牛頭天王信仰とその周辺

牛頭天王(ごずてんのう)信仰とそれに関係する信仰や情報を紹介するブログです。

『續羣書類従』に見る祇園社

2012-07-19 08:18:43 | 日記
『續羣書類従』(第參輯上神祇部巻五十六)に見る祇園社
(昭和7年東京續羣書類従完成会発行。近代活字本)

祇園社。
貞観年中。南都沙門圓如上人造立之。
・・・・・
元慶三年。被寄附堀川十二町云。
以流爲神領之敷地。・・・・・
疾疫疱瘡起了。
天下貴賤尊卑迷于方術。
神祇官陰陽寮ト奉之所指。
依爲辰巳角之御崇。
雖發遣 勅使伊勢太神宮。
無其滅之間。重雖被進稲荷社。
又以無其滅之間。以 勅使被尋
辰巳方神之處。祇園社御坐之由。
依經奉聞。被發遣 勅使之處。
於當社被奉献官幣。於寶前。相當。
疾疫忽除却。疱瘡無爲。叡感之除。

(読み下し文)
祇園社。
貞観年中。南都沙門圓如上人之(これ)を造立す。
・・・・・
元慶三年(西暦879年)、寄附されしは堀川十二町と云う。
以(も)って流れて、神領之敷地爲(な)る。・・・・・
疾疫疱瘡起れり。
天下貴賤尊卑迷いて于(ここに)方術す。
神祇官陰陽寮ト(りょうぼく=占い役人)之(これ)を奉る所指す。
依(よ)りて辰巳角之御崇(おんたたり)と為す。
勅使を伊勢太神宮に發遣すと雖(いえど)も、
其(その)滅ぶ之間無し。
重ねて稲荷社に進まれると雖(いえど)も、
又以(またもって)其(その)滅ぶ之間無し。 
以 勅使、辰巳方神之處(ところ)を尋ねらるるに、
祇園社御坐之由(よし)。
依經奉聞(ほうぶん=天皇のお耳に入れる)を経るに依(よ)りて、
勅使を發遣さるるの處(ところ)、當社に於(お)いては
官幣(国が経済的に保障する)を献じ奉らるる。
寶前に於(お)いては、相當なり。
疾疫忽(そう)じて除却す。疱瘡無く爲(な)る。
叡感(えいかん=天皇が感心する)之除なり。

(考察)
大意を述べれば次のようになりましょう。880年代と思われますが、
「京都において疱瘡(ほうそう)の伝染病がはやり人々が困り果てていた。
陰陽道の占いによると、辰巳の方角の御崇りとのことで、
伊勢神宮に勅使を派遣したが、疱瘡伝染病は無くならなかった。さらに、稲荷社にも行ったが
ダメだった。辰巳の方角の神を勅使が尋ねたところ、祇園社があり、
天皇に御話して祇園社を官幣社にして相当のものを捧げることにした。すると、
疱瘡は無くなり天皇が感心するほどであった。」

 天皇家の先祖を祀る伊勢神宮に行っても、また稲荷神社に行っても疱瘡は退散しなかったというのです。辰巳の方角にある祇園社の「格」を上げて相当の御供え物をもっていったところ疱瘡は退散したというのです。ここにおいて、祇園社は一躍有名になったわけです。
 しかし、ここには祇園社の神様については具体的には触れていません。また、何が原因した「御崇り」かは分りません。「支配階級側が祇園社を軽視していたことへの神の崇り」ということなのでしょうか?



江の島天王祭

2012-07-08 20:51:37 | 日記
 江の島の江島神社の境内社八坂神社と、「となりの街」の小動神社の合同祭礼です。
 わたしは残念ながら午後3時以降に江の島に着いたため、海上渡御は見ることができませんでした。
 小動神社と八坂神社の御神輿はすでに小動神社鳥居の向かいの道に来ており、神事が行われていました。なかなか厳格な儀式で、宮司さんの祝詞の後、各地区の代表の人たちが御神輿に礼をつくします。







 江の島海岸は海水浴場です。夏に入り商店としては海水浴客を相手に忙しい時ですが、こういう伝統的儀式やお祭りを地域全体で守り、しかも、隣の市の神社と合同で行っているということは、まことにすばらしいことと思いました。
 子どもたちもそろいの衣装を着て参加しています。


 お祭りの出店のある通りの近くを江の電がゆっくりと走っていきます。今の日本が見失ってしまった風景をまだ江の島付近は残しているという印象をもちました。

『羣書類従』に見る牛頭天王②

2012-07-07 01:21:35 | 日記



『羣書類従』の「二十二社註式」祇園社の項の前回の続き。

『羣書類従』の「二十二社註式」(国立国会図書館蔵、木版原板巻二十二。四十七。 ただし、国立国会図書館デジタル化資料番号では第23冊~25冊[147]の139祇園社)(「異体字は現代の文字に変換してあります。)

人皇六十一代朱雀院承平五年六月十三日官符
云應 以観慶寺為定額寺事字祇園寺在山城國愛宕郡
八坂郷地一町 檜皮葺三間堂一宇在庇四面 檜皮葺三
間禮堂一宇在庇四面 安置薬師像一体 脇士菩薩像二
体 観音像一体 二王混頭盧一身躰 大般若経一部六
百巻 神殿五間檜皮葺一宇 天神婆利女八王子五
間檜皮葺禮堂一宇 右得山城国解你故常住寺十
禅師傳燈大法師位圓如去貞観年中奉為建立也
或云昔常住寺十禅師圓如大法師依託宣第五十
六代清和天皇貞観十八年奉移山城國愛宕郡八
坂郷樹下 其後藤原昭宣公感威験壊 運臺宇建立
精舎今社壇是也
第六十四代圓融院治五年天延二年三月被官符
圓融院以愛宕郡観慶寺感神院為延暦寺別院事
第六十四代圓融院天禄三年以祇園社為日吉末


   祭禮
同圓融院天禄元年六月十四日始御霊會自今年
行之

(読み下し文)
人皇六十一代朱雀院承平五年(西暦935年)六月十三日 官符に
云ひて應ふる 観慶寺を以(も)って定額寺(官に保護された寺)と為(な)す事 字(あざ=あだな)祇園寺  山城國愛宕郡八坂郷に在りて地一町なり 檜皮葺三間堂一宇(宇は大きいことを表す言葉)なり 庇(ひさし)四面在り  檜皮葺三間禮堂一宇なり 庇四面在り 薬師像一体 脇士(きょうじ)菩薩像二体 観音像一体 二王混頭盧一躰を安置す  大般若経一部六百巻なり 神殿五間檜皮葺一宇なり 天神婆利女八王子五間檜皮葺禮堂一宇なり 右を得るに 山城国が解你(よいと理解)し 故に常住寺十禅師傳燈大法師の位の圓如 去貞観年中に奉じて建立為す也  或いは云う 昔常住寺十禅師圓如大法師 託宣に依(よ)りて 第五十六代清和天皇貞観十八年に奉じて 山城國愛宕郡八坂郷
樹下に移す 其の後藤原昭宣公感威験ありて運臺宇壊し 精舎建立す 今の社壇は是也
第六十四代圓融院(円融天皇)治五年 天延二年三月 官符被り 以って愛宕郡観慶寺感神院は延暦寺別院と為す事
第六十四代圓融院天禄三年 祇園社を以って日吉末社と為す

   祭禮
同圓融院天禄元年六月十四日 御霊會を始め 今年より之(これ)を行ふ

(考察)
前回も述べましたが、上記の内容が「歴史的事実」かどうかは分りません。
1.この文面から、祇園社が当初は神社でなく仏教寺院であったことが分ります。延喜式神社に祇園社の名がないのは仏教寺院だったから、これについては「歴史的事実」と思われます。ただ、どんな如来像や菩薩像や天王・明王像を安置したかは、この文面をそのまま信じることはでいないと思います。ここには「牛頭天王」が登場していません。かわって、武答天神かもしれません、菅原天神かもしれません、「天神」様が登場します。江戸時代の学者たちは「天神=牛頭天王」と解釈していたのでしょう。わたしもそのように解釈したいのですけれど、これについてはなんとも言えませんし、安置されていた仏像についてもそのまま「歴史的事実」としては受け入れることはできないでしょう。

2.祇園社が比叡山延暦寺の別院だった、また、日吉大社(日吉大社は比叡山延暦寺の守護神社でした)の末社であったことが書かれてあります。これは「歴史的事実」と思われます。延暦寺の僧兵が強訴する場合、日吉大社や祇園社の神輿を利用したとの古文書があるとのことですので・・・。

3.
前回の内容をふくめて、仮に認めてまとめてみますと、
①清和天皇時貞観18年(西暦876年)頃に八坂郷に樹下に一応寺院が立てられた。しかしそれは藤原昭宣の感じるところがあり壊され、新たに精舎ができたこと。
②陽成(ようぜい)天皇の元慶年中(西暦880年頃までには)感神院ができたこと。
③朱雀(すざく)天皇の承平5年(西暦935年)に官立寺院になったこと。
④円融天皇の天禄3年(西暦972年)に日吉大社の末社になったこと。
⑤円融天皇の天延2年(西暦974年)に延暦寺の別院になったこと。
*本文では④と⑤の記載の順が変わっています。
*本文とは直接関係ありませんが、平将門が朝廷に直接「叛旗」を翻したのは西暦939~940年です。(それより以前から将門は一族らと闘争を展開していますが・・・)
*本文には書かれていませんが、西暦995年に、感神院(祇園社)は「二十二社」(近畿地方における有名神社)になったとこのとです。

延暦寺の監督下、日吉神社の末社的存在だったとしても、祇園社は武士の台頭とともに「成長」していくことを知ることができるかもしれません。

『羣書類従』に見る牛頭天王①

2012-07-06 03:34:11 | 日記


『羣書類従』・・・一般には『群書類従』と書かれます。

 江戸時代の学者塙保己一は、それまでにつくられた「物語」「和歌」「寺社」などについて調査し『羣書類従』にまとめようとしました。文献・資料はあまりにも多く、まとめるにあたっては、彼の死後も続けられました。
 彼は全盲に近い「視覚障害者」での身で、『羣書類従』の編纂に全勢力を費やしたと言っていいでしょう。現埼玉県の誇るべき人物であり、全世界の「障害者」に勇気を与えつづけていると言っていいでしょう。
 『羣書類従』には「言い伝え」も多く書かれているため、「歴史的事実」とは異なるとはいうものの、当時の人々はここに書かれていることを信じ、それに基づいて行動したことは事実でしょうし、そのことが重要と思います。
 彼の業績は『羣書類従』を読みやすくするために、一枚400文字(20字×20字)にしたことであり、今日の「原稿用紙の祖」と言うことができます。
『羣書類従』の「二十二社註式」(国立国会図書館蔵、木版原板巻二十二。四十七。 ただし、国立国会図書館デジタル化資料番号では第23冊~25冊[147]の138祇園社)には、祇園社と牛頭天王について次のように書かれています。(「異体字は現代の文字に変換してあります。)

     祇園社  延喜神祇式曰山城国愛
            宕郡祇園神社式外三座

牛頭天皇初垂跡於播磨明石浦移廣峯其後移北
白河東光寺其後人皇五十七代陽成院元慶年中
移感神院
西間 本御前 竒稲田媛垂跡一名婆利
    女一名少将井脚摩乳手摩乳女
中間牛頭天皇号大政
   所進雄尊垂跡
東間蛇毒氣神龍王
   女今御前也

(読み下し文)  
     祇園社   延喜神祇式に曰く 山城の国愛宕郡祇園神社  式外三座

牛頭天皇 初めて 播磨明石浦に於(お)いて 垂迹し(現実存在として現れ) 廣峯に移る 其の後北白河東光寺に移り 其の後人皇五十七代陽成院(陽成天皇)元慶年中(西暦880年頃)感神院に移る

西間 本御前(正妻) 竒稲田媛(クシナダヒメ)の垂跡なり 一名婆利女(ハリメ) 一名少将の井 脚摩乳手摩乳女(アシナヅチテナヅチメ)
中間 牛頭天皇 大政所と号する  進雄尊(スサノヲノミコト)の垂迹なり
東間 蛇毒氣神(ダドクケシン) 龍王の女(娘)  今御前「牛頭天王のもうひとりの妻)也


(考察)
1.牛頭天王は江戸時代までは「牛頭天皇」と書かれることもあったことが分かります。これが明治維新政府から反感をもたれた一因とも思われます。

2.「式外三座」とあり、はじめ祇園社は延喜式内神社(大神社)ではなかったことが分かります。理由は次回にも述べますが、感神院は「仏教の研修所」であり、設立当初は寺院と見なされていたからでしょう。

3.東間に龍王の娘蛇毒氣神を祀り、今御前(もうひとりの妻)としていました。毒蛇を妾に迎えているのです。この毒蛇はヤマタノオロチの霊(または精魂)ではないかと言われてきたようですが、それについて『羣書類従』は説明していません。とにかくも、江戸時代においては、牛頭天王と婆利女と蛇毒氣神が、祇園社において祀られていたのは確かです。『羣書類従』の編纂された時代、その時代の神社の祭神までウソを書くことはできますまい。行けばウソだと分かってしまうことですから・・・・。

4.『古事記』には、娘(クシナダヒメ)がヤマタノオロチに食べられるということで泣いている老夫婦が登場します。。この老夫婦が「アシナヅチ」と「テナヅチ」であり、その娘だからクシナダヒメは「アシナヅチテナヅチメ」なのですが・・・・・。
「アシナヅチ」を「足のない」と解釈し、「テナヅチ」を「手のない」と解釈したのは民間の民俗学者吉野裕子でした。彼女は古代の「クシ」は「ヘビの頭」ににているという想像力も発揮させて、この親娘が「ヘビ」であることも述べています。
 わたしはこの解釈は正しいと思っています。さらに付け加えるならば、古代において「チ」は「ムシやヘビ」も指す言葉でした。ヘビは漢字でも「虫へん」です。
「足のない虫」「手のない虫」、すなわち「ヘビ」の娘だから、クシナダヒメも「ヘビ」なのです。「ヘビ」が「オロチ」以上に巨大化したのが「龍」と考えていいかもしれません。
 ヤマト朝廷側は『古事記』における「ヤマタノオロチ退治」の話のように「ヘビ」を悪者にしているのですが、肝心の『出雲風土記』にはヤマタノオロチ退治の話は見られません。『羣書類従』の祇園社の項において、編者の意図とは別に、原始日本の「ヘビ信仰」や、中国仏教における「龍信仰」とも関連させて、牛頭天王信仰を述べているという点が面白いと思います。

5.『羣書類従』に書かれていることは、最初に述べたように、「言い伝え」「聞き伝え」を書いたと思われる内容もあることから、「歴史的事実」とは区別しなければなりません。
「牛頭天皇初垂跡於播磨明石浦移廣峯 其後移北白河東光寺 其後人皇五十七代陽成院元慶年中移感神院」については、京都八坂神社は「歴史的事実」として認めていないとのことです。
「歴史的事実」はどうあれ、当時の人たちはこれを信じ、行動のよりどころとしたのは事実でしょう。


東京都あきる野市周辺の牛頭天王信仰④折立八雲神社

2012-07-03 07:04:46 | 日記

  折立八雲神社
  あきる野市草花1880


 JR青梅線福生駅を下りて国道29号を多摩川の方に行き永田橋を過ぎたところの道を右に曲がり「土屋自動車板金塗装」の所を山に向かって入っていきます。大澄山のふもとにあります。隣が折立会館です。車での訪問となりましょう。
 小さい神社ですが、この付近の神社には珍しい形の屋根をしています。
 社殿の横に石塔が割れて倒れたままになっていました。割れているとはいえ石塔の側面に刻まれた文字を見ることができました。「牛頭天王」と書かれています。修復してもらいたいものです。地元の古老の中にはこの社を「天王様」という人がいるとのことですが、この社がかって「牛頭天王社」だったことを知っている人は少ないようです。


東京都あきる野市周辺の牛頭天王信仰③野辺八雲神社

2012-07-02 03:44:50 | 日記

  野辺八雲神社
  あきる野市野辺316


 JR五日市線東秋留駅を国道7号に向かって南下。小川交差点近くのコンビニスリーエフのところの道を入って最初に見える道を曲がります。駅から徒歩ですと15分くらいと思われます。広い境内には日枝神社などの境内社があります。由緒書にはかっては牛頭天王社だったことが書かれています。湧き水はたいへんきれいで「東京の名湧水」に選定されています。
 お祭りは「天王祭」「祇園祭」としては行われていないようで、毎年7月に「例大祭」「夏祭り」として行われているようです。牛頭天王の名を知る人は、この地域でも減ってきているようです。



東京都あきる野市周辺の牛頭天王信仰②引田八雲神社

2012-07-02 03:38:00 | 日記
引田八雲神社   
   あきる野市引田776



 JR五日市線武蔵引田駅から徒歩20分くらいのところにあります。国道7号線に出て原店信号に向かい、そこを秋川に向かって南下します。
 あきる野市教育部生涯学習推進課の神社紹介サイトの説明によれば、16世紀に志村肥前守景元が当地を領していたころ津島牛頭天王社を勧請したとのことです。広い境内はきれいで、遊具もあり、地域に開放された神社になっています。
 境内にはいくつもの境内社があります。一体の石塔は半ばかけていましたが、そこに刻まれた文字を読むことができました。石塔の側面(4面)には「愛宕権現」などそれぞれ神仏の名が刻まれていて、ひとつの面には「牛頭天王」の文字も刻まれていました
「天王祭」「祇園祭」という名でお祭りは行われていません。「三社祭」「例大祭」が毎年4月に行われているとのことです。




東京都あきる野市周辺の牛頭天王信仰①二宮神社天王祭

2012-07-01 08:53:20 | 日記
二宮神社
あきる野市二ノ宮2252
JR五日市線東秋留駅下車徒歩4,5分。

 
 由緒ある神社で、武蔵国の六社のうちの一社です。主祭神は 国常立尊(くにとこたちのみこと)ですが、古くは「小川大明神」と言われていました。広い境内には伊勢神社・八雲神社、荒波々伎神社、諏訪神社などたくさんの境内社・境内末社があります。

上の写真は境内社荒波々伎神社

9月8・9日の「しょうが祭り」が有名ですが、由緒書から「天王祭」も7月におこなわれていることが分かります。神社の向かいにある池の湧水は「東京の名湧水」に選定されています。





7月は全国で祇園祭・天王祭!

2012-07-01 08:22:03 | 日記
 さあ、7月。京都の祇園祭を始めとして、全国各地で、牛頭天王に関係している祇園祭・天王祭がおこなわれる時期となりました。わたしは絵画制作もする身なので、9月の絵画展示に向けて絵に集中しなければならないのですが、なんとか時間をつくっていくつかの祇園祭・天王祭を見ようと思っています。
 
 ○京都祇園祭:7月1日から7月31日(火)八坂神社とその周辺。京都市東山区祇園町北側625(八坂神社)17日の日中に山鉾巡行、夕方に御神輿巡行。

 ○神奈川県の江の島天王祭:7月8日(日)江島神社境内社八坂神社と近くにある小動神社との合同祭礼。御神輿の海上渡御あり。(昼間午後1時頃と思われます)

 写真は小海線沿線の祇園祭ポスターです。