ごとりん・るーむ映画ぶろぐ

 現在584本の映画のあくまで個人的な感想をアップさせていただいています。ラブコメ、ホラー、歴史映画が好きです【^_^】

バリー・リンドン(スタンリー・キューブリック監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー ;18世紀。アイルランドの片田舎で農夫のバリーは従姉妹の女性から誘いをかけられてものりきれない青年だった。その後「思い」を裏切られたバリーは進駐してきたイングランド軍大尉と決闘し、ダブリンへ。そして7年戦争が続いているフランス戦線へ遠征する。
出演 ;ライアン・オニール、マリサ・ベレンソン 、ハーディ・クリューガー
コメント;壮大なヨーロッパの叙事詩ともいえる。ジョージ3世の時代に生きた人々の争いを描く。
 家庭教師であり牧師のランスがときに悪魔のようにも見える。黒い喪服に彼がみにそまった瞬間に真の地獄が始まるがその瞬間に画面は黒と白の世界になる。
 アイルランドの古式ゆかしき「決闘」の場面から始まり、イングランド軍の練習風景。そしてフランスの侵略におびえるアイルランドのイングランド軍の様子がうかがえる。美術はあきらかにロココ様式。緑の木々が画面にはえ更に衣装と役者がそれに華をそえる。7年戦争とその後が舞台だがフランス映画「花咲ける騎士道」の「裏側」ともいうべき侵略や強奪といった物語もさりげなく挿入されている。アイルランドの農家の様子もみえるが、経済的に困窮しているという様子以外はあまり実態がでてこない。ただしアイルランドから英国やヨーロッパなどへ流出した人間もそれなりにいたのだろう。その後、英国に従軍してフランスにわたり、さらにプロイセン軍。そしてベルギーでジョージ3世につかえた外交官とのトラブルや、その後英国貴族の「夫」としての名称が与えられる。美術品などにも贅沢がこらされており興味が尽きない映画だ。「花咲ける騎士道」はフランス側から英国やプロイセンを風刺したものでコメディタッチだったが、この映画ではかなりシリアスだ。そして度重なる戦争で軍隊が疲弊しており、従軍希望者をつのえる場面がこの映画でも「花咲ける騎士道」でも共通してでてくるのが興味深い。また大砲の用い方や銃の発砲のしかたなども面白い。
(衣装のポケット)
 登場人物の衣装にちゃんとポケットがある。ポケットが用いられるようになったのは17世紀とだいたいこの時代の最新ファッションとみてよいのだろう。
(鉛筆)
 鉛筆をめぐる「争い」が途中ある。これは当時鉛筆が相当に貴重だったという時代考証のあらわれではなかろうか。1760年ごろにできたのが近代での鉛筆の始まり。イギリスで黒鉛をもちいて筆記するのが始まったのが1560年。
(白い化粧)
 登場人物が妙に白い化粧をしている。おそらくは、純銀、水銀などで製造した顔料だろう。「つけぼくろ」はムーシュとよばれるもので本当はこの純銀で痛んだ肌の「あれ」を隠すためのものだったのがファッションに転じたものと推定される。
(決闘)
 「慣習」としての決闘がこれだけ描かれるのも珍しい。しかもキューブリックはさまざまなバリエーションをこの映画で紹介している。もともとはゲルマン人の慣習だったものが、民族移動で広まったとされる〈モンテスキューの説)。
(7年戦争に至るまでの個人的なまとめ)
日本の普通地方自治体はある程度中央からの地方交付金をあてにしなければならないが、連邦制をとるドイツでは地方自治体相互の連携をとる財政制度によって地方自治体の財政的基盤の確立に成功している。州ごとに特色ある地方自治制度のあり方も日本にとっては学ぶべきところが多いといえるのかもしれない。ただし、現在欧州連合が財政赤字について一定の枠を定めており、地方自治体もまた緊縮財政を余儀なくされている。欧州連合に加盟するために地方自治体の行政をある程度市場効率化するか、あるいは地方自治体の「本旨」をいかして財政赤字には目をつぶるかといったトレードオフの問題についてはドイツはまた興味深い材料やデータを呈示してくれる。もともと連邦制をとる下敷には神聖ローマ帝国時代のカソリックの7人の貴族をはじめとする群雄割拠の時代からの「伝統」でもある。プロイセンとイングランドが同盟して、ブレーメンに使者をおくるというくだりが「バリー・リンドン」にはでてくるが、このブレーメン(ボヘミア)はハプスブグル王朝の支配地であると同時に、プロテスタントの地盤にカソリックの王が統治するという特殊な形態の土壌。ブレーメンの反乱(1619年)には、プロテスタント保護のためにフリードリヒ5世などが援軍を派遣したという経緯もある。
 また三十年戦争の時代にはスウェーデン王グスタフ・アドルフがフランスの援助と共に北ドイツ地域を支配したこともあった。この30年戦争終結時にウェストファリア条約が締結され、スイスとオランダが独立を果たす。16世紀から17世紀までの7年戦争にいたるまでは西ヨーロッパでは農奴制度が崩壊し、東ヨーロッパでは農奴制度が強化されるという二つの傾向を生み出す。とくにプロイセンでは豊富な財政状態と強力な軍隊がフリードリヒ1世、2世の活躍の基盤をうみだす。7年戦争の複雑な外交政策を読み解く一つの材料になるとともに、不可思議な外交関係がある程度「みえてくる」気もする。戦乱と海の向こうでのアメリカという複雑な情勢の中で、アイルランド人のバリーはアメリカではなくヨーロッパに身を投じている。これまで映画の中で描かれてきた18世紀のほとんどは新しい大陸での冒険だったがこの映画では、複雑怪奇で爛熟した18世紀のヨーロッパ。完全主義にいろどられた衣装や舞台装置などとてつもない豪華さである。
(ジョージ3世)
 1760年~1820年 ジョージ2世から王位を受け継ぎ、アメリカ独立戦争当時の王をつとめる。後に精神的な要因から摂政をおくことになる。英国の王位ではハノーバー朝からウインザー朝へと名称を変更するがもともとはドイツの流れを汲んでおり、7年戦争で英国とプロイセンが同盟するのは無理なからぬところ。現在の英国王朝がこのハノーバー朝で誕生する。このジョージ3世はアメリカ独立戦争のきっかけとして増税政策を大幅に採る。サトウキビから製造するラム酒にも酒税をかけ、その後砂糖条例でラム酒が高額になればライ麦からウイスキーをスコットランドやアイルランド系統の入植者が製造するようになれば、さらにトウモロコシからバーボンウイスキーを作るようにも成った。そしてさらに印紙条例で印紙税を課税してアメリカ植民地を追い込んでいったのがこのジョージ3世。税金で収入をえつつもさらに歳出は際限がないというこの当時の状況も映画の中にはそれとなく描かれている。またジョージ3世も映画の中で「一つの役」として登場する。
(ベルギー)
オランダの南西部に位置する。日本との関係がかなり良いことでも知られている。ガリア戦記にもその名前がみられる。国内ではオランダ語(フランデレン人)・フランス語(ワロニー)・ドイツ語などが用いられ、多民族国家の実験などとも評される。ただしドイツ語は人口の1パーセントにもみたないようだ。バリーはここでまた衰退しつつある貴族階級と一つ勝負をうつ。ジョージ3世のもとで外交官をつとめてきたある老人とその若い妻がその対象である。14~15世紀はブルゴーニュ公の支配、その後はハプスブルグ、スペイン、オーストリア、フランス、オランダと支配を受けた。1815年にウィーン会議の結果オランダ公国が成立し、その後永世中立国として独立。
(簡易年表)
1621年 オランダはスペインと戦争。
1642年 英国で清教徒革命
1652年 第一次イギリス・オランダ戦争
1665年 第二次イギリス・オランダ戦争
1672年 第三次イギリス・オランダ戦争
1688年 名誉革命
1701年 スペイン継承戦争
1740年 オーストリア継承戦争
1776年 アメリカ独立
1789年 フランス革命
1790年 ベルギーが独立
1792年 フランスが共和制へ
1794年 フランスがオーストリアにかわりベルギーを支配
1804年 ナポレオンが皇帝へ
1806年 神聖ローマ帝国が滅亡
1813年フランスがオランダから撤退
1814年 ナポレオン退位
(ロココ)
 この映画の「いかさま」にはフランスの画家ジョルジュ・ラトュールを想起させるシーンがある。さらに17世紀のバロック(くずれた真珠)、ルイ14世の統治の影の中、バロック時代と呼称される中でのロココ様式はそのカツラやツケボクロなど不可思議な様式美を醸し出す。
 映画の中でかなでられる音楽はヘンデルのようでもあり、モーツアルトのような古典様式のようにも聞こえる。 
 ロココの語源はロカイユ(貝殻)だが、バロックの一部でもあるようでいて感情と理性という二元論のいびつな結合状態とも個人的にはみえる。オルレアンのフィリップ公が代表的な人物だとすると、その人物こそは「悪徳自慢」(ルイ14世)という位置づけになる。そしてロココの世界ではすべてが演技めいているのでやや過剰にもみえる映画の中の貴族たちはそれこそがまさしくロココ的ともいえるのかもしれない。「悪徳」はこの映画の中ですべての人物がそれぞれに演じ、天使といえるのはある「少年」のみである。時には母親ですら「悪魔」のセリフをさりげなくはく。
 男性がやや女性的にふるまうシーンやつけぼくろのシーン、そして機能性のない装身具などがこのロココによってさらに普及する。賭博の流行というのも理性の問題ではなく「感情」の問題などと二元論でかたづえけていいものかどうか。ただ以下の図式は成立するかもしれない。
軍隊―男性的―近代軍隊様式―喧嘩・決闘―進軍ラッパー非経済的
貴族―女性的―ロココ様式(バロック様式)―政治―宮廷音楽―経済的
 前半ではややロココめいているものの基本的には軍隊の様式美が追及されている。そして後半からはいわゆる宮廷の政治にまつわる話である。もちろん相互に乗り入れはあるのだが、プロイセンの軍服とベルベットの室内着とには大きな対比があり、そして英軍の制服が「赤」でベルベットが「緑」というのも一種の対比だろう。ヘルメットから「カツラ」へもちかえ、そして農奴から軍人、そして貴族の称号の獲得をめざすバリーには18世紀の特異な世界を縦断した魅力を感じる。そしてまたそれが「黒と白」の世界に変わる瞬間がある。
(サッカレー)
1811年~1863年。英国作家。ディケンズとも並び称されるが差貴族階級などを辛らつに描く作品で有名。インドのカルカッタに生まれてケンブリッジ大学中退。「虚栄の市」などが有名。その昔、「バリー・リンドン」はかの角川文庫から翻訳が出版されていたが、現在は絶版とのこと。コアなファンは現在でも多い。
 そして映画のラストでは「醜きものも美しきものもすべて今は泣き人々」というナレーションが流れる。ただし人間のありようはこの18世紀と21世紀とでさして変化したわけではないのだろう。なんのかんがいもなくただ無機質に語られるナレーションもまるで「悪魔のささやき」である。

 何もない大きな部屋に美術品が大きく飾られる。ろうそくの光に油絵がてらされる。そして夕陽に顔をそめたバリーがベッドの上で、斜めをむく。ありとあらゆる光が考証されて、この1つの映画の中に輝くのだが、それが一つとして失敗しておらずストーリーと関係なく場面の一つ一つが絵画のように心にしみる。名作中の名作としか感じようがない。

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(スティーブン・スピルバーグ監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;知能指数が138もあるという実在の天才詐欺師の物語。1960年代後半におよそ140万ドル(1億4千万円)をはるかにこえる小切手偽造事件をはたらいた詐欺師の物語
出演;トム・ハンクス、クリストファー・ウォーケン、レオナルド・デカプリオ
コメント ;スピルバーグ監督作品というと「特撮」物以外はもう見る気力もないのだが、この映画は予想外に面白い出来でしかも楽しめる。コメディでもあり犯罪映画でもあるが、何より「家族」「母親」というものに渇望している天才詐欺師の役にはデカプリオがぴったり。「タイタニック」でうんざりさせてくれた爽やかキャラもこの映画では見事な「汚れ役」で、しかも10代の高校生から20代後半の国際犯罪者の役まで素直に演じ分けている。トム・ハンクスの頑固な犯罪捜査ぶりやクリストファー・ウォーケンの一癖ありそうな実業家ぶり。そしてさらには、エイミー・アダムスのなんともいえない薄い幸せぶりにどうしても感情移入する。
 詐欺師の常としてどこかでつじつまがあわなくなるわけだが、そこらの二流や三流とは違って、どうも周囲の人間を傷つけるタイプの犯罪者というわけではなかったようだ。確かに犯罪そのものは憎むべき存在かもしれないが、担当している捜査官すら感情移入してしまうほどの人間的魅力とある種の「配慮」があってこ歴史的に「天才詐欺師」として位置づけられるようになったのかもしれない。司法試験に2週間で合格したというのもあながち「嘘」とも思えない。小切手偽造は1960年代とはいえ相当な印刷技術や手形・小切手法の知識がなければ成功しなかったはず。ある種の勉強があってしかもそれを花開かせる人間的魅力があって、パイロットや医師といった職業につき、さらには医療過誤事件や航空機墜落事故などは起こさずにすんだという「マイナスの中のプラス」の効果があったのかもしれない。映画の中でエイミー・アダムスは、「ある過去」の傷がもとで親元から離れるととともに、ベッドシーンには至らないある場面を演じるのだが、「やや頭が弱くて」「家族が厳格なプロテスタント」という微妙な雰囲気の中を生きるけなげな若者をうまく雰囲気として出していたと思う。そういう人ってかなり身の回りにも実際いるわけで憎めないし、さらには感情移入する気持ちもわかるような気がする。
 
 妙に家族愛をうたいあげるわけでもなく、ただひたすらに犯罪街道を突っ走り、途中でみているほうが疲れるエピソードもあれ、最後にはそれなりに納得できるエンディングとなる。犯罪映画ではあるけれど、犯罪はみあわあないという「教訓」を残しつつ、本来はありえない連邦捜査官と稀代の天才詐欺師との友情が成立してしまうのも不可思議だが事実。スピルバーグの作品にこれまで「ウンザリ」していたのが嘘のように楽しめる映画だ。アメリカ人には「アウトロー」というのが南北戦争以後のジェシー・ジェイムス以後、一種のヒーロー的なものとして認識される部分がある。南部人ゲリラ〈北部への反感)といったものとあわせて、国税局の追加徴税に苦しむ父親と息子という関係と「義賊ジェシー・ジェイムスと牧師の父親=南軍のゲリラ隊」という関係とまただぶる。

ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ(ジョン・ポルソン監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー ;午前2時6分。扉が開く悪夢とともに心理学者デビッドが目を覚ますと浴槽に明かりがさしていた‥。その後諸事情によりデビッドと娘のエミリーはニューヨーク郊外の森林地帯に引っ越す。しかしその後もデビッドは午前2時6分に目を覚まし、そして娘のエミリーは「見えない友人チャーリー」と遊ぶようになる‥。
出演;ロバート・デ・ニーロ、ダコタ・ファニング、ファムケ・ヤンセン
コメント;「オチ」とロバート・デ・ニーロの演技が評価を決める。ロバート・デ・ニーロがはたして名優に値するかどうかはまた問題だが、これは人の好き好きだろう。ただし子役のダコタ・ファニングは間違いなく名優だ。とにかく癖のない演技にくわえて無表情な演技や仕草そのものが恐怖をよびおこす。子どもには大人には見えないものがみえるというが、そうした原始的な恐怖を体全体で表現している。シナリオそのものはやはりいまひとつだが、「リービング・ラスベガス」でニコラス・ケイジと共演したエリザベス・シューが離婚したばかりの熟女(?)の役で出演。いくらなんでもこんな「子守」はいないだろう、というぐらいのセクシーぶり。ハリウッドのホラー映画も「シックス・センス」以後色々新機軸を打ち出そうとしているが、その試みの一つといえるかもしれない。
 映画館はどちらかといえばかなり観客は少ないが高校生や女性の観客がホラー映画にしては多め。サイコスリラーのカテゴリで考えれば、男性と女性とでは見方が異なってくる映画かもしれない。

ボーン・アイデンティティ(ダグ・リーマン監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー ;おあだやかなはずの地中海に雨がふりしきる。その中をただよう潜水服の男を引き上げた漁船。その男には2発の銃弾が残されており、記憶がまったく失われていた‥。
出演 ;マット・ディモン 、フランカ・ポテンテ 、クライブ・オーウェン
コメント ;マット・ディモンという役者の顔がどうしても好きになれないのだが、ちょうどこの映画の相手役のフランカ・ポテンテもほどよい不細工ぶりで好感がもてる。二人が好感をもつようになるタイミングやその後の「ついたり離れたり」も現実的。さらにはアクションシーンもさほど現実離れしているわけでもなく生々しい。CIAが「トレッドストーン」とよばれる秘密作戦を工作しており、それが失敗に帰したこととマット・ディモンの記憶がないことが同時に進行する。もちろんみている側では最初の20分程度で謀略の相関関係が把握できるのだが、それをどう結末までもってくるかが見所か。クライブ・オーウェンがほとんど喋らない「マシーン」の役で出演。冬の野原に野鳥がとびかうシーンやマット・ディモンのゆったりした走り方が好ましくみえる。地中海にはさほどゆかりもないが、ラストシーンも最初のシーンも地中海に由来し、アクションはフランスを舞台にしておこなうという国際色豊かな設定・フランカ・ポテンテのドイツ訛りの英語も心地よい。

ゴースト・ドッグ(ジム・ジャームッシュ監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;おそらくはニューヨーク。空を飛ぶハトをワンカットとらえた後、カメラは俯瞰しつつニューヨークの古びたアパートメントの屋上へいく。主人公のゴースト・ドッグは「葉隠」「武士道」を愛読する過去の知れない殺し屋。あるコミュニケーション手段でマフィアと連絡をとり、ボスの娘とできている男のもとへ。そこでは娘が「羅生門」を読んでいた‥。
出演;フォレスト・ウィテカー、クリフ・ゴーマン、ジョン・トーメイ
コメント;ブルーの画面を基調としてゆったりと画面は流れ、独特の音楽が時間を刻む。緑の木々が揺れ夜のニューヨークが素顔でたちあらわれる。これまでどのハリウッドでもみたことがない街の風景だ。そして空を飛ぶハトに対してゴースト・ドッグがふる赤いフラッグが美しい。見ている人間にはわからないがゴースト・ドッグは「仲間」を察知してそれぞれ挨拶をかわす。そして実は言語ですらコミュニケーションには重要でないことを映画の途中で知ることになる。「真昼の決闘」を思わせるラストや小気味のいい会話。シナリオの完成度ももちろんだが、鳥や木、そしてアイスクリームといった小道具がなんてことはなく、しかし存在感をもって画面に登場する。一応武士道やらなんやら日本紹介めいたものがあらわれるのだが、これまでのどのハリウッド映画よりも日本の雰囲気を伝えてくれる。「ラスト・サムライ」の武士道が虚構であるとするならば、ニューヨークの画面の中に明治維新のころのつかの間の「武士道」の片鱗がみえる。とにかく美しい‥。撮影はあのロビー・ミュラー。天才的なまでの画面構成と光と影だ。

間違えられた男(アルフレッド・ヒチコック監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;マーニーは電車路線そばのアパートメントに家族4人で住むミュージシャン。お酒も飲まない真面目なマーニーだったが妻の歯の治療のために共済生命保険にお金を借りにいったところ強盗犯人と間違えられて通報される‥
出演;ヘンリー・フォンダ 、アンソニー・クエイル、チューズデイ・ウェルド
コメント;名優ヘンリー・フォンダの異色作というべきか。ただならぬ目つきにもかかわらず飲み屋のミュージシャンであり、しかも家庭のよき父という役割を演じる。実生活では相当にひどい父親だったとも噂されるがそれを微塵も感じさせない「ナイス・バディ」。「アパッチ砦」や「荒野の決闘」のそれまでのイメージを変化させたといえるかもしれない。その後にはあのオードリー・ヘップバーンと共演した「戦争と平和」があるがこれもまたよき善人を演じきっている。チューズデイ・ウェルドはその後「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」にも出演。
 実話にもとづいたサスペンスというよりも、むしろホームドラマと位置づけたほうがよいのだろう。「サイコ」的な要素を重視するヒチコックはラストもそう簡単にはハッピーエンドでは終わらせない。面白いか面白くないかは人それぞれかもしれないが、後味の悪さと薄気味悪さを感じさせる。ただし、その後のヒチコックにみられるような映像美学みたいなものよりもむしろ淡々とした画面進行が新鮮といえるのかもしれない。現代では当時の「目撃」がおそらくDVDなどに録画された監視カメラ映像になるのだろう。「間違い」というのはかなりこれからもありうる。目撃という心理的要素に頼るかぎりこうした冤罪に近い物語は形をかえてまた映画としてリメイクされる可能性が高い。

オペラ座の怪人(ジョエル・シューマッカー監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;アンドリュー・ロイド・ウェーバーの音楽にのせてオペラ座の怪人をある程度忠実に映画化。1919年のパリ、ポスターの風景から物語は始まる。「花」と女性のメタファーがいかんなく活用された古典的映像と物語‥
出演;ジェラルド・バトラー、エミー・ロッサム 、パトリック・ウィルソン
コメント;ジョエル・シューマッカーの映画はとにかく面白い。「フラットライナーズ」などやや不満が残る作品もあるが、それを差し引いてもトータルでは面白い。
 とはいえこの作品いろいろややこしい実験がなされていることはいるが、ダンスシーンやアンドリュー・ロイド・ウェーバーの音楽などに徹してみていけばやはり面白いことには変わりがない。もっともこの作品はやはり舞台でいたいものだが。「オペラ座の怪人」自体は映画化されたものを2作品をすでにみていたが、この作品が一番オペラといった特色を全面に打ち出していると思う。衣装は「エリザベス」のアレキサンドラ・バーンが担当。1919年のパリがモノクロームで1870年代がカラーでしかも音楽もきらびやかである。この原作は1986年の英国ロンドンが初演というからそれほど歴史がないのだが愛されている理由は「美女と野獣」以来の人間の本能に訴える何かがあるということだろうか。オペラ座自体は1876年ガストン・ガルニエがナポレオン3世の命を受けて建築したものだが、原作はなぜかそれより古い1868年らしい。19世紀のパリは輝く都市伝説を生み出したが、それがまた21世紀の日本でも愛される不思議。

ストーカー(マーク・ロマネク監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;45分写真の現像ラボにつとめる初老の独身男性は、近くの家族の写真を現像するのを楽しみにしていた…。
出演;ロビン・ウィリアムス、コニー・ニールセン 、マイケル・ヴァルタン
コメント;ストーリーはなんとなく「レッド・ドラゴン」のアイデアにホームドラマの要素を加えた感じだろうか。ただ「ストーカー」という邦題はあまりいただけない。やや偏執狂的な主人公がでてくるがこれはストーカーではなく、やはり45分現像を営む過去に一癖ある男の物語だが、実を言うと色彩の美学も楽しめる娯楽作品でもある。青い無機質な画面や白一色の画面に突如赤い液体がほとばしるなど、画像がとにかく美しい。緑の公園を歩くシーンもきれいだ。写真が一つの題材だけに天然色や原色が効果的。ラストもちょっとしゃれている。

座頭市(北野武監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;ある村にさしかかり、座頭市は農家に宿を借りる。その村では新興の親分が暴政をふるっていた…
出演;北野武、岸辺一徳、石倉三郎
コメント;北野武監督の作品は「その男、凶暴につき」からこの「座頭市」に至るまですべて何度も見直しているが、正直、あまり好感がもてない作品ではある。べネチアで監督賞を受賞したのは一種の「もの珍しさ」からではないか、という気もする。やや受賞のタイミングが悪いのが北野作品の不幸かもしれない。作品賞は「HANANBI」ではなく「ソナチネ」にあた得られるべきだったと思うし。
 とはいえエンターテイメントとしてはそれなりに面白くはある。殺陣も独特の工夫がこらしており、勧善懲悪タイプの時代劇とはやや異なる展開もみせる。
 座頭市えんじる北野は、目がみえない設定での映画監督という役回りを演じており、この作品ではあえて見ることを拒否しているような気もする。岸辺一徳がさりげないながらにすごみのある犯罪者を演じている。

ザ・コア(ジョン・アミエル監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;突如地球の「磁気」がくりはじめワシントンでオーロラが観測されるようにもなる。そしてある研究者は「人類の滅亡は1年後に迫る」と断定する…
出演;ヒラリー・スワンク、アーロン・エッカート 、デルロイ・リンドー
コメント;冒頭の「ナキパニ」らしい混乱ぶりが面白く、特にロンドンにおけるヒチコックの「鳥」を思わせるシーンが興味深かった。ペースメーカーや時計がおかしくなったり、オーロラが出てくるシーンはもっと幻想的な撮影を期待したかった。
 この映画は「地中」「音」といった映像になじまないものをあつかっているのでどうしても「ミクロの決死圏」ほど危機感もなく、「ああ、そうかな」と考えている間にラストを迎える…。
(プレートテクノニクス)
マントルとはもともと「地殻」と「核」との間にある地層のことだが、映画にもあるように地殻自体はそれほど分厚いものではなく、核と地殻の間は「モホロビッチ不連続面」とよばれる「玄武岩」で構成されている。海の下から地中にもぐりこむのはある程度地学的に正しく、海の下からだとマントルは代替70キロメートルだが、大陸だとだいたい150キロ目―トルといわれている。この「不連続面」が、地震の発生を複雑にさせる。またマグマも高温で融解されたマントルなので途中マグマに遭遇するのはおかしくはない。ただ数百キロも地下にもぐりこもうというのに距離の稼ぎ方が「ややせこい印象」も受ける。音波で地質を測定するのも一般的で現在ではマントルは4つの層に分かれているとされる。マントル自体もユラユラ動く存在で陸地はそのマントルの上にのって移動する(ユーラシア大陸とインドのぶつかりあいでヒマラヤ山脈ができたことなど)。途中、水晶の「部屋」がでてくるがあながちこうしたこともありえないではないだろう。事実、プレートやマントルの活動地域であるヒマラヤやウラル山脈などは水晶が有名だったりする。やや幻想的な光景ではあるのだが、このあたりは明らかに CGの予算がないのと、それとおそらく「地下」というのがなかなかイメージしにくい世界のせいもあるのかもしれない。超音波で地面を砕く…という発想はいいのだが、その中にもぐりこんでもあまり危機感みたいなものを感じない。いわゆる「外核」に達するのは約4500キロメートル。映画の中ではフィートで表示されていたが…翻訳が正しいのかどうか怪しい気もする。
 外殻とマントルは液体で循環していると考えれる。ただしこれがストップするということは考えられない。これはおそらく地球の自転の影響によるものだからだ。
 非常に地味な活劇という印象も受けるが、それでももはや空の彼方ではなく、足元に「未知の世界」が広がるというのも不思議な話で、実のところこの地球の内部がそうなっているかということはだれも見たことがないので本当のところがわからない。内核も鉄やニッケルが組成成分といわれているが本当のところは不明なのである。とはいえ「科学オタク」にはこの手のものはすべて中学生・高校生レベルの理科の問題であり、つじつまがあわないところはやまほどあったりして…。

ノルマンディー(ロバート・ハーマン監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;1944年5月末。兵力の温存を考える連合国司令部は空爆によるドイツ軍への攻撃重視からヨーロッパを救済するための大陸上陸作戦へと方針を転換。フランス上陸への総責任者として英国首相チャーチルはアイゼンハワーを指名した…。
出演;トム・セレック 、アイアン・キューン 、ジェームズ・レマー
コメント;ノルマンディー上陸作戦を指揮したアイゼンハワーの意思決定と計画遂行までを描く。ノルマンディー上陸作戦の戦闘描写については「プライベート・ライアン」の冒頭のシーンが生々しいが実はこの映画には戦闘シーンはまったくでてこない。しかも19日間で撮影した割には、とてもそうとはおもえない仕上がりである。予算と時間の不足を白黒写真で補い、見事に完成した歴史小作品といったところだろうか。俳優のほとんどがニュージーランドやオーストラリアというのも、逆に新鮮味がでてきていいのかもしれない。トム・セレックがカンザスの農場出身だったアイゼンハワーの特徴をみごとに活かしている。戦争当時なのでタバコのシーンは大丈夫ではあるがアイゼンハワーはキャメルを一日に4箱吸っていたらしい。
 死体がいくつかとその間を走る犬が朝もやの海をかけぬけるシーンはなかなか見事な演出だろうと思う。
 アイゼンハワーは、当時としてはおそらく最大規模の陸・海・空のすべてを掌握する連合国軍最高司令官としてノルマンディー上陸作戦を指揮する。当時のマスコミに人気が高かったモントゴメリー将軍やパットン将軍なども姿をだすがかなり現実的な描写で英雄というものを映画に出さない姿勢が好ましい。ただしアイゼンハワーはその後大統領に就任し、反共政策を取ると同時に、フルシチョフとの首脳外交により雪解けムードを演出し、またアイゼンハワードクトリンとよばれる中東の反共軍事行動の軍隊出動権限を自らにふすなどノルマンディー上陸作戦当時にえたノウハウをその後に活用している部分がある。ドゴールがややシニカルに描かれているがノルマンディー上陸作戦当時はフランス共和国臨時政府を指揮していたのがドゴール。その後、中国との関係で米ソに並ぶ国際的地位を確立するなど功績も大きいが、第二次世界大戦当時のビシー政権との関係やユダヤ人迫害についてあまりにも消極的な姿勢が一部批判を浴びていたのも事実。この程度の描写はやむをえないだろうか。
 さてこの映画はもともとテレビ番組として作成されたものだが、映像の一部にイエローとブルーが多用されるなどそこそこに面白い演出がある。主に屋内の描写が中心だがチャーチルとアイゼンハワーのやりとりや、計画の遂行について「決めるだけならだれでもできる。小さな積み重ねと確認が難しい」というアイゼンハワーの主張を裏付けるような細かいチェックと積み重ねが続く。これが面白いかどうかは、また人によるのだろうが、当時のアナログ社会であっても秘密保持がいかに大変だったのかを知ると同時に、レクリエーションとして将校が映画をみている場面にも西欧人の一種の「知恵」のようなものを感じる。89分。

 チャーチル首相を演じたのはニュージーランドのアイアン・キューン。あまりアメリカや英国の俳優がでてこない映画だが、演技力はかなりのハイレベル。脇役から主役まで華やかさはないものの「カッチリ」した構成。史実にも準拠しており、脚本もすばらしい。どうしても歴史映画は予算が必要になるがこうした低予算でアイデア勝負の歴史映画がもっと高い評価を受けてもいいのではないか。

コラテラル(マイケル・マン監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;リムジン会社の経営を夢見る運転手はある日、ロスアンゼルス郊外からきたとある男をタクシーに乗せた…
出演;ジェイミー・フォックス、トム・クルーズ、ジェーダ・ビンケット・スミス
コメント;アイデアはなかなか。途中のセリフでトム・クルーズが演じる殺し屋の「手口」「意図」がわかってくる。
 ロスアンゼルスの夜景がとにかくきれい。深夜から早朝にかけての光の変化がとにかく美しい。朝もやの中をゆったりと走る地下鉄がなまめかしい。

羊たちの沈黙(ジョナサン・デミ監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;FBIの研修生クラリスは犯罪行動心理学の権威であるクロフォードからハンニバル・レクターのところへ「会話」をするようにいわれてくる。それはバッファロー・ビルとよばれる連続殺人犯の犯行が続く中、捜査協力をいらしするための「面接」だった‥
出演;アンソニー・ホプキンス、ジョディ・フォスター、スコット・グレン
コメント;1995年に公開された映画で、当時はかなり話題になったものだが21世紀の今から振り返るとそれほど鮮烈な印象も受けない。プロファイリングといった手法が現代ではもはや日常的にもなっているからかもしれない。セキュリティやネットワークがこの10数年の間に相当進化したことがわかる。20世紀と21世紀の大きな違いはコミュニケーションツールの相違であり、いわゆる犯罪者にとってはガラス張りの社会になってきたともいえる。事実アメリカ連邦の人権局では一定の前科暦のある犯罪者のデータベースを構築し、一定の条件で地域住民に公表するといった事前的防御法をも実施している。ある一定の抑止力になることは間違いないが、「人権」といったものとの関わりで今後の動向を見守る必要性はあるのだろう。クラリスが携帯電話さえ保有していればおそらくこの物語は成立しなかったのかもしれない。またパソコンがあればこの広大な国のデータ検索ももっとスピードアップしていたのかもしれない。1990年代で携帯電話が使用されたハリウッド映画としては「パルプ・フィクション」があるが、かなり鮮烈なイメージだった。

 ハンニバル・レクターは当時のアナログ社会では類稀な「教養」を誇っていたが、現在ではどうだろうか。モバイルなどの機器が発達した中でレクターの「威容」を示すのは限られた情報から的確な意思決定とプロファイリングをおこなうその「推理」「推断」の能力だ。記憶を元に絵をかき、ボールペン一つで自由を「回復」するという問題解決能力の高さが際立っている。
 映画の「演出」その者は当時と現在とを比較すると、おそらく現在の映画のほうが画面がきれいだし、過激度はやはり相当にあがっているからかもしれないが、あまり鮮烈な印象をうけない。コリン・ウィルソンは人間の「大脳皮質」がこうした過激な犯罪を生み出すというような旨のことを述べているが、だとするとバッファロー・ビルが、プア・ホワイトという設定はちょっと納得がいかない。手口は高名なテッド・バンディを模したものと「推定」される。
 この続編として「レッド・ドラゴン」「ハンニバル」と公開されているが、予算は明らかに「ハンニバル」が一番かかっているが、映画もおそらく公開当時の「世相」となんらかの相関関係があるのだろう。世間に与えた衝撃度はこの作品ほどではなく、アカデミー賞も獲得できていない。人間の保有する大脳皮質が肥大化した場合には、とてつもなく邪悪なものをも生み出す…ということが1990年代前半に社会に意識された点は評価すべきだろうか。あるいはそれは映画の担うことではないのだろうか。

 そしてこのバッファロー・ビルの犯行動機は一見不可解でいて実は日常的でもある。人間の本質として、毎日みているものがほしくなるということはないだろうか。広告社会だのなんだのといわれるのは要はどれだけ魅力的な商品を繰り返し消費者に提示するかということにつきる。「いかに見せるか」という広告がいかに作るか、と同様にメーカーやサービス業にとっては重要な時代だ。バッファロー・ビルの真の目的となった犠牲者は「毎日」あることからバッファロー・ビルの目にふれており、そしてそれはある種のゆがんだ「欲望」を生んだ。欲望の資本主義という言葉があるがラスト間際でこの映画ではアメリカ合衆国の国旗が日光に照らされる。共産主義国家にももちろんこうした異常犯罪者は存在したはずだが、その動機はまさしく欲望の資本主義のグロテスクバージョンだった。そしてハンニバル・レクターこそはそうしたシステムを見抜いていたに違いない。

コンスタンティン(フランシス・ローレンス監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;コンスタンティンは「天使」と「悪魔」の「使者」ともいうべき「ハーフ・ブリード」を見抜く力を持っている。そして地獄からきた「悪魔」のハーフ・ブリードを送り返す日々だったのだがある日、アジア人の住むアパートメントでこれまでにない憑依霊と遭遇する…。
出演;キアヌ・リーブス、レイチェル・ワイズ、ピーター・ストメア
コメント ;ピーター・ストメア演じる堕天使ルシフェル、英国女優ティルダ・スウィントン演じる「知の天使ガブリエル」の「ハーフ・ブリード」など「大天使」の名前も映画の中にでてくるが、基本的には「天使」として姿を現すのは「一人のみ」と考えるべきだろう。中世スコラ神学でこの「天使」というものについて詳細な学問や分類がおこなわれ、いわゆる「翼のある天使」が登場するのは実はルネサンス以降。一種の階層構造をとっているとんでもない階層社会を中世スコラ神学は作り出したがキリスト教だけでなくユダヤ教やイスラム教でもその存在は位置づけられている。悪魔とは対をなす存在だが、この映画では「ハーフ・ブリード」という形で天国と地獄への入り口は人間世界のいたるところに存在し、天使や悪魔そのものはこの世にくることは「特別な事態」を除いてありえないとされている。「特別な事態」とはもちろんイエス・キリストの生誕とか人間が死ぬときとかだといわれてはいるが、このハーフ・ブリードを媒介して天使や悪魔のメッセージが人間に伝えられ、励ましもあれば誹謗・中傷もあるといった具合。コンスタンティンには、そうしたハーフ・ブリードと現実世界を見分ける能力があったのだが、カソリックでは禁じられている自殺未遂をしたため、地獄にいくことが「予定」されているという設定だ。一種の「予定調和説」が基本にあり、ラストもそれをおもわせるセリフである。ロンギヌスの槍のもともとをたどると英国のアーサー王伝説にたどりつく。聖杯伝説はいろいろな映画でも取り上げられるが聖杯とともにアーサー王に出されるものがこのロンギヌスの槍。聖書では、イエス・キリストの死を確認するために用いられたのがロンギヌスという兵隊の槍だった。
 もともとキリスト教自体は「男性中心」の物語であるが、21世紀という時代を反映してか「ガブリエル」(ただし天使という設定ではなさそうだ。翼はある)も男性とも女性ともつかない存在として設定。グノーシス的な世界観すら漂わせる。この槍自体は、おそらくイスラエル地方の伝説のはずだが、その後アーサー王伝説やそして最近ではナチスドイツの勃興時にアドルフ・ヒトラーが手にしていたとも伝えられる。映画の中で発見されたときにナチスドイツのハーケンクロイツにくるまれていたのはそうした過去の伝説の「象徴」だろう。わかる人にだけわかれば…という作成者のスタンスかもしれないが。刑事役のアンジェラは「エンジェル」と引っ掛けた言葉遊びだろう。
 シア・ラブーフの演じるチャズ、ティルダ・スウィントン、ブレイット・テイラーのヘネシー神父、ギャビン・ロイズテイルのバルサザール、イザベラ・ドドソンという名称にも何かありそうだ。マモン、そして映画をつうじてスティグマータが人間に跡付けられている…。
(スティグマータ:聖痕)
 聖痕のこと。イエス・キリストが磔になったときの5箇所の傷を示すものとされ、「神」によって選ばれたものに刻印されるという一種の伝説。登場人物のうち、スティグマータを持つものは少なくともなんらかの形で選ばれし者ということになる。コンスタンティンは少なくとも2箇所の刻印を右手と左手に持っているので2箇所のスティグマータになるが「異例」に属するのかもしれない。一種の神秘主義だが、プロテスタントでは当然認められないだろう。独特のシニカルな対応はイングマール・ベルイマンの作品をも連想させる(「叫びとささやき」ということになるだろうか)。
(マモン)
「収賄」などの意味をもつ。現在では一種の「世俗欲」を総称しており、映画ではコリント書だったが新約聖書の『マタイによる福音書』に「あなた方は神と世俗欲(マモン)に同時に仕えることはできない」という一節がある。聖書にある7つの大罪のうち(映画「セブン」参照)、貪欲(greed)を示すものと考えられる。また ミルトンの「失楽園」では、「堕天使たちの城」飾る金塊を地獄の山々より嗅ぎ当て掘り出す存在としてマモンが登場する。冒頭で教会の廃屋の地下から「槍」を掘り出すシーンは聖書というよりも「失楽園」のイメージではないだろうか。旧約聖書には映画の中にあるような悪魔のイメージはないのだが、一種のシンボルとかスピリッツといったイメージで描写されるのはキリスト教よりも古いユダヤ教からイメージをとってきた部分が多いのだと思われる。旧約聖書と新約聖書、そしてカソリックとユダヤといったルネサンス以前の教義とルネサンス以後のイメージが混在しているのが面白い。面白そうなところをつまみぐいといったところか。ただし、「二分割の世界観」で構成されているため本来カソリックで考えられていたような「煉獄」という概念が存在しない。「集団」であらわれる「小鬼」はこの堕天使の「ハーフ・ブリード」と考えるべきなのだろう。黒い体に2つの鳥の頭をもつという描写もされる。空を飛ぶ「ハーフ・ブリード」は鳥のイメージだが「マモン」からイメージがとられているのかもしれない。この二分割の世界観はナチズムと民主勢力といった二大対立構図を描いた第二次世界大戦にも共通するイメージ(当時はソビエト連邦とアメリカはともに民主勢力と位置づけたため、「天界大戦争」と通じるイメージがかなりあると思われる)。
(ルシファーもしくはルシフェル)
 旧約聖書イザヤ書に天界大戦争の著述があるが、その当時、「悪魔」を率いたのがこのルシファー。創世記にもその著述がみえるが、天使の約3割がルシファーに同調したとされる。だいたいよく引用される「均衡」とは、3:7ぐらいなのだろうか。少なくとも1:1に関係では数字上はないのかもしれない。「悪」が「善」を食い物にするのであれば当然「悪」の比率が少なくなるはずだからだ。もともとはルシファは異なる名前をもっていたが天使の座から落ちた瞬間に「engel」の「e」を「削除」され、この表記になったとされている。
(虫)
 「中世の悪魔狩り」では「動物」も「魔女狩り」にされている。邪悪なものが動物にも宿るという考え方だが、その中でも「虫」は悪魔のイメージ(少なくとも天使のイメージではないとはいえる)。死刑になったブタやカソリック教会から破門宣告を受けたバッタなどが歴史上実際に存在する。ハエが登場するのは「ハエの王」=「ベルゼブブ」のイメージだろう。ベルゼブブはルシファに次ぐ悪の地位で、「神」によってハエと融合させられた。7つの大罪の中での「飽食」をつかさどるといわれている。「蝿の王」などの小説も参考になるかも。
 ヨーロッパの魔女伝説は、ゲルマン民族に由来するものとされている。悪魔は美女や美男子にのりうつるとされていたので、美女はとかく狙われたらしい。12世紀から13世紀までは特に魔女狩りが激しかったが、莫大な富をもつユダヤ人が標的にされたこともある。ヨーロッパだけで処刑されたのは少なくて30万人から多い見積もりで900万人にものぼる。
(「火にはもともとなじみが深い…」)
 「火」を用いたコンスタンティンに悪魔の「ハーフ・ブリード」がいうせりふ。堕天使の中でも上位に位置するセラフィムは、もともとヘブライ語で「セラフ」(燃える)という意味。ドラゴンはヨーロッパでは邪悪な存在として描かれるが、その武器をコンスタンティンは用いていたことになる。このあたりはやや「黒魔術的」でもある。
(双子)
 マーカス医師殺人事件などで「双子」には特殊な交信能力があるともいわれている。が、科学的には解明されていない。
(ネコ)
 もともとエジプトでは霊力がある存在として貴重な存在とされていたが、黒魔術等にヨーロッパでは用いられることが多く15世紀には法王がカソリック教会の敵=魔女の同盟者として位置づけ、「ネコ狩り」をする場合もあったようだ(その後、ネズミ退治、特にペスト予防などの効果のため再び復権して現在に至る)。目と目を向かい合わせるシーンでは一種の「交信」をイメージしていたのかもしれない。
(鏡)
 合わせ鏡で悪魔を捕まえることができるという「御伽噺」がある。日本では星新一がそうしたショート・ショートも残している。白雪姫のお母さんが「鏡」に向かって話す部分は、自分の悪魔的な部分と会話をしているという象徴でもあるという説がある。
(メキシコのカソリック教会)
 もともとスペインの影響が強い地域だけにメキシコはカソリックが強い地域。第二次世界大戦中にはドイツカソリック教会に対してナチス(国家社会主義労働者党)は暴力行為を働いていたが、1933年以後、ピウス12世とナチスは政教条約を締結し、ヒトラーはそれを道徳的スタンダードとした。ピウス12世はユダヤ人の迫害にたいして「沈黙」を続けたというのがその後問題となる。ヨハネ・パウロ2世はそうした戦時中の対応についての謝罪の言葉を述べたこともある。ただしドイツカソリック教会がまったくナチスに対して沈黙をしていたということでもなさそうだが、メキシコでの「槍」の発見はカソリックのコミュニティを示すものとして象徴的ではある。
(ハーケンクロイツそして無数の十字架のイメージ)
 ハーケンクロイツはもともとは女神カーリーの十字架だったが、ナチスドイツの象徴として採用された。ドイツの歯医者がもってきたデザインで当時のヒトラーがいたく気に入った…とされている。冒頭にちらっと出てくるだけだがナチズムとこの映画はだいぶ関係性が深い。コンスタンティンはまた一種の「超人」といえるがこれは「優等民族の進化」について著述したフリードリッヒ・ニーチェの「超人」を思わせるし、そもそもこれはゲーテのファウストからとってきた言葉。ファウストといえばメフィストフェレスである。ワーグナーはニーチェの「超人」についてドイツ人民にそれを吹き込んだとされる。ワーグナーの作品は「神々のたそがれ」である。ヒトラーはワーグナーについて「神秘主義」や「国家社会主義のすべて」を見出していたという。またワーグナーの「バルジファル」は「アーサー王伝説」に題材をとっていたがこれがまた聖杯とロンギヌスの槍とともにヒトラーの心をとらえた。正確にはこの2つの宝を手に入れたものが世界を手に入れるということだが、ロンギヌスの槍のみが映画にはでてくる。カタリ派の「財宝伝説」にだいぶいれこんだようだが、このあたりは映画レイダースもまたイメージを歴史上からとってきている。このカタリ派のシンボルがまたケルト十字(オットー・ラーン「聖杯十字軍」参照)。「レイダース」では「聖杯」の奪い合いが描写された。ワーグナーに心酔していたのがウィルヘルム2世だがかなり「民族主義的」だったこの人は戦争に負けている。とにかく画面のあちこちが影の交錯などで十字架のイメージで描写され、イザベラが落下するシーンや倒れこむシーンなどはすべて手を広げて、クロス十字になっている。またコンスタンティンがもつ「銃」の形もまた十字形になっている。病院で倒れこんだ扉もガラスがわれて十字だ。
 ナチスドイツのかかげていた「新ローマ」あるいは「千年王国」思想は、かんぜんに聖書の「ヨハネの黙示録」の世界だ。ナチズムはただの政治活動ではなくオカルトも含んだ宗教的側面も大きかったということはおさえておく必要がある。ただしハリウッドでそうしたことを全面にうちだすことはできないので、一つのヒントとして冒頭に、一枚の「布」が示されるにとどまったのだろう。
 (水とゲヘナ)
洗礼は水によって行われるがおそらくはこれは「血液」(キリスト教)とも通じるものだろう。水槽に横たわったイザベラはまるで洗礼を受けているようでもある。ヨブ記の、「死者の霊は水とそこに住むものとの下にあって震える。」(ヨブ記26章)はたとえばどうであろうか。
ヨブ記からすすろ「地獄」に水があっても確かにおかしくはない
なぜなら「水の下」にあると考えられるからだ。
(ハデスとゲヘナ)
聖書によれば本来は地獄は2つに区分されているが、映画にでてきたのは、「苦しむ場所」(ルカ伝10章15節)となる「ハデス」ではなくさらにその後投げ込まれる「ゲヘナ」をイメージしているのではなかろうか。『海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。』(ヨハネの黙示録 20章13節14節)またルカ伝にはこうある「この場所は,悪霊のための牢です(ルカ8・31)。『悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。』(ルカの福音書 8章31節)さらにヨハネの黙示録の以下の著述も参考になるだろう。『底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。』(ヨハネの黙示録 20章3節)『そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。』(マルコの福音書 9章48節)
(「退治」としての火)
「『それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。』(マタイの福音書 25章41節)このくだりからすると「火」は悪魔とその使いたちのために「用意」されていたことになる。
(「退治」としての硫黄)
その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(ヨハネの黙示録 20章)
コンスタンティンはおそらく「硫黄」を用いていたと推定されるがその「効果」についてはヨハネの黙示録のこの一節にあったと考えられる。「火」の役割は悪魔のセラフィムの意味ではなく、マタイの福音書のイメージだろう。つまり「どちらも火は使う」ということになる。

ザ・ヴィレッジ(ナイト・シャマラン監督)

2008-01-03 | Weblog
ストーリー;1897年人口約60人のペンシルバニアの小さな村では、奇妙な風習がとりおこなわれていた。村の出来事や思いなどはすべて「長老会」に報告し、その決定をまつ。そして近くにある「森」に住む「語ってはならないもの」との間には相互協約が結ばれており、その姿の見えない「彼ら」とは、境界線を境に共存をしている… そしてある日、その「均衡」が崩れる…。
出演 ;ウィリアム・ハート 、シガニー・ウィーバー、ブライアン・ハワード
コメント;「ビューティフルマインド」「コクーン」などで名高いロン・ハワード監督の娘ブライアン・ハワードが出演。父親のロン・ハワードも小さな頃「アメリカン・グラフィティ」に出演していたが映画の系譜や時の経過をみるようで興味深い。一種の「超越的な物語」だが、かなり面白い。現実的だしストーリーの細部にまでこった作りになっている。赤・黄色といった色使いや冬の森の風景などが、画面にはえてきれい。そしてなによりブライアン・ハワードの毅然とした美しさが印象的。セリフの細部にまでこみいった細工がなされている。
 カメラが得体のしれない動きをしないも好感がもてる。ペンシルバニアという土地もあり、森にまつわる伝説ももともと多いのだろう。「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」を想起させるシーンもある。「とらわれ」「認知の限界」といった観点からもいろいろ考察できるのだろう。ただしこうした一種の「閉じられた空間」の描写には「ダークシティ」「トゥルーマンショー」などの作品もあれど、日本の押井守監督の右にでる人はまだいないと思う。