ストーリー;百年戦争でイングランド軍に占領されたオルレアンを奪回し、シャルル7世の戴冠式を成功させたジャンヌ・ダルク。その後1430年にブルゴーニュ軍によって捕らえられイングランド軍に引き渡され、ルーアンの城に閉じ込められる。映画では異端審問裁判の様子が描かれ、即日に死刑となり火あぶりにされた1431 年5月30日の様子を1時間20分で描写。
出演;ルネ・ファルコネッティ、ウジェーヌ・シルバン、アントナン・アルトー
コメント;1928年作品の作品。サイレントだがこの映画のタイトルはもはや古典に属する部類だし今見ても名作だということに異論を唱える人は少ないだろう。デンマーク生まれのカール・テホ・ドライヤーはこの作品の他にも「吸血鬼」といった名作を撮影しているが、工業的にはあまり観客が入らずその後ジャーナリスト舞い戻る運命をたどる。人物のクローズアップが連続するのと意識的か無意識にかは判別できないがカメラが人物の頭だけをとらえたり、斜めにかしいだりする。最初は違和感があるのだが、その画面構成がだんだん恐怖を呼び起こし、ラスト間際にうなだれて黒い影にしかみえないジャンヌ・ダルクの横顔がとてつもなく怖い。最初の1時間はラストの20分のための演出の仕掛けといってもいいのかもしれない。オモチャの「冠」や短めの髪、十字架のモチーフといった細かな映像がそのあと連続して出没する「火あぶり」という映像をかなり効果的に演出。15世紀の物語がDVDでここまで再現されていいのか、1928年時点でのヘアー・メイクや衣装の粗末さといった問題点などを払拭する演出で、お金や予算とは無縁に映像が成立して映画が進行するのだという妙な感慨を覚えていくうちに映画が終了する。
白黒映画というとやはり最初は見慣れないし、どうしてもハリウッドの最近の映画では「つかみ」というのが映画の始まりから 10分ぐらいまで続くのになれてしまっているため、映画の光とか影とかに興味がもてない自分がいる。ただそれを我慢してみていくと、その映像の中に引き込まれて気がついたら映画は終了している。数百万のフィルムが現像されて世界中で鑑賞され、そして70年をすぎた後もDVDで鑑賞したくなる映画というのはかなり希少。で、この映画はそうした人類の歴史とともに親しまれてきた映像の集積で、今後も親しまれるであろう映画。理由はやはりこの映画をみるとよくわかる。映画学校などでも音楽も衣装もろくにそろわない時代の映画がなぜこれだけ怖いのかといった教材に使われるだろう。感性の問題といってしまえばもちろんそうだが、それだけではおそらくすまない。たとえば「エイリアン3」で、主人公は「処刑惑星」のマグマの中にエイリアンとともに「溶けていく」のだが、その主人公リプリーの頭は坊主頭であたかも殉教者のよう。どう考えても「エイリアン3」のリプリーはラストで70年前のジャンヌ・ダルクを継承していたとしか思えない。
字幕の内容も非常に形式的な問答だが教会組織の力が非常に強かった15世紀に異端者審問にかけられている状況で、さらにその状況下で自分の信念を貫くのには非常に困難な状況があっただろう。白い煙と炎が画面全体に広がり天に舞い上がる。そして苦痛にゆがむジャンヌ・ダルクとめらめらと燃えて灰となって消えていく「紙」がまた怖い。そして主役のルネ・ファルコネッティがラスト間際でその美しさを白黒画面に展開させ、「聖女」の表情で画面から表情を消していく様子。何度見ても美しく神々しいとしか表現できない。リュック・ベッソンも「ジャンヌ・ダルク」という映画を撮影しているが、やはりこの映画と比較してみると、カール・テオドール・ドライヤーの凄さがさらによくわかる。
出演;ルネ・ファルコネッティ、ウジェーヌ・シルバン、アントナン・アルトー
コメント;1928年作品の作品。サイレントだがこの映画のタイトルはもはや古典に属する部類だし今見ても名作だということに異論を唱える人は少ないだろう。デンマーク生まれのカール・テホ・ドライヤーはこの作品の他にも「吸血鬼」といった名作を撮影しているが、工業的にはあまり観客が入らずその後ジャーナリスト舞い戻る運命をたどる。人物のクローズアップが連続するのと意識的か無意識にかは判別できないがカメラが人物の頭だけをとらえたり、斜めにかしいだりする。最初は違和感があるのだが、その画面構成がだんだん恐怖を呼び起こし、ラスト間際にうなだれて黒い影にしかみえないジャンヌ・ダルクの横顔がとてつもなく怖い。最初の1時間はラストの20分のための演出の仕掛けといってもいいのかもしれない。オモチャの「冠」や短めの髪、十字架のモチーフといった細かな映像がそのあと連続して出没する「火あぶり」という映像をかなり効果的に演出。15世紀の物語がDVDでここまで再現されていいのか、1928年時点でのヘアー・メイクや衣装の粗末さといった問題点などを払拭する演出で、お金や予算とは無縁に映像が成立して映画が進行するのだという妙な感慨を覚えていくうちに映画が終了する。
白黒映画というとやはり最初は見慣れないし、どうしてもハリウッドの最近の映画では「つかみ」というのが映画の始まりから 10分ぐらいまで続くのになれてしまっているため、映画の光とか影とかに興味がもてない自分がいる。ただそれを我慢してみていくと、その映像の中に引き込まれて気がついたら映画は終了している。数百万のフィルムが現像されて世界中で鑑賞され、そして70年をすぎた後もDVDで鑑賞したくなる映画というのはかなり希少。で、この映画はそうした人類の歴史とともに親しまれてきた映像の集積で、今後も親しまれるであろう映画。理由はやはりこの映画をみるとよくわかる。映画学校などでも音楽も衣装もろくにそろわない時代の映画がなぜこれだけ怖いのかといった教材に使われるだろう。感性の問題といってしまえばもちろんそうだが、それだけではおそらくすまない。たとえば「エイリアン3」で、主人公は「処刑惑星」のマグマの中にエイリアンとともに「溶けていく」のだが、その主人公リプリーの頭は坊主頭であたかも殉教者のよう。どう考えても「エイリアン3」のリプリーはラストで70年前のジャンヌ・ダルクを継承していたとしか思えない。
字幕の内容も非常に形式的な問答だが教会組織の力が非常に強かった15世紀に異端者審問にかけられている状況で、さらにその状況下で自分の信念を貫くのには非常に困難な状況があっただろう。白い煙と炎が画面全体に広がり天に舞い上がる。そして苦痛にゆがむジャンヌ・ダルクとめらめらと燃えて灰となって消えていく「紙」がまた怖い。そして主役のルネ・ファルコネッティがラスト間際でその美しさを白黒画面に展開させ、「聖女」の表情で画面から表情を消していく様子。何度見ても美しく神々しいとしか表現できない。リュック・ベッソンも「ジャンヌ・ダルク」という映画を撮影しているが、やはりこの映画と比較してみると、カール・テオドール・ドライヤーの凄さがさらによくわかる。