賀神」が蛇神であること。
(2)原始時代の「蛇信仰」が奈良時代においても生きていたこと。
(3)「備後国風土記』(逸文)にある蘇民将来の物語に類似した慈悲の物語は他にもあったこと。
(4)奈良時代を舞台に農民の間においても慈悲の物語がつくられたこと。

牛頭天王と怨霊信仰

2010-11-21 00:40:30 | 日記
『古事記』によれば、死者は「黄泉の国」(よみのくに)に行くのです。 「黄泉の国」の女王様は、亭主イザナキに捨てられたイザナミノミコトで、躰にウジ虫がたかっていたり性器に稲妻が突き刺さっていたりしていることが『古事記』に描かれています。よくもまあ、汚い姿のイザナミのミコトにしたものだと驚きますが、古代の日本人がこういう描き方をしたところに、20世紀のリアリズム文学・実存文学を超える日本人の文学的気質の「高さ」を見ることもできるとも言えます。その話は置いて、「黄泉の国」(死者の国)は汚いのです。妻恋しいイザナキはそこを訪れましたが、妻イザナミと「黄泉の国」の汚さにあきれかえり逃げ帰り「お清め」と「お祓い」をします。『古事記』には「禊ぎ祓ひたまひき」と書かれています。(岩波文庫版)それくらい汚いところが死者の国と考えられていたのです。
 縄文時代の遺跡の甕棺の中に骨の折れた状態の人骨がありこれを「屈葬」と呼んでいます。「屈葬」にはいろいろな説があり、定説はないようですが、一番有力なのは「死者が蘇って現世にやってくるのを防ぐ」ということのようです。死者は「汚い存在」という観念をもつ部族が多かったということでしょう。その延長線上にあるのが『古事記』と思われます。
 さらにその延長線上に「怨霊信仰」が生じます。死者が蘇って現世の者を死者の国に誘う、また、死者が非業な死を遂げた場合には復讐する(祟る)、こういったことを防ぐために、神社を造り「蘇らないでください」と祈りそこに死者を封じ込めようとする観念に基づいた信仰を、「怨霊信仰」と言います。「御霊信仰」とも言います。
 牛頭天王を「疫病神」(伝染病をまき散らす災いの神)という観念をもって語る場合があります。「怨霊信仰」と同様に考え、「祟る」ことがないように祀って祈るというのです。天竺の牛頭栴檀の山の神にとっては、いい迷惑でしょう。勝手に「疫病神」にされては・・・・・。
 それにしても、おもしろいのは、「貧乏神」の場合は「怨霊信仰」と同じ宗教心理で祀ろうとしなかったことです。かわいそうなのは「貧乏神」です。同じ心理で、祀って貧乏を封じ込める発想をしてもらいたいところですが、日本の近世に至るまで「貧乏神」を祀ったという話は聞いたことのないわたしです。あったとしても、あまりにも限られていると思われます。最近は個人の力により、「貧乏神神社」ができて、そこは大変人気があるようですが・・・・・・。


牛頭天王と心の病の治療

2010-11-19 10:37:27 | 日記

 信濃国分寺所蔵の『牛頭天王之祭文』には、牛頭天王のお后婆梨采女(原文には、「婆梨妻女」とも「婆梨細女」とも書かれています)や八王子は身体の各部位を担当するということが書かれています。その部位が痛くなったら担当の神様にお祈りして治療してもらうということでしょうが、心の病についてはだれが担当するか書かれていません。牛頭天王ご本人にお願いするということでしょうか。牛頭天王の担当はこの『祭文』には書かれていないのです。
 ただ、武荅天神の担当については書かれていまして、「首五躰病」 となっています。しかし、以前にこのブログに書きましたが、この『祭文』には「 牛頭天王 婆梨采女 武荅天神 八王子・・・・」という書き方がされており、他書と違って、「牛頭天王=武荅天神」というようにはなっていないのです。ですからあくまでも、この『祭文』を見る限りでは牛頭天王は何の病を担当するかは分かりません。一般的理解から迫るしかないのです。一般的には牛頭天王は「疫病」担当の神と信じられています。よく遣われる言葉で言えば「伝染病」担当ということでしょう。昔は、赤痢・天然痘・コレラなどの伝染病がはやったと思われますから、こうした「伝染病」担当する神様だったに違いありません。
 そうすると、心の病の担当者がいなくなるのです。昔の人は心の病は自分で治すことになっていたのでしょうか。
 講談社学術文庫に、興津要編の『古典落語』という本があります。これは今となっては絶版の興津要編の『古典落語』全六巻の圧縮版で、おもしろい噺の多くが削られてしまっています。全六巻の大尾にある噺で『金玉医者』というのがあります。うつ的症状になった大家のお嬢様を治そうと何人もの名医が担当しましたが治りませんでした。父親は藁をもすがる気持ちで藪医者の所に行きました。この藪医者、お嬢様の前に座ると着物を少し開いて少しずつ金玉を見せていきました。するとお嬢様は少しずつ明るくなっていったのです。そんな「治療法」とは知らない父親は不思議に思い、藪医者の所に行って、名医でも治せなかったのにどうして簡単に治っていくのか訳を聞いて、自分もやって娘の全快を期待しました。お嬢様の前で金玉を全部見せたので、驚いた彼女はあごをはずしてしまいました。やってきた藪医者「ははあ、そりゃあ、あまり薬が強すぎました。」というのが「オチ」になっています。この本の解説によりますと、いつの時代から口演されていたのか具体的には書かれていませんが、「古くから口演されてきた」とあり、江戸時代からある落語でしょう。
 統合失調症(以前は精神分裂病と言われていました)や鬱的症状の治療について、薬物療法が進み、治る場合も多く見られるようになりました。神経伝達物質のドーパミンを抑制する薬などによって日常生活・社会生活が健全に営まれている症例がテレビなどでも紹介されてきています。現代は心の病気を自分ひとりで治す時代ではありません。江戸時代においても、落語に見られるように、やはりお医者さんの世話になったと思われます。お医者さんにかかれないお金のない人々にとっては、「困ったときの神頼み」ですから、『祭文』には担当の神様の名を書いてもらいたかったと思いますが・・・・。
 当時のお金のない、統合失調症の人々、うつ的症状の人々はどうしたのでしょうか。・・・・・・牛頭天王の本地の薬師如来様を頼ったのかもしれません。ただ、心の病気になった人々が座敷牢に入れられる話を聞いたことがあり、実際は悲惨な状況があったことも事実でしょう。

牛頭天王と母親

2010-11-17 08:09:17 | 日記
京都大学附属図書館蔵『牛頭天王御縁起』では牛頭天王の父親は武搭神(武搭天皇)です。父親は分かりますが、母親は誰だか分かりません。
 日本の多くの物語では母親不在です。極端なのは、『古事記』で、アマテラス・ツクヨミノカミ・スサノヲたちは、父親イザナキから生まれたのです。イザナキが鼻を洗ったときに登場したのがスサノヲノミコトで、何のことはない。鼻くそ混じりの「ぬるぬる状態」の中で登場したのがスサノヲということです。左の目を洗ったときに登場したのがアマテラス。右の目を洗ったときに登場したのがツクヨミノカミで、外国人からは「目くそ」「鼻くそ」まじりの「小汚い」神様と思われても仕方ないでしょう。
 よくもまあ、こういう「小汚い」物語をつくったと思うのですが、彼らには母親がいません。もっとも、『古事記』にはスサノヲが激しく泣いて、父親のイザナキの前で「妣(はは)の国根の国に行きたい」というシーンがあります。この「妣(はは)の国根の国」という言葉から、後の神道学では「根の国=黄泉の国」という説が生まれることになるのですが、そもそも妣(はは )はいないのですから、「妣(はは)の国」は「おかあさん」ではなく「母国」と考えるべきでしょう。
 それはとにかくも、母なしの神様と牛頭天王は習合しました。そして、その牛頭天王の母親も誰だか分からないのです。龍宮城の乙姫様は龍の娘と想像がつきますが、お母様はだれなのか分からないのと同じです。龍王のお后が弁天様だと、いっしょにいる彫刻やレリーフがたくさんありますから「サマ」になるのですが、弁天様が龍とセックスして妊娠した話は聞いたことがありませんので、残念。そこで、以前、わたしが想像したように、原始の時代の海の神ミロク様を龍王のお后にして、武搭神のお后を弁天様にするとつじつまが一応合うこととなります。しかし、これはつじつま合わせでしかありません。弁天様は妊娠していないのです。マリア様同様永遠の処女なのです。もっともマリア様は妊娠しましたが・・・・。
 結局、スサノヲと牛頭天王には母親がいないのです。「母はなくとも子は育つ!」ということでしょう。世の母のいない子どもたち、スサノヲノミコトと牛頭天王を見習って元気に生きていってもらいたいものです。

牛頭天王と白龍辯財天

2010-11-16 06:57:45 | 日記
 広い敷地を持つ品川神社。荏原神社が「南の天王社」と言われ、品川神社が「北の天王社」と言われることがあるくらい、品川地域は牛頭天王信仰が厚かったところ。もっとも、品川神社に牛頭天王を勧請したのは太田道灌で、品川神社の由緒書によりますと、源頼朝が天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請し、後に二階堂氏が稲荷信仰の宇賀之売命(うがのめのみこと)を勧請し、続いて牛頭天王の勧請となったとのこと。神社側は牛頭天王とは言わず、スサノヲノミコトと言っていますが・・・・。
 それにしても、源頼朝、源氏の守り神八幡様(応神天皇)を勧請せず、なぜ、天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請したのでしょうか。源氏は、清和源氏と言われますが、本当に天皇家につながる一族だったのか疑問さえ感じます。天比理乃命(あめのひりのめのみこと)は藤原氏の謀略により地方に散った一族忌部(いんべ)一族の祖神のようです。
 境内社の稲荷神社は「穴の中に入っていくような所」にもあって、そこにはさまざまな神様が祀られていることが「提灯」から分かります。わたしが見て印象的だったのは、「天王白龍辨財天社」と書かれた「提灯」。牛頭天王と白い龍と辨財天と三者がひとつになっている「提灯」です。ここでもまた、牛頭天王は龍や辨天様とごいっしょ。しかし、なんでまた、お稲荷様が「穴の中にはいっていくような所」にあるのでしょうか。宇賀之売命(うがのめのみこと)、要するに、宇賀神がもともとは蛇神様だったからだとわたしは思っています。

牛頭天王のお面をもつ荏原神社

2010-11-15 08:41:07 | 日記
 東京の品川区(北品川)ある荏原神社には海から出てきた「牛頭天王のお面」を所有していることで有名です。この近くを「天王洲」というのも、江戸時代にお面が出てきたところから生まれた名前です。近くにある品川神社の天王祭と並んで、今でも地域の人たちからは「南の天王祭」とも言われ盛大に行われていますが、荏原神社は普段は川沿いにあるもの静かな神社です。
 荏原神社はもともと水神をまつっていたとのこと。そもそもは貴布禰大明神を祀る貴船神社だったようです。貴布禰大明神というのは、舟に関係するところから想像もできますが、水神様です。「雨かんむり」に「龍」と描く漢字の神様で、正しくは「高龗神(たかおかみのかみ)」というとのこと。「龍」の文字があるということからも、龍神様を祀っていたのでしょうが、タダの「龍」になっていないということは、どうも、タダの「龍」ではないということでしょう。どういう龍だったのでしょうか。わたしは想像しますが、蛇神様が変化した龍なのでしょう。原点は蛇神様でしょう。
 葵祭で有名な京都の賀茂神社、正しくは上賀茂神社の方は、別雷神社(ワケイカヅチノカミ)を祀っています。水の神雷神ですが、ヤマト朝廷の厚い庇護を受けていました。賀茂神社は貴船神社を支配下に置いていました、貴船側はそこからの独立運動を何度となく繰り返していたことが、早稲田大学所蔵の古文書から分かりますが、蛇神と雷神との対立も背後にあったのではと、わたしは想像しています。
 もっとも、「賀茂」(カモ)という地名は出雲に多くあり、わたしは元々は出雲系の神様だったのでしょう。しかし、そこへヤマト側が自分たちの水神雷様を祀ることにしたのでしょう。伊勢神宮と同じ「支配構造」を見ることができると思っています。
 牛頭天王は義理のお父様の龍神様といっしょにいることがあり、荏原神社もそうでした。単なる偶然とは思いたくないわたしですが、現在の荏原神社の祭神に牛頭天王は出てきません。登場するのはスサノヲノミコトです。
 神社に行くと、まず目につくのが、恵比寿様。海が近いということから恵比寿様を祀りだし「品川七福神」のひとつとして宣伝していく地域の方針なんでしょう。しかし、恵比寿様は「蝦夷」とも「蛭子」とも書きます。「蝦夷」と書けば「えぞ=反朝廷の蛮族の地」と言う意味になります。「蛭子」と書けばイザナキとイザナミに捨てられた悲劇の「ヒルコ」です。単なる海の神様ではない「えびす」を祀るということに、この神社が神社の思いとは全く別の顔をもつことになったということを感じざるを得ません。わたしは牛頭天王と龍神様とえびす(恵比寿・蝦夷・蛭子)様とが共にあることに「現代的意義」があると思っています。

牛頭天王堂

2010-11-14 08:30:52 | 日記
 東京大田区(大鳥居駅近く)にある真言宗のお寺自性院の境内にある牛頭天王堂。江戸時代末期に建てられたお堂とのことです。軒下の弁財天と龍の彫り物がみごとです。
 もっとも、このお堂、もともと「牛頭天王堂」としてここにあったものではなく、大森の弁天神社から移築されたとのことです

牛頭天王と獣婚

2010-11-12 01:25:16 | 日記
 牛頭天王信仰は陰陽道の影響もうけています。陰陽道で最も注目されているのが安倍清明という平安時代の陰陽師。小説や漫画でも取り挙げられている人物のようです。中世の『安倍清明物語』によりますと、かれは超人的力を発揮する男ですが、母親はキツネとのこと。父親はキツネとセックスした「変態」ということになります。
 もっとも、『古事記』においても、『日本書紀』においても、美しい女性が貴公子とセックスしたところ、お相手の男性の実の姿は、蛇、または蛇としか思われない動物だったという話が出てきます。結婚した女性の本体は鮫だったという話もあります。以前、このブログで紹介した井の頭公園の蛇弁天像も、蛇神様と人間の姿をした神様とのセックスした結果の神様ということになりましょう。浦島太郎は龍宮城に行きました。龍王の宮に行ったのです。しかし、実際に登場するのは乙姫様。美しい人間の女性です。お父様は龍でしょうが、お母様は人間の姿をした女性か、女神さまでしょう。乙姫様は獣婚の結果生まれた子どもなのです。
 古代から近世にいたるまで、獣とのセックスは現代人が考えるほど、「変態」「異常」ではなく、「正常」な感情から生まれた行為だったとも思われます。ですから、牛頭天王が大海の龍王の娘と結婚することを「異常」とも思わなかったのです。
 獣姦・獣婚への肯定的感情がどういう心理から生じたのか、長きにわたって物語の「基礎構造」となってきたのか、わたしには分かりません。調べると一冊の本ができると思われます。