「問題行動」…独りですべて作業がこなせる特殊な状況以外はたいてい仕事は分業化されて協調とコミュニケーションが不可欠になるわけだが、「問題行動」~コミュニケーション不足といった行動がみられる場合、「真の利益」がどこにあるのか、といったことをどこまで自覚させるのかがポイントになると思う。「ぶっきらぼう」が本質であっても、状況に応じては明るくふるまってその場をもりあげなければならないこともあるわけで…。そうした最終的な目標まで考えての「真の利益」まで考慮すれば、問題行動(遅刻やルール違反など)は劇的に減少するのではないかと思う。もっとも自分自身が問題行動を無意識にとっている場合、どうやってそれを自覚していくのかがポイントになるのだが…。
やっぱり難しいメモの管理。
①大学ノート→フィラーノートのほうが便利
②レポート用紙→メモというよりも企画・立案など
③ルーズリーフ→メモとしても案外使える
④システム手帳→会議録や商談録など
持ち運べる大きさで資料も一定程度コンパクトできるものというと、やはりフィラーノート、付箋などを一括した「仕切りファイル」ということになりそうだ。こういうのも一応は使い分けだがそれ以外は新聞などのコピーやメモをそれこそ百円ショップのカゴに放り込んで、何かの形にまとめた段階で捨てる、という作業の繰り返しにならざるをえないだろう。
①大学ノート→フィラーノートのほうが便利
②レポート用紙→メモというよりも企画・立案など
③ルーズリーフ→メモとしても案外使える
④システム手帳→会議録や商談録など
持ち運べる大きさで資料も一定程度コンパクトできるものというと、やはりフィラーノート、付箋などを一括した「仕切りファイル」ということになりそうだ。こういうのも一応は使い分けだがそれ以外は新聞などのコピーやメモをそれこそ百円ショップのカゴに放り込んで、何かの形にまとめた段階で捨てる、という作業の繰り返しにならざるをえないだろう。
なにが大事といって長期的な経営戦略や展望などをデータなどから導出できる概念化スキルほど貴重なスキルはない。経営学者カッツの分類の中でもおそらくこの概念化スキルが一番で次がコミュニケーションスキル、そしてテクニカルスキルといった順番になるのだろう。
ただ皮肉なことにどの業界でもある程度のテクニカルスキル(日常の雑務や業務の進行)そしてコミュニケーションスキル(同じ部署内や外部とのコミュニケーションや連絡)といったものをかなり長期にわたって築き上げていかないと、なかなか長期的展望というものが描けない。そうした意味でも管理職や役員としての途中からの「スカウト」というのは組織内との軋轢なども含めて相当なコミュニケーション能力がないとその多くは失敗する可能性が高い。業界には業界なりの細かいテクニカルスキルとコミュニケーションスキルの集積があり、それを無視した長期的展望や経営戦略というのにはどうしても現実妥当性が欠けて来るからだ。
一冊の本から得られる知識やノウハウは相当に大きく、また1000円ちょっとにしては考えられないほど多くの英知を獲得することができるが、書籍でもカバーできないこと。それはおそらく「経験値」(失敗も含めた)ということになるだろう。書籍を読む範囲では失敗も成功も関係ないが、失敗したときのテクニカルスキルやコミュニケーション維持などは、現実世界で長期にわたっての「経験値」を積み上げていく以外、他に方法はなく、そしてその「経験値」が最終的に概念化スキルに結実していくのだと思う。
ただ皮肉なことにどの業界でもある程度のテクニカルスキル(日常の雑務や業務の進行)そしてコミュニケーションスキル(同じ部署内や外部とのコミュニケーションや連絡)といったものをかなり長期にわたって築き上げていかないと、なかなか長期的展望というものが描けない。そうした意味でも管理職や役員としての途中からの「スカウト」というのは組織内との軋轢なども含めて相当なコミュニケーション能力がないとその多くは失敗する可能性が高い。業界には業界なりの細かいテクニカルスキルとコミュニケーションスキルの集積があり、それを無視した長期的展望や経営戦略というのにはどうしても現実妥当性が欠けて来るからだ。
一冊の本から得られる知識やノウハウは相当に大きく、また1000円ちょっとにしては考えられないほど多くの英知を獲得することができるが、書籍でもカバーできないこと。それはおそらく「経験値」(失敗も含めた)ということになるだろう。書籍を読む範囲では失敗も成功も関係ないが、失敗したときのテクニカルスキルやコミュニケーション維持などは、現実世界で長期にわたっての「経験値」を積み上げていく以外、他に方法はなく、そしてその「経験値」が最終的に概念化スキルに結実していくのだと思う。
まるっきりの「新規商品」というのは本当に天才的なマーケッターしか思いつかないもので、おそらくほとんどの企業のマーケッターは既存商品の分析からはじめていると思う。で、私自身もおそらくそうだ。
既存商品とまったく同じでは著作権法そのほかで問題になるがたとえば、既存商品の3~4をいろいろ比較検討してみて一度真似してみて、「しかしここはどうしたってまねしたくない」という段階からある程度のオリジナリティが出てくるものではないかと思う。もっともこの領域に達するまでには、読書量そのほかは相当な分量になるし、バリエーションをいろいろかけていくとしてもそれなりに頭を使うわけで、途中から「模倣」は「創造」へとつながっていくケースが多いようだ。これは人間の発明の歴史からしても当然のことかもしれない。
既存商品とまったく同じでは著作権法そのほかで問題になるがたとえば、既存商品の3~4をいろいろ比較検討してみて一度真似してみて、「しかしここはどうしたってまねしたくない」という段階からある程度のオリジナリティが出てくるものではないかと思う。もっともこの領域に達するまでには、読書量そのほかは相当な分量になるし、バリエーションをいろいろかけていくとしてもそれなりに頭を使うわけで、途中から「模倣」は「創造」へとつながっていくケースが多いようだ。これは人間の発明の歴史からしても当然のことかもしれない。
人脈作りとよく聴くが(そして自分自身も一種の異業種交流みたいなものに参加したことはあるが)、一度や二度あったぐらいではなかなか高度な仕事の話というのはできないものだし、むしろ「胡散臭い」と思われるのが落ちではないかと思う。一番地道で堅実な人脈作りとは知り合ってから何年も時間をかけて、手間隙をかけて形成していく人間関係であり、メールなどではなくなるべく肉筆の手紙やはがき、年賀状などで形成していく人間関係ではないかと思う。
忙しい人ほどアポイントメントをとるのは大変だが、安易に形成した人間関係なんてやはりそれなりのもの。手間隙をかけて作り上げた人間関係は、多少のトラブルがあってもゆるぐことはない、と思う。
忙しい人ほどアポイントメントをとるのは大変だが、安易に形成した人間関係なんてやはりそれなりのもの。手間隙をかけて作り上げた人間関係は、多少のトラブルがあってもゆるぐことはない、と思う。
認知心理の用語だが要は「まずやらなきゃやらないことをとにかくはじめる」という意味での「行動主義」。その際、行動する主体の心理状態などは考慮しないで、目先のタスクを乗り越えていくうちに心理状況も目的に沿った働きをしていく…というやや乱暴だがそうした考え方だ。
行動しているうちに環境状態などが「前より変わって見えてくる」という効果も期待できるし、それまで自分がもっていた一種の偏見(フレームワーク)が変化してくる効果も期待できるだろう。ソクラテスのいう「己を知れ」というのは、やはり机の前でじっとしていても己を知ることはできないという逆説的な意味もある。ある程度アクションを起こしてそのリアクションから自分自身を分析していくという方法もあるし、もしかするとじっと黙って座っているよりも効果があるかもしれない。
目標をもつということは今ある自分よりも未来のある時点における理想像を設定することでもある。理想像を描くのは気ままで自由だが、やはりそれも一定の行動主義が伴わなければ現実化するのは難しい。
でたとえばある企画を商品化していく場合、いきなり目標を10万売上といったとてつもないものよりもまずは過去の実績の平均値からちょっと上ぐらいを設定して目標達成をめざして目標設定をおこない、自分の「認知」の範囲内で努力を積み上げていくべきなのだろう。その結果をフィードバックしていくことである程度は改良や欠点の改善は期待できる。「商品化」って結局試行錯誤の結末なのだし、試行錯誤こそ行動主義の拠り所でもある。
行動しているうちに環境状態などが「前より変わって見えてくる」という効果も期待できるし、それまで自分がもっていた一種の偏見(フレームワーク)が変化してくる効果も期待できるだろう。ソクラテスのいう「己を知れ」というのは、やはり机の前でじっとしていても己を知ることはできないという逆説的な意味もある。ある程度アクションを起こしてそのリアクションから自分自身を分析していくという方法もあるし、もしかするとじっと黙って座っているよりも効果があるかもしれない。
目標をもつということは今ある自分よりも未来のある時点における理想像を設定することでもある。理想像を描くのは気ままで自由だが、やはりそれも一定の行動主義が伴わなければ現実化するのは難しい。
でたとえばある企画を商品化していく場合、いきなり目標を10万売上といったとてつもないものよりもまずは過去の実績の平均値からちょっと上ぐらいを設定して目標達成をめざして目標設定をおこない、自分の「認知」の範囲内で努力を積み上げていくべきなのだろう。その結果をフィードバックしていくことである程度は改良や欠点の改善は期待できる。「商品化」って結局試行錯誤の結末なのだし、試行錯誤こそ行動主義の拠り所でもある。
編集ってなに…という疑問は常々あれど、一番シンプルな定義は「必要なコンテンツを集めて不必要なコンテンツを削除すること」に尽きるだろう。資格試験問題集などでは余計な情報よりも合格に必要なスキルを育成する内容でなければその本の訴求力は間違いなく落ちる。むしろ合格ために必要なスキルや知識な何か、という視点でコンテンツを作成して、それからデザインやイラストを決定していくという作りこみのほうがおそらく読者にとっては優しい本になるはずだ。そして読者への配慮が盛り込まれている本ほど価格が同じ程度であれば、読者の購買意欲をそそる内容として訴求力をもつはずである。また、差別化についても意識して他の会社が出版していないような本でなければ差別化の意味がない。とってもはっきりくっきりした内容でわかりやすく売りやすいというのが書籍としての商品価値の第一次的条件だと思う。
たださらにその前提として編集者は「必要な情報だからこそ掲載」するが「不必要だと思われることこそ削除していく」といった残酷な切り刻みを要求されることにもなる。この取捨選択をするさいに、どうしても編集者は編集権をたてにとって、内容を切り刻み、あるいは加筆していく必要性すら生じる。それが不満なら言論の自由があるのでその原稿を別の出版社に持っていってもらうだけの話になるのだが。編集工学という学問についてはまだ学習していないが、おそらくこの「必要な情報」「不必要な情報」の組み合わせをよりソフィストケートした形での議論が尽くされているのではないかと思われる。
たださらにその前提として編集者は「必要な情報だからこそ掲載」するが「不必要だと思われることこそ削除していく」といった残酷な切り刻みを要求されることにもなる。この取捨選択をするさいに、どうしても編集者は編集権をたてにとって、内容を切り刻み、あるいは加筆していく必要性すら生じる。それが不満なら言論の自由があるのでその原稿を別の出版社に持っていってもらうだけの話になるのだが。編集工学という学問についてはまだ学習していないが、おそらくこの「必要な情報」「不必要な情報」の組み合わせをよりソフィストケートした形での議論が尽くされているのではないかと思われる。
ある種の定評を確立している書籍の場合には「キャッチ・フレーズ」は必要ないが、新刊として書籍を出版した場合には、商品としての書籍の利用方法や読み方などを提示した「キャッチ・フレーズ」は必要不可欠なのかもしれない。
これだけ新刊書籍が山のように出版されている中でブランドを発揮して、さらに購買意欲をそそり、内容をある程度吟味してもらってから購買までもっていってもらうには、まず読者の注意や興味をひく「キャッチ・フレーズ」が重要で、そのあとその内容が優れていた場合に「口コミ」で質の良さが宣伝されていくというプロセスが必要なのだろう。ウェブでの定評というものがそれほどあてにならない場合〔すでに時代はそうなっていると思うが)、一番頼りになるのは身近で実際に読んだ人が「お勧め」してくれた場合ではないかと思う。
これだけ新刊書籍が山のように出版されている中でブランドを発揮して、さらに購買意欲をそそり、内容をある程度吟味してもらってから購買までもっていってもらうには、まず読者の注意や興味をひく「キャッチ・フレーズ」が重要で、そのあとその内容が優れていた場合に「口コミ」で質の良さが宣伝されていくというプロセスが必要なのだろう。ウェブでの定評というものがそれほどあてにならない場合〔すでに時代はそうなっていると思うが)、一番頼りになるのは身近で実際に読んだ人が「お勧め」してくれた場合ではないかと思う。
テレビというのがどうしても退屈なのは「作り手」の脳の中身を一方的に受信するだけだからだろう。読書の場合には、本への書き込みやメモといった手法で、書き手の言い分に対して突っ込みをいれることができる。最近はあまり小説は読まずに経済関係や自己啓発関係が多いのだが、ただそれを「読んでいるだけ」では日常生活への応用というのが非常に難しい。一度受け取った情報なり考え方なりを自分なりに整理統合・加工して、できればグラフやチャートなどに二次加工していくと自分のおかれた生活環境の中でさらに応用がきくようになると思う。
で、その二次加工の最中に当面は必要ないと思われる事項や優先順位が低い事柄については「捨てる」勇気も必要になりそうだ。おそらくこのトータルで何でも受け入れるのではなく、「捨てる」「加工する」という自前の努力を積み上げて読書を積み重ねることが、読書をただの「趣味」にしてしまうか、あるいは仕事や人間関係などへ応用がきくものにするのかの分かれ目になるように思える。
で、その二次加工の最中に当面は必要ないと思われる事項や優先順位が低い事柄については「捨てる」勇気も必要になりそうだ。おそらくこのトータルで何でも受け入れるのではなく、「捨てる」「加工する」という自前の努力を積み上げて読書を積み重ねることが、読書をただの「趣味」にしてしまうか、あるいは仕事や人間関係などへ応用がきくものにするのかの分かれ目になるように思える。
2007年の始まり。とともにどうしても高まる「読書熱」。自分を高めようとかそんなこととは無縁に文字からイメージが膨らむ「快感」というのは読書好きにしかわからないドーパミン増殖方法でもある。書籍情報を中心に2007年、このブログの再発信です。