牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

江島神社の弁天様と龍

2010-10-08 08:18:58 | 日記
明治政府の神仏分離施策のため、「弁天様」(仏教の神様)信仰を神社ではしていけないことになりましたが、江の島と言ったら、弁天様。人々は「弁天様」信仰をやめません。神社側も表向きは『古事記』にでてくる三人の女神様を祀っていますが「弁天様」を貫かざるを得ず、現在に至っています。有名なのは乳房をあらわにした裸弁財天=妙音(みょうおん)弁財天で、見学・参拝には入場料がかかります。
 江島縁起には五頭龍が悪事をはたらいていたところ、弁天様が現れて、龍は弁天様に恋して悪事をやめたとのことです。弁天様が裸で現れたとしたら、龍も男たちも弁天様の言うことをききます。龍の恋が実ったのかどうか、共に夜を過ごしたのかどうか分かりません。その後龍は近くでお山に変身。弁天様の登場によって江の島も登場したとのことです。
 蛇の変容形が龍で、弁天様と同様、水の神様。龍と弁天様の関係をよりわかりやすくしたのが江島縁起ですが、弁天様が妊娠して娘を産んだことにはなっていません。弁天様が婆梨采女を産んだとすると、龍は龍王となり、牛頭天王との関係にまとまりが出てきますが・・・・・・。それはとにかくも、龍の存在と関係してでしょう。龍王の娘と結婚したのが牛頭天王ですから、境内には、牛頭天王を祀る天王社ができました。造立は江戸時代になってからのことと思われます。今は八坂神社となっていますが、夏には「天王祭」が盛大に行われています。
 神社の中にはいくつものお社がありますが、最初のお社の前には、現在大きな「茅の輪」が置かれてます。牛頭天王信仰の影響と思われます。

牛頭天王信仰の発展(歴史的事実をとおしてのまとめ)

2010-10-08 00:08:48 | 日記
 いろいろ書いてきましたが、あまりにも広がりすぎた感があります。ここいらで、歴史的事実と照らし合わせながら、牛頭天王信仰の発展を私なりにまとめてみようと思います。
 奈良時代の遣唐使吉備真備(きびのまきび)の創建によるとされる広峯神社は、京都八坂神社と共に「牛頭天王総本社」と称してきたようですが、主祭神は「農業神」としてのスサノヲノミコトで広峯神社もそれを記しています。「薬神」の牛頭天王との結びつきは、どう考えても厳しい。後世「スサノヲノミコト=牛頭天王」という習合が「定着」してから広峯神社側が牛頭天王を取り入れたのではないでしょうか。
 平安時代前期、僧円如が広峯神社の分霊を京都にもたらしたというのですが、それも牛頭天王ではなく、スサノヲノミコトの霊と考えます。円如はいろいろな神様の御利益を得ようとして、いろいろな神様を京都に招くことにしたのでしょう。その近くに、藤原基経が祇園寺を建立したとのことです。彼も、いろいろな神様の御利益にあやかろうとして、いろいろな神様(聖者)のいる祇園精舎のような寺院を建立することにしたのでしょう。もっとも神仏習合がまかりとおっていた時代ですから、仏教の仏様か、神様との習合は考えられます。しかし、スサノヲノミコトと牛頭天王とでは、距離感があり難しいと思います。「薬神」の牛頭天王が習合されるのであれば、「薬神」のオオクニヌシノミコトの方でしょう。スサノヲノミコトと牛頭天王とが習合されるにあたっては「つじつま合わせ」の時間が必要な気がします。
 平安時代中期になって祇園寺は祇園天神堂、祇園感神院として発展したようですが、祇園精舎のように多くの神様のいる場所だったと想像します。
 ところが、藤原氏の私利私欲に満ちた政治は、京都の町の治安を悪くして、地方でも反乱が起きるようなり、武士たちが台頭していきました。平安末期になると、もう、京都は戦場となりました。寺院・社は焼けることもたびたびありました。それまで祀ってきた神様に対して懐疑的になり、御利益がないと言うことで「解雇」される神様も出たと思うのです。祇園社に最後まで残ったのは、スサノヲノミコトと牛頭天王だったのではないでしょうか。ふたりの神様がすでに習合されていたとはわたしには考えられないのですが・・・・・。
 当時の人々は、「農業神」スサノヲノミコトは『古事記』では大蛇を退治したことになっているのでその話を担ぎ出し、「薬神」牛頭天王は「牛頭人身」の神様と言うことにして、共に「力強く怖い仁王様のような神様」にしたて結びつけたのかもしれません。または、牛は農業に使われ、その牛の神様が牛頭様で、牛を守ると共に牛の労働を司る神様ということで、「農業神」スサノヲノミコトとむすびつけたのかもしれません。基本的に無理があるとしても、仮にそのように考えると、世に言う「源氏と平氏の戦い」の時代に、藤原氏の力は衰え、天皇家の力はすでに衰えていて、何を価値に置いていいか分からなくなったこの時代に、京都においては、「牛頭天王=スサノヲノミコト」像が誕生したこととなります。
 そうだとしても、京都の貴族や武士たちの信仰は「浄土教」が主で、牛頭天王信仰はまだ誕生したばかりで、人気はなかったのでしょう。
 鎌倉時代に入ると、浄土宗・浄土真宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗など鎌倉新仏教の人気が高まりました。それでも、牛頭天王信仰は少しずつ中国地方・関東地方へと向かいました。
 鎌倉時代末期、幕府が元寇で活躍した武士たちに褒美をあげることができませんでした。土地を奪ったり、金銀を獲得したわけではない戦いでしたから。幕府の権威が衰えました。 鎌倉幕府が滅び南北朝時代になりました。この時期天皇家が分裂したのです。再び戦乱の世となりました。鎌倉新仏教への幻想も衰え出し、何を価値に、何を支えにしたらいいのか分からなくなったと思われます。こうした状況の中で卜部兼方によって『釈日本紀』が書かれました。
 そこには、「備後国風土記逸文」として、武搭神と武搭神を泊めた貧しい蘇民将来の物語があります。蘇民の弟は富んでいたのですが武搭神を泊めなかったので、武搭神は怒り、弟の家に嫁に行っている蘇民の娘に「茅の輪」を腰につけるように言いました。武搭神は「茅の輪」のない者を皆殺しにしたというのです。そして、言いました。「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり」と。この話は卜部兼方のでっち上げかもしれません。しかし、これによって、「茅の輪」の御利益と牛頭天王とが結びつくことになり、こころの支え・価値の分からなくなった時代に、関西・山陽・関東において牛頭天王への期待感が高まっていったと思われます。 
 室町時代に入っても南北朝の戦争は続き、南北の合一ができてしばらくすると、今度は応仁の乱です。日本中の守護大名が東西に別れて戦いました。この時期、関東においては、関東管領の上杉憲房が牛頭天王信仰の熱心な信者になったと言います。また、少し前に、埼玉の深谷城の上杉氏も牛頭天王を城内に祀り熱心な信者になったと言います。
 応仁の乱の後は戦国時代です。「裏切り」「下克上」が当たり前の時代、死が日常茶飯事のこととして現れる時代に、「薬神」牛頭天王は武士たち・農民のこころの支えとなり、その人気は全国的拡がりを見せていったと思われます。この時期の古文書に信濃国分寺が所蔵する『牛頭天王之祭文』があります。この古文書では牛頭天王と武搭神とが同一ではなく、別になって書かれています。「・・・牛頭天王婆梨采女武荅天神八王子蛇毒気神王等・・・・」と。また、「茅の輪」でなく「札」に変わっています。
 安土桃山時代、キリスト教の伝来によって牛頭天王人気の低迷もあったと思いますが、江戸時代前期には、武搭神との関係もはっきりして、牛頭天王像が確立したと思われます。この時代の古文書として、京都大学付属図書館蔵の『牛頭天王御縁起』があります。武搭神は牛頭天王の父親となりました。「札」は出てきません。大切なのは「お唱え」ということで、その仕方について書かれています。
 江戸幕府は、キリスト教への弾圧、幕府より日蓮を重んじる日蓮宗への弾圧を強めました。そういうことも関係して、牛頭天王は信仰のトップに躍り出たと思われます。全国の村々で天王祭・祇園祭が催されるようになりました。
 天皇の権威が衰え、歴史の表舞台から姿を消すようになると、それと反比例するかのように庶民の力が伸びてゆき、牛頭天王の人気も高まったと言えます。牛頭天王は、医者のいない時代、いても高額な医療費のかかった時代の無料診療のような役割を果たしたと言ってもいいのではないでしょうか。牛頭天王は「牛頭天皇」と書かれることもあり、多くの下級武士や庶民は思っていたことでしょう、「日本に天皇あり。名を牛頭天皇と云ふ。」
 王政復古の明治時代、牛頭天王を名指しで排除しようとしたのは、当たり前と言えば当たり前でした。それだけ人気があったのですから。しかし、神社の名前が変わった後も、地元の人々にとっては、「天王様」は「牛頭天王様」であり、「天皇陛下」ではなかったのです。