牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

浅草橋の須賀神社

2010-12-27 05:29:44 | 日記

 正月用品で賑わう浅草橋。そこの須賀神社は江戸時代は牛頭天王社で、付近には「天王町」があったとのこと。しかし、今、地元でそれを知る人はあまりいないようです。
 現在の須賀神社では「天王祭」「祇園祭」は行われてはおりません。江戸時代には「牛頭天王」と書かれた大きな幟を立てて盛大にお祭りが行われていたことが古文書から分かります。古文書から江戸時代の浅草橋の問屋街の人々の牛頭天王への思いを知ることができますが、「故きを温ねて新しきを知る」・・・牛頭天王を登場させて、イベントを組むと問屋街は一層活気づくかもしれません。


竜ヶ崎市若柴町の八坂神社

2010-12-26 08:31:57 | 日記
写真は若柴町の八坂神社。境内には大師堂・地蔵菩薩と思われる石仏などもあり、神仏習合(神仏混淆)時代のままの境内。宮司は常駐していませんがきれいに掃除されており、管理が行き届いていて、地域の人々の気持ちが伝わってくる神社です。本殿の額には「八坂大神」と書かれていました。7月に「祇園祭り」を行っているとのことです。



牛頭天王信仰と信仰の本質

2010-12-25 06:49:42 | 日記
 きょうはクリスマス。愛を説くイエス=キリストの誕生日。きのうはイヴということでキルケゴールについてふれましたが、本日も補足をしながら、信仰の本質について述べます。
 きのうは、キルケゴールの最大の功績は、人間を「個(主観)」と「共(客観)」と「無」との三つに「心理分析」して、そこには「違い」のあることを認めたということと書きましたが、彼は「自己自身との関係」を繰り返し語っています。もうひとりの自分をつくって自分を見つめると言うことですが、簡単に言ってしまえば自省ということでしょう。心理学的には「自己分化」と言います。
 イエス=キリストを自分の理想像としてその理想像に少しでも近づこうと「反省」し「努力」する者が真のクリスチャンと言えるでしょう。自分の心の中のキリスト像と対話し「行動」を起こすことが大切なのです。キルケゴールの信仰観はそういうものだと思います。しかし、考えてみれば当たり前のことで、その当たり前ができていないため、キルケゴールは教会と戦ったのです。
 牛頭天王信仰でも同様でしょう。牛頭天王は慈悲を説きます。牛頭天王を心の中に描きその像と対話し、「反省」「努力」して「行動」を起こすことが大切なのです。
 信仰の本質は自己分化(自己の理想像と自己の現実の姿との分化)をとおして、「反省」し「努力」して「行動」することです。信仰心に限ったことではありませんが、問題は「理想像=現実の姿」と考えてしまうことです。
①「努力」せず、口先だけの人間になったり
②自分は理想像であると妄想したり
③お賽銭や寄付で理想像が獲得できると思ったりすることです。
 御利益を得るのに本当に必要なのは「反省」「努力」「行動」であり、その時にお賽銭・寄付・お題目が活きるのです。この当たり前が分かっていない人があまりにも多い今の日本とも思いますが・・・・・・・。

 写真は竹寺(牛頭天王寺院)の出している護符に見られる牛頭天王の御姿です。

竜ヶ崎駅の祇園祭

2010-12-25 06:02:20 | 日記
 関東鉄道竜ヶ崎駅(茨城県)から徒歩7,8分のところにある八坂神社。本殿の龍の彫り物がきれいです。この八坂神社では、現在でも「祇園祭」と称し、毎年7月にお祭りを行っています。街の商店街の人々が中心になり、お祭りを盛り上げているとのことで、うれしく思います。 「祇園祭」では無形民俗文化財の「撞舞(つくまい)」が行われ、舞人が14mの柱の上で演技するとのことです。


牛頭天王とキルケゴール

2010-12-24 00:57:13 | 日記
 本日はクリスマスイヴ・・・・・・・・・
 牛頭天王について考える時必ずと言っていいほどわたしの頭をかすめるのは、デンマークの思想家・クリスチャンキルケゴールです。宗教学的に見て牛頭天王とキルケゴールとは全く関係ありません。薬神牛頭天王は仏教の神様で、後に神道の神様スサノヲノミコトと習合するようになり、近世日本を代表する神様となります。
 キルケゴールは、ヨーロッパ近世のキリスト教世界を批判し、新たなキリスト教をめざしました。彼は「単独者」(ひとり・個人)として神の前に立ち、超越者(永遠の生命)になろうとしました。「単独者」という観念をもってきますと、キリスト教会はいらなくなります。彼のキリスト教は無教会派のキリスト教を生むことにもなりました。彼の「単独者」観念は、「個」を重視する「実存哲学」「実存主義」を生むことにもなりました。ヨーロッパの近代哲学・宗教学において、キルケゴールを無視することはできません。
 わたしはキルケゴールの最大の功績は、人間を「個(主観)」と「共(客観)」と「無」との三つに「心理分析」して、そこには「違い」のあることを認めたということです。この「違い=溝」は埋めることができないので、宗教心で「超越」しようとしたのです。ここが、マルクス主義や他の近代合理主義と大きく違うところです。
 わたしは心理関係の仕事に携わっていたことがあるのですが、神経症的症状の治療・心身症の治療など、心の病の治療に一番必要なのは、「個(個的行動)」「共(共同行動)」「無」のバランス感覚で、これはキルケゴールの「心理分析」のおかげだと思っています。そのキルケゴールと薬神牛頭天王とがどうしてわたしの場合結びつくのかというと、キルケゴールの「心理分析」が「精神の病の薬」だからです。20世紀の入って、キルケゴールの「心理分析」は「実存分析」「実存療法」をうむことになります。
 キルケゴールは大金持ちの家に生まれ、豪邸に住み、王族・貴族とつきあうこともできる身分でしたが、くる病でした。くる病が彼を「単独者」としての自覚を持たせるに至ったと考える学者がいます。
 牛頭天王は京都大学附属図書館蔵の『牛頭天王御縁起』によりますと、王家に生まれました。しかし、頭に赤い大きな角をもつ「おそろしい容姿」で、嫁にくる女性がいませんでした。このふたりが「治療」「薬」の役割をもつこととなります。一般に「障害」「異形」と言われる状態が、「治療」「薬」の役割をもつ可能性のあることについて、牛頭天王とキルケゴールは語ってくれているようにも思うのです。

常磐線天王台駅付近の牛頭天王社

2010-12-23 00:25:49 | 日記
 常磐線の駅に天王台駅という駅があります。江戸時代、この付近に牛頭天王社があり、牛頭天王信仰が盛んであったことによりつけられた駅名でしょう。着いてみると、天王台何丁目とか、天王台○○とか、天王台という名がついたところが目立ちます。しかし、その付近には旧天王社はありません。何人かの人に聞きましたが、皆知らないと言います。 
 駅の反対側柴崎地区に行きますと、江戸時代「天王谷」と言われていたところがあって、この付近に天王社があったと思われます。明治時代になって、仏教の言葉で言えば、垂迹たるスサノヲノミコトとして、この地の柴崎神社に合祀されたと思われます。柴崎神社の境内社に八坂神社香取神社があり、それが天王社だったと思われますが・・・・。(写真)
 柴崎神社の入り口の鳥居横には石碑があって、梵字が書かれたり、「羽黒山」などと書かれたりしている石塔があり、江戸時代までは神仏習合(神仏混淆)だったことが分かります。古代よりこの神社は「妙見信仰(みょうけんしんこう=北極星信仰)のお社で、平将門が戦勝祈願したお社でもあり、地元の人々の平将門への思いも感じられます。
 

牛頭天王と東方浄瑠璃世界

2010-12-23 00:24:00 | 日記

 クリスマスが近づいてきました。街にはクリスマスツリーをイメージしたイルミネーションが飾られ、サンタクロースの帽子をかぶって売り子がクリスマスプレゼントを売らんとする姿をよく見かけます。11月から12月25日までは日本はキリスト教国になった感があります。そして、12月31日には除夜の金を聴いて仏教徒になり、その翌日は神社に行って初詣。神道に鞍替えです。ものすごく変わり身の早いこと。こういう国民、民族は他にはないでしょう。もっとも、八百万の神をもつ多神教国家。「現世御利益」のためなら何でも信仰対象にします。この根性はどこから来ているのでしょうか。最近わたしは思うのですが、長い間の「貧しさ」からきているのでないかと・・・。その貧しさが生まれたのは弥生時代以降でしょう。階級格差が大きくなった弥生時代から・・・・・。
 室町時代に日本にやってきた朝鮮使節は日本に乞食の多いことに驚き日記に書いているとのことです。階級格差の大きくなった弥生時代から現在に至るまで、日本の多くの民は「貧しさ」の中に身を置くこととなります。
 わたしたちはよく「西方浄土」という言葉を聞きます。「極楽浄土」は西にあるということですが、それは阿弥陀様を信仰する浄土教・浄土宗・浄土真宗の立場です。薬師様(薬師如来)は「東方浄瑠璃世界」の教主です。「浄瑠璃世界」とは瑠璃色に輝く素晴らしい世界を言い、人形浄瑠璃はそこからうまれた言葉です。お釈迦様がいた頃(縄文時代末期)の「東方」とはどこを言うのでしょうか。日本でしょう。実際に「東方浄瑠璃世界」を語ったのはお釈迦様ではなく、古代中国の仏教徒で彼らがお経に記したのでしょう。
「東方世界」を理想郷と思ったのは、中国の仏教徒だけではありません。孔子様もそうなのです。『論語』子罕《しかん》第九に 「子欲居九夷」とあります。子=先生=孔子のこと。九夷=東方にいる九種の生活レベルの劣った種族。「先生は言った。東方の生活レベルの劣っている民のところに行きたいと。」という意味になると思われます。孔子のいた地域よりも東の方だから中国東部・朝鮮半島・倭国(日本)も含めての多くの種族を言うものと思われます。生活レベルは劣っていても、平和がいいという意味でもありましょう。孔子は春秋戦国時代にいて、もう戦争はこりごりだと思っていたのです。戦争で悲惨な思いをするよりも、貧しいながらも落ち着いて暮らせる方がいいと思って、こんなことを言ったのに違い在りません。
 しかし、近年、日本の縄文時代においては、衣類は貧しくとも、食生活・精神生活は豊かだったことが実証されつつあるようです。階級格差が少なく、他の部族とのトラブルも少なかったことによると思われます。
 以前に書きましたが、牛頭天王の人気が薬師様よりも高まったのは、国分寺の本尊が薬師如来の場合が多かったところからも分かるように、階級格差を進める国家権力が薬師様を「後押し」したためでしょう。薬師様は武士階級・一般民衆から遊離していきました。代わりに牛頭天王が迎えられるようになっていったのです。 古代中国の仏教・儒教ともに「東方」を讃えました。今わたしたちはその「東方」にいるのです。 わたしたちが何を誇りにして何をすべきか見えてくるような気がします。


牛頭天王と帰化人

2010-12-22 05:52:22 | 日記

 稲荷神は織物技術職人部族の秦(はた)氏の氏神と日本の土俗の神様と仏教とが結びついて生まれた神様との説があり、わたしは正しいと思っています。秦氏の祖先が秦(シン)という古代中国の氏族なのか、朝鮮半島からやってきた一族なのか、まだ分からないようですが、わたしは中国からやってきたのではと想像しています。それはとにかくも、織物の神様お稲荷様は、歴史が下るにつれ生産全般の神様に変容・発展していきました。
 牛頭天王も神道・陰陽道・土着の神様と結びついて変容発展していきました。京都祇園地区には帰化人が多くいたと言われています。彼らが外来の牛頭天王と朝鮮からの帰化人神様スサノヲノミコトとを習合させたという説は全くのでたらめと否定はできますまい。
神社にある「狛犬(こま犬)」は「高麗(こま)犬」で、朝鮮からの帰化人の犬への思いを抜きには考えられないでしょう。
 また、神社に必ずと言っていいほどある「鳥居(とりい)」は、古代中国の中南部(呉朝王国があった地域)の部族においてもつわれたとのことです。「鳥居」の原型を古代中国にあることも、でたらめと言って否定することもできないと思います。なにしろ、日本語には「呉朝読み」が多く漢和辞典に載っているくらいです。また、「呉」「呉服」など「呉」は地名・着物として生きています。
 日吉神社・日枝神社・山王神社などの日本の「山王信仰」は、中国の山神と中国仏教とが結びついた「中国における神仏習合」を元に生まれたと考えられます。
 要するに、日本の神道を語る時、帰化人の宗教心を抜きには語れないと思います。
 以前にも書きましたが、牛頭天王のお后は古代中国人が想像した龍の娘であり、牛頭天王の義理の姉は、朝鮮出兵をもくろむヤマト朝廷に抵抗する「ちんりんき」となっているのです。牛頭天王信仰に帰化人の末裔のさまざまな思いを抱くのはわたしだけではないでしょう。

東村山市栄町の八坂神社

2010-12-22 05:43:26 | 日記

 東京の東村山市にある西武線の八坂駅。駅から歩いて5,6分のところに八坂神社があり、その名が駅名にもなったのでしょう。八坂神社の隣に小学校がありますが、その名前も八坂小学校。この八坂神社は土地の人の生活に深く関わってきたと思われます。広い敷地をもつ落ち着いた雰囲気の神社。
 土地の人に聞きますと、「牛頭天王様を祀っています。7月には盛大にお祭りをします。」と言っていました。「牛頭天王」という言葉も浸透しているようです。


八王子市の子安神社の祇園祭

2010-12-21 06:59:38 | 日記
東京都で、牛頭天王に関する駅名は天王洲アイル駅、八王子駅、そして、西武線の八坂駅の三駅でしょう。天王洲アイランド駅には牛頭天王に関する神社はありませんが、以前紹介した、近くの品川の荏原神社には牛頭天王の面が保存されていて、夏の天王祭にはその面をつけた御神輿が披露されるとのことです。
 八王子は、牛頭天王の八人の王子が名前の起源というにも係わらず、八王子まつりには残念ながら牛頭天王に関する催しは行われていません。しかし、JR八王子駅から歩いて4,5分のところにある子安神社では祇園祭を行っています。子安神社、正しくは子安 金刀比羅神社の発行しているパンフレットによりますと「子安祇園祭」と言い、七月の第三土・日・月曜日に、子安神社青年会が中心となり、重量約1トンの御神輿を担いで氏子地域内6キロを練り歩くとのことです。夜は様々なイベントで賑わうとのこと。
 主祭神は木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)で、摂社金刀比羅神社の祭神は大物主命(オオモノヌシノミコト)です。相殿には、仏教の立場に立てば、牛頭天王の垂迹たるスサノヲノミコトも祀っておりますので、祇園祭が行われるわけです。牛頭天王の子どもの名をもつ八王子において、祇園祭、または天王祭が行われないのは寂しいかぎり。「ご先祖様に申し訳ありません」から、子安神社の祇園祭はありがたいことと思う次第です。
 12月に入り、お正月の準備。茅の輪が用意されておりました。


牛頭天王社と蘇民社

2010-12-03 07:17:01 | 日記

 前回紹介した深谷の旧天王社(滝宮神社の境内社八坂神社)は元々は深谷城内にあった社で、室町時代・戦国時代と深谷上杉氏が深く信奉していました。北関東に牛頭天王信仰が広まったのは上杉氏の力によるところが大きいと思われます。深谷まつりはその流れを今も伝えていると言えるでしょう。
 深谷の東の地、栃木県小山市の祇園祭について、江戸時代の『下野国誌』には「当国第一の祇園会なり」と記されているとのことです。「祇園祭」は今も小山須賀神社が中心になって盛大に行われています。室町・戦国時代の深谷上杉氏が牛頭天王信仰の基礎をつくり安土桃山時代を経て、牛頭天王信仰は栃木の民衆の間にも広まったと思われます。
 小山須賀神社の大神輿は日本一の重さで有名ですが、この神社の境内社には関東では珍しく蘇民神社があります。『ほき内伝』やさまざまな『牛頭天王縁起』にもとづいて造られたものと思われます。 以前このブログにも紹介しましたが「蘇民将来之子孫門戸」と書かれた『牛玉宝印』もあり、江戸時代の牛頭天王信仰・蘇民信仰の深さを見ることができます。

牛頭天王と天王様

2010-12-01 09:21:22 | 日記

 遊歩道のベンチで休んでいたら、犬を連れた老女もわたしの横に座って休みました。小春日和のいい天気。おとなしい犬で、犬についてわたしは口を切ったのですが、よくしゃべる老女でこの付近の住民についてなどいろいろ話し出しました。
「お生まれはどちらですか」と訊くと深谷とのこと。
 そこで、「天王様をご存じですか」と訊くと、
「ええ、知っていますよ。でも、天王様と言っても天皇陛下じゃないんです。何と言ったかしら。」
「お祭りの時にお札は配りますか」
「お札は配らなかったと思うけど・・・大きな御神輿が出ましたよ。でも、もう何十年も前のことだから・・・・」
「そのお祭りは 天王祭と言ったんですか」
「天王祭とは言わなかったと思うけど、地元じゃ天王様、天王様と言って有名な神様がいました」
「 何天王なんでしょうねえ」
「忘れました。地元じゃ天王様で、とおっていましたから・・・・」
 太平洋戦争直前のことでしょう。軍部による「国家神道」が強制されていた時代。しかし、深谷の地元でも、天皇陛下とは異なる「天王」が生きていたことが分かりました。