牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

北杜市甲斐大泉町の天王山八雲神社

2024-01-04 05:21:10 | 日記
1月3日は、私の小屋から歩いて往復4時間!
北杜市大泉町下新居の天王山(この地域では「てんのうやま」という)にある八雲神社(旧祇園社)に参拝。良質の食品を中心に売る大型店舗『ひまわり市場』の近くの山で、近くには、水質の良い『泉温泉センター』もあります。また、この温泉の下には逸見神社(へみ神社)があり、もともとはヘビをまつっていたと思われます。北杜市はヘビ信仰の地でもあり、それは縄文式土器の文様・形からも理解できます!
たまたま地元の人に会い、いろいろ説明していただきました。
「昭和45,6年までは、毎年7月14日に盛大に祇園祭(ぎおんさい)を実施していました。たくさんの店も出ました。今は宮司さんが来て簡単な儀式をするだけ。この山を『てんのうやま』と知っている地元の人は少ないでしょう。老木が倒れて神殿損失。石で小さな社をつくりました。石段の清掃をする人も少なくなっています・・・」
時代の流れを感じる話でした。







迎春 昇り龍の年に!

2024-01-01 16:51:15 | 日記
迎春

山梨県北杜市に住むようになって13年目。
地元の「天王宮」(白州町横手の津島神社。巨麻神社の隣に鎮座)に行こうと思ったのですが、
三が日は市バスが運休。

車がないので、電車で行ける「天王宮」へ!
韮崎市穴山の夏目地区の天王宮(現 津島神社)へ。穴山駅下車徒歩7分。
鳥居の額に、ものすごく薄いが「天王宮」と書かれているのがわかります。




富士山もきれいに見えました。

2023年度4月を迎えて

2023-03-29 08:37:12 | 日記
2023年も3か月を過ぎてしまいました。


昨年は富山市や氷見に行きまして、牛頭天王関係の神社を訪問。

氷見港に現れた虹。

氷見の日宮神社。毎年7月祇園祭りを行ってます。


富山市の円隆寺の額「祇園牛頭天王」

70歳を超え、目も衰え、年を感じるこの頃ですが、生きていることへの幸せを感じ、
今年も牛頭天王関連の調査をするつもりです。

2022年寅年を迎えて

2022-01-25 13:37:34 | 日記



遅ればせながら本日1月25日に初詣。



 今年は私の年であり、疫病退散の年であってほしいのですが・・・・。
 今までの人々のあり方・行動が疫病蔓延につながったとも思えます・・・。八ヶ岳南麓に住むようになって11年・・・それをつくづく感じる次第。
八ヶ岳南麓には縄文遺跡が多いのです。彼等の生き方を学び、「大都市幻想」を脱却する必要を思いながら、初詣に行ってきました。
 初詣(写真)は、山梨県北杜市大泉町の下新居八雲神社。

参考

丑(うし)年2021年を迎えて

2021-01-01 12:21:44 | 日記



疫病退散!




「牛王」(ごおう)とは正しくは「牛玉」で牛の胆石のこと。これは精力剤として珍重されましたが、あまりにも高額なため、一般庶民には手が入らず、神社仏閣では「牛王宝印」という札を出して、健康増進・疫病退散を祈願しました。牛頭天王版「牛王宝印」を作成!

新型コロナ医療最前線で戦う医療従事者の皆さん、福祉施設で働く職員の皆さん、配達に携わる皆さん!
「牛頭天王版牛王法印」のご加護あらんことを!


長野県上田市方面の牛頭天王信仰

2019-05-28 14:16:52 | 日記
 以前 信濃国分寺を訪問しましたが、今回は市内の神社を訪問。
 上田市市役所近くの原町にある市神社。(妙光寺向かい)






 上田市は江戸時代は牛頭天王信仰を擁護した真田氏の拠点だけあって、疫病退散だけでなく、商売繁盛の神様としても信仰を集めたようです。
現在の祇園祭は毎年7月中旬自治会の連合組織(実行委員会)が主催して行っているとのこと。

 上田市諏訪形466にある荒神宮。年間行事予定表には「祇園祓祭」と書かれていますが、「祇園祭」としてはやっていないとのこと。また、神社の拝殿の額には、「荒神宮」とは書かれておらず「参上神社」となっていました。不思議ですねぇ。





市川三郷町の天王明王天神社・花開神社

2019-03-04 07:52:51 | 日記
山梨県市川三郷町の天王明王天神社
 山梨県市川三郷町八ノ尻1435
(鰍沢口駅から黒沢信号へ。野性蜂研究所の反対の山道を進みます。カーナビがないと難しいですし、相当自動車の運転技能がすぐれていないと、梅雨時期・雪の時期は難しいと思われます。細い道で急なところが多いので。)






花開神社
山梨県市川三郷町 山保5371
(市川大門農村グランド近く)








 2019年に入って初めての記事。
なかなか牛頭天王信仰調査ができない状況がつづいています。
2月に下旬に鰍沢へ取材旅行に行きました。そのついでといっては牛頭天王に申し訳ありませんが、お隣の市川三郷町へ。

 天王明王天神社は、牛頭天王と不動明王と天神様と「三神」を祀った、江戸時代までの神仏習合を残す貴重な存在。あまりにも山奥なので、明治政府の「神仏分離」「牛頭天王信仰禁止」通達が届かなかったのでしょう。ですから、弾圧を逃れることができたのでしょう。

 花開神社の祭神は牛頭天王ではありませんが、毎年7月中旬祇園祭をおこなっています。村の中核的存在の神社。

信州須坂祇園祭

2018-07-26 08:34:16 | 日記

7月25日は須坂祇園祭の最終日『天王あげ』(灯籠行列)を見てきました。
初日の、牛頭天王神輿と共に町を回る傘鉾の巡業とは違って大変質素。(写真は一行が墨坂神社にもどるところ。)

それにしても、須坂の町並みのきれいさには驚きました。関東で言えば川越のような町並み。
市が大学・高専などと組み、具体的再生・修復プランをねり、寄付を募ったり・補助金を出したりしながら街区・民家の環境整備をしているようです。

味噌・日本酒といった伝統産業を守ると共に、電子機器関連企業誘致にも力を入れ、環境と産業の両立を推し進めている市の姿勢を見ることができました。



ローソンの敷地に、臨時にセットされた弥栄神社(旧牛頭天王社)

2018年7月名古屋方面牛頭天王信仰関係取材旅行

2018-07-06 22:14:54 | 日記


今年も日本海方面の牛頭天王社巡りをと考えていましたが、都合により、7月は名古屋方面の牛頭天王信仰を調べに行きました。

初日は、全国の津島神社(旧津島牛頭天王社)の総社(名鉄津島駅下車徒歩15分・津島市神明町1)に行きました。私は今回二度目の訪問。今回は地元の人たちと会い、津島神社と地元との関係を聞くことができました。


7月下旬には天王祭を行うというのに、津島駅から津島神社へと続く道の商店・民家にはほとんど天王祭のポスターが貼られていませんし、蘇民将来府も見ることができませんでした。天王祭を迎えるというのに祭りの雰囲気がないのです。「なぜですか?」と率直に聞いてみま した。


そして、分かったことは、津島牛頭天王社は時の権力者たちから長く庇護を受けてきており、津島の農民・商人といった一般の人々の暮らしから遊離していたということ。そういう過去があるため、ユネスコ無形文化遺産になろうと、一般の人々は今でも津島神社の行事には積極的には動こうとはしないようです。昔から一般の人々にとって心のよりどころは、

白山社(津島市天王通り5-31)・白山神社(津島市舟戸町2)・堤下神社(とうげじんじゃ・本町2-17)などの地元の小さな神社だったと思われます。


牛頭天王は貧しい蘇民将来を救ったのです。時の権力に迎合し、一般の人々の暮らしに思いを向けなければ牛頭天王信仰は真の牛頭天王信仰とは言えないでしょう。・ ・・・・・

二日目は、豊橋祇園祭の祭神を祀る吉田神社訪問。豊橋祇園祭は「手筒花火」で有名。豊橋の店店には「豊橋祇園祭」ポスターが張られ、この祭りが市民に根付いていることが分かります。


吉田神社の、きれいな境内には祭りの江戸時代の様子についても大きく紹介されていました。






この神社の近くに神明社があり寄ってみましたら「茅の輪」が設置されており、説明板には蘇民将来についても触れていました。吉田神社には残念ながら「茅の輪」は設置されていませんでした。




三日目は掛川へ。掛川城に行き、天守閣から、戦国時代に牛頭天王社があった森、山内氏の代になって移転した森(今の天王町に鎮座している龍尾神社=旧掛川天王社 の森)を見ました。





あけめましておめでとうございます。よき年となりますように!

2018-01-01 02:32:26 | 日記

*埼玉県飯能市の竹寺の「牛頭明王像」

新年明けましておめでとうございます。
旧年中はなかなか牛頭天王信仰調査のできなかった私ですが、
今年は私は68歳。もう無理のできない年ですので、
映画制作・出版・パフォーマンス企画はやめて、
本来の仕事、絵画・マンガ執筆を軸に生活することにしました。
ですから、昨年までよりも牛頭天王調査旅行はできると思っています。
今年も日本海方面の牛頭天王信仰を調べたいものです。
絵画・マンガ軸とはいっても、私は大学では史学科出身ですので、
古文書については続けていくつもりでいます。
ある古文書の会に入っているのですが
年末会員の方から「牛頭天王について話してください」と言われました。
以前とあるところで話した内容を語ることにしてしぶしぶ承諾しました。
以下はその時の一部で、中学生・高校生に牛頭天王について語るとすれば
どのように語ろうかと考えた時のレジメです。それをご紹介。

牛頭天王(ごずてんのう)とは
(1)祇園祭りや天王祭りの神様
京都の祇園祭りについては、多くの日本人が知っていますが、それでは、そのお祭りの祭神はというと、ほとんど知られていません。「スサノヲノミコト」と答える人はある意味あっていますが、ある意味間違っています。
「祇園」とは仏教の言葉です。スサノヲノミコトは日本神道の神様で仏教の神様でないからです。そもそも仏教のお祭りですから、仏教の神様が祭神のはず。ということで、祇園祭の神様は牛頭天王なのです。江戸時代は「牛頭天皇」と書くことも多くありました。では、なぜ、牛頭天王はほとんど知 られていないのでしょうか。それには理由があります。
 明治維新政府が「牛頭天王を祀ることを禁止する通達を出したからです。(慶応4年・明治元年)
 ではなぜ、明治維新政府は牛頭天王信仰を禁止したのかというと、
1.牛頭天王は江戸時代最も人気のあった神様で、「てんのう」といえば「牛頭天王」を指す状態で、天皇陛下を軸に政治を動かそうとするときに、とんでもない名前の神だと思われたからでしょう。
 (今でも埼玉県の南部では牛頭天王を祀るお祭りを単に「てんのうさま」と言う場合が多くあります。)
2.仏教より神道を上位に持って行きたかった明治維新政府は牛頭天王関係の祭文・経文・像を、実際には焼き払うことを勧めたのです。(廃仏毀 釈)。
 ということで、牛頭天王関係のものは明治になって多くが消え去ることになったので、牛頭天王の名前も忘れられることとなりました。代わりに祇園祭りの神様はスサノヲノミコトと神社側もしたのです。 仏教の祭りの言い方に神道の神様が祭神という変な言い方になってしまったのです。

(2)牛頭天王の御利益・・・疫病退散
 牛頭天王の御利益は、一言で言えば「疫病退散」で、伝染病をやっつける神様です。もっともはじめは伝染病を広める悪い神様と思われていました。しかし、「その悪い神様でもきちんと拝んで御願いしていれば救ってくれる」と思われるようになり、そういう結果も出たので、人々は「いい神様」と思うようになりました。そして、「善神」としての物語も南北朝時代までにはつくられました。それが『ほき内伝』です。その後、牛頭天王信仰はどんどん勢いづいていき、織田信長など戦国大名たちの中にも期待する者が出るようになりました。

(3)牛頭天王信仰の本質
①『ほき内伝』を読めばわかりますが、日本神道の神様は出てきません。古神道の「蛇神」が登場するだけです。
②『続群書類従』には、祇園社が疫病(疱瘡)を退散させることができたのに、日本神道の神様やその神社伊勢神宮や稲荷社にはそれができなかったことが書かれています。
③「チンリンキという化け物が仲哀天皇を殺したという伝説」が瀬戸内地方にはありますが、そのチンリンキが牛頭天王と義きょうだいになったことが京都大学所蔵の『祇園牛頭天王御縁起』には書かれています。
④「牛頭天王」 という神様はインドにはいません。埼玉県飯能市の竹寺という牛頭天王寺院には、中華人民共和国の民間人が寄付した「牛頭明王像」が設置されています。地上に降りないのが天王なのです。地上に降りた神の物語であるならその神は「明王」でなくてはなりません。
 仏教について、中国の古代の神などについて、大変詳しい『ほき内伝』作者はなぜ「牛頭明王」とせず、あえて「牛頭天王」と書いたのでしょうか。
 これは私の想像です。①②③からも想像できますが、牛頭天王信仰の中核を作っていった人たちの基本的理念は「反天皇制(反朝廷制)」というか、「牛頭天王制」を目指したかったのではということです。
 彼らは天皇家を解体させたかったというのが私の想像です。
 南北朝で天皇家は分裂 。蒙古襲来では天皇家は無力。源平の合戦と言われるように、この時も天皇家は無力。いいかげんせよ!という気持が牛頭天王信仰の成立・発展に向かわせたのではないかと思われるのです。
 そういう牛頭天王信仰の本質を知ってしまったからこそ、明治維新政府は牛頭天王信仰を弾圧したとも思えるのです。

 *千葉県市川市の礼林寺

糸魚川市方面の牛頭天王信仰

2017-12-24 18:05:23 | 日記

2017年6月段階の糸魚川市内

1.奴奈川神社(ぬながわじんじゃ)
  糸魚川市田伏南村569(梶屋敷駅近く。ひすいライン沿い)
  毎年7月中旬「田伏祇園祭」実施。




2.能生(のう)祇園祭
  能生駅付近の町内会の祭りとして商店街が中心となって祇園祭実施。



昼食でいただいた海の幸!

3.青海神社(おうみじんじゃ)
  糸魚川市大字青海762
  毎年7月中旬、青海神社の摂社(青海235番地)で祇園祭実施


今年も年末を迎えることになってしまいました。
今年も、私事ですが、映画制作上映・映画出演・自費出版本の編集など慌ただしく、
正直のところ、なかなか牛頭天王信仰調査に気持を向けることができませんでした。
6月上旬、大火後の糸魚川市の活性化を願い、この地の神社を訪問したり地元の人に
祇園祭・天王祭について聞いたりしてきたくらいですが、蛇信仰についても
情報を得ることができましてうれしく思っています。
6月上旬段階ではまだまだ大火のあとが生々しく残っている状況 でした。
今は復興にむけて頑張っているところだと思います。
糸魚川市方面でも高齢化の波は大きく、お祭りはだんだんしにくくなって
きているようですが、地域ごと、氏子さん、商店街の皆さんが中心になって、
他のイベントとタイアップするなど、いろいろ工夫して祇園祭を実施し、
伝統の灯火が消えないよう努力しているように見えました。

牛頭天王と金神と神々の両面性

2017-01-04 07:52:00 | 日記
新年明けましておめでとうございます。

 多忙な日々が続いているため、なかなか神社巡りができず、本ブログの更新もできない状態です。
 昨年は日本海岸の「牛頭天王信仰」について調べようと思いましたがかなわず、今年こそは実行しようと思っています。

 さて、年末、カレンダーをもらいましたら、「金神(こんじん)」や「歳徳神」の方位神の絵があり、方位の吉凶について書かれてありました。
 広峯神社の解説では、仏教で牛頭天王といい、神道ではスサノヲノミコトといい。陰陽道では武答神(武答天神)というとのこと。同様に、牛頭天王の奥様は仏教ではハリサイメ(ハリサイジョ)。神道ではクシナダヒメ。陰陽 道では歳徳神とのこと。
「金神」は?




 そもそも、縄文時代から、日本においては神様には「善」(幸い)と「悪」(災い)の両方があることになっていたのですが、時代を経るに従って「分業」されていきました。それは「荒魂」の登場によっても知ることができます。

 しかしながら、民間においては根強く両面性は生き続けていたと思われます。その代表格が「金神」でしょう。

 もっとも、牛頭天王の原点である武答神(武答天神)も両面性をもっていましたが、「御霊会」でもわかるように「悪神(疫病神)」の面が強調されていきました。それをひっくり返し原点に戻したのが『ほき内伝』の牛頭天王像と言えるかもしれません。ところが、それによ って、今度は、巨旦(こたん)が「金神」と同一視され、「悪神」になってしましました。『ほき内伝』には「金神は巨旦大王の精魂なり」と書かれました。「金神」が両面性を取り戻すのは幕末になってからです。しかしながら、「金神」には、牛頭天王にあるようなドラマチックな物語は存在しません。
 また、平安時代より、『百錬抄』(ひゃくれんしょう:平安後期から鎌倉前期にかけての公家の日記)などからもわかるように、権力側はアカデミックな方法で「金神」を調べ,その神性を否定してきました。
「為避金神方云々  二十二日自今以後 不可忌避之由 宣下」(国立国会図書館蔵国史大系第14巻の一部。保元二年十二月の記事より)
「金神方避ける云々 二 十二日今より以後 これを忌避するべからず 宣下す」

 両面性をもった神様として「金神」は民衆の中に生き続けています。神様から両面性の魅力を取り除かない方がいいようにも思えます。「人間に近い存在」となるからかもしれません。

清水区由比桜野の薬師堂・牛頭天王社

2016-05-20 10:48:27 | 日記
清水区由比桜野の薬師堂・牛頭天王社




東海道由比駅と蒲原駅の間の国道76号(東海道広重美術館と延命寺との間の道)を北進し、まず、由比北小学校をめざします。さらに北進。奥田青果倉庫付近のいろいろな表示のある道を左に行きます。「銚子口の滝」の方向を行きますが、ただし、「銚子口の滝」まではいかず、朝日堂をすぎ、桜野茶共同工場手前の道を左に行きます。(小さな橋を渡ります。)桜野の集落の200mくらい先の右側に塔が見えますが、そこにあるのが薬師堂。そして、さらに100mくらい進むと右に曲がる道があり、そこを進むと牛頭天王社。


車で行くのが望ましいと思います。車のない場合は、桜野集落を知っている運転手のタクシー利用がいい と思います。

 江戸時代の、薬師如来の垂迹(化身)としての牛頭天王神と、仏教としての「祇園信仰」を今に伝えています。おそらく、山間部のため、埼玉県の竹寺同様、明治維新政府の通達「牛頭天王類の信仰を禁止した通達」が届かなかったため、牛頭天王社が残ったのでしょう。

 現在、茶の栽培を中心に農業を行っている桜野の人たち。桜野の集落は11世帯。その人たちによって毎年10月お祭りをしているとのことです。薬師堂と牛頭天王社の、今後の管理が心配されます。歴史的建造物としての行政の支援が望まれます。

 由比の町(旧東海道沿い)には国家権力(徳川幕府)と闘った由比正雪の生家があります。この日、帰りに寄ってみました。



迎春 申年にあたり『ほき内伝』作者を想像

2016-01-03 18:48:02 | 日記

 明けましておめでとうございます。

 昨年もあわただしく、なかなか本ブログを更新することができませんでした。今年もそういう状況が続くと思われますが、日本海岸の町の牛頭天王信仰の現状を調べたい気持ちではいます。

 さて、今年は申年。日吉大社の神様山王様のお使いであるサルの年。日吉神社・日枝神社・山王神社の氏子さんたちは喜んでいることでしょう。
 日吉大社は比叡山延暦寺の守り社であるばかりでなく、京都祇園社(現在の八坂神社)を監督・管理する神社でした。日吉大社の宮司を監督・管理していたのは比叡山延暦寺。こうした状況を、京都祇園社の宮司や氏子たちの中には快く思っていなかった者がいたということは十分に考えられることです。
 祇園社は京都に疫病が流行ったとき、伊勢神宮でさえ退散できなかった疫病を退散させました。日吉大社よりも早く「二十二社」(畿内の有名な古社)に選ばれました。にもかかわらず下の地位。
 皇室の庇護を受け絶大な勢力を持っていた延暦寺を頂点とした既成仏教や、天皇制神道を「批判」「超克」するために、祇園社の宮司、または氏子が『ほき内伝』を著したと考えることは単なる妄想ということにはなりますまい。
『ほき内伝』では、既成仏教が「悪神」としていた牛頭天王を「善神」とし、天皇制神道の神々を登場させず、原始神道の神蛇神を登場させ、その進化形である龍神を登場させました。
『ほき内伝』における牛頭天王像が広まるに従い、戦国時代・安土桃山時代を経て天皇 制は歴史の表舞台から消えていきました。
 牛頭天王の威力を語る場合、正妻ハリサイメの父「海の神」龍、側室蛇毒氣神を代表とする「山の神」蛇を抜きには語れないでしょう。





 写真は神奈川の江島神社とその境内社の八坂神社と龍神。 

松本市周辺の牛頭天王信仰

2015-07-28 06:17:38 | 日記
松本市島立(しまだち)の天王祭(裸まつり)

松本駅から松本電鉄に乗り換え大庭駅で降ります。国道158号線(野麦街道)の信号をさらに北上し、堀米公民館(松本市大字島立堀米908-2)をめざします。その近くに津島神社が鎮座。大庭駅から徒歩約10分。

嬉しいことは、島立地区景観整備委員会が裸祭の説明板をつくり「津島牛頭天王社」とこの神社を称していることです。

毎年7月の第1日曜日に地域の少年たちが白ふんどし姿になって「津島牛頭天王」と書いた大きな幟を掲げて地域を練り歩き、疫病退散を願うとのこと。その後、境内わきの池の 中に入って体を清めます。長野県の無形民俗文化財になっている神事です。


岡田神社境内の牛頭 天王石碑

北松本駅より約3km。国道143号線を北上。岡田郵便局の先50mを左折して前進していくと、岡田神社(松本市大字岡田下岡田1395)の案内板が見えてきます。保食神を主祭神とする神社ですが、境内にはいくつもの祠や石碑があります。



そのひとつに「「牛頭天王」と書かれた石碑もあります。

島立の裸まつりの幟や岡田神社の石碑から、松本市周辺においても牛頭天王信仰が根付いていたことがわかります。

松本市の中核的神社は、市民芸術館の隣に鎮座する深志神社(松本市深志3-7-43))。主祭神は諏訪大社の祭神建御名方富命と、天神様と言われている菅原道真。境内の会館には「蘇民将来符」が飾られていました。

深志神社の出している説明文では「津島神社の御分霊をいただいてきて祀られたのが当神社の八坂さま・八坂祭の始まりです。」と述べていて、毎年7月中旬「八坂祭」と称してお祭りをしていることがわかります。当日は「八坂大神」と書かれた幟を持った子どもたちの参拝で境内はにぎわうとのこと。
明治維新政府の「牛頭天応信仰弾圧」により、神社側はいち早く牛頭天王の幟を「八坂大神」の幟に変えたのでしょうが、津島神社の御分霊をいただいたのであれば「津島さま」と言うべきと思われますがそうは言わず「八坂さま」と言うのですから面白いと思いました。