ごとりん・るーむ映画ぶろぐ

 現在584本の映画のあくまで個人的な感想をアップさせていただいています。ラブコメ、ホラー、歴史映画が好きです【^_^】

真実の行方(グレゴリー・ホブリット監督)

2008-01-10 | Weblog
ストーリー;教会の大司教が殺害された。警察は現場から逃走した男を現行犯逮捕。刑事訴訟で稼ぐ弁護士は名前を売るチャンスと見込んで弁護をかってでるが…。
出演;リチャード・ギア、ローラ・リニー、エドワード・ノートン
コメント;リチャード・ギアはやはりかっこいいなあ。この役をみてジョン・トラボルタの損害賠償専門の弁護士役を思い出したのだが、ともに検察庁や他の弁護士からはさげすまれている弁護士業ということになる。検察庁の元部下としてローラ・リニーが黒いスーツ姿できれいな姿をみせてくれる。この二人が画面にでるだけでこの映画をみれたことは非常に良かったのだが、エドワード・ノートンも出演しており、「ファイティング・クラブ」を先に見ているとネタがあらかじめばれてしまうという筋書きでもある。でもま、それでもいいけれど。ローラ・リニーは「目撃」や「ミスティックリバー」でもちょっと顔をみせるだけで嬉しくなるファン心理…。精神科医役としてフランシス・マクドーマンドが不気味な無表情さをみせるのもいい。この映画の役をディカプリオなどをおしのけて獲得したのがエドワード・ノートンだが、これはまあこれで…。
 陰謀めいたものもちょっとでてきて期待させてくれるが、最後はやっぱり期待はずれ。しかし俳優はそれぞれ頑張っているのでそこそこ2時間を楽しむには悪くないかも。リーラ・リニーとリチャード・ギアは「プロフェシー」でも共演しているが、この映画の方がいいかな。

フィラデルフィア物語(ジョージ・キューカー監督)

2008-01-10 | Weblog
ストーリー;フィラデルフィアに住む金持ちの娘トレイシーは、石炭会社の重役ハワードとの結婚式を控えているが雑誌「スパイ」にもぐりこんだ前の夫であるデクスターは記者とカメラマンをつれて結婚式に乗り込む…。いきなりケーリー・グラントとキャサリン・ヘップバーンの夫婦喧嘩が派手に画面に展開されるのが面白い。
出演;ケーリー・グラント、キャサリン・ヘップバーン 、ジェイムズ・スチュワート
コメント;1948年アメリカの映画。製作には、ジョセフ・マンキウィッツ。オスカー受賞トータルで4回のキャサリン・ヘップバーンが堂々たる演技。いまひとつ笑えないスクリューボールコメディといったところか。ケーリー・グラントの演技もいまひとつなのだが、気が強いお嬢さん役をキャサリン・ヘップバーンが最初から最後まで演じきっているのが見事な映画。英国出身でアクロバットもできるはず(「素晴らしき休日」など)なのにどうにも体の動きがぎこちない。が、またそれがいいというファンもいるのかもしれない。ジェイムス・スチュワートの雑誌記者ぶりもかっこいい。この映画でアカデミー主演男優賞だがフランク・キャプラの人情物語にも通じる「人の良さ」加減が白黒でかえってひきたつ。音楽がフランツ・ワックスマンでさりげないBGM感覚で画面になじむ。フィラデルフィアといえばペンシルバニア州にあるアメリカ独立の土地柄。カーネギーやメロンといった財閥もこのペンシルバニア州。良くも悪くも鉄鋼産業的な富裕層という感じで貴族種的な感じは画面からは受けない。やっぱり今見るとちょっと「成金」的な生活にもみえなくはないが、そこをキャサリン・ヘップバーンがうまくまとめてくれている。
 ラブコメとはいっても笑えないのがまず一つと、現在の字幕に誤字があったりしてそれも白ける要素の一つ。もう少し字幕をきれいにしてもらえると楽しめたかもしれない。この48年ごろの映画といえば中産階級が映画の観客として期待されていたころだが、映画の中ではかなりの上流階級と中産階級のカップル2つがドラマを織り成す。上流階級の華美な室内やプールといった舞台装置が目を引く。能天気といえば能天気な映画なのだが、赤狩りやテレビの放送開始など映画産業にとっては明るいニュースばかりではなかったこの1948年の世相を反映したコメディといえるかもしれない。良くも悪くも「プチブル」「貴族主義的」という感じで「良識」の範囲内から俳優がだれも逸脱しない。印象に残るのは白いドレスをまとったキャサリン・ヘップバーンのみという不可思議なドラマ。マーティン・スコセッシの「アビエイター」もあわせてみるとさらに面白さが増すかも。

フォッグ・オブ・ウォー(エロール・モリス監督)

2008-01-10 | Weblog
ストーリー;第二次世界大戦中は作戦司令部、その後フォードの社長をへてケネディ大統領時代に国防総省長官に任命。ケネディ暗殺後もジョンソン大統領につかえるが、ベトナム戦争への考え方の違いから解任され、その後世界銀行に実を転じるマクマナラ。キューバ危機、東京大空襲、そしてベトナム戦争と現役時代の話と11の教訓を静かにこたえていく…
出演 ;ロバート・マクマナラ
コメント;マムナマラ元国防長官が第一次世界大戦終了後の2歳のときの記憶から現在までを振り返る。副題には「11の教訓」となり、キューバ危機・ケネディ大統領暗殺・東京大空襲・ベトナム戦争など歴史的な事件の場にいあわせた証言者として、貴重な教訓と歴史の背景を語る。司令官は通常ミスをして3回ミスをしても4回目を避ければよいとする。しかし核戦争では一度目のミスが命取りになる。修羅場をいくつもくぐった男は第二次世界大戦では作戦司令部、その後フィードをへて国防総省、世界銀行と国際的な舞台で活躍し、現在は80歳をこえるがそれでもはっきりしたポリシーを持っている。スタンフォード大学(理工系の研究が優れているアメリカの大学)の進学を希望していたが金銭的な都合からバークレー校をへてハーバート大学に進学。倫理学と心理学に熱中するがハーバートでは統計管理を専攻。理性的な行動と倫理的な態度はこの倫理学と統計学という日本ではあまり並列して履修することがない科目の並行履修にも由来するのかもしれない。セピア色の学生当時の回顧風景は「ビューティフル・マインド」で描かれた作戦司令部や大学の風景を思わせる。マクナマラ流とも評される合理主義、とりわけデータ重視の合理主義は一種の誤解もあったのかもしれない。確かにデータ重視の合理主義者でチャートをひろげてプレゼンテーションする姿が印象的だが、この映画では自分を超えた何か、人間を超えた何かに「畏怖」する一人の人間の姿と声がある。
教訓1「敵の身になって考えよ」
 ゲームの理論にも通じる意思決定のプロセスを明らかにする。フルシチョフの最終的な目標は「キューバを救ったのはソ連だ」と主張したいこと、として行動し、戦わずしてミサイル配備の解除に成功する。ここで登場するのがフルシチョフと家族ぐるみで親交があったというトンプソン氏。フルシチョフのニーズを汲み取りつつ、ゲームにお互い勝てるような外交政策を進言している。
教訓2「理性に頼るな」(rationality will not save us)
 世界が一番核戦争に近づいたといわれるキューバ危機。カストロもフルシチョフもケネディも理性的だったが、核戦争が避けられたのは「運」だったと告白する。理性的であるがゆえに核戦争が発生することもありうると指摘。その後1992年1月にキューバのハバナでカストロと会見したときに当時のキューバにはすでに核ミサイル162台が配備されており、もしキューバに攻撃をしかけていた場合、核戦争に突入していたことを知る。この話をするときのマクナマラの表情が良い。おそらく本当に1992年までこの事実は知らなかったのだろう。
教訓3「自己を超えた何かのために」(There's something beyond one's self)
 東京大空襲などで10万人の死者をだした責任は作戦司令部にあり、その中にいた自分の責任をマクナマラは否定しない。今後この映画はおそらく何百年たっても歴史的証拠として保存されるのはおそらく承知しての出演と発言だ。自分の死といったものを明らかに意識しつつ、こうした発言を映画で展開するマクナマラには生半可なものではない倫理観を感じる。「神」という言葉はでなかったが、統計管理の技術でB29の高度をさげて犠牲者を出したことについて歴史の裁定を待つという姿勢がうかがえる。
教訓4「効率を最大限に」(Maximize efficiency)
教訓5「戦争にも目的と手段のバランスが必要だ」(propotinality should be a guideline in war)
 ルメイという軍幹部の名前が頻出するが、東京大空襲のさいにB29の高度を7000フィートから1500フィートにさげて目標の爆撃成功率を高める。ただしその効率の最大化は呉、岡山、名古屋、横浜といったほかの大都市のほか原爆の悲劇もうんだ。戦争という目的達成のためにはらった手段として、倫理に反する行為だったとマクマナラは語る。
「戦争にも手段と目的のバランスが必要だ」と語るマクナマラは原爆も含めてそこまで日本に対する大空襲や原爆投下が必要だったのかという疑問を呈する。「俺達は戦争犯罪人だ。戦争に勝たないかぎり」というセリフの証言に逆に身が引き締まる。
教訓6「データを極める」
 第二次世界大戦が終了後、当時赤字すれすれだったフォードに入社。統計管
理学の知識をいかして、フォルクスワーゲンの購入者を分析し、フォードの商品開発の主体をもっと大衆に切り替えることに成功する。フォード一族以外でははじめての社長に就任(ただしその5週間後にケネディ大統領から要請があり国防長官に就任)。ケネディ大統領暗殺の回想シーンではマクナマラは涙を浮かべているようだ。その一方でジョンソン大統領についてはやや批判的な印象を画面からは受ける。コメントそのものは客観的なのだろうが、回想するにあたってどうしても表情や身振りといった微妙な仕草でこの二人の大統領についての思い入れも異なってくるように思えてしょうがない。
教訓7(belief and seeing are both often wrong)
 1964年8月2日と4日アメリカ駆逐艦に対して行われた攻撃をジョンソン大統領は計画的攻撃と受け止めて、北爆を開始した。しかしその後知らされた事実は片方の攻撃は事実だが片方は攻撃ではなかったというものだった(トンキン湾事件)。
教訓8理由付けを再検討せよ(be prepared to reexamine your reasoning)
 オレンジ剤(枯葉剤)の散布について語る。マクナマラは明らかに苦渋の表情をうかべている。
教訓9人は善をなそうとして悪をなす(be order to be good,you may have to engage in evil)
クエーカー教徒が反戦をうったえて焼身自殺を図る。そして新聞などではマクナマラについて「マクナマラの戦争」といった表現が目立つようになる。
教訓10「決して、とは決して言うな」(never say never)
 この頃からジョンソン大統領との路線の対立が目立ち始める。戦死者はすでに2万5千人を越えていた。最終的には5万8千人になるわけだが…。ベトナム戦争を早く停止すべきという進言をするが、解任もしきは辞任という形で国防総省を去る。
教訓11「人間の本質は変えられない」(you can't change human nature)。
 この後、マクナマラはきわめて寡黙になる。インタビュアーの質問にも答えず、車を走らせる。ただしかしエリオットの詩を引用して「いろいろと探求した結果元の場所に戻って理解できる」という。彼はその世界銀行に移り、世界の貧困と闘う。人間の本質ということとてらしあわせて戦争がなくなるともなくならいとも断言はされていないが、安易なヒューマニズムを拒否してあくまでも現実主義に立脚しつつも、その知能を最後は世界銀行で活用したわけだ。終始ケネディ大統領への郷愁が感じられるとともにジョンソン大統領へのある種の反感がフィルムににzみでているような気がした。「戦争の責任者は」「大統領だ」と即答するなど、自分の意思決定の間違いを悔いているようにもおもえる。国防総省の元トップがここまで語り、そして表情で何かを訴えかけようとしたこの映画は、人々の映像の記憶として今後数百年も語り継がれることになるのだろう。マクナマラの考えていた戦争と実際の戦争とではやはり大きな差異があり、そこでは統計学ではなくむしろ倫理学が関係してくる分野だったのかもしれない。

コックリさん(アン・ビョンギ監督)

2008-01-10 | Weblog
ストーリー ;ソウルの都会から母親の故郷の村に引っ越してきたユジンと、ユジンと仲のいい三人組はクラスのグループからいじめられていた。このままでは死んでしまうと追い詰められた三人組は、伝説の「29番の机」の上で「霊」(リョン)を呼び出して呪い殺してしまおうとする。そしてまず一人目の犠牲者が出る…。
出演;イ・セウン、キム・ギュリ、チェ・ソンミン
コメント ;1時間半の韓国美少女ゴシックホラーといえるだろうか。粗筋は途中で破綻して、後はイメージと意外性でラストまで突っ走るという強引な手法だが、これはこれでいいのかも。イメージは「リング」「リング2」や「呪怨」の影響をかなり受けている一方で、赤や青、白といった原色の衣装が画面にはえて綺麗。日本に似ているがやはり日本よりも木や草の緑のイメージと岩石の灰色のイメージの組み合わせにインパクトがあって、ホラー映画としてはあまり楽しめないが、原色の美しさをみていく分には1時間半をなんとか乗り切れる。邦題は「コックリさん」なのだが、実際には何かの「霊」を呼び出してたたってもらおうということらしい。そこで「何か」が復活して「エクソシスト」風にもなったり、「箪笥」や「狐階段」のようにもなったりしながら、ラストまでつないでいくのだが、「霊」が実は当初思い描いていた「霊」ではなかった…加えてその地方には忘れたい過去があった…といういろいろ「実験」を積み重ねたようなホラー。作品そのものは失敗にほぼ近いと思われるが、中で取り込んでいるイメージの実験はいずれちゃんとした脚本の別の映画で活用されていくのだと思われる。こういうホラー映画での実験というのは、今日本では難しいと思う。学校を舞台にしているということで「キャリー」を思わせる場面もいくつか。洋風ホラーをアジア風にするとこうなるのか、といった楽しみもできるかもしれない。

肉体の冠(ジャック・ベッケル監督)

2008-01-10 | Weblog
ストーリー ;美しい金髪をもつ娼婦マリーは「金色の髪」という愛称で親しまれている。川でボート遊びをした後、ワインを飲もうとしていると堅気の大工マンダと出会う。マリーの情夫ロランは逆上して殴りかかるが逆にその場に打ち倒される。親友のヤクザ、レイモンは過去にマンダにいろいろ借りがあったらしくその場を連れ去るが、ロランの恨みもマリーの思いも消えなかった…
出演;シモーヌ・シニョレ、セルジュ・レジアニ、クロード・ドーファン
コメント;1952年のフランスの名作。原題は「黄金の髪」。頭の上に金髪をまとめあげたシモーヌ・シニョレがフランスのヤクザ社会の実質的な女王として君臨し、また一人、また一人と人間が消えていく。冒頭のボートのシーンでは、ゆっくりカメラは水の上をながれてくる数台のボートをとらえ、そして野外の飲み屋へ。そしてけたたましい音楽がなる中、ちょっとした男同士の諍いが起こる。一人の男と一人の女が出会い、群衆の中でワルツを踊るのだが、優雅に人ごみの中で踊れたのはこの一瞬だけ。あまりにも日常的な自然の美しさと水面の美しさの中でゆっくりと「事件」は進行していく。川面でねそべるセルジュ・レジアニが眠っているところにシモーヌ・シニョレがあらわれていたずらしながら起こそうとするシーン、暗く黒い回り階段をゆっくりのぼりながら、愛する人がギロチンにかけられるところを凝視するシモーヌ・シニョレ。印象的な場面はいくつもあり、そのどれもが頭の中に焼きついてはなれない。粗筋は東映か何かのヤクザ映画そのものなのだが、どうしてこれほどまでにも記憶から映像が離れないのだろうか、どうしてこのたわいもないストーリーに泣けてくるのかが自分でも不思議なほど。「明治侠客伝」の鶴田浩二の「泣き顔」とシモーヌ・シニョレの最後の暗闇に映し出される顔とがだぶってみえてくる。すごい。

炎のメモリアル(ジェイ・ラッセル監督)

2008-01-10 | Weblog
ストーリー;新人の消防士ジョンはボルチモア消防署の「ハシゴ隊49」に勤務(原題はladder49)。ボルチモア消防署での普段の勤務状態はどちらかといえば、仲間通し楽しく騒ぐ普通な毎日。しかしひとたび、サイレンが鳴ると全員がすぐさま出動して救助・鎮火作業に当たる。多少のいさかいはあってもチームワークは万全でジョンは結婚して子供も生まれ10年が過ぎようとしていた…そしてある日、穀物倉庫が大炎上し、その中に救助活動に飛び込むが…。
出演;ホアキン・フェニックス、ジョン・トラボルタ、ジャシンダ・バレット
コメント;ボルチモアはアメリカ、メリーランド州の州都。商業が盛んな地域だが、大統領のキャンプデービッドなどもあると同時にワシントンに近いことから連邦職員が多い地域でもある。ベセスダ海軍病院はかなり高級な病院だが、この病院も映画の中に登場する。映画の中ではわりとアフリカン・アメリカンの家が燃えているケースがあったが、このメリーランド州の人口比率ではアフリカンのほうがイングランド系統よりも多く、しかももともと南北戦争で北部に属したことのみならず現在でもわりとリベラルな地域性を有しているといわれている。こうした地域の消防署であるから、消防署のメンバーも白人と黒人の比率はきわめてボルチモア的な構成となっており、この話の舞台がもし南部の州だったならばもっと違う展開をみせたかもしれない。消防士の物語だが、チェサピーク湾に面している関係でおそらく(想像だが)倉庫などがおそらく相当あるのだろう。この映画の中では実際に建物を燃やしてロケをしたらしいのだが、倉庫が大炎上しているケースを利用している。乾燥した穀物がいったん炎上するととてつもない火力になるので、そこから救助活動を行うのは確かに物語の舞台としては最適だろう。
 さらに、ボルチモア特有の舞台として、三階建ての石造りの家が燃えているシーンがある。メリーランド州の東部にいくと富裕アフリカン・アメリカン街があり、この街に住むアフリカンの平均年収は全米の平均年収を1万ドル以上もこえ、さらには全米のアフリカン系の平均所得の2倍をほこる。人種差別をしない鎮火活動という設定で、人命救助の大切さを訴えるには、やはりこの「街」の消防署が最適だったのだろう。「ミシシッピー・バーニング」というアラン・パーカーのような映画になると今度はKKK団が貧困アフリカンアメリカンの家に放火したり十字架を燃やしたりするシーンがでてくる。想像以上に地域差が大きい国。それがアメリカなのだろう。そうした中でも微妙な連帯意識が出来上がっていく様子が興味深い。ジョン・トラボルタが演じる署長のなんともいえない人心掌握術と適切な意思決定がその要因だと思う。リーダーシップというものの何たるかをこのジョン・トラボルタの演技がお手本を示してくれているようだ。

PROMISE(チェン・カイコー監督)

2008-01-10 | Weblog
ストーリー ;明らかに身分が低い幼女「傾城」の前に、東洋の神「満神」が現れ、お告げをする。満神は価値判断はまったくもちこまず選択は人間に行わせる。それから十数年、まだ神と人間の境目がはっきりせず、また地球と天国の境目すらはっきりしない土地で軍隊を率いる大将軍は3000人の軍で2万人の敵を倒す。しかしそこでも運命の神「満神」があらわれ「これがあなたの最後の勝利だ」といいはなつ。ラストでは「運命」に負けそうな真田広之が渾身の力での立ち回りを演じるが、その場面、「薄桜記」の市川雷蔵のような悲愴さが漂い、「ラスト・サムライ」の真田広之はいまひとつだったが、この映画での真田広之はまぎれもなく悲愴さ・愚鈍さ・勇気・脱力・努力…といった人間の本性をすべて兼ね備えた欠点だらけのヒーローとして画面に輝く…。
出演;真田広之 、チャン・ドンゴン、セシリア・チャン
コメント;チェン・カイコーの作品では「子どもたちの王様」と「北京バイオリン」では涙が出てとまらないほど泣いた記憶があるが、「キリング・ミー・ソフトリー」ではあまりのバカばかしさに絶句したという記憶がある。で、この「PROMISE」では画面展開の速さにとにもかくにも楽しんだ…というのが偽らざる感想だ。鈴木清順を思わせる画面構造なのだが残念ながら鈴木清順ほど冒険はできていない。牛の大群に奴隷がけり散らかされる場面で真田広之が人間の命よりもハエのほうを気にしている。そしてチャン・ドンゴンが演じる「雪の国」出身の「崑崙」が急に四つんばいで走り出す…。どこの国とどこの国とが闘っているのかはまるで関係なく大将軍の舞台は3000人で2万人の軍隊を打ち破る。手腕はアレキサンダー大王並だったということだ。「華鎧」をまとう大将軍は実は中身よりもイメージとしての「華鎧」のほうが実は意味があり、ラストでは、「王」を殺害した汚名よりも愛を選ぼうとして闘う真田広之の姿が美しい。ストーリーは一応あることはあるが、実はないに等しい。奴隷と主人という絶対的な階級制度の中で一人の傾城の美女が存在し、そしてその美女は真の愛を知ることを満神によって禁じられている。しかしまさかと思われる確率で、運命を変えていくわけだがそれでもハッピーエンドとはいえない映像で映画は終了する。韓国のチャン・ドンゴンも日本の真田広之もいずれも中国語で演技しており、滑らかな台詞回しよりも役者の「顔」を重視したチェン・カイコーの演出はきわめて正しい。アジアの映画、というよりもそのはるか昔のポリネシアの部族社会を思わせる濃密な親族的関係と階級社会の制約の中で、裏切り者の汚名をきて行き続ける「黒装束の男」が画面に華を添える。
 赤と白の軍服がただ入り乱れ、そして黒装束の男とセシリア・チャンのけっして絶世の美女というわけではないが、かといって無視も出来ないほどの美貌と性格が大将軍と奴隷との関係性や敵と味方、故郷の裏切り者と故郷への郷愁を感じるものといった関係性を「愛」という言葉でずたずたに引き裂いていく映画手法が面白い。ニコラス・ツェーのインテリ然とした冷静な「侯爵」ぶりもまた面白く、幼少時代のトラウマが冷徹な性格に自分を仕立てたといって肉饅頭を握りつぶす。円形に幾重にも囲まれた城壁やぐるぐると回転する円形の襖ごしの果し合い、そして「紐」でわたりあう男と男といった流れはどうしても鈴木清順監督を想起せざるを得ないのだが、役者の国籍などもまったく無視した架空の世界の中で水の上をすたすたと歩くセシリア・チャンは、すでに人間というよりも別の世界の人間であることが暗示されており、それはもしかすると「傾城」といいつつ人間の神話の中に必ずでてくるクレオパトラや楊貴妃といったイメージを一点に集約した役どころといえるのかもしれない。スピーディな展開の中で、「フォレスト・ガンプ」よりもはるかに美しい花びらがゆっくりと舞うシーンや羽がふんわりまうシーンは印象的。けっして泣ける映画でもなく、すべてが笑える映画でもないが、楽しめる映画であることは間違いない。ただし映画にストーリーを求める場合には退屈に感じる人もでてくるだろうが、それは関知するところではない。

ザ・インタープリター(シドニー・ポラック監督)

2008-01-10 | Weblog
ストーリー;国連本部で働く通訳の女性。会議場である「密談」を聞き自分自身が狙われる…。
出演 ;ショーン・ペン 、ニコール・キッドマン、キャサリン・キーナー
コメント;ショーン・ペンが地味ながら良心と職業意識に悩む中年男性の役を好演。一昔前ならばクリント・イーストウッドが好んで演じたような役だが、イーストウッド主演の「シークレット・サービス」とはまた異なる生々しい精神的な傷を持ちつつ、職業倫理と現実、平和と戦争、国連と内部自治という問題に切り込む。こういうテーマは本当にシドニー・ポラックは好むなあ。題材はなま生しすぎて途中で辛くなるのだが、アフリカ何某国家主席はもともとアメリカのスラムで育ちリベラルな思想で民衆に迎えられるが、次第に圧制者として政府に逆らう人間の大虐殺を始めるというストーリー。国際司法裁判所に身柄を引き渡されるかどうかといったところが一つのシナリオの頂点なのだが、一見現実的で非現実的な話で、そもそも国際連合にそれほど期待してはならない、という現実を日本人はあらかじめもっているから、国連本部を抱えるアメリカとはまた事情が異なるのだろう。ポトマック河の映像がきれいだし、私服で公園に座るショーン・ペンも風景に溶け込んでいる。ニコール・キッドマンも演技がうまいのだがマンハッタンの日常にとけこんでいるのはショーン・ペン。また女性捜査官を演じるキャサリン・キーナーも目立つ役どころ。
「不条理を受け入れるかどうか」と問いかけるリベラル活動出身者は「機関銃を取るか言論をとるか」といった二者択一論で迫ってくる。この世の不条理に泣かされている人にはそれなりに(ストーリーは辛いが)面白い映画かもしれない。

 ひさびさにワイドスクリーンで撮影したというシドニー・ポラックはハリウッドの映画では最近珍しく横幅一杯に人物配置をするなどテレビ放映では泣かされそうだが映画ファンにはうれしい画面構成。標準サイズの映画にみなれているとワシントンの風景もまた違って見えてくる。斬新な画像をめざしているのはわかるのだが、それでも非常にイヤなのはオリバー・ストーンばりの残虐な設定と単純に描写されている独裁者の人物像。そしてさりげなく国連賛美といったところか。セキュリティに関する映画の美術構成や研究などは今後他の映画にも継承されていく要素があると思う。また国連ビルはこの映画ではじめて映画ロケを許可。モブシーンを初めて政治的「的」映画あるいは、自称リベラル派には、映画とは関係ないところで評価される危険性も大きい。
 

ポリーmy love(ジョン・ハンバーグ監督)

2008-01-10 | Weblog
ストーリー ;保険リスクの査定をしているルーベンは、新婚旅行先でいきなり妻が浮気。そのまま家路につくが、そんなおり中学生時代の同級生と偶然出会う。何事もリスクを考えて行動し、保守的にふるまう彼だったが、奔放な知人たちに囲まれているうちに行動がだんだん変化していく…。
出演 ;ジェニファー・アニストン、ベン・スティラー、フィリップ・シーモア・ホフマン
コメント;う~ん。まあラブコメなんだろうけれど、全然笑えないのが辛いなあ。ベン・スティラーの出る映画はどれもいまひとつのような気がするのだが、なぜ笑えないのかとふと考えると演技の大仰さがまず見ている側に「疲労感」を与え、さらにジェニファー・アニストンという役者がまたミスキャストで、「顔」が保守的なのにラジカルな行動をとるものだから、画面にそぐわないことおびただしい。「グッド・ガール」でもかなりインモーラルな役を演じていたが、女優の雰囲気とか顔とかって役回りをある程度決定してしまうので、こうした自由奔放という役柄がそもそも無理なのではなかろうか。「ブルース・オールマイティ」で演じた良妻賢母ぶりが一番はまっていたような気がする。で、リスクか今を楽しむかといった単純なストーリーなのだが、それでもフィリップ・シーモア・ホフマンの不可思議な演技が炸裂。意味なくバスケットボールをしたり、「ジーザス・クライスト・トリックスター」の「ジーザス」と「ユダ」、さらには「子役出身」で、保険査定の現場では劇中劇を不気味に演じていたりする。机の反対側には保険会社のリスク査定部部長のアレック・ボールドウィンが薬を飲んだりするのだが、こういう取り合わせは結構面白い。
 夕暮れとおぼしき中を黒いジャケットを羽織ったベン・スティラーとジェニファー・アニストンが何気なく二人で歩くシーンが数秒だけ流れるのだが、その一瞬は夕暮れの風とか人間が二人歩いているときの微妙な温かさを感じる一瞬でもあった。思えば99パーセントはしょうもない画面の連続と笑えないギャグの繰り返しであるにもかかわらず、それでもなおこうしたラブコメに強く惹かれてしまうのは、まるで世界観が異なる男女が夕暮れを歩いているだけで、画面に引き込まれてしまう…といった単純なことに尽きるのかもしれない。笑えないラブコメだが、それでもやっぱり見て時間を損したとは思わない。愛と笑いをなるべく提供しようという役者と監督の心意気をまず評価したい。

恐喝(アルフレッド・ヒチコック監督)

2008-01-10 | Weblog
ストーリー;刑事フランクと恋人アリスは、ディナーを食べに行くが些細なことから喧嘩してしまう。腹いせにその場で知り合った男のアパートにアリスはついていくが乱暴されそうになり、誤ってその男を殺害してしまう…。ヒチコックのトーキー映画第1作。
出演 ;アニー・オンドラ、サラ・オールグッド、 チャールズ・ペイトン
コメント;1929年作品。ヒチコックの天才ぶりをあらためて認識する名作だと思う。絵画や階段といったヒチコックの演出の巧みさはこの映画でも遺憾なく発揮されており、何気なく画面に映った絵画がラストには皮肉な結末を演出する小道具として機能。そして、アパートメントの異様な長さをカメラが上に執拗におっていく場面も凄い。白黒の映画で、衣装が白から黒へ、黒から白へと変化し、男優と女優の演技の巧みさが画面に展開する。物語の「オチ」そのものは予測可能だが大英博物館でのチェースシーンなどみていて退屈することがない。
 ラストの「笑い」の中に皮肉をこめたエンディングはトーキー映画のメリットを最大限にいかしたヒチコックの技術。1929年の作品だがこれも今ではDVDでかなり見やすくなってきた。こういう時代に映画がみれる幸せをなんと表現していいものか…。