牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

高天原対出雲国

2010-09-30 06:45:45 | 日記
 高天原(たかまがはら)のアマテラスオオミカミや八百神(やほよろずのかみ)は、蛇神を敬う「多文化共生」国家出雲國をどのように思っていたのでたちしょうか。『古事記』に沿って調べています。
「この葦原中津國(あしはらのなかつくに=日本)は我が御子の知らす(治める)國と言依り(ことよ)さしたまへりし國なり。故、この國に道速振(ちはやぶ)る荒ぶる國つ神(くにつかみ)等の多なりと以為(おも)ほす。」これはアマテラスオオミカミの言葉ですが、簡単にまとめると、地上には「荒々しい神々」多くいると思える。私の息子が治めるのが筋なのにそれができない。」ということでしょう。
 さらにアマテラスオオミカミは言いました、「何(いづ)れの神を使はしてか言趣け(ことかけ=説得)む」
 そこで、思金神(おもひかねのかみ)と八百神が相談して言いました、「天菩比神(あめのほひのかみ)、これ遣はすべし」と。
 ところが、この天菩比神は出雲國が気に入ってしまい、「大国主神に媚び附きて、三年に至るまで復奏(かへりごとまを)さざりき。」
 しかたないので、次に、天若日子(あめのわかひこ:この神様には「神」の文字がついていません。)を遣わすことにしました。ところが、この神様はオオクニヌシノミコトの下照比賣(したてるひめ)と結婚してしまいました。そこで、雉(きぎし=きじ鳥)で、名前を鳴女(なきめ)というものを地上に送り、アマテラスオオミカミの詔(みことのり)を言わせたところ、天若日子(あめのわかひこ)は弓矢でもって、この雉を殺してしまいました。矢はなんと雉の胸を貫通しさらに飛んで、アマテラスオオミカミと高木神(=たかぎのかみ別名高御産巣日神=たかみむすひのかみ)の御所に落ちたのです。高木神は矢を取ってつきかえしました。矢は朝寝している天若日子の胸に当たり彼は死にました。
 出雲國は「荒々しい神」がいるところでなく、「理想郷」だったからこそ、高天原の二人の神様は高天原を捨てて出雲國の神になろうとしたのです。それを『古事記』から見て取ることができます。
 高天原の神々は最終的には建御雷神(たけみかづちのかみ)を天鳥船神と共に遣わすことにしました。そして、オオクニヌシノミコトに「國譲り」について迫りました。ところが、絶対反対を唱えたのが、オオクニヌシノミコトの息子の一人、建御名方神(たけみなかたのかみ)で、建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)のふたりは「力競べ」(手をつかんで握力の強さを競った)をしました。建御名方神は投げ飛ばされて、逃げたのです。どこに逃げたかというと、「科野國(しなののくに=信濃國)の州羽(すわ=諏訪)」と、『古事記』には書かれています。現在の諏訪神社にはオオクニヌシノミコトとタケミナカタノカミが祀られています。
 実際には「相撲」のような「力競べ」があったとは思われません。激しい戦争があったと思われます。結果はオオクニヌシノミコトは破れ殺されたのでしょう。なぜ、そう考えるかというと、『古事記』の垂仁天皇の章に「その祟(たた)りは出雲の大神の御心なりき」と書かれているのです。「祟り」ということは、高天原一族(天孫族=ヤマト政権)側が出雲において相当残虐な行為をしたと思うのです。
 オオクニヌシノミコトの敗北によって出雲族は信州に移住したり、関東移住したりしました。出雲族は表向きはヤマト政権側に従いながらも、高度な技術力によって、信州・関東の事実上の支配層になったと思われます。出雲國の「蛇信仰」などの動物信仰や「巨木信仰」は信州・関東の地元の人たちの信仰でもあり、彼らの支配は地元の理解の上に比較的スムーズに行われたとも思われます。

 

オオクニヌシノミコト(3)『古事記』より

2010-09-29 08:22:57 | 日記
 出雲國で、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と共に政(まつりごと=政治)をしていたオオクニヌシノミコトですが、少名毘古那神がなぜか常世の國に帰っていってしまったために悩みます。
「わたしひとりでどうやってこの國をつくることができるとういうのでしょうか。いずれの神とわたしと共によくこの國をつくったらいいのでしょうか。」
 すると、海が輝いて、やって来る神様がいました。その神様が言いました、
「わたしを祀ったら、共に政をして國をつくろう。もし、そうでなければ、國づくりは難しい。」と。
 そこで、オオクニヌシノミコトはききます、
「どう祀ったらいいのですか。」
 すると、その神様は、
「わたしを大和の國の周囲を青垣のようにめぐっている山の東の山の上に祀ってくれ。」とおっしゃっいました。この神は御諸山(みもろやま=三輪山)の上にいらっしゃる神様です。
 海からやってきた神様、今は三輪山に祀られているのですが、この章では、具体的になんという神様かわかりません。
 少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は、人間の形をしていたので、泳がず船に乗ってやってきました。三輪山に祀られた神様は、海が輝いてやってきたのはわかりますが、船には乗っていません。どうやら、人とは違う、海にも山にも住むことのできる生き物のようです。具体的にはどういう動物でしょうか。
1.浦島太郎を乗せたような亀。
2.蛇。
3.蛇の進化した形の龍。
 この解答は、『日本書紀』の崇神天皇の章に出ていて、蛇です。より正確にいうと、小蛇(こをろち=小さな蛇)で、人間の形「大物主神(おほものぬしのかみ)」に変身して登場します。
 しかし、今は、『出雲風土記』と「古事記』とをテキストに考えていこうと思います。『古事記』の崇神天皇の章には『日本書紀』とは異なる話になっていますが、こちらの方が「原話」でしょう。岩波文庫本『古事記』を基に述べましょう。
「活玉依毘賣(いくたまよりびめ)、その容姿端正(うるは)しくありき。ここに壮夫(をとこ)ありて、その形姿威儀(すがたよそおい)、時に比無きが、夜半の時にたちまち到来(き)つ。故、相感(あいめ)でて、共婚(まぐは)ひして共住(すめ)る間に・・・・その美人妊身(はら)みぬ。ここに父母・・・・・汝は自ら妊(はら)みぬ。夫無きに何由(いかに)か妊身(はら)めるといへば、答へて日ひけらく、麗美(うるは)しき壮夫ありて、その姓名も知らぬが、夕毎(よごと)に到来て共住める間に自然(おのずから)懐妊(はら)みぬといひき。ここをもちてその父母、その人を知らむと欲(おも)ひて、その女に誨(をし)へて曰(まを)ひけらく、赤土を床の前に散らし巻子紡麻(へそを)を針に貫きて、その絹の襴(すそ)に 刺せといひき。・・・・・針著けし麻は、戸の鉤穴(かぎあな)より控(ひ)き通り出でて、ただ遺(のこ)れる麻は三勾(みわ)のみなりき。・・・糸の従(まにま)に尋ね行けば、三和山(みわやま)に至りて神の社に留まりき。・・・・」
 この話を簡単にまとめますと、活玉依毘賣(いくたまよりびめ)は夜になるとうるわしい男性がやってくるので好きになって、いっしょに夜を過ごしている内に妊娠してしまいました。父母は相手の男を知ろうとして、糸を用意して、娘に男の衣に刺しておけと言いました。すると、糸は戸の鉤穴(かぎあな)より通っていって三和山(三輪山)の神社に行ったのです。
 鉤穴(かぎあな)を通っていく生き物は、亀でも龍でもなく、小さな蛇しか考えられません。少名毘古那神(すくなびこなのかみ)がいなくなったあと、オオクニヌシノミコトは蛇神を敬い祀り、政治をしたと考えることができます。そしてその蛇信仰は現在の奈良県まで浸透していたということです。というより、蛇などの動物信仰は原始の時代より「当たり前」の信仰で、それをオオクニヌシノミコトは引き継いでいたと思われます。
・出雲の氏神信仰
・動物信仰、特に蛇信仰。
・巨木信仰(大きな柱の社を造り、巨木を敬う)
・外国の神々への敬意

 出雲國は、政治的には「合議制」で、文化的には「多文化共生」で、宗教的には「多神教」の国家だったと思います。「祭政一致」の当時、「多」を選択するということは、「合議」が必要となると共に、それをまとめるとういうことは相当の政治力がなければできないことだったと考えられます。

オオクニヌシノミコト(2)『古事記』より

2010-09-29 07:58:22 | 日記
 オオクニヌシノミコトの政治の基本について『古事記』には次のように書かれています。
「大国主神、出雲の御大の御崎に坐す時、波の穂より天の羅摩船(かかみぶね=ガガイモの船)に乗りて・・・・・・帰(よ)り来る神ありき。・・・諸神(かみたち) に問はせども、皆知らずと白(まを)しき。ここに谷蟆(たにくく=ヒキガエル)白(まを)しつらく、こは崩彦(くえびこ=1本足のかかし)ぞ必ず知りつらむとまをしつれば、すなわち崩彦を召して問はす時に、神産巣日神(かみむすひのかみ)の御子、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)ぞと答へ白しき。故ここに神産巣日の御祖命(みおやのみこと)に白し上げたまへば、答へ告(の)りたまひしく、こは実に我が子ぞ。・・・・。汝葦原色許男命(あしはらしこをのみこと)と兄弟(あにおと)となりて、その國を作り堅めよとのりたまひき。故、それより、大穴牟遲(おほなむぢ)と少名毘古那(すくなびこな)と二柱の神相並ばして、この國を作り堅めたまひき。然て(さて)後は、その少名毘古那神(すくなびこなのかみ)は、常世の國(とこよのくに)に渡りましき。・・・・・崩彦(くえびこ)は、今に山田のそほど(山田の案山子)といふぞ。この神は、足は行かねども、盡(ことごと)に天の下の事を知れる神なり。ここに大国主神、愁ひて告(の)りたまひしく、吾(あれ)獨して
何(いか)にかよくこの國を得つくらむ。いづれの神と吾と、能(よ)くこの國を相作ら
むやとのりたまひき。この時に海を光(てら)して依り来る神ありき。その神言(の)りたまひしく、よく我が前を治めば、(わたしを祭るならば)、吾(あれ)能(よ)く共興(とも)に相作成さむ。若(も)し然(しか)らずば國成り難(がた)けむとのりたまひき。ここに大国主神白(まを)ししく、然らば治め奉る状(さま)は奈何(いか)にぞとまをしたまへば、吾をば倭(わ=大和の国、現奈良県)の青垣の東の山の上に拝(いつ)き奉(まつ)れと答へ言(の)りたまひき。こは御諸山(みもろやま=三輪山)の上に坐(ま)す神なり。」

  オオクニヌシノミコト以外で、ここに登場するものたちを確認していきましょう。
・ひきがえる
・かかし:足で歩かないが、盡(ことごと)に天の下の事を知れる神。
・少名毘古那(すくなびこな):神産巣日神(かみむすひのかみ)の御子だけど、船に乗ってやってきて、なぜか常世の國に去ってしまう。
・海からやってきた神様:今は三輪山に祀られている。

  オオクニヌシノミコトは言いました。「吾(あれ)獨して何(いか)にかよくこの國を得つくらむ。いづれの神と吾と、能(よ)くこの國を相作らむや」と。
 このことから、オオクニヌシノミコトが「独裁者」ではないことが分かります。
(1)海からやってきた神様と共に、政治をしたこと。
(2)かえるの話に耳を傾けたこと。
(3)一本足のかかし、身体障「害」者の話に耳を傾けたこと。
  因幡の白ウサギの話を加えると、オオクニヌシノミコトの生き方・政治は、「合議制」で、「多文化共生」の精神、「慈悲の精神」に満ちていたことが分かります。日本最古の歴史書に「多文化共生精神」が描かれているということは驚くべきことと思います。
 しかし、 このことはご当地の『出雲風土記』には書かれておらず、天皇家の家臣の編集した『古事記』の方に書かれているのです。不思議といえば不思議です。

オオクニヌシノミコト(1)『出雲風土記』より

2010-09-29 07:30:26 | 日記
 牛頭天王信仰とオオクニヌシノミコトとは直接にはつながりません。しかし、江戸時代にはものすごい信者のいた牛頭天王信仰、明治維新政府が名指しで「弾圧」した牛頭天王を理解するためには、スサノヲノミコトの「お婿さん」であるオオクニヌシノミコトの政治を知る必要があると、わたしは思っています。その理由は後に話すとして、スサノヲノミコトの時と同様、使用テキストは、岩波文庫本『古事記』と、講談社学術文庫本『出雲国風土記』からオオクニヌシノミコトについて調べていきます。
『古事記』におけるオオクニヌシノミコトの描き方は、スサノヲノミコトの時と同様、実に「ドラマチック」です。しかし、ご当地の『出雲国風土記』においてはその描き方は冷静で、「単調」とまで思えます。「ドラマチック」だの「単調」だのと言っても、主観的ですので、文面に基づいて考えましょう。まず、『出雲国風土記』を開きます。記載(その一部)から見ていきます。『出雲風土記』では、「大国主神(大国主命)」とは言いません。「大穴持命(おほなもちのみこと)}と書かれたり、単に「大神」と書かれたりしています。

「母理の郷(もりのさとー安来の南、鳥取県に近い地域)。郡家(こほりのみやけ=郡部の中心)の東南三十九里一百九十歩。天の下(あめのした)所造(つく)やしし大神、大穴持命(おほなもちのみこと)、越(こし)の八口(新潟県岩船郡八ツ口付近)を平(たいら)げ賜(たま)ひて還(かへ)り坐(ま)す時に、長江山に来坐(ま)して詔(の)りたまひしく、我が造り坐(ま)して命(し)らす国は、皇御孫のみこと(すめみまのみこと)、平けく世(みよ)所知(し)らせと依せ奉る。但(ただ)、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐(ま)す国と、青垣山廻(めぐ)らし賜ひて、玉珍(たま)置き賜ひて守(も)りたまふと詔(の)りたまひき。故(かれ)、文理(もり)と云ふ。神亀三年、字を母理に改む。」[意宇郡(おう郡)の記載より]

「杵築の郷(きづきのさと=現出雲大社のある付近)。郡家(こほりのみやけ)の西北二十八里六十歩。八束水臣津野命(やつかおみづののみこと)の国引き給ひし後に、天の下(あめのした)所造(つく)らしし大神の宮奉らむとして、諸(もろもろ)の皇神(すめかみ)等、宮処に参集ひて杵築(きづ)きき。故(かれ)、寸付(きづき)と云ふ。神亀三年、字を杵築と改む。」[出雲郡の記載より]
「宇賀の郷(うかのさと)。郡家の正北一十七里二十五歩。天の下(あめのした)所造(く)らしし大神命、神魂命(かむむすひのみこと)の御子、綾門日女命(あやとひめのみこと)に誂(あとら=誘)へ坐(ま)しき。尓(そ)の時女神、肯(うべな)はずて、逃げ隠りし時に、大神伺ひ求め給ひし所、此則(これすなわ)ち是(こ)の郷(さと)なり。故(かれ)、宇加(うか)と云ふ。。」[出雲郡の記載より]

「城名樋山(きなひやま)。郡家の正北一里一百歩。天の下所造らしし大神、大穴持命(おほなもちのみこと)、八十神(やそかみ)を伐(う)たむと為(し)て城を造りき。故(かれ)、城名樋(きなひ)と云ふ。」[大原郡の記載より]

「滑狭の郷(なめさのさと=現出雲市の西南の湖陵町付近)。郡家の南西八里。須佐能袁命(すさのをのみこと)の御子、和加須世理比売命(わかすせりひめのみこと)、坐(いま)しき。尓(そ)の時、天の下所造らしし大神、娶(あ)ひて通ひ坐(ま)しし時に、彼(そ)の社の前に盤石(いは)有り、其の上甚(いた)く滑らかなりき。即ち詔(の)りたまひしく、「滑盤石(なめらいは)なる哉(かも)と詔りたまひき。故、南佐(なめさ)と云ふ。神亀三年、字を滑狭に改む。」[神門(かむど)郡の記載より]

「手染の郷(たしみのさと)。郡家の正東一十里二百六十四歩。天の下所造らしし大神、大穴持命(おほなもちのみこと)、詔(の)りたまひしく、此の国は丁寧(たし)に所造(つく)れる国在(な)りと詔りたまひて、故、丁寧(たし)と負(おほ)せ給ひき。而して(しかして)今の人猶し手染の郷(たしみのさと)と謂(い)ふのみ。即ち正倉(みやけ)有り。」[島根郡の記載より]


『出雲国風土記』を読みますと、東は現在の鳥取大山、西は石見の三瓶山、北は島根半島などを国引きしたのが八束水臣津野命(やつかおみづののみこと)で、八束水臣津野命(やつかおみづののみこと)は出雲国の祖と言っていいと思います。
 須佐能袁命(すさのをのみこと)の記載は少なく、須佐郷、佐世郷、安来郷と限られたところにしか登場していません。「地方神」だった可能性があります。
 出雲郡の記載には「八束水臣津野命(やつかおみづののみこと)の国引き給ひし後に、天の下(あめのした)所造(つく)らしし大神の宮奉らむとして、諸(もろもろ)の皇神(すめかみ)等、宮処に参集ひて杵築(きづ)きき。」とあり、国引きした八束水臣津野命の後には大神、大穴持命(おほなもちのみこと)が登場してしまいます。出雲の国の元を造ったのは八束水臣津野命で、出雲全土を実踏支配したのは大穴持命(おほなもちのみこと)と考えられます。
 大穴持命(おほなもちのみこと)は、須佐能袁命(すさのをのみこと)の御子、和加須世理比売命(わかすせりひめのみこと)のところに通ったというのですから、この恋愛は『古事記』と同じですが、「社の前に滑らかな岩があった」というだけで、『古事記』のようにいろいろな展開がなく「ドラマチック」とは言えません。
 大原郡の記には「八十神(やそかみ)を伐(う)たむと為(し)て城を造りき。故(かれ)、城名樋(きなひ)と云ふ。」とありますが、どんな戦闘をしたのかその記載がありません。
 神魂命(かむむすひのみこと)の御子、綾門日女命(あやとひめのみこと)への求婚もどうなったのか分かりません。実に「平面的」で簡単な記載と思えます。
 なぜ、「平面的」「単調」「ドラマチックでない」記載になっているのか、それなりの理由があるからでしょう。

 




スサノヲノミコト(4)「関東の神社と大蛇退治」

2010-09-28 08:59:46 | 日記
 埼玉には鷲宮神社があり、その由緒略記には「出雲族の草創に係わる関東最古の大社である。」と書かれています。鷲宮神社は出雲族が造りました。しかし、鷲宮神社の主祭神はスサノヲノミコトではなく、オオクニヌシノミコト・アメノホヒノミコト・タケヒナトリノミコトです。
 氷川神社の主祭神はスサノヲノミコトです。「氷川」は、『古事記』でいうところの「肥の河」からきている言葉だと言われます。現在の島根県の「斐伊川」にあたります。関東にはスサノヲノミコトを祀ったたくさんの氷川神社があります。オオクニヌシノミコトを祀った神社もたくさんあり、出雲の神様を祀った神社の数は関東だけでもすごい数になると思います。
 恐らく、出雲の人たちが関東に多く住み着くようになって、故郷の地とその神様を慕って神社をつくったのでしょう。
 では、なぜ、関東には多くの出雲族がいるのかという問題が生じますが、それは後にして、出雲から移り住んだ人々、また元々いた現地の人々はスサノヲノミコトのどういうところを敬ったのでしょうか。
(1)「ヤマタノオロチを退治した英雄としてのスサノヲノミコト」
(2)「健全な成長を遂げる人間くさいスサノヲノミコト」
(3)「田んぼを大切にする農業神としてのスサノヲノミコト」
 関東にある、スサノヲノミコトを主祭神とする祀る神社において「ヤマタノオロチ退治」の伝統的神楽を見るいうことは、特別のイベントの時以外はほとんどないと言っていいのではないでしょうか。古代・中世・近世の人々にとって「ヤマタノオロチ退治の話」はどうやら必要ではなかったようです。『出雲国風土記』に登場しない「ヤマタノオロチ退治」を関東の出雲族が神楽にしなかったのは当然といえば当然のことですが・・・・・。
「健全な成長」を遂げる人間くさい面に人々が注目するようになったのは、「健全な成長」を遂げない子どもが多くなった最近であり、古代・中世・近世の日本人にとって、最も重要なことは「飢えとの戦い」であり、食糧を生産することだったと思われます。当時の人々は農業神としてのスサノヲノミコトを敬ったと思われます。
 ここで、三つの疑問が生じます。ひとつは先の疑問、なぜ、出雲族が関東地方に住むようになったのか。もうひとつは、出雲族が来る前の関東の地の信仰はなんだったのか。そして、さらにその信仰と牛頭天王信仰とは結びつくのかという疑問です。
 しかし、まだまだ他にも疑問はあります。「根の国」「根の堅洲国」とはどこのことをいうのでしょうか。『古事記』の解説などでは、「黄泉の国」となっている場合が多いのですが・・・。それは、本当でしょうか。オオクニヌシノミコトが現れるまでの間、出雲の国王は誰になっていたのでしょうか。スサノヲノミコトの「スサ」とはそもそもどういう意味でしょうか。
 牛頭天王と牛頭天王信仰についてが主要な内容ですので、詳しい研究調査は別のところでした方がいいでしょう。



スサノヲノミコト(3)「古事記におけるスサノヲノミコト像」

2010-09-27 09:04:11 | 日記
 スサノヲノミコトはヤマタノオロチを退治した後は、出雲の須賀の地に宮をつくって、クシナダヒメと新婚生活を送りました。年を経てスサノヲノミコトは「根の堅州国(ねのかたすくに)」の王になり、娘の父親ともなりました。その娘の名前を須勢理毘賣(すせりびめ)と言いました。
 そこへやってきたのが大国主神(おおくにぬしのかみ)です。一般にはオオクニヌシノミコトと言われていますが、『古事記』には「并(あは)せて五つの名あり。」と記し、他の言い方「大穴牟遲神(おほなむぢのかみ)」「葦原色許男(あしはらしこをのかみ)」「八千矛神(やちほこのかみ)」「宇都志国玉神(うつしくにだまのかみ)」を紹介しています。[現在、関東地方の神社では「大己貴命(おおなむぢのみこと)」と書くことが多いようです。]
 オオクニヌシノミコトとスセリビメは出会ってすぐに愛し合う中になってしまい、彼女は父親に言います。
「甚(いと)麗(うるわ)しき神来ましつ。」
 ところが、娘をオオクニヌシノミコトにとられたくないスサノヲノミコトは「恐怖」をオオクニヌシノミコトに体験させようとしました。
「すなわち喚(よ)び入れて、その蛇の室(むろや)に寝しめたまひき。」
「また来る日の夜は、呉公(むかで)と蜂との室に入れたまひし・・・・」
 しかし、スセリビメが逃れる方法を教え、オオクニヌシノミコトは助かりました。
「鳴鏑((音の出る鏑矢)」を大野の中に射入りて、その矢を採らしめたまひき。故、その野に入りし時、すなわち火をもちてその野を廻(もとほ)し焼きき。」
 しかし、鼠(ネズミ)が「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言って穴に入るよう教えてくれました。
 てっきり死んでしまったと思った、スセリビメは葬式道具を持って野に行くと、オオクニヌシノミコトは生きており、鏑矢をスサノヲノミコトに返しました。
 スサノヲノミコトはまだあきらめず、策を講じます。
「八田間(やたま)の大室に喚び入れて、その頭の虱(しらみ)を取らしめたまひき。故ここにそ頭を見れば、呉公(むかで)多なりき。・・・・・その大神、呉公を咋(く=食)ひ破りて唾き出すと以為(おも)ほして、心愛(は)しく思ひて寝ましき。」と書かれています。要するに、オオクニヌシノミコトがムカデから逃れるためにはムカデを食って吐きだすだろう。気持ち悪さにまいってしまうだろう。これで安心と思って寝たのです。
 またもや、スセリビメが助けてくれました。ムカデがオオクニヌシノミコトに向かわないように椋(ムク)の木の実を用意してくれたのです。赤土も用意して吐いたのは赤土を含んだ唾でした。
 スサノヲノミコトが寝ている間に、ふたりは駆け落ちすることにしました。スサノヲノミコトの髪の毛をタルキに結わいつけ、「五百引の石(いほびきのいは=五百人の人でないと動かせないほどの岩)」で戸をふさぎました。オオクニヌシノミコトが、スサノヲノミコトが大切にしている太刀・弓矢・天の詔琴(のりごと)を持って、スセリビメを背負って逃げ出した時、琴が樹に拂(ふ)れて地動鳴り響きました。寝ていたスサノヲノミコト、「聞き驚きて」起き上がろうとした時、室を倒してしまいます。タルキに髪の毛が結わいつけられているので、追いかけることができません。髪の毛を解いている間にふたりは「遠く逃げたまひき。」とあります。さすが、ここにいたって、スサノヲノミコトはあきらめます。『古事記』には次のように書かれています。
「・・・・おれ(おまえ)大国主神となり、また宇都志国玉神(うつしくにだまのかみ)となりて、その我が娘須勢理毘賣(すせりびめ)を嫡妻(むかひめ=正妻)として、宇迦の山の山本に、底つ石根(いはね)に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)をたかしりて居れ。この奴(やっこ)。」
「お前が国王になり、我が娘を正妻にして、出雲の宇迦の山本の地に大きな神殿をつくって国を治めろ。こいつめ。」ということでしょう。

『古事記』に描かれているスサノヲノミコトをまとめると次のようになります。
1、高天原で「悪事」を働く。
2.高天原の神々の協議によって天界高天原を追放される。
3.出雲に降りて、人々を苦しめる大蛇を退治して結婚して出雲を治める。
4.出雲から根の国に移り、娘の父親になるが、娘かわいさのあまり、娘を手放したくない。彼氏に嫌がらせをするが、最後はあきらめる。

 この変化について、臨床心理学・精神医学、特に力動精神分析、実存分析*の立場の人たちが注目しているようです。理由は「生身の人間らしさ」に満ち満ちているからのようです。子どもの頃は「わんぱく」「いたずらもん」「やんちゃ」。青年になっても「悪がき」。ひどい場合は親から勘当される。世間からの裁きも受ける。苦労して働いているうちに人の情をも理解するようになる。それなりの力を身につけた時に結婚する。子どもが生まれ、親となる。娘が生まれれれば、娘がかわいくてしょうがない。よその男のところに行かないでもらいたいと思うようになる。理屈ではわかっていても、娘の結婚に反対したくなる・・・・・。ある意味、スサノヲノミコトは「人間の健全な成長過程」をふんでいると思われます。そして、その人間臭さがスサノヲノミコトの人気の秘密と考えることもできます。
 しかし、これは、『古事記』を基にした臨床心理学・精神医学におけるスサノヲノミコト観であり、『出雲国風土記』を基にしたスサノヲノミコト観ではないのです。



*力動精神分析:フロイトの「無意識を重視した自我」からではなく、「家族関係・社会関係を重視した自我」に注目して治療しようとする方法。
実存分析:その人「個人の自我の成り立ち」を重視して治療しようとする方法。ただし、その場合、「一般的自我」形成を無視するのではなく、それとの関係性も視野に入れる。
 たとえば、父親の暴力におびえて、いろいろな症状や問題行動が起きる場合、いくら本人を説得しても、望ましい変容は得られません。親子関係を変えねばならないということで、親から離す方法が必要ということになります。



スサノヲノミコト(2)「スサノヲノミコトと牛頭天王」

2010-09-27 06:11:51 | 日記
「・・・・天照大御神の營田(つくだ)に畔(あ)を離(はな)ち、その溝を埋め、またその大嘗(おほにへ)を聞こしめす殿(との)屎(くそ)まり散らしき。」
「天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐して、神御衣(かむみそ)織らしめたまひし時、その服屋の頂を穿(うが)ち、天の斑馬(あめのふちこま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて堕(おと)し入るる時に、天の服織女(はたおりめ)見驚きて、梭(ひ=機の横糸を通す道具)に陰上(ほと=性器)衝きて死にき。」
『古事記』には上記のように、高天原におけるスサノヲノミコトの「悪事」が描かれています。簡単に言ってしまえば、アマテラスオオミカミの田んぼを荒すは、祭殿に糞をばら撒くは、挙句の果ては、アマテラスオオミカミが機織の最中に天井に馬の皮を剥いで逆さにつるし、それを落としたというのです。そして、驚いた機織担当の女が思わず道具の操作を誤って、性器を突っついて死んでしまったというのです。
 高天原では想像を絶する「悪事」を働いた神様がスサノヲノミコトだったのです。
 それまではやさしくしていたアマテラスオオミカミでしたが、お怒り爆発。彼女は「天の石屋戸(あめのいはやど)を開きてさし籠(こ)もりましき。」かの有名な天の岩戸の物語につづくわけです。アメノウズメノミコトの踊りが功を奏して、アマテラスオオミカミは岩から出ることとなりました。
 スサノヲノミコトはどうなったかといいますと、
「ここに八百萬(やおろず)の神共に議(はか)りて、速須佐之男命(はやすさのをのみこと)に千位の置戸(ちくらのおきど=たくさんの品物)を負せ、また鬚(ひげ)を切り、手足の爪も抜かしめて、神逐(かむや)らい逐(や)らひき。」と『古事記』にあります。
 スサノヲノミコトは、神々の協議によって、たくさんの荷物をしょわされ、鬚をそられて、爪をはがされて、高天原から追放されてしまったというのです。
 追放された後、スサノヲノミコトは、
「出雲国の肥(ひ)の河上、名は鳥髪(とりかみ)といふ地に降り(くだり)たまひき。」
 そこで、毎年ヤマタノオロチに娘を食われている老夫と老女に会いました。今年も大切な娘が食われることとなるのでふたりの老人は娘を間に置いて泣いていたのです。ここから有名なヤマタノオロチの物語が始まります。地上に降りた若いスサノヲノミコトは、まるで人格が変わったように「正義の味方」となって活躍します。ヤマタノオロチ退治の話によって「力強く豪快」なスサノヲノミコト像も生まれました。
 しかし、高天原での「悪事」の数々も付け足されて、「スサノヲノミコトは、怒ると怖い、荒々しく暴れる神様」というイメージが定着し、「怒ると怖い牛頭天王」と同一視されるようになったと思われます。



スサノヲノミコト(1)「荒神としてのスサノヲノミコトの問題」

2010-09-26 04:39:23 | 日記
 牛頭天王の別の姿(仏教の言葉で言えば、「垂迹」)がスサノヲノミコトと思われてきたため、明治維新政府の牛頭天王などの「神仏習合神」排除の通達が出されると、それまで牛頭天王を祀っていた神社は、即座に主祭神をスサノヲノミコトに切り替え、神社名も違う名前にしました。今でも神楽において「天王舞」という言葉は残っていても、その実態は「スサノヲノミコト舞」という場合がほとんどと思われます。スサノヲノミコトを称える舞、スサノヲノミコトになりきる舞がほとんどと言っていいでしょう。
 なぜ、牛頭天王とスサノヲノミコトが習合されるようになったのか、以前、このブログにわたしなりの考えを述べましたが、補足説明の必要性も感じています。しかし、それは後日にまわすとして、しばらくは、牛頭天王と同一視されてきたスサノヲノミコトについて取り上げます。本ブログが『牛頭天王信仰とその周辺』と言う以上、スサノヲノミコトを取り上げない訳にはいきません。
 使用テキストは、岩波文庫本『古事記』と、講談社学術文庫本『出雲国風土記』です。
 
 スサノヲノミコトと言うと、多くの日本人が知っている八俣大蛇(ヤマタノオロチ)退治の話です。この話は『古事記』には載っていますが、『出雲国風土記』には載っていません。
 八俣大蛇を退治したスサノヲノミコトは助けた櫛名田比賣(クシナダヒメ)と結婚してその喜びを歌にしたことが『古事記』には書かれています。その歌が以下の歌で、日本最初の和歌と言われています。
 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
 この和歌についても、『出雲国風土記』にはありません。そもそも「八雲立つ」という言葉は、『出雲国風土記』ではスサノヲノミコトの言葉ではなく八束水臣津野命(やつかみづおみづののみこと)の言葉です。この神様は「国引き」した神様です。「国引き」の話は、高校の古文の教科書にも載っている有名な話ですから知っている人も多いでしょう。
「八雲立つ出雲の国は・・・・・・初国小さく所作(つく)れり。故(かれ)、作り縫はむと詔(の)りたまひて、栲衾志羅紀(たくぶすましらき)の三埼を、国の余り有りやと見れば、国の余り有りと詔(の)りたまひて・・・・・・・・・・国来国来(くにこ、くにこ)と引き来縫へる国は、去豆(こず)の折絶(をりたえ)より、穂尓支豆支(やほにきづき)の御崎なり。・・・・・」
 ということで、『出雲風土記』から考えられることは出雲建国の父は八束水臣津野命(やつかみづおみづののみこと)となると思われます。
『古事記』では、八俣大蛇を退治し、「宮を作りて坐(ま)しき」スサノヲノミコトを「この大神」と言っていますので、出雲建国の父と考えていると思われます。
 それでは、『出雲国風土記』では、スサノヲノミコトはどのように描かれているのか、彼の言動から見てみます。
「古老の伝へて云はく、須佐能袁命(すさのをのみこと)、佐世の木の葉を頭刺して(かざして)、踊躍(おど)らしし時に、所刺せる佐世の木の葉、地に堕ちき。故、佐世と云ふ。」
「神須佐能袁命、詔(の)りたまひしく、此の国は小さき国なれ雖(ども)国処在り。故、我が御名(みな)は、木石には着けじと詔(の)りたまひて、即ち己(おの)が命(みこと)の御魂(みたま)、鎮め置き給ひき。然(しか)して即ち大須佐田(おほすさだ)・小須佐田(をすさだ)を定め給ふ。」
 踊りの好きな神様であること、田んぼ(農業)への関心が高い神様であることが『出雲国風土記』から分かるのではないでしょうか。農業が好きで、ユーモアの富んだ神様のような気さえするのは、このわたしだけでしょうか。
『古事記』のスサノヲノミコトと『出雲国風土記』のスサノヲノミコトとはあまりにも違います。どちらが、当時の人々のスサノヲノミコトだったのか。ご当地のスサノヲノミコトが当時の人々のスサノヲノミコトだったに違いありません。ではなぜ、『古事記』はスサノヲノミコト像を変えたのかという問題が生じます。それは後に考えるとして、次回は、スサノヲノミコトが「荒々しい神=荒神」と思われるに至った理由について『古事記』から見ていこうと思います。

牛頭天王のお面

2010-09-25 08:27:01 | 日記
 毎年、東京品川の荏原神社では、五月の末に「天王祭」が催され、御神輿に飾られた牛頭天王のお面を一般の人々も見ることができるとのことです。そもそも、そのお面は、その昔、海が輝くと共に現れました。牛頭天王のお面とわかり、以後この地域は禁漁区となり、地名も「天王洲」となったとのことです。現在「天王洲アイル」という駅がありますが、その駅名は牛頭天王のお面の「登場」を元につけられた名前です。
 岩手県の早池峰神楽には「天王舞」があり、お面をかぶって舞います。やさしい表情のお面になっています。
 同じく岩手県の和賀大乗神楽にも「天王舞」があり、毛を伸ばし仁王様に近い表情のお面だったと思います。
 いずれも、お面には、仏教寺院にあるような像の「牛」や「角」は見あたりません。「本地」でなく「垂迹」のスサノヲノミコトとして、牛頭天王をとらえているからでしょう。

御帰宅、牛頭天王坐像(埼玉県北本市)

2010-09-24 08:04:56 | 日記
 埼玉県北本市荒井にある須賀神社は江戸時代までは「荒井の天王様」と言われ、天王社だったとのことです。
 2009年6月の新聞の記事によりますと、明治維新政府の「神仏分離政策」、その後に起こる「廃仏毀釈」の運動によって、牛頭天王様の像が壊されるかもしれないと心配した地元信者が大切に保管していて、その像が130年ぶりに神社に返還されたとのことです。
 返還された牛頭天王像は寛延3(1750)年の製作で、高さ約21センチの木像。眼光鋭く、首筋などには朱が鮮やかに残っているとのこと。この牛頭天王像は、毎年7月14日・15日に一般公開されるとのことです。


牛頭天王幟

2010-09-23 11:04:49 | 日記
 東京都の三宅島の御笏(おしゃく)神社では「牛頭天王祭」が催されています。境内に天王神社もあり、毎年7月の第3日曜日には「牛頭天王御前」と書かれた大きな幟を立て盛大に祭礼を行うとのことです。「天王祭」「祇園祭」という抽象的な言い方ではなく、「牛頭天王祭」とはっきり掲げて、神道の社が「天王祭」を行うのは大変めずらしいことです。
 離島だったため、「神仏習合」を禁止する明治維新政府の通達が届かなかったのか、為政者・宮司・島民の「牛頭天王」への強い思いがあったからか、その事情について、知りたい気持ちでおります。

 浅草橋にある須賀神社のホームページにを見ると、江戸時代の図絵を紹介しており、そこはもともとは牛頭天王を祀り「牛頭天王祭禮」と書かれた大きな幟を立てていたことが分かります。現在浅草橋須賀神社においては、「天王祭」「祇園祭」は行われていないようです。



江戸時代の村の祇園祭・天王祭(相模原)

2010-09-22 05:41:37 | 日記
相模原市立博物館に寄贈された古文書二通(江戸時代の庶民階層の文書)一部紹介。原文は縦書き草書体。

(1)「・・・・然者先年御村方天王御輿御注文被仰付仕立差上申候 当節外より茂注文御座候間 修復致し差上仕度勝手二候得共成丈下値二出来致し候様可仕 是非共御世話御願申上候・・・・」
(読み下し)
「・・・然れば先年御村方天王御輿ご注文仰せつけられ仕立て差し上げそうろう。当節他よりも注文ござそうろう間、修復いたし差し上げたく勝手にそうらえども、なるたけ下値に出来いたしそうろうよう仕るべく、是非とも御世話御願い申し上げそうろう・・・・・」

(2)「・・・・此度祇園舎之幟新規出来二相成改元として当八九両天御神楽越献し候 猶亦例之一酌相催し度遠近同好之君子被仰見候御遊請旁御高来伏而所希候・・・・」
(読み下し)
「・・・・このたび祇園舎の幟新規出来にあいなり、改元として当八九両天お神楽を献じそうろう。また、例の一酌あい催したく、遠近同好の君子に仰せ見られそうろう御遊びを請け、旁(あまねく)ご高来伏してのぞむところにそうろう。・・・・」


(1)は、
「先年、天王御輿のご注文がありました。当節他よりも注文があると思いますが、安い値段で修復して差し上げたいので、御注文は当方へよろしくお願い申し上げます」という旨の業者の手紙と思われます。
(2)は、「改元祝いということで新しい祇園舎の幟ができました。当八九両日神楽を献じてお祝いをしたい」という旨の手紙ですが、「酒の席も用意してありますので是非おいでください」という旨の内容もあり、名主階層に当てた「招待状」と考えていいでしょう。

(1)(2)から、江戸時代、相模原の村の祇園祭または天王祭において、
①幟 ②神楽 ③御輿 これらが大切にされていたことが分かります。

(2)から、「祇園舎の幟」披露にあたっては、酒の席も用意されていたことが分かります。それにしても、「遠近同好の君子」への誘いということで、酒宴が「君子」の催しになっているところがおもしろい。名主階層またはそれに近い者たちの集いと思われます。

牛頭天王像

2010-09-21 08:40:51 | 日記
 中国の民間人有志によって寄贈された竹寺の牛頭天王像は堂々と起立しており「理想的男性」を思わせるブロンズ像です。像を見ることから、人々の牛頭天王観を把握することができます。
 茅野市塩沢辻の石造の牛頭天王坐像は風雨にさらされながらも道にあります。村人の健康安全を護るだけでなく、旅人の健康安全をも護る石像です。牛頭天王信仰が民衆たちの心の中に深く根づいていたことも分かります。
 愛知県の木曽川付近の津島市と言えば、江戸時代までは牛頭天王信仰で有名だったところですが、現在はスサノヲノミコトを主祭神としています。その近くに興禅寺という寺院があり、木造の牛頭天王像が伝わっていて、特別の期間御開帳されるとのことです。一番天辺に牛の顔、中央になぜか馬の顔、左右に一角のある人間の顔があり、四つの生き物がひとつにまとめられている、シュールリアリズムを思わせる坐像です。「牛頭天王を敬わないと恐ろしい災いが生じる」ということを強く感じさせる坐像のように思えます。

礼林寺の中の牛頭天王社

2010-09-20 09:45:23 | 日記
 千葉県の市川市に礼林寺というお寺があり、そのお寺の中に牛頭天王社があると言います。寺と社との共存という意味での「神仏習合」でしょうか。「南無牛頭天王」と書かれた「男根」木像などがあり、「性の悩み」の面で御利益のある「社」として有名とのことです。
 埼玉県飯能市の竹寺のブロンズ牛頭明王像からも、牛頭天王が疫病(伝染病)だけでなく「性の悩み」を解消する神様という面も持っていることが分かります。牛頭天王が薬師様を本地としながらも、本地の薬師様以上にものすごく人気があったのは、病気だけでなく「性の悩み」の解消という力をもっていたからかもしれません。

竹寺(牛頭天王寺院)

2010-09-19 07:39:32 | 日記
 現在、スサノヲノミコトでなく、牛頭天王を堂々と主神としている神社が、どれだけあるか、調べてみたい気持ちもあります。同様に、現在、牛頭天王を本尊としている寺院がどれだけあるか調べてみたい気持ちもあります。
 埼玉県飯能市の山間には、あまりにも山の奥に存在しているため明治維新政府の「牛頭天王弾圧」をまぬがれ、江戸時代までの伝統「神仏習合」を維持できた牛頭天王寺院があります。一般には、竹で囲まれている寺院なので、「竹寺」と称されていますが、正しくは、「医王山薬寿院八王子」と言うようです。寺院の中には、大きな茅の輪のついた鳥居があり、神仏習合の寺院であることが分かります。
 四季の変化を楽しむこともできる環境にあり、竹寺は「俳句寺」としても有名です。
 毎年七月中旬に牛頭天祭を行っています。
 わたしが竹寺で注目したいのは、「牛頭明王」と称したブロンズ像です。この像はパンフレットによると「中国人民有志」により寄贈されたとのことですが、実際に見て触ることができます。どこを触ることができるかというと、下半身に「穴」があいていてそのに手を入れることができるのです。すると、その「穴」の中に、「リアルで立派な男の代物」が存在しているのです。このことから、中国人は、「牛頭明王(=牛頭天王)」は病気を治すだけでなく、「精力増強」の神様と考えていたことが分かります。
 中国文化の影響を受けつつも、千年もの日本の伝統が護られてきた竹寺は、「日本文化の拠点」と考えることができると思います。