高天原(たかまがはら)のアマテラスオオミカミや八百神(やほよろずのかみ)は、蛇神を敬う「多文化共生」国家出雲國をどのように思っていたのでたちしょうか。『古事記』に沿って調べています。
「この葦原中津國(あしはらのなかつくに=日本)は我が御子の知らす(治める)國と言依り(ことよ)さしたまへりし國なり。故、この國に道速振(ちはやぶ)る荒ぶる國つ神(くにつかみ)等の多なりと以為(おも)ほす。」これはアマテラスオオミカミの言葉ですが、簡単にまとめると、地上には「荒々しい神々」多くいると思える。私の息子が治めるのが筋なのにそれができない。」ということでしょう。
さらにアマテラスオオミカミは言いました、「何(いづ)れの神を使はしてか言趣け(ことかけ=説得)む」
そこで、思金神(おもひかねのかみ)と八百神が相談して言いました、「天菩比神(あめのほひのかみ)、これ遣はすべし」と。
ところが、この天菩比神は出雲國が気に入ってしまい、「大国主神に媚び附きて、三年に至るまで復奏(かへりごとまを)さざりき。」
しかたないので、次に、天若日子(あめのわかひこ:この神様には「神」の文字がついていません。)を遣わすことにしました。ところが、この神様はオオクニヌシノミコトの下照比賣(したてるひめ)と結婚してしまいました。そこで、雉(きぎし=きじ鳥)で、名前を鳴女(なきめ)というものを地上に送り、アマテラスオオミカミの詔(みことのり)を言わせたところ、天若日子(あめのわかひこ)は弓矢でもって、この雉を殺してしまいました。矢はなんと雉の胸を貫通しさらに飛んで、アマテラスオオミカミと高木神(=たかぎのかみ別名高御産巣日神=たかみむすひのかみ)の御所に落ちたのです。高木神は矢を取ってつきかえしました。矢は朝寝している天若日子の胸に当たり彼は死にました。
出雲國は「荒々しい神」がいるところでなく、「理想郷」だったからこそ、高天原の二人の神様は高天原を捨てて出雲國の神になろうとしたのです。それを『古事記』から見て取ることができます。
高天原の神々は最終的には建御雷神(たけみかづちのかみ)を天鳥船神と共に遣わすことにしました。そして、オオクニヌシノミコトに「國譲り」について迫りました。ところが、絶対反対を唱えたのが、オオクニヌシノミコトの息子の一人、建御名方神(たけみなかたのかみ)で、建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)のふたりは「力競べ」(手をつかんで握力の強さを競った)をしました。建御名方神は投げ飛ばされて、逃げたのです。どこに逃げたかというと、「科野國(しなののくに=信濃國)の州羽(すわ=諏訪)」と、『古事記』には書かれています。現在の諏訪神社にはオオクニヌシノミコトとタケミナカタノカミが祀られています。
実際には「相撲」のような「力競べ」があったとは思われません。激しい戦争があったと思われます。結果はオオクニヌシノミコトは破れ殺されたのでしょう。なぜ、そう考えるかというと、『古事記』の垂仁天皇の章に「その祟(たた)りは出雲の大神の御心なりき」と書かれているのです。「祟り」ということは、高天原一族(天孫族=ヤマト政権)側が出雲において相当残虐な行為をしたと思うのです。
オオクニヌシノミコトの敗北によって出雲族は信州に移住したり、関東移住したりしました。出雲族は表向きはヤマト政権側に従いながらも、高度な技術力によって、信州・関東の事実上の支配層になったと思われます。出雲國の「蛇信仰」などの動物信仰や「巨木信仰」は信州・関東の地元の人たちの信仰でもあり、彼らの支配は地元の理解の上に比較的スムーズに行われたとも思われます。
「この葦原中津國(あしはらのなかつくに=日本)は我が御子の知らす(治める)國と言依り(ことよ)さしたまへりし國なり。故、この國に道速振(ちはやぶ)る荒ぶる國つ神(くにつかみ)等の多なりと以為(おも)ほす。」これはアマテラスオオミカミの言葉ですが、簡単にまとめると、地上には「荒々しい神々」多くいると思える。私の息子が治めるのが筋なのにそれができない。」ということでしょう。
さらにアマテラスオオミカミは言いました、「何(いづ)れの神を使はしてか言趣け(ことかけ=説得)む」
そこで、思金神(おもひかねのかみ)と八百神が相談して言いました、「天菩比神(あめのほひのかみ)、これ遣はすべし」と。
ところが、この天菩比神は出雲國が気に入ってしまい、「大国主神に媚び附きて、三年に至るまで復奏(かへりごとまを)さざりき。」
しかたないので、次に、天若日子(あめのわかひこ:この神様には「神」の文字がついていません。)を遣わすことにしました。ところが、この神様はオオクニヌシノミコトの下照比賣(したてるひめ)と結婚してしまいました。そこで、雉(きぎし=きじ鳥)で、名前を鳴女(なきめ)というものを地上に送り、アマテラスオオミカミの詔(みことのり)を言わせたところ、天若日子(あめのわかひこ)は弓矢でもって、この雉を殺してしまいました。矢はなんと雉の胸を貫通しさらに飛んで、アマテラスオオミカミと高木神(=たかぎのかみ別名高御産巣日神=たかみむすひのかみ)の御所に落ちたのです。高木神は矢を取ってつきかえしました。矢は朝寝している天若日子の胸に当たり彼は死にました。
出雲國は「荒々しい神」がいるところでなく、「理想郷」だったからこそ、高天原の二人の神様は高天原を捨てて出雲國の神になろうとしたのです。それを『古事記』から見て取ることができます。
高天原の神々は最終的には建御雷神(たけみかづちのかみ)を天鳥船神と共に遣わすことにしました。そして、オオクニヌシノミコトに「國譲り」について迫りました。ところが、絶対反対を唱えたのが、オオクニヌシノミコトの息子の一人、建御名方神(たけみなかたのかみ)で、建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)のふたりは「力競べ」(手をつかんで握力の強さを競った)をしました。建御名方神は投げ飛ばされて、逃げたのです。どこに逃げたかというと、「科野國(しなののくに=信濃國)の州羽(すわ=諏訪)」と、『古事記』には書かれています。現在の諏訪神社にはオオクニヌシノミコトとタケミナカタノカミが祀られています。
実際には「相撲」のような「力競べ」があったとは思われません。激しい戦争があったと思われます。結果はオオクニヌシノミコトは破れ殺されたのでしょう。なぜ、そう考えるかというと、『古事記』の垂仁天皇の章に「その祟(たた)りは出雲の大神の御心なりき」と書かれているのです。「祟り」ということは、高天原一族(天孫族=ヤマト政権)側が出雲において相当残虐な行為をしたと思うのです。
オオクニヌシノミコトの敗北によって出雲族は信州に移住したり、関東移住したりしました。出雲族は表向きはヤマト政権側に従いながらも、高度な技術力によって、信州・関東の事実上の支配層になったと思われます。出雲國の「蛇信仰」などの動物信仰や「巨木信仰」は信州・関東の地元の人たちの信仰でもあり、彼らの支配は地元の理解の上に比較的スムーズに行われたとも思われます。