牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

牛頭天王と薬師如来

2010-10-24 00:13:43 | 日記
 薬師如来が飛鳥時代後期(白鳳時代)を代表する建造物であることは広く知られています。飛鳥時代前期を代表するものが法隆寺であることも、次の奈良時代を代表するものが東大寺であることも知られています。これらの寺院は国家権力によってつくられた寺院であり、そこに祀られている仏様・神様は、国家権力のための仏様・神様であることを当時の人たちには分かっていたと思います。聖武天皇は仏教による国家統一を進め、全国に国分寺を造ることも命じました。これらは一般民衆の重税の上にさらに追い打ちをかけるように造られたのです。
 国分寺の仏様は多くの場合、薬師如来像です。薬師如来像は飛鳥時代より、国家権力のための仏像だったのです。ところが、飛鳥時代後半ものすごいことが起きました。ヤマト朝廷は唐・新羅の連合軍と戦い、大敗を喫したのです。世に言う「白村江の戦い」です。薬師如来像の「御利益」なく、日本兵は悲惨な状態で死んでいきました。この時点で、国家権力の宣伝する薬師如来像の「御利益」については下級豪族には疑問視されたと思います。「白村江の戦い」後、日本を二分する「壬申の乱」が生じ、たくさんの豪族や手下たちが悲惨な死を遂げました。薬師如来像の「御利益」はここでも疑われたと思われます。にもかかわらず、権力者たちは薬師如来像を本尊にする薬師寺の建造、さらに奈良時代になって国分寺建造を始めたのです。
下級豪族たち(のちの武士団)が、表向きの顔は別にして、本心から薬師寺や国分寺の「御利益」を期待したとは思われません。国分寺は「仏教伝搬」という目的の他に、中央権力が「地方の情勢を把握する」という目的ももっていたと思われます。地方の下級豪族(のちの武士団)にとって、場合によっては「目の上のたんこぶ」だったに違いありません。いざ戦となったら、「国分寺周辺は仏様がいらっしゃるところだから戦場にするのはよくない」という観念なんぞすっとんで、戦場となり跡形もなく消え去るという事態が生じる場合もありました。それが武蔵国分寺で、今は跡地(原っぱ)としてしか見ることができません。もっとも、新田義貞が再興のために努力したようですが・・・・。
 要するに、多くの下級豪族や一般民衆は、「御利益のない」飛鳥時代からの国家権力のつくった薬師如来像でなく、新たな薬神を求めたと思います。その要求に答えてくれたのが牛頭天王だったと思われます。牛頭天王の本地は薬師如来ですが、そんなことはおかまいなしに、牛頭天王は、武士団・一般民衆に、薬師様とは「別存在」として、強い支持をうけることとなるのです。何も薬師様が悪い訳でなく、無謀な戦争と重税の中での寺院建立が悪かったのですが・・・。
 ところで、「一般民衆向け」の薬師如来信仰もあり、地域によっては薬師如来を支えに暮らしていた人々もいたことを否定することはできません。東京の新井薬師もそういった期待に沿った寺院と思われます。新井薬師について言えば、一般民衆の中に入っていった弘法大師様の「徳」がこの寺院への人々の信仰心を強めたといえるのではないでしょうか。