本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

トビタシネマ・飛田東映各3本立。

2010-02-20 23:40:18 | 
1.スラムドッグ$ミリオネア

スラムドッグ$ミリオネア - goo 映画スラムドッグ$ミリオネア - goo 映画

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 2008年の賞を総嘗めしたこの映画はインド映画だろうと思っていたが、撮影はインド国内が多いとは言え、製作は旧宗主国=イギリスである。言われてみると確かに「インド映画」的テイストはふんだんにあったが、どこかお上品で「枠の中」に入っている傾向も感じられた。まあ、全編を通して見ると一種恋愛映画のようだが、見て損のない大作である。スラム街の描写は流石に迫力があった。

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2.メテオ

メテオ(1979) - goo 映画メテオ(1979) - goo 映画

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 30年以上前の特撮ものである。当時は斬新な手法だったのだろうが、今見るとメテオ撃墜のため米ソのミサイルが軍団を組んで(?)宇宙を飛翔するシーンなどを繰り返し見せつけられると、如何にも古臭くて「ちょっと遠慮」という感じである。地下鉄構内に避難した人たちが泥水を被るシーンなども閉口した。
 テーマ自体にもあまり興味を惹かれなかったので、上映中半分くらいは寝ていた。ちゃい。

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3.アート・オブ・ウォー2

アート・オブ・ウォー2 - goo 映画アート・オブ・ウォー2 - goo 映画

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 これはスパイものというか諜報機関の暗躍を描いたアクションものだが、つまらなかったとは言わないまでも特に言うべき可否は私にはない。

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1.人生劇場 飛車角と吉良常

人生劇場 飛車角と吉良常(1968) - goo 映画人生劇場 飛車角と吉良常(1968) - goo 映画

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 この映画で驚いたのは洒落か冗談か、最後の殴りこみの場面で「パートカラー」の正反対の「パートモノクロ(?)」という手法が使われていたことである。監督は「宮本武蔵」の内田吐夢。
「パートカラー」というのは「日活ロマンポルノ」に多用された手法で、撮影費用を安く収めるため「肝心の場面(濡場)」だけを突如としてカラーで撮り、あとのどうでもいいような(?)ストーリー展開の部分はモノクロで通すという手法である。映画はこの逆を行った。
 殺された宮川(健さん)に被せられた筵を飛車角(鶴田浩二)が剥ぐ場面から、「よくも宮川を殺りやがったな!」と怒り狂った形相の彼が仇を討って再び宮川の屍体の元に戻るまでの「殺陣の場面」がそっくりモノクロで、これは相応の異化効果を醸造していた。
 数多い東映ヤクザ映画の中でも、健さんの方が(主演ではないからだが)先に殺され、鶴田浩二が最後まで死なないという今回のようなケースは少ないのではないかと思う。

鶴田浩二 ツルタコウジ (飛車角)
辰巳柳太郎 タツミリュウタロウ (吉良常)
松方弘樹 マツカタヒロキ (青成瓢吉)
藤純子 フジジュンコ富司純子 (おとよ)
高倉健 タカクラケン (宮川)

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2.男はつらいよ(第31作) 旅と女と寅次郎

男はつらいよ 旅と女と寅次郎(1983) - goo 映画男はつらいよ 旅と女と寅次郎(1983) - goo 映画

 主に寒さが原因で暫く飛田に通っていないうちに時代はずんずん遡り、今回第31作は満男くん(吉岡)は小学校6年生の運動会を迎える秋という設定になっていた。父親・博の代打で運動会へ父兄参観で行くと言う寅の申し出を「有難迷惑」と感じる吉岡くんの演技はなかなかのもので前半の見どころの一つである。
 マドンナは「京 はるみ」という31歳の売れっ子演歌歌手役の都はるみで、彼女が地方公演を不意に投げ出していわゆる「失踪」し、旅先の寅と共に漁船に乗せて貰って佐渡へ渡るというのが物語の中核となる。
 佐渡の磯辺で寅が向かいの岩山の中段に腰掛け、手前には地元の漁民男女数名、対岸には京はるみという構図で歌を歌う1シーンが私には目新しかった。

 京はるみは蒸発から連れ戻され、復帰した後暫くして柴又のとらやを訪れ、夏に予定されているリサイタルのチケット3人分を届ける。寅とさくら夫婦の分である。彼女は押しかけたファンのため、とらやの庭先で即興のカラオケコンサートまで開く。これは得な役回りというか、小林幸子や浅丘ルリ子がゲスト出演した際もとらやでのコンサートまではなかった。w

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3.俺は、君のためにこそ死ににいく

俺は、君のためにこそ死ににいく - goo 映画俺は、君のためにこそ死ににいく - goo 映画

 これは石原御大が製作総指揮して話題になった作品である。「靖国、靖国」と煩いのだが(笑)「当時はそういう時代だったのだ」と言われればその通りだったろう。w
「俺は、君のためにこそ死ににいく」というタイトルだが、私には腑に落ちない。この場合「君」とはまさか「天皇陛下」を意味するものではないだろうから(!)「最愛の妻」とか「恋人」とかを指すのだろうが、それでは後に続く「死ににいく」との整合性が保たれない。

 なんで「死ににいく」必要があるのか!?
 生きていたのではいけないのか!?
 軍参謀が、特高が許さないってか!?

「七生報国」「討ちてし止まん」「海行かば水漬く屍・・」と、敗色濃厚になってからも「犬死に」の肉弾戦を止めようとしなかったのは果たして「軍部の暴走」のみが原因だったろうか。原爆を二発見舞われるまで「滅私奉公」を止めようとしなかったこの「ファナティックな国民性」には、私は相当怖いものを感じる。
 それを、出撃前夜の某特攻隊員が「僕は蛍になってここへ戻って来る」と言い残したからと言って、時を経て庭先に蛍を認めた生存者らが「約束通り彼が帰って来た!」と涙するのは、あまりにも情緒に偏ってはいないか。
 戦争は国家のために個々人が命を賭ける殺し合いであり、情緒主義・ロマンチシズムの介在する耽美主義の問題などではないのだ。

 生きたモルモット(←広島・長崎の市民だ!)による「原爆実験」を強行した米国に負けたとなると、今度はご主人様=アメリカには「絶対服従」の軍事同盟を結んで、その番犬と成り下がることを「右も左も(!)」嬉々として受入れ、それをもってこの世の春を謳歌する(?)という我々日本国民は、実は相当おかしいんじゃないかと私は疑っているのである。w

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