『續羣書類従』(第參輯上神祇部巻五十六)に見る祇園社
(昭和7年東京續羣書類従完成会発行。近代活字本)
祇園社。
貞観年中。南都沙門圓如上人造立之。
・・・・・
元慶三年。被寄附堀川十二町云。
以流爲神領之敷地。・・・・・
疾疫疱瘡起了。
天下貴賤尊卑迷于方術。
神祇官陰陽寮ト奉之所指。
依爲辰巳角之御崇。
雖發遣 勅使伊勢太神宮。
無其滅之間。重雖被進稲荷社。
又以無其滅之間。以 勅使被尋
辰巳方神之處。祇園社御坐之由。
依經奉聞。被發遣 勅使之處。
於當社被奉献官幣。於寶前。相當。
疾疫忽除却。疱瘡無爲。叡感之除。
(読み下し文)
祇園社。
貞観年中。南都沙門圓如上人之(これ)を造立す。
・・・・・
元慶三年(西暦879年)、寄附されしは堀川十二町と云う。
以(も)って流れて、神領之敷地爲(な)る。・・・・・
疾疫疱瘡起れり。
天下貴賤尊卑迷いて于(ここに)方術す。
神祇官陰陽寮ト(りょうぼく=占い役人)之(これ)を奉る所指す。
依(よ)りて辰巳角之御崇(おんたたり)と為す。
勅使を伊勢太神宮に發遣すと雖(いえど)も、
其(その)滅ぶ之間無し。
重ねて稲荷社に進まれると雖(いえど)も、
又以(またもって)其(その)滅ぶ之間無し。
以 勅使、辰巳方神之處(ところ)を尋ねらるるに、
祇園社御坐之由(よし)。
依經奉聞(ほうぶん=天皇のお耳に入れる)を経るに依(よ)りて、
勅使を發遣さるるの處(ところ)、當社に於(お)いては
官幣(国が経済的に保障する)を献じ奉らるる。
寶前に於(お)いては、相當なり。
疾疫忽(そう)じて除却す。疱瘡無く爲(な)る。
叡感(えいかん=天皇が感心する)之除なり。
(考察)
大意を述べれば次のようになりましょう。880年代と思われますが、
「京都において疱瘡(ほうそう)の伝染病がはやり人々が困り果てていた。
陰陽道の占いによると、辰巳の方角の御崇りとのことで、
伊勢神宮に勅使を派遣したが、疱瘡伝染病は無くならなかった。さらに、稲荷社にも行ったが
ダメだった。辰巳の方角の神を勅使が尋ねたところ、祇園社があり、
天皇に御話して祇園社を官幣社にして相当のものを捧げることにした。すると、
疱瘡は無くなり天皇が感心するほどであった。」
天皇家の先祖を祀る伊勢神宮に行っても、また稲荷神社に行っても疱瘡は退散しなかったというのです。辰巳の方角にある祇園社の「格」を上げて相当の御供え物をもっていったところ疱瘡は退散したというのです。ここにおいて、祇園社は一躍有名になったわけです。
しかし、ここには祇園社の神様については具体的には触れていません。また、何が原因した「御崇り」かは分りません。「支配階級側が祇園社を軽視していたことへの神の崇り」ということなのでしょうか?
(昭和7年東京續羣書類従完成会発行。近代活字本)
祇園社。
貞観年中。南都沙門圓如上人造立之。
・・・・・
元慶三年。被寄附堀川十二町云。
以流爲神領之敷地。・・・・・
疾疫疱瘡起了。
天下貴賤尊卑迷于方術。
神祇官陰陽寮ト奉之所指。
依爲辰巳角之御崇。
雖發遣 勅使伊勢太神宮。
無其滅之間。重雖被進稲荷社。
又以無其滅之間。以 勅使被尋
辰巳方神之處。祇園社御坐之由。
依經奉聞。被發遣 勅使之處。
於當社被奉献官幣。於寶前。相當。
疾疫忽除却。疱瘡無爲。叡感之除。
(読み下し文)
祇園社。
貞観年中。南都沙門圓如上人之(これ)を造立す。
・・・・・
元慶三年(西暦879年)、寄附されしは堀川十二町と云う。
以(も)って流れて、神領之敷地爲(な)る。・・・・・
疾疫疱瘡起れり。
天下貴賤尊卑迷いて于(ここに)方術す。
神祇官陰陽寮ト(りょうぼく=占い役人)之(これ)を奉る所指す。
依(よ)りて辰巳角之御崇(おんたたり)と為す。
勅使を伊勢太神宮に發遣すと雖(いえど)も、
其(その)滅ぶ之間無し。
重ねて稲荷社に進まれると雖(いえど)も、
又以(またもって)其(その)滅ぶ之間無し。
以 勅使、辰巳方神之處(ところ)を尋ねらるるに、
祇園社御坐之由(よし)。
依經奉聞(ほうぶん=天皇のお耳に入れる)を経るに依(よ)りて、
勅使を發遣さるるの處(ところ)、當社に於(お)いては
官幣(国が経済的に保障する)を献じ奉らるる。
寶前に於(お)いては、相當なり。
疾疫忽(そう)じて除却す。疱瘡無く爲(な)る。
叡感(えいかん=天皇が感心する)之除なり。
(考察)
大意を述べれば次のようになりましょう。880年代と思われますが、
「京都において疱瘡(ほうそう)の伝染病がはやり人々が困り果てていた。
陰陽道の占いによると、辰巳の方角の御崇りとのことで、
伊勢神宮に勅使を派遣したが、疱瘡伝染病は無くならなかった。さらに、稲荷社にも行ったが
ダメだった。辰巳の方角の神を勅使が尋ねたところ、祇園社があり、
天皇に御話して祇園社を官幣社にして相当のものを捧げることにした。すると、
疱瘡は無くなり天皇が感心するほどであった。」
天皇家の先祖を祀る伊勢神宮に行っても、また稲荷神社に行っても疱瘡は退散しなかったというのです。辰巳の方角にある祇園社の「格」を上げて相当の御供え物をもっていったところ疱瘡は退散したというのです。ここにおいて、祇園社は一躍有名になったわけです。
しかし、ここには祇園社の神様については具体的には触れていません。また、何が原因した「御崇り」かは分りません。「支配階級側が祇園社を軽視していたことへの神の崇り」ということなのでしょうか?