前回紹介した『鎌倉大雙紙』では「崇り」とその「対策」についても述べています。前回同様「秋庭蔵書」の印のある神奈川公文書館所蔵本をテキストにします。
先ず、佐竹入道の崇りについて(DSC00992)、
「応永廿九年十月三日佐竹上総入道家督の事に付て御不審を蒙り比企谷有りけるを上杉淡路守憲直に被仰付(仰せつけられ)発向しけれハ佐竹も打て出防戦候へける終に(ついに)不叶(かなわず)法花堂(法華堂)にて自害して失ぬその霊魂崇をなしける間一社の神に祭りける」
鎌倉公方足利持氏は「独裁体制」を敷かんがため、京都の足利将軍の許可なく、独断で隣国豪族を滅ぼしていきました。そのひとつに佐竹一族への攻撃があります。配下の上杉憲直に命じて佐竹を滅ぼしました。佐竹はその恨みを「崇り」をもってしたというわけです。そこで、佐竹入道をはじめ佐竹一族を「神として祀って」神社を建てることにしたというのです。(後に持氏は関東管領や京都方の反感を買い自害することになります。)
『鎌倉大雙紙』には書かれていませんが、この神社は後々村内の天王社に合祀されることになったようです。それが以前このブログで紹介した鎌倉市大町八雲神社で、江戸時代には「佐竹天王」と呼ばれていたようです。
もうひとつの「崇り」への「対策」についてですが、『鎌倉大雙紙』では次のように描かれています。(DSC00996)
「梶原が譫言?(=せんげん、たわごと)して安田謀反の由頼朝へ申上ける間頼朝大に感 則(すなわち)梶原と加藤の先祖加藤景廉と二人に打手を被下(くだされ)義定(安田義定)は法光寺にて自害被成(なさる)・・・・・・・義定の亡魂有りけれハ恐れをなし法光寺に多門天皇に(助詞は「に」でなく「を」の間違えと思われる)作り其亡骨を中に治て法光禅定とて今も有・・・・・・・・」
梶原景時と思われますが、彼の「虚言」を源頼朝は信じて安田義定を滅ぼしました。しかし、その「亡魂」は祟りをなすかもしれないと恐れられたので、その封じ込めに多門天皇(多聞天王=毘沙門天)を造ったという訳です。
要するに、『鎌倉大雙紙』では、「祟り対策」としてふたつの方法があったことを述べています。ひとつは滅ぼされた側の本人を祀る場合と、もうひとつは力強い神様の像を造って「崇り」を封じ込める場合とです。
鎌倉時代に多聞天(毘沙門天)が実際に「崇り封じ」に使われたかどうかは分りません。『鎌倉大雙紙』が歴史的事実を伝えているとは限らないからです。しかし、早ければ戦国時代に『鎌倉大雙紙』は書かれました。戦国時代には「崇り封じ」のために「天王信仰」が利用されることがあったということは考えられます。しかし、『鎌倉大雙紙』に登場するのは牛頭天王ではありません。多聞天王です。牛頭天王が「崇り封じ」に使われた事例あるのか、古文書からさがしてみたい気持ちでいます。
先ず、佐竹入道の崇りについて(DSC00992)、
「応永廿九年十月三日佐竹上総入道家督の事に付て御不審を蒙り比企谷有りけるを上杉淡路守憲直に被仰付(仰せつけられ)発向しけれハ佐竹も打て出防戦候へける終に(ついに)不叶(かなわず)法花堂(法華堂)にて自害して失ぬその霊魂崇をなしける間一社の神に祭りける」
鎌倉公方足利持氏は「独裁体制」を敷かんがため、京都の足利将軍の許可なく、独断で隣国豪族を滅ぼしていきました。そのひとつに佐竹一族への攻撃があります。配下の上杉憲直に命じて佐竹を滅ぼしました。佐竹はその恨みを「崇り」をもってしたというわけです。そこで、佐竹入道をはじめ佐竹一族を「神として祀って」神社を建てることにしたというのです。(後に持氏は関東管領や京都方の反感を買い自害することになります。)
『鎌倉大雙紙』には書かれていませんが、この神社は後々村内の天王社に合祀されることになったようです。それが以前このブログで紹介した鎌倉市大町八雲神社で、江戸時代には「佐竹天王」と呼ばれていたようです。
もうひとつの「崇り」への「対策」についてですが、『鎌倉大雙紙』では次のように描かれています。(DSC00996)
「梶原が譫言?(=せんげん、たわごと)して安田謀反の由頼朝へ申上ける間頼朝大に感 則(すなわち)梶原と加藤の先祖加藤景廉と二人に打手を被下(くだされ)義定(安田義定)は法光寺にて自害被成(なさる)・・・・・・・義定の亡魂有りけれハ恐れをなし法光寺に多門天皇に(助詞は「に」でなく「を」の間違えと思われる)作り其亡骨を中に治て法光禅定とて今も有・・・・・・・・」
梶原景時と思われますが、彼の「虚言」を源頼朝は信じて安田義定を滅ぼしました。しかし、その「亡魂」は祟りをなすかもしれないと恐れられたので、その封じ込めに多門天皇(多聞天王=毘沙門天)を造ったという訳です。
要するに、『鎌倉大雙紙』では、「祟り対策」としてふたつの方法があったことを述べています。ひとつは滅ぼされた側の本人を祀る場合と、もうひとつは力強い神様の像を造って「崇り」を封じ込める場合とです。
鎌倉時代に多聞天(毘沙門天)が実際に「崇り封じ」に使われたかどうかは分りません。『鎌倉大雙紙』が歴史的事実を伝えているとは限らないからです。しかし、早ければ戦国時代に『鎌倉大雙紙』は書かれました。戦国時代には「崇り封じ」のために「天王信仰」が利用されることがあったということは考えられます。しかし、『鎌倉大雙紙』に登場するのは牛頭天王ではありません。多聞天王です。牛頭天王が「崇り封じ」に使われた事例あるのか、古文書からさがしてみたい気持ちでいます。