本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

新聞。

2009-03-29 22:06:14 | web・メディア
新聞業界の苦悩 自らの首を絞める「押し紙」問題 3月29日13時0分配信 MONEYzine

 日本は世界でも「新聞大国」として知られている。国内の全国紙の発行部数は読売新聞の1002万部をトップに、朝日新聞803万部、毎日新聞385万部と続く。この発行部数は世界の新聞紙と比較しても郡を抜いた数字で世界トップ3を日本勢が独占している。海外では米国で首位の「USAトゥデイ」が227 万部、英国の「ザ・サン」でも307万部程度だ。

 しかし新聞業界がこれまで築いてきた強固な地盤も近年では崩れつつあるのも事実。年々読者の新聞離れが進み、広告費は縮小傾向にあり、大手新聞社は軒並み業績不振に苦しんでいるのだ。そのような中、限界に近づいているのが「押し紙」という業界の悪しき習慣だ。

 一般にはあまり知られていないが、「押し紙」とは新聞社が新聞配達業務などを請け負う販売店に販売した新聞のうち、購読者に届けられなかった売れ残りを指す。印刷所で刷られた新聞はすべてがユーザーに行き渡るのではなく、廃棄される部数がかなりの割合で存在するのだ。そのため実売部数と公称部数はかなりかけ離れているのが実態で、その数は新聞社によって異なるものの、2割とも3割とも言われており、場合によっては「5割に達するケースもある」(業界関係者)という。

 なぜ新聞社はユーザーの手元に届かず廃棄されてしまう無駄な部数を刷るのだろうか。主な理由としては2つある。1つが新聞社の売り上げを増やすため。そしてもう1つが広告料を高く取るためだ。

 まず1つ目だが、新聞社は販売店契約を結んだ時点から販売店よりも有利な立場にあるため、過大なノルマを販売店に課すことがある。このノルマのうち達成できない分は、当然大量の売れ残りとして発生してしまうが、販売店は廃棄分を含んだ代金を新聞社に支払わなければならない。新聞社は売れようが売れまいが、販売店に押し付けてしまえば売り上げが計上されるが、「押し紙」の数が多くなればなるほど、販売店の経営はきびしくなってしまう。実際に元販売店と新聞社との間で「押し紙」問題をめぐって訴訟問題にまで発展している例もある。

 しかし新聞社は売り上げもさることながら、広告収入を維持するために発行部数を落とすことはできない。これが2つ目の理由だ。新聞の紙面にはたくさんの企業広告などが掲載されているが、新聞社は広告クライアントに対して公称部数をもとに広告枠を販売している。もし「押し紙」分を除いた実売部数が明らかになれば広告収入は大幅に減少する上に、「これまで水増し発行部数分の広告料を摂られていた」とこれまた訴訟問題に発展するリスクも出てきてしまう。

 これまで新聞業界で公然の秘密となっていた「押し紙」問題だが、これ以上続けた場合には販売店から、止めた場合も広告クライアントからそれぞれ訴訟問題に発展する可能性がある。ゆがんだシステムではあるが、長い間機能してきただけに、「押し紙」を廃止することは容易ではなく、業界は身動きができない状態に陥っている。

============

 ↑ 新聞各社が系列の販売店に実績を遥かに超える量の新聞を日々押し付ける第一の理由は、上記記事の二番目にある「広告収入」への影響からである。記事のように「売れ残った新聞」を「押し紙」というのではなく「過剰な量の刷り上りを、売れ残り前提で押し付ける行為」を「押し紙」と呼ぶのである。
 新聞社はスポンサーからの広告収入が主だった収入源であり、広告料金を算出する根拠を公称の発行部数に置いているため、部数が減少してはならないという至上命題がまず先にあるのである。同様に各販売店の旨みのある収入源はチラシ(折込広告の手数料)であって、個々の読者から徴収する新聞購読料などは印刷・配送・戸別配達・拡張員への報酬等々のための諸経費で簡単に吹っ飛んでしまう額でしかないのである。

 日本のいわゆる「全国紙」という概念はアメリカにはなく、WP紙もNYtimes紙もみんな言わば「一地方紙」に過ぎず、「系列」の新聞販売店というものもない。
 映画やドラマでよく見掛けるように、新聞配達員は「全部丸めて芝生にポン!」である。過疎地の新聞店のように系列を廃止して一軒でその地区の宅配を統括すれば確かに流通は合理化されるが、代わりに雇用は縮小するしかない。ことは新聞に限らず、問屋や中間業者等全ての商品の流通を簡素化すれば商品は安くなるが、今度は人間が余ってしまうというのが日本的事情である。

 古新聞には古紙と残紙がある。両方とも別々の問屋があって回収している。古紙は普段我々が目にする「古新聞・雑誌」の回収業者である。一度でも人手に触れた新聞は「ふるしんぶん」であるが、各販売店には急送トラックで配送はされたものの過剰な「押し紙」のため一度も梱包を解かれることのなかった新聞が多量に残る。ビニールで包まれ、バンドで結束されたままの新聞の束である。これを残った紙=「残紙」というが、ご心配には及ばない。笑。これにはこのための専門業者がいて、そのまま裁断されてパルプの原料に投入されてしまうことはない。工業製品や農産物の緩衝材として「残紙」は広く使われているのである。が、何が無駄と言ってこんなに無駄な話もない。「資源節約」だ「エコ」だと日頃ご大層な論陣を張っている新聞各社だが、自分が自分の都合だけで日々産出している「無駄」に触れることはない。

 ちなみに『毎日新聞』が一時経営困難に陥ったのは、この「押し紙」に頼った強引な経営手法によると言われている。過当な「紙」を販売店に押し付け、それを(読者を獲得して)金に換えるも、むざむざ「残紙」のまま抱え込んで問屋へただ同然に売り放すも、全てはこれ各店主の手腕次第という過酷な方針が販売のルートを枯渇させてしまったというものである。かつては一世を風靡した『毎日新聞』は今、発行部数では一ローカル紙たる『中日新聞』のグループに抜かれ、『聖教新聞』の印刷・配送を請け負うアルバイト(?)までして糊口を凌いでいる。
 自由主義経済なんだから経済原則に則って何をしたっていいわけだが、自称「社会の公器」たる新聞は果たして有力顧客に対して忌憚ない意見を発し得るのかどうかということが当然問われて来る。

 ところで新聞と言えば「景品」と「拡張員」である。「景品」というシステムを最初に始めたのは『読売』である。右手に契約書、左手にフライパン(?)を持った拡張員が全国軒並みの戸別訪問に押しかけ、結局はこの方法で全国制覇を成し遂げたわけである。(それまでは『朝日』の天下であり、更にその前は『毎日』の天下だった。)
 フライパンとかちょっとした家電とかの「景品」(拡張員たちはこれを拡大のための材料即ち「拡材」と呼ぶ)は、不具合品とまでは言わないまでもかなり胡散臭い代物だったが、新聞を契約して購読する習慣のなかった人たちは「判子をついてプレゼントを貰えるなら♪」とこれに飛びついた。仕入には当初カッパ橋のB級品とかをまとめ買いしていたが、そのうち「拡材」専門に造る町工場も誕生した。

 こうして全国紙vs地元紙、更には全国紙同士の「拡張戦争」が始まる。私は昔「実録・新聞拡張戦争」とかいう東映ヤクザ映画を見たことがある。w
 都市部で有名なのは名古屋圏に於ける『中日新聞』vs『読売新聞』の熾烈を極めたバトルで、闘いに敗れた読売は一時期この地区からの撤退を余儀なくされたが、『中部読売』として復活した後でも夕刊はついに発行出来なかった。しかしこの『夕刊廃止』という事態は今や苦境に立つ地方紙のトレンドになっている。

 読者獲得のため、新聞各社は競って①無代紙の提供と②景品のプレゼントを繰返した。過当競争の「自粛」は何回も何十回も共同で申し合わせ、その都度ご丁寧に各紙は申し合わせを朝刊の折込チラシとして各戸に配布したが、そんなものは守られた試しがない。無代紙で言えば「一年契約してくれればその前の半年間は無料」とかそのバリエーションは様々で、景品で言えば自転車・電子レンジなどは序の口で、1万円の地元デパート商品券とかこちらも多種多様である。これにかかる費用は新聞社と各販売店との折半ということらしく、販売店主はと言うと、これは必ずしも永代その店をやって行こうという人ばかりではなく、その地区の読者数を極限まで増やしたところで経営権を他に売り飛ばして自分はまた別の店に手を付けていくという人間も珍しくない。

 ところでお得意さんというか常連客に対してこれ程冷淡な業界は他にないのではないか。いわゆる「釣った魚に餌は要らない」という奴で、何年も何十年も自分のところの新聞を購読してくれた顧客にはせいぜいゴミ袋1パック、逆に新しい読者には無代紙や高価なプレゼントの進呈である。
 ここに高い代償を支払ってでも欲しいのはあくまで(現在)他紙を購読している読者であって、自分の新聞の読者は(好きで読んでいるんだから!)放っておいてもいつまでも読み続けるだろうという思い上がりがある。

「拡張戦争」は多くの「交代読者」を生み出した。
「契約がXX年XX月まである」というと「その先をくれ」と拡張員は言う。先を契約すると別の新聞の拡張員が来て「更にそのまた先をくれ」と言ってプレゼントを置いて行くという、その繰り返しである。「交代読者」は言わば拡張員らの「飯の種」である。彼らの仕事は「ひっくり返す」ことだからである。

 ところで最後に契約の種別だけれど:

①契約期限の切れた読者の「継続」契約は「シバリ」と言って一番価値が低い。自紙の継続だから当然という態度である。通常これは店員の仕事である。
②以前自紙を購読していた読者を復活させることを「オコシ」と言って、これは店によっては③の「シンカン」同様の価値を認める。
③新しい読者の契約を取ることを「シンカンを叩く」と言い、これが一番価値が高く、引越しして来た家庭の「シンカン即入」の契約をとるとプレミアがついて六ヶ月契約でも1万円くらいのギャラは楽勝だろうか。但し店に専属の従業員は自分で拡張しても微々たる額しか貰えない。②や③は通常「団」から派遣される拡張員の仕事である。
 新聞社は営業部傘下の外郭団体が各「拡張団」の団長とのみ契約を結び、個々の団員(拡張員)にはビタ一文金の繋がりは持たないという建前になっている。彼らは用心のためか、あちこちの現場で日々繰り広げられる個々の拡張行為との間には幾重にもクッションを置いているわけだが、これなんかは今世論を騒がす「企業の迂回献金」を髣髴とさせるカラクリで(笑)、世間一般に毛嫌いされている「新聞勧誘」の営業をやらせている大元は当然大新聞社の歴々なのである。
(「即入」とは翌朝から直ちに配達開始するという意味の業界用語。)
 ところで「シンカン」だが、これは他所から越して来た従来からの「固定」読者だろうと、新聞を購読するのは生まれて初めてという新入学の学生さんだろうと一応区別はない。(学生さんは集金困難とかの理由で一般読者よりランクを下げる店もあるとのことである。)
 
 そう、販売店は通常店の顧客リストを「固定読者」(放っておいても他紙に乗り換えない読者)と「契約読者」(契約期限が切れた後は不明な読者)とに密かに大別しているのである。これもセンキョの「浮動票」や「固定票」同様失礼な話には違いない。w

============

cf.新聞拡張員ゲンさんの嘆きは現役(?)新聞拡張員のblogである。笑。ちょっと膨大過ぎて全部を読む気は起きなかったが「拡張の歴史」なんかは話半分としてもけっこう面白かった。

============


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。