きょうはクリスマス。愛を説くイエス=キリストの誕生日。きのうはイヴということでキルケゴールについてふれましたが、本日も補足をしながら、信仰の本質について述べます。
きのうは、キルケゴールの最大の功績は、人間を「個(主観)」と「共(客観)」と「無」との三つに「心理分析」して、そこには「違い」のあることを認めたということと書きましたが、彼は「自己自身との関係」を繰り返し語っています。もうひとりの自分をつくって自分を見つめると言うことですが、簡単に言ってしまえば自省ということでしょう。心理学的には「自己分化」と言います。
イエス=キリストを自分の理想像としてその理想像に少しでも近づこうと「反省」し「努力」する者が真のクリスチャンと言えるでしょう。自分の心の中のキリスト像と対話し「行動」を起こすことが大切なのです。キルケゴールの信仰観はそういうものだと思います。しかし、考えてみれば当たり前のことで、その当たり前ができていないため、キルケゴールは教会と戦ったのです。
牛頭天王信仰でも同様でしょう。牛頭天王は慈悲を説きます。牛頭天王を心の中に描きその像と対話し、「反省」「努力」して「行動」を起こすことが大切なのです。
信仰の本質は自己分化(自己の理想像と自己の現実の姿との分化)をとおして、「反省」し「努力」して「行動」することです。信仰心に限ったことではありませんが、問題は「理想像=現実の姿」と考えてしまうことです。
①「努力」せず、口先だけの人間になったり
②自分は理想像であると妄想したり
③お賽銭や寄付で理想像が獲得できると思ったりすることです。
御利益を得るのに本当に必要なのは「反省」「努力」「行動」であり、その時にお賽銭・寄付・お題目が活きるのです。この当たり前が分かっていない人があまりにも多い今の日本とも思いますが・・・・・・・。
写真は竹寺(牛頭天王寺院)の出している護符に見られる牛頭天王の御姿です。