本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

揉み手の籾井Ⅱ。

2015-04-14 15:58:57 | 社会
 
 ☆ドコモの妨害か(!)記事のタイトルが変わってしまった。私は新規投稿のつもりでタイトルを書いたのだが、いつの間にか中身がすり替わって、出て来たのは昨夜の記事のタイトルである。ふざけた話ではあるが、書くことは同じなので気にしない。w
 というか、調べてみると昨日の記事がそっくりコピペされているのだ。そんな無意味な操作をするわけがないしした覚えもない。馬鹿野郎。というわけで、苦労して今重複部分を全て削除した。この機械は指でタッチしない限りは操作出来ないわけだが、私がいつも均一の圧力で触っているつもりでも機械の方は勝手に判断して何度擦っても突然暗黒となって無反応になったり、逆に触ってもいないキーがいきなり超過敏に反応したりで、まるで「主人公は俺様だぞ!」と日夜宣言されているように感じられるものだからイラチの私はいつもブチ切れてしまうのだが、そこは相手は8万円もする高級品様だから「全ては金目でしょ?」をモットーとしている私は常に『忍耐に継ぐ忍耐』を繰り返すのみになる。ブログを書いていて不愉快になるのなら書かない方がいい。ふざけた機械だ。これを後2年も続けるくらいなら、さっさと解約した方が賢いだろう。金は何とか工面すればいいが、私の持ち時間は残り僅かなのだ。

 私が昨夜安倍の支持率が48%というのは異常だと書いたその直後に、安倍の一のこぶん・籾井のNHKは51%の数字を出した。私は「これはまるで《一億狂乱物価》だな。w」と思って笑ってしまった。
「お上の方針には逆らえない」と平然と言い放つアホが会長を務める報道機関だから好きにしたらいいのだが、こんな世論誘導がいつまで続くのだろうか。結果この国の人間は半分が壊れた。
 この国は最早再起不能だろうか。
 「貴方とならばどこまでも」式に《円安株高大万歳!》に浮かれた無為無能の人達はどこに行くのだろうか。心配などしていないが留意はしている。

 太宰治の、あれは『ヴィヨンの妻』だったろうか、作中人物が「いいのよ私たちは、ただ生きていさえすれば」と言う場面があったことなどを今不意に思い出した。その太宰も多摩川上水で心中してしまった。

 ☆私はここにも他のブログにも『同工異曲』ならまだしも殆ど完璧に同じ内容の繰り言やぼやきを繰り返している。そういう人を端から見ている段階では「本人、繰り返しだということに気づいていないのかな?」とか「相手に真意が伝わっていないことを心配して繰り返すのかな?」とか勝手に推測していたのだが、自分自身がそれをやるようになって、この理解は若干的を外しているなと気づいた。繰り返す当の本人は、その主張が繰り返しになることを重々承知の上で敢て繰り返しているのである。「同義反復だろうと何だろうと、今ここで言いたいこと、書きたいことを人目に晒さなかったら次はないぞ」とまで思い詰めた気持ちではないが「今やりたいことは今やるに越したことはない」からである。
 「明日やればいいや♪」というのは一番怠惰な言い訳、言い逃れではないだろうか。無論これは自分自身に対してのエクスキューズである。

 ☆吉本の晩年の言葉に『25時間目』の問題と言うのがある。24時間で人がやっていることを自分も全部やり遂げてから、その後で言いたいことが何かあったら言えという意味である。私流に翻訳すれば、『普通の人の普通の生活』もやらずに能書きばかり垂れても、そんなのは無効で説得力がありませんよという意味だ。これは私自身も自戒すべき教訓だが、その辺でああだこうだと高尚な議論を振り回している連中には、はっきり言ってろくなもんがいない。する事為すこと全てが中途半端な連中なのである。
 太田竜がカール・マルクスを批判して、彼はあの『資本論』を書いている最中自分の娘2人を餓死させたじゃないかと書いたことがあった。「餓死させた」という表現が適切だったかどうか私にはわからないが、論文執筆時の彼の家庭は極貧だったことは事実のようで、娘たちは栄養失調で絶命したのである。そんな彼の膨大なる著作物を単に有り難がっているだけでいいのか、というのが太田竜一流の問題提起だったのである。エンゲルスをマルクシズム俗化の第一の責任者と名指し非難する人間は当時も少なくなかったが、『マルクスから疑え!』と提唱したのは恐らく彼が最初だったのではないか。


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