浜ちゃんの小豆島写真日記 二代目

特に変わったことのない日常ですが

忘れもしない大阪陸軍造兵廠の八月十四日

2011年08月14日 20時21分29秒 | Weblog

昭和二十年八月十四日は, 私にとっては終生忘れる事の出来ない一日でした。

当時、私は大阪陸軍造廠会計課に勤務していました、大阪造兵廠は日本で一番大きな造兵廠

で。京橋駅から森の宮駅まで今の環状線を挟んで東西に工場がありました西は大阪府庁近く。

朝空襲警報艦載機の機銃掃射を受け、やっと解除になりホットする間もなく次はB29、 300機

による一トン爆弾の集中攻撃を受けました、当時は3月13日の焼夷弾攻撃によって焼け野原

になった処に防空壕を掘り其処へ空襲度に避難していましたが一トン爆弾が炸裂するたびに

地響き生きた気持もありませんでした。工場には保安要員が蛸壷の防空壕で看視していました。

やっと空襲警報も解除のなり、 造兵廠に帰ってみれば無残跡形も無く破壊されていました。

茫然自失とはこのことをゆうのでしょう、 しばらくは誰も言葉を発する人もいませんでした。

15日の玉音放送が2日早ければ 造兵廠の工場も500名の尊い命も失う事も無かった。

  戦後世話人により発行された、大阪陸軍造兵廠生き残り証人の執筆

    八月十三日大阪上空より散布された最後通告のビラ


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown ()
2011-08-15 18:08:55
このお話を以前に小豆島だったのか、県外で同じように大阪にいっていた人から聞いたのかを忘れましたが、伺ったことがあります。

いずれにせよ、身近で手にとって下さる方がいるといいですね。
お疲れかもしれませんが、語りがき、語り、お願いできればと思います。
返信する
 ((て)みっちゃん)
2011-08-15 15:38:37
ここの発信された映像と経験談はかなりの人々が目にします
百聞は一見に如かず~です
 なによりです

(て)も私も1945年生~この人生のスタートにおいて戦争は切り離せません
 
 
 無残な死 尊い命  この言葉にあらわされ た人間の尊厳を守ります  私の一念です

返信する
がらこさん ()
2011-08-15 09:36:17
今日は終戦記念日ですね。もう2日早ければ知人も
戦死をせずに戦後活躍したでしょうに。
急用のある孫と曾孫はすぐに帰りましたが今日現在
7人残っていますが、。
明日は皆帰りまた1人ポッチの生活が始まります。
返信する
明日は (がらこ)
2011-08-14 21:49:02
終戦記念日ですね。何も記憶はありませんが、複雑な思いです。

先ほど高松の法事から帰ってきました。久しぶりの雷雨にあいました。

お宅もまだ皆さんいらっしゃいますか。お疲れ様です。
返信する

コメントを投稿