ごとりん・るーむ映画ぶろぐ

 現在584本の映画のあくまで個人的な感想をアップさせていただいています。ラブコメ、ホラー、歴史映画が好きです【^_^】

二十四の瞳(木下恵介監督)

2013-11-06 | Weblog
ストーリー:瀬戸内海で淡路島の次に広い小豆島。昭和3年の春,女学校を卒業したばかりの大石先生は岬の端にある分教場に赴任し,12人の一年生を受け持つこととなる。一年生とすぐさま仲良くなり,打ち解けあった大石先生だが,生徒のいたずらにひっかかって落とし穴に落ち,足を怪我してしまう。その後,通勤に支障が生じたため,大石先生は本校に転勤することになる。そしてその5年後、六年生になった12人が本校に通学するようになり,大石先生は再び12人と再会。だが楽しい日々は続かず,生徒の家庭は貧困を増し,学校は軍国主義によって特高に逮捕される教員もでてきた…

キャスト:高峰秀子,月丘夢路,井川邦子,小林トシ子,田村高広,笠智衆,夏川静江,浦辺粂子,清川虹子,浪花千栄子,明石潮,天本英世,高原駿雄,小林十九二

コメント:あまりにも明るすぎる前半と暗すぎる後半の対比に見るもの誰もが涙する。登場人物も終始泣いているが、映画の中で経過する約20年間の重さに時代を超えて観客もまた泣くしかない。1929(昭和3)年には張作霖爆破事件が発生。すでにその後の世相を占う軍国主義の足音が聞こえる一方で,第1回普通選挙が実施され(1928年12月20日),アムステルダム・オリンピックで日本人が金メダルを獲得。特別高等警察が設置されたのもこの年で,物語の始点としては絶妙のタイミングといえる。その5年後の昭和9年には東北地方が冷害で大凶作となり,いわゆる女性の身売りや自殺が増加した時期にあたる。
映画のストーリーも昭和の雰囲気を知る日本人であるならば面白いことこの上ない。さらにこの映画を見つめてしまう要因は,役者たちの「顔」ではなかろうか。幼少期と成人期のタレントについては当時全国的にオーディションおこなって選出されたという。個性的な子役の顔に加えて高峰秀子のつややかな丸い顔が次第に翳りを帯びてくるその様相が、まさに昭和が暗い時代に突入し,戦後も生活が楽ではないことを物語る。
 昭和の時代や大正の時代が妙にセピア色の想い出として語られるのはあまりに脳の記憶を美化しすぎだろう。戦地でなくても暗い生活と陰湿な時期は常に身の周りに潜んでいる。そうした陰湿さが画面から時に滲み出してきつつもあからさまに画面に映し出されることは一度もないというのがやはり名画の名画たるゆえんか。「楽な時代はない」がゆえに,山の姿や海の色が変わらないがごとく、観客もまた時代が変わってもこの映画をみて高峰秀子とともに泣く。

「豚と軍艦」(今村昌平監督)

2013-11-04 | Weblog
キャスト: 長門裕之,吉村実子,三島雅夫,丹波哲郎,大坂志郎,加藤武,小沢昭一,南田洋子,佐藤英夫,東野英治郎,山内明,中原早苗,菅井きん,加原武門,青木富夫,西村晃,初井言栄,殿山泰司,城所英夫

ストーリー:米軍基地のある横須賀。GHQと警察の取り締まりでシノギの道を絶たれた日森一家。豚肉が不足しているおり,米軍基地から残飯の払い下げもしてもらえるということで養豚事業に手を出そうとする。欣太は売春防止法違反の取り締まりを受ける前はポン引きをしていたが,突如「豚肉主任」として養豚場の責任者に就任する。順調に進行するかに思えた養豚事業だったが,網走刑務所から出所し再び強盗事件で指名手配されている「春駒」が日森一家に対して恐喝をかけたことをきっかけに雲行きが怪しくなり…

コメント:白黒の画面なのに横須賀の海の白波や空気の冷たさを感じる。そして戦後約10年が経過した後の日本人の意識の変化も画面から見て取れる。単純に政治的なメッセージを読み取るだけなら簡単に「象徴理論」で解読できる。米軍基地の残飯で豚を養殖して一儲けをたくらむヤクザとは当時の日本人の意識そのものだし,軍艦とは横須賀基地に寄港する空母エンタープライズ。その中で独り意識に目覚めた女性は川崎の職工所をめざして横須賀から旅立つ…。が、この映画の「持ち味」は,MPや警察の取り締まりのなかでしたたかに生き抜こうとしているヤクザそのものの「ヌメリ感」と主人公の破滅的な行動がそのまま映画の画面に写し取られているその様相そのものののような気がする。息子に手をやく東野英治郎の姿は,その後のTBS「水戸黄門」では見ることができない侘しさを醸し出し,丹波哲郎が演じる奇妙な兄貴分の姿は,後の「北京原人」で見せる怪演に通じる奇天烈さを画面に炸裂させる。長門裕之と吉村実子がわびしいアパートで食べるパイナップルの缶詰が妙に美味しそうに見え、そしてそのパイナップルの空き缶は最後のシーンまで「春子」の家の押入れに残っていたりする。1961年の作品だから今から50年以上の前の日本を画面に写し取ったのに,最初から最後まで画面に流れる「貧困」のメッセージは政治的意図とは無関係に平成の今の時代の話のようにも見える。ときにコミカルにも見え,ときに残虐にも見えるシーンから見て取れるのは人間の「生き様」「執念」,そして「見栄」の虚しさといったはかない夢か。平成の今の時代だからこそ再評価されるべき名作ではなかろうか。

奪命金(ジョニー・トー監督)

2013-10-25 | Weblog
キャスト:ラウ・チンワン,リッチー・レン,デニス・ホー,ミューリー・ウー,フェリックス・ウォン

ストーリー:高層マンションの購入をしたがる妻と捜査に熱を傾けるコニー・チョン警部補。寡黙に捜査を続けるが妻のマンション購入熱は高まるばかり。香港では低金利が続いて土地と建物の価格が上昇を続け、中国本土の富裕層も良い物件であれば高値で買う。2009年11月ごろの話だった。同じ頃,投資銀行に勤務するテレサは投資信託の営業成績が最下位になっていた。営業成績を上げなければ解雇の可能性もある状況で,BRICSを投資対象にしたリスクの高い金融商品を投資には不向きな60歳の女性クンに販売してしまう。そしてまた同じ香港で,義理人情に厚いチンピラ,パンサーは兄貴分の保釈金のために金の工面に東奔西走していた。3人が3人ともそれぞれの立場でお金に困っているときにギリシア債務が引き金となった市場の暴落が始まった…。

コメント:青白いコンクリートの壁をカメラがなぞり,そして木造の集合住宅のなかを映し出すと68歳の加害者による65歳の被害者の血液が散乱している…。始まりから富裕層と貧困層の格差が画面で語られる。木造住宅のなかでは警察官の立ち入り捜査にもかかわらず炒め物を黙って調理している男の後ろ姿が印象的だ。「金」が本当の主役で,しかも世相を反映して紙幣そのものが画面に登場する回数はきわめて少ない。むしろ携帯電話やパソコンの画面のほうが登場する回数は多い。「貧困」はかすかに背後に流れるニュースの音声で,生活保護の受給者が増加しているという旨が伝えられるのみ。それでも「ストーリー」が観客には伝わってしまうのが今の時代を反映している。きなくさい題材を扱ってはいるのだが,人間が死んだり殺されたりといった場面にはさほどリアリティがなく,「高いローミング料金を払わせやがって」「REITですと期待収益率が7%で…」「年収60,000香港ドルの警部補」「値動きがあってこその利益です」といった日本でも良く聞かれるセリフが妙に生々しい。さて,映画はラスト近くまで「金」を中心にグルグルと展開していくが,ある転換点で,金以外の方向へ登場人物たちが向かい出す。警部補の妻は「家庭的なものへ」,警部補自身は「マンション」へ,銀行員は「営業成績」ではない方向へ,そしてチンピラは「葉巻」へ。そしてそれぞれがそれぞれに無関係に別の方向へ歩き出すシーンがある。ちゃんと「オチ」もついてて見事な映画構成なのだが、深読みすると,結論が統合していくのではなくて分散,それぞれが同じような結論に達するのではなく別々の結論に。そして物理的場所なども一切共有することなく観客は「オチ」がついたことをエンドロールで知る。これはもう「アンチ・エディプス」の世界で,欲望する諸機械は,結びつくことなく、結ばれるといった見事な展開。期待しないで見ていたが,この造り,ただの映画ではない。

絞殺魔(リチャード・フライシャー監督)

2013-10-21 | Weblog
キャスト:トニー・カーティス、ヘンリー・フォンダ、ジョージ・ケネディ、サリー・ケラーマン、アレックス・ロッコ
ストーリー:1958年、ボストンでは謎の絞殺魔が殺人を繰り返していた。最初は独り住まいの老人のみだったが、それが次第に二人暮らしの若い黒人女性などに被害が拡大。テレビでは見知らぬ人間を室内には入れないように再三注意を呼びかけるがそれでも被害が後を絶たない。そこへ偶然配管工が家宅不法侵入で逮捕された。刑事はその配管工の左手の傷に注目する…
コメント:リチャード・フライシャー監督の名作といわれていた作品。それがなんとツタヤでレンタルに出ているのを発見して早速見てみた。B級映画監督としてひっそり映画史に名を残すのみの監督だが、スクリーン分割や斬新なショットなどはやはり天才の技。「センチュリアン」「バラバ」といった他の名作とともに今後もこの作品を見る人は増えていくに違いない。
 で、この作品は実際に1960年代にボストンで発生したボストン絞殺魔事件をモデルにしている。映画では「解離性同一性障害」として「善人」と「悪人」が同居する複雑な性格の主人公をトニー・カーティスが熱演していたが、実際の犯人は幼児期に虐待を受け、その後数々の凶悪犯罪を積み重ねてきた極悪人だった。その後刑務所内で何者かに刺殺されている。映画ではそうした実際の「物語」からエッセンスを抜き取り、いわば「近代的殺人」から「構造主義的殺人」へ時代が変化していく様子を表していた。
 それまでの映画が「動機→実行」という原因と因果の関係で説明できるものだとすれば、映画の中の殺人は「人格が定まらない」「人格がデサルヴォのどの人格によるものなかがわからない」「こっちのデサルヴォならば無罪だがこっちのデサルヴォならば死刑だ」という得体のしれない結論に至る。まるで前衛映画のように真っ白な空間のなかに佇むトニー・カーティスはすでに理屈が通らない世界で無間地獄に陥っているようにも見えなくはない。
 この映画が1968年に制作。そしてレヴィ=ストロースによる「野生の思考」が発表されたのが1962年。構造主義やポスト構造主義が世間に広まったのが1960年代だからちょうど時宜には即していたのだろう。

日本シリーズ 1992年 西武-ヤクルト戦

2012-11-20 | Weblog
 野球は筋書きのないドラマといわれるが、実際に球場に足を運んだり、この1992年の日本シリーズから20回以上の日本シリーズが行われているが、この1992年を超える「ドラマ」を見たことがない。私はヤクルトファンで、この1992年ではヤクルトは王者日本シリーズに敗れ、1993年の日本シリーズで西武を下している。が、逆転に次ぐ逆転と意外性、ファインプレーの続出ということでいえば1993年よりも1992年の日本シリーズか。
 今から20年近くも前の試合ということになる。2012年の今では功なり名なり遂げた選手がキラ星のごとく登場。後に楽天ゴールデンイーグルスで監督と走塁コーチで1年だけタッグを組む伊原コーチも当時は西武ライオンズのコーチ。さらに渡辺 久信(現埼玉西武監督)、塩崎哲也(現埼玉西武二軍監督)、鹿取義隆(野球評論家)、郭 泰源(福岡ソフトバンク ピッチングコーチ)、石井丈裕(現評論家)、工藤 公康(現野球評論家)、平野 謙(中日ドラゴンズ・走塁コーチ)、石毛 宏典(四国アイランドリーグ創設者)辻 発彦(現野球評論家)、デストラーデ(野球評論家)などヤクルトファンにとっては「心憎い」天敵ぞろい。ただ、渡辺 久信はその後野村監督のもとで1年間ヤクルトで投手をつとめ、辻 発彦もヤクルトでプレイしていた時期がある。このあたりの野村監督の人材「輸入」の手腕も見事で、当時のヤクルトの宮本慎也選手や池山隆寛(現東京ヤクルトスワローズ1軍コーチ)に苦言を呈するなどの役割を担っていた。当時のサンケイスポーツを読んでいた時に池山選手に練習の取り組みについて意見する辻選手という記事を読んでのけぞったことがある(すでに大スターで広沢選手や古田選手クラスでも意見ができたかどうか…)。また抑えのエースとして活躍した高津投手には西武の塩崎哲也のシンカーやスライダーがいい勉強になったと各種の、メディアや野村監督の書籍に紹介されている。
 この1992年のヤクルトスワローズは徹底した「投手不足」。阪神タイガースなどとリーグ戦で激戦を繰り広げたが、先発投手不足は結局解消できず、現在埼玉西武ライオンズに所属している石井和久は高卒ルーキーで0勝0敗の成績でいきなり日本シリーズの先発投手をつとめた。また高野光投手、伊東昭光投手(現ヤクルトスワローズ二軍投手コーチ)、荒木大輔投手(現ヤクルトスワローズ投手コーチ)など長期間故障などによってマウンドにたてなかった投手が復活をとげたシリーズでもある。岡林洋一投手(現ヤクルトスワローズ・スカウト)が延長12回を投げるなど涙なしには見れない7つの試合が凝縮されており、ヤクルトスワローズファンとしては、日本一になれなかったのは残念ではあるが、地味な中継ぎで渋い継投を見せた金沢次男投手の連投や、西武大塚選手の走塁など見所多数。「小事が大事をうむ」という野球の地道な努力と意外性がこのDVDに集結。代打杉浦による日本シリーズの歴史では初の代打満塁サヨナラホームランは、確かにyoutubeやほかのウェブコンテンツでも見れることは見れるが、独自の再編集を施したこのDVDコンテンツで見るとまた新たな感動が…。
 とにかく中古市場にはあまり出回っていないアイテム。店頭などで見かけたら現物即購入をオススメした。

エイリアス 第1シーズン・第2シーズン(J.J。エイブラムス製作)

2012-09-11 | Weblog
キャスト:ジェニファー・ガーナー、マイケル・ヴァルタン、ヴィクター・ガーバー、ロン・リフキン、カール・ランブリー、ケビン・ワイスマン、メリン・ダンジー、グレッグ・グランバーグ、レナ・オリン、デイヴィッド・アンダース
コメント:アメリカのテレビ番組は予算に制約があるなかで、本当にとことんまで追求していくなあ、というのが実感。二重スパイというのは、「インファナル・アフェア」シリーズで、そして小道具は007シリーズでそれぞれ人気「アイテム」となっているが、それ以外にもハリウッドの過去の名作アクション映画からインスパイアされたと思しき場面が連続。ただしその連続性が緻密に計算されているので、「二番煎じ」といったイヤミのかけらはなく、むしろその配列の仕方が見事。もっとも第2シーズンまで見終わったところでやや疲労感はでてきたが、それでもここまで高い視聴率をあげ、さらに第5シーズンまで伸びていったのだからすごい。
 さらにゲストキャストもすごい顔ぶれで、クエンティン・タランティーノ、フェイ・ダナウェイ、ロジャー・ムーア、トビン・ベル、デヴィッド・キャラダインといずれも出演した過去の映画の履歴をしっかり登場場面に反映している。日本の連続ドラマでここまで展開できるかな、というとやはり難しいかなあ…。

バック・トゥ・ザ・フューチャー(ロバート・ゼメキス監督)

2012-06-24 | Weblog
キャスト:マイケル・J・フォックス、クリストファー・ロイド、トーマス・ウィルソン、リー・トンプソン
ストーリー:高校生マーティ・マクフライは親友のドクが発明したデロリアンによるタイムトラベルの実験を手伝っていた。そこへインチキ爆弾を売りつけられたリビアの活動家が銃撃をしかけてきて、ドクは撃たれ、マーティは30年前の1955年にタイムトラベルしてしまう…。
コメント:この映画…。自分が高校3年生のときに大ヒットした映画で、確か神楽坂の飯田橋ギンレイで見たような。愛好家が非常に多い映画ではあるが、ひさかたぶりに見てみると、なるほど面白い。CGはさほどのことはないが、冒頭のいろいろな時計がいきなり鳴り出すシーンとクライマックスで時計台が鳴り出すシーン(さらに小さな人形がオープニングで時計にぶらさがっていたりする)。造りが細かいというか練られているというか、その場しのぎのアイデアではなくて起承転結をしっかりおさえて作り込んだという印象。当時は「あざとい」とか思ってあまり見なかったのだが、あらためて見ると、今ここまで作り込めるSF映画は数少ないのかも…と逆に感情移入してしまう。
 PART2では30年後の2015年にタイプトラベルするはずだし、この映画に出演していたキャストももう50代。時間設定がなされていてしかも実際に30年後が近づいているのにここまで愛されている映画。「2001年宇宙の旅」以来かもしれない。あ、ヒューイ・ルイスも学校の先生役で登場している。

インモータルズ(ターセム・シン監督)

2012-05-19 | Weblog
キャスト:ヘンリー・カヴィル、ミッキー・ローク、フリーダ・ピントー、スティーヴン・ドーフ、ルーク・エヴァンズ、ジョン・ハート、ジョセフ・モーガン、グレッグ・ブリック 、アラン・ヴァン・スプラング、ピーター・ステッビングス、イザベル・ルーカス、ケラン・ラッツ、スティーヴ・バイヤーズ、スティーヴン・マクハティ、ロマーノ・オルザリ、コーリー・セヴィア、ロバート・マイエ
ストーリー:ギリシアの貧しい農家の息子テセウスは母と二人の家庭に育ち、村人から疎外されながらも一生懸命暮らしていた。そこへハイペリオンが悪の帝国を立ち上げ、その昔神々によって閉じ込められたタイタン族を解放すべく侵略を開始する…
コメント:ターセム・シンの初めての映画作品「ザ・セル」はその後DVDを購入してなんども見直した。この映画は「300」のスタッフが再結集というのが売り文句になっているようだが、日本人でアカデミー衣装賞を受賞した石岡瑛子さんが衣装を担当し、ターセム・シンがメガホン、「スラムドッグ&ミリオネア」のフリーダ・ピントーが出演しているというのが本来の売りではなかろうか。
 主人公のテーセウスはギリシア神話の登場人物でトロイゼンで生まれる(父親はゼウスのはずだが映画ではなんにも触れられることがない)。ミノタウロスの退治で有名だが、この映画にも頭が牛のミノタウロスは伝説とは違う形で登場する。人間が入れる牛の「器」もギリシア神話とは異なる形で引用されており、ターセム・シンが神話を21世紀型に巧みに造形。ハイペリオンもギリシア神話に登場する人物で、タイタン族の一人。映画の中では言及は詳しくされていないが、その昔にあった天空の戦争というのは、ゼウスとその父クロノスとの戦い(ティタノマキーア)を指すのだろう。タルタロス山に隔離されたタイタン族という設定で、それを解放しようとするハイペリオンと阻止しようとするテセウスという構図である。ギリシア神話のうちゼウスが定着する前の自然神という位置づけがあるらしいので、いわゆるネイティブ対ギリシア文明人という構図とも読み取れる。
 ターセム・シン監督がストーリーの細部にこだわるほうではおそらくなく、場面場面ごとの映像美を重視していることががんがんに伝わる映画で、重要人物と思われた人もあっけなく画面から退場してしまい、ラストは16世紀デンマークあたりの絵画のような立体美で映画が終了する。個人的にはこういう映像美学至上主義の映画大好き。
 「老人」役で出演しているジョン・ハートはその昔「エレファントマン」で主役をはり、「エイリアン」第1作でエイリアンの人類最初の犠牲者になった人を演じた。独特の崩落感がなんともいえずいい感じで、この映画でも「外面だけは崩落」している様子が画面ににじみでている。ナレーションも聞いてて心地よい。

ぼくのエリ 200歳の少女(トーマス・アルフレッドソン監督)

2012-05-19 | Weblog
キャスト:カーレ・ヘーデブラント、リーナ・レアンデション、ペール・ラグナル、ヘンリック・ダール、カーリン・ベリ
ストーリー:ストックホルムで母親と二人暮らしのオスカーは学校ではいじめられっ子。一人で遊ぶ毎日だったが、ある日隣の部屋に同い年の女の子オスカーが引っ越してくる…。そして街では残虐な連続殺人事件が発生するようになった…。
コメント:マット・リーブス監督により、アメリカで「モールス」としてリメイク。リメイクのほうを先にみたが、原作はこちらのスウェーデンの作品。なんというかストックホルム郊外とアメリカ郊外とではまず空気の質感が違う。アメリカは冬のテキサスという設定で一応雪景色にしているのだが、雪のずしっとした重みはやはり原作のほうが圧倒的に素晴らしい。そして「物語」だがアメリカ作品は時間軸をあえて2週間ずらしている。時間軸のずらし方はアメリカ作品のほうがうまい。冒頭で「あれ?これどうして?」という観客の興味を引くにはスウェーデン作品、やや弱い。さらに「どうして引っ越してきた女の子は雪の中を裸足なんだろう?」という足に着目した見せ方もアメリカのほうがうまいなあ。
 アメリカ作品もスウェーデン作品も主人公の父親は離れて暮らしているが、スウェーデン作品では父親の存在は画面に出てくる。ただし息子はなんとなく疎外されているという位置づけだが、アメリカ作品は狂信的なキリスト教徒の母親と電話でしか会話しない父親という設定。父親不在が画面にでてこない分だけアメリカの方が強烈だ。
 ただアメリカ作品、やはり「ゾンビ」をうんだお国柄だけあってなんでもかんでも見せよう…というのがやりすぎの感もある。なんでもかんでも見せたいからアメリカでは1980年代に時代設定したのかもしれないのだが、「化け物登場」やらなんやらという場面をあまりみせられると食傷してしまう。「パラノーマル・アクティビティ」みたいな見えない恐怖とかもっと逆に追求する演出もあったかもしれない。ストーリーはほぼ同じなのだが、映像の切り取り方で別の作品になってしまうという面白さ。昔「勝手にしやがれ」をリメイクしたリチャード・ギア主演の「ブレスレス」という映画も見たが、ああなるほどリメイクとはあくまでもストーリーとごく一部の設定だけを借りるということなのだ、ということを理解。

 映画の中でオスカーが「女の子じゃない」と自らを評する場面があり、これは翻訳が「難しい」シーンだが「もう大人なんだ」の意味合いで「フリーク」とか「化け物」という意味合いではない。

一命(三池崇史監督)

2012-05-14 | Weblog
キャスト:市川海老蔵、役所広司、瑛太、満島ひかり、竹中直人、笹野高史、中村梅雀、新井浩文
評価:☆☆☆☆☆☆☆
ストーリー:近江国彦根藩主家の井伊家には、2ヶ月をへて再び「庭先で切腹させてほしい」と依頼する浪人・津雲半四郎があらわれた。2か月前にも千々岩求女という同じ広島・福島家の家臣の家族が切腹を依頼し、自害していたため、参勤交代で井伊直孝は近江に帰国していた。江戸の留守を預かる斎藤勘解由は難色を示し、2か月前の出来事を語りだす…
コメント:海外の映画ファンは武家諸法度やら参勤交代やらをどう理解していたのか興味深い。移封された福島正則についてもおそらく知らないはずだが、賤ヶ岳の七本槍とか小牧長久手の戦いなどのエピソードから敷衍してみると、この福島家家臣のいきどころのないやるせなさがより伝わる。
 で、この映画、いきなり冒頭から「牛」の絵が映し出される。三池監督のもう一つの傑作「ゼブラーマン」では銭湯のなかをいきなり本物の牛が横切るシーンがあったが、これおおそらく意図的な演出だろう。牛の絵の視点はどこが焦点なのか定まらない。が映画の中では常にリフレインして出てくる屏風で、これは2か月前と「現在」を対比させる効果がある。また「猫」も斎藤勘解由の真っ白な猫と千々岩求女の野良猫との対比がある。小津安二郎の「鳥かご」が時間の経過をあらわすのに一つの演出装置になっていたが、この映画では人間以外の牛の屏風や猫が演技をしているのが興味深い。日本映画では昨今「雪」の演出がなんだかあざといところがあったが、この映画では雨がふりつつそれが次第に雪にかわり、振るべきときに雪がふるという演出が心憎い。それが最後井伊家(井伊直政)の「赤備え」にまで至るのだから最初から最後まで見事にきっちり演出がはまっている。広告宣伝では「正義」という言葉がでていたが、監督の意図は「正義」がどちらにあるのかなどには興味がないようだ。
 で、この映画、やはり主役の市川海老蔵が存在感を発揮。役者のなかでは悪役の役所広司の怜悧さと「善役」の市川海老蔵のなんともいえない色気が画面上で拮抗。市川海老蔵の色気を際立たせるために色気ゼロの満島ひかりが起用されたのか…とまで思いたくなるほど、あんまし魅力的な女性が出てこないのも演出のうちか。いろいろトラブルも起こした市川海老蔵だが、これだけの演技と存在感があればやはりちょっとやそっとのスキャンダルでは芸能生命は終わりそうもない。

127時間(ダニー・ボイル監督)

2012-05-14 | Weblog
キャスト:ジェームズ・フランコ、ケイト・マーラ、アンバー・タンブリン、クレマンス・ポエジー、トリート・ウィリアムズ
ストーリー:誰にも行き先をつげずに出かけたアーロンは自分の第二の故郷キャニオンランズ公園へまっしぐら。途中車ですれちがったサイクリングのメンバーに手をふることもせず自分のことだけ考えて走り出す。そして2人のキャニオニングを楽しみにきた女性2人を案内したあと、洞窟で右手を岩にはさまれ動けなくなる。手持ちの水は150ミリリットルとなり事態は絶望的になっていた…
コメント:2003年4月25日、ユタ州キャニオンランズ国立公園にでかけたアーロン・ラルストンの実話を描く。ダニー・ボイルは「スラムドッグ&ミリオネア」でアカデミー賞を受賞しているが、そんなことはまるで気にしていないかのような低予算映画。キャストはほとんどジェームズ・フランコ一人だが、この難しい役をジェームズ・フランコが飄々と演じているのが好ましい。これがロバート・デニーロ風の重苦しい演技だったら1時間半は観客は責め苦を受けているような気持ちになっただろう。岩に右手をはさまれたラリーは精神が錯乱してくると同時に過去の悲しい失恋の様子なども想起していくが、野球場で一人うつむいているジェームズ・フランコの斜めから観た顔がなかなか。「バレエ・カンパニー」(ロバート・アルトマン監督)でも恋人のために料理を作って一人で帰宅するときの背中がなかなか良かったのだが、「猿の惑星」とかで無理にハイテンションな演技をするよりもダニー・ボイルや亡くなったロバート・アルトマンといった監督の作品のほうが本人も演技しやすいのではなかろうか。サム・ライミの「スパイダーマン」シリーズにも出演していたが、こういうビッグな監督に見出される才能の根源は「寂しげな顔と背中」にあるのではないか、というのが私見である。
 映画のなかではトラブルにまきこまれた主人公が「think,think」といいながら、まず自分の手持ちの道具を一覧にして確認するとともに時計で計測を始めたのが印象的。結果的に命が助かるのだが、この冷静な判断力と状況確認が凡百の映画とは一線を画している。

ナチス怒涛の侵略(フランク・キャプラ監督)

2012-05-06 | Weblog
コメント:「素晴らしき哉、人生」「毒薬と老嬢」のフランク・キャプラ監督による一種のプロパガンダ映画。とはいえ、アニメーションや実写フィルムを織り交ぜたその手法はやはりフランク・キャプラ監督ならではのもの。よく歴史の教科書に「マジノ線」というフランスがしいていた防御ラインについて言及があるが、その構造はこの映画をみて初めて知った。またなぜドイツがオランダ、ベルギーそしてノルウェーに侵攻したのかその理由も地図で図解されている。リトアニアの在外交官だった杉原千畝氏が日本のシンドラーとして諸外国ならびに国内でも評価が高いが、なぜそれではドイツがバルト三国とよばれたリトアニアに侵攻したのかその理由までは言及している歴史の教科書は少ない。大英帝国を東側から空爆するためにもスカンジナビア半島に拠点を作る必要があったためだが、第二次世界大戦開始直後のドイツ陸軍の動きは確かに才気あふれるもの。電撃的にフランスなどに侵攻していくその手腕は見事だったが、すでにこのDVDでもうっすら予想がつく展開ではあるが、侵攻はできても治安を維持するのは難しい戦法だった。
 プロパガンダとはいえ、ノルウェーに対する侵攻やデンマークやオランダ、ベルギーなどへの侵攻は不可侵条約などを無視したかなり豪腕の侵略だ。連合国側にはかなり甘い内容となっているが、少なくとも中立を維持しようとしていた国々への侵略の様子はかなりひどい。ポーランドをソビエト連邦と分割統治した歴史も、かつてオーストリアやプロイセンがそうだったごとくポーランド民族にはわすれがたい歴史だろう。とはいえそこまでひどい歴史を刻みつつもEUという壮大な試みが現在なされているところに欧州各国の未来への意気込みを感じる。ギリシアやイタリア、スペインといった国々の財政赤字の問題などはこうした歴史の流れのなかでは大きな問題ではないような気がする。

ドライブ・アングリー(パトリック・ルシエ監督)

2012-05-06 | Weblog
キャスト:ニコラス・ケイジ、アンバー・ハード、ウィリアム・フィクナー、ビリー・バーク、デヴィッド・モース
ストーリー:誰もが「死んだ」と思っていた男ミルトンは、自分の娘とその夫をカルト教団に虐殺され、孫娘を誘拐されたことから執拗な追跡をくりひろげ、途中カフェテリアで会った娘バイパーとともにカルト教団を追い詰めていく…
コメント:だれもがそうはいわないが、この映画、明らかにクリント・イーストウッドの「荒野のストレンジャー」「ペイルライダー」を現代版に焼き直したものだろう。「ペイルライダー」では「青白き馬に乗りた男来りて…」とヨハネの黙示録を金鉱掘りの娘がつぶやくとクリント・イーストウッドが馬に乗って現れたが、この映画ではダイナーを辞めたばかりの娘が恋人にDVを受けている最中に車を持っていないニコラス・ケージが現れる。ま、別に物語の設定上、ニコラス・ケージは別の車でもよかったような気もするが、それをいっては「シェーン」はなぜあの家族のあの男の子だったのか、「マトリックス」はどうして「ネオ」だったのか…と粗探しになってしまうのでそれは問わない。で、登場人物の名前からして「ミルトン」。これは「失楽園」の作者である17世紀イングランドのジョン・ミルトンをなぞった名前だろう。いわゆるサタンとその系譜についてキリスト教にも影響を与えた「失楽園」。すでに冒頭から粗筋は決まったようなもの。まあ…アクションシーンはたいしたことなく、カルト宗教とはいっても「生贄」がはたしてアメリカのカルト教団にふさわしいものかどうかは疑問。生贄ってなんだかパレスチナかあるいはメキシコ系カソリックの影響を受けたカルトあたりのほうがしっくりくるが。
 セリフのなかに「地獄の門」という言葉があり、これはダンテの「神曲」をモチーフにしたものだろう。おそらくは「地獄から脱出」ではなくて「煉獄から脱出」のほうが納得がいかないわけではない。しかしまあ、そうしてしまうとアクション映画というよりも小難しくなるので「地獄」と脚本はなったのかもしれない。
 映画の中でauditorが「監査役」と翻訳されていたが、これは「審問官」のほうがより適切な翻訳ではないかと感じた。株式会社ではないので監査役というよりも地獄の審問官という位置づけでないと、どうもしっくりこない。審問官だからまだニコラス・ケージの善悪の是非までは判断がつかず、そこでコイントスの出番となる。映画で突然コイントスをして「運が良かったな」というセリフがあるが、これは神ならぬルシファーにお伺いをたてる意味でのコイントスだったのだろう。

猿の惑星:創世記(ルパート・ワイアット監督)

2012-05-03 | Weblog
キャスト:ジェームズ・フランコ、フリーダ・ピントー、ジョン・リスゴー、ブライアン・コックス、トム・フェルトン、ジェイミー・ハリス、デヴィッド・ヒューレット
ストーリー:製薬会社の花形研究者ウィルは傷ついた脳細胞を回復させる薬を発明しようとしていた。アフリカ大陸から運び込んだ猿を対象に実験を繰り返していたが、最も顕著に知的活動が進歩したメス猿が突然暴れだし死亡。その息子をやむなく家で育てていくが…
コメント:最も性質の悪いボス猿は実はジェームズ・フランコ演じる研究者ウィルではないか、と…。シーザーはネーミングはローマの独裁執行官を思わせるが映画の中ではきわめて穏便に、しかも民主的手続きを踏んでいるように見える。一方で人間のウィルは製薬会社の内部規定は無視するは、製薬開発を進めろといった途中で「やっぱりやめる」などと言い出し、それじゃあ普通はレイオフになってしまうのも無理ならかぬところ。シーザーが家に帰りたくない理由。それは研究者ウィルが鼻持ちならない独裁者だからではないか、と。恋人のインド系アメリカ人のキャロラインですら、なんだか猿のシーザーとさしてかわりがない扱いにみえるのは私だけか。
 さて旧「猿の惑星」シリーズは第1作から第5作まで製作された。第2作では未来の世界から「現代」へシーザーとその妻コーネリアスがやってくる。ちなみに「猿の惑星1と2」で登場するコーネリアスはこの映画のなかでちらっと紹介される。また旧「猿の惑星」で登場するイカロス号はこの映画のなかではニュースの報道でちらっと登場。もともと名前がイカロスなので、墜落するのが「予定」されている感もある。旧「猿の惑星」シリーズは人気されあれば、とことん続ける…という意地で続けた感じもあり、それがかえって第1作の価値をも押し下げたが、2011年になってまた新たな物語が始まるのも不思議だ。人間が進化のトップにたつという自信が揺らいでいるせいかもしれない。旧「猿の惑星」は、マッカーシズムによる「赤狩り」と猿の人間狩りをオーバーラップさせ、「猿の惑星2」にはベトナム戦争やベトナム戦争に用いられたナパーム弾などの影響がかいまみえる。それでは、21世紀の「猿の惑星」には何が反映しているかというと、リーマンショックによる世界同時不況。エンディングのタイトルロールをみると直線が画面をはいわたり、それが分岐し、さらに枝分かれしていく様子がうかびあがる。これって一つの「終末」が瞬時に世界をかけめぐる様子をグラフィカルに表現したものだろう。少なくとも1968年ごろの世界ではこうした「終末」もしくは世界の崩壊は予想されていなかったはずだ。もし次の「猿の惑星」が製作されるとしたら、世界同時不況ではない別のテーマが画面に色濃くにじみ出てくることだろう。
 
 さらにキャスティングでいうと、けっこう地味に豪華。トム・フェルトンは「ハリー・ポッター」シリーズで悪役ドラコを演じた俳優。魔法の杖のかわりに感電棒をこの映画では持っている。アルツハイマーの父親役はジョン・リスゴー。アメリカテレビ「デクスター」の第四シリーズでゴールデングローブ賞を受賞。この映画ではうってかわってアルツハイマーの患者を熱演している。フリーダ・ピントーは「スラムドッグド&ミリオネア」でヒロインを演じた女優。主役のジェームズ・フランコは「スパイダーマン」が有名だが個人的にはロバート・アルトマン監督の「バレエ・カンパニー」で演じた料理人の役が好き。この映画ではなんだか鼻持ちならないのだがこれはやはり脚本のせいだろうなあ…。
そろそろ「猿の惑星」から離れて「キリンの惑星」とか想定外の進化の歴史を映画化してもいいのでは、とか思う。オゾン層が弱体化して植物はいずれも異様な育ち方をし、生物はキリンなど首が長い動物が優勢となって人類はいずれも皮膚がんでばたばた死滅し、3000年後の地球ではキリンが文明を司っていた…。だめか…。

ハンナ(ジョー・ライト監督)

2012-05-02 | Weblog
キャスト:シアーシャ・ローナン、エリック・バナ、ケイト・ブランシェット、トム・ホランダー、オリヴィア・ウィリアムズ、ジェイソン・フレミング、マルティン・ヴィトケ
ストーリー:金髪の少女ハンナは「父」からサバイバルや語学の授業を受けつつ、電気製品がまったくないフィンランドの木製の小屋で暮らす。ある日、「外」にでむいたハンナは、モロッコのCIA支部に監禁される‥
コメント:アクション映画ではあるが、フィンランド、モロッコ、スペイン、ドイツとロケーションを変えていくロードムービーでもある。アメリカで制作されたのに画面は異国風だ。撮影はドイツ、フィンランド、モロッコでおこなわれたというが、アクションシーン1つにしても空気や光の色がハリウッドのほかの映画とはぜんぜん違う。ベルリンの住宅街も通常のハリウッド映画で使用されるようなロケーションとは異なり生活の匂いがする。ヴィム・ベンダースなどドイツ出身の監督はやはり空気の質感が違うが、その理由はこのアクション映画をみるとなんだかよくわかる。自動車のシーンでは「風」がうまく表現されており、アクション映画は「風」の表現で良し悪しが決まるという気がした。ダニー・ボイル監督の「28日後‥」でも意味なく英国郊外の風景の「風」をキリアン・マーフィの「手」が演出していたが、この映画では主役のシアーシャ・ローナンの「髪の毛」が風の演出をしている。
 俳優では不気味な元CIAエージェント役のトム・ホランダーが圧巻。身長は165センチと欧米人にしては低いが、その身長の低さが役柄にマッチ。「パイレーツ・オブ・カリビアン」でもベケット卿の役がはまっていたが、エリック・バナやケイト・ブランシェットに勝るとも劣らないキャラの立ち具合。「何かとてつもない手ごわい敵」というのもアクション映画では必要不可避だが、予算がたくさんあれば「ロード・イブ・ザ・リング」のように悪の大群を画面に映し出すことは可能。ただそうでなければ「レオン」のゲイリー・オールドマンや「ダイ・ハード」のアラン・リックマンのような個性豊かな悪役を画面に出すにかぎる。この映画ではトム・ホランダーがその重責を担い、十分にその役割を果たしている。