本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

まだ肌寒い日が続く中で私の書きたいこと。

2015-04-13 16:13:55 | 
 今日も朝1番でedyで買い物である。ポイントを貯める迄は買い続けるつもりになっているのだが、これも虫の居所が悪いとどうなるかわからない。僅か五百円の為にその日一日不愉快な思いはしたくないからである。今日もクリームコロッケを一つだけ買おうと思って備え付けのピックで摘まんだ瞬間、揚げ方が緩過ぎて途端にグチャッと崩れてしまった。昔の私だったら「もっと真面目に仕事しろ!」と直ちに担当者に食ってかかったところだが、今はあれこれやり取りするのが面倒なのでそれもしない。そういう『社会』一般に対しての不平不満・鬱屈した気持ちの持って行き場がなくなると(これは⇩⇩下1.の項目に関連しているが)或る人はそれを見も知らぬ他者に対して暴発させる結果となる。

 夜寒いので私はまだ暖房を炊いているのだが、外出して外気が想像以上に冷たかったのに驚いた。これでは(もう終わったが)桜の通り抜けどころの話ではない。いったいいつまでこの寒気は続くのだろうか。そして寒さが終われば直ぐ季節は《梅雨入りから猛暑》へと激変するのは私にはわかり切ったことである。

 というわけで、私が今書きたいと思っていることは: ⇩⇩

1.屋根裏部屋の住人が社会に出て来て悪事を働く現況。
2.インターネット無用論の跋扈⇨⇨「気が付いたときには死んでいた状態」をさも希求しているかのような人々。
3.生産過剰・消費過剰社会の典型としての米・日両国と⇨⇨これに対するアンチとしての《もっとしとやかで慎ましい生活♪》の提唱。

・・・・・・などであるが、こんなものは私固有の発想でも発明でもないし、私の筆力の問題もあるので、何を何処まで書けるのかは今の段階では全く不明である。が、この耄碌爺いは誰に頼まれたわけでもないのに取り敢えずは何か書く(というか実際にはタブレットを指でなぞる)わけである。
 
 1.について。
 《屋根裏部屋の住人》というのは本来的には自室に籠もってああでもないこうでもないと思索~妄想を際限なく繰り返す人の謂いであるが、メディアが今盛んに書き立てている人物達の素描に依れば、彼らは最早自室の中でのみ自らの欲求の発露を見出し実現している訳では毛頭無い。自殺するのにトンネル内などわざわざ他者を巻き込む為の場所を選ぶし、自室でマスターベーションするのではなく自分のコートに仕掛けを作って、電車内の見知らぬ女性に自分の精液をかけたりしている。メディアの阿呆達が連日無思慮無分別に騒ぎ立てるから、屋根裏部屋の人達も充分じっくり様々な手口を学習出来るし、学習すれば中には「じゃあ、俺も一つやって見ようか♪」と《外に出たくなる》のも自然な流れではないか。別にこれを咎め立てる意思から言う訳では無いが、メディアなり警察なりがリークする情報の数々が《犯罪者》たちを訓練教育馴致していることは余りにも明々白々たる事実である。
 彼ら個々の人間は閉じ籠もっていたいから籠もっているのではなく、実は自分も出来れば他人と交わりたい、人間関係を構築したいと希求しているのだ。つまりは社会の一員として認知され自身が《社会化される》ことを心の底では熱望しているのではないか。

 2.について。
 ネット社会にどっぷり浸かっている私自身も「インターネットなんか要らねえな・・・」と感じる瞬間は決して少なくない。今は仕事に使うわけでもないし、無ければ無いで充分用は足りるのである。テレビを見て、ゲハゲハ笑って、時に「心にうつりゆく由無し事をそこはかとなく」書いていさえすれば、それで充分でお釣りが来るのではないか。
 インターネット不要論をインターネットを使って(!)主張する人も中にはいるが、それも決して暴論ではなく充分根拠のある主張だと私は想う。情報、情報、情報がこれでもかこれでもかと氾濫し続ける現代社会であるが、みんなそれで何を何処までどうしたいのかというと、結局は「自らの死後など考えてみたくもない」の一言、「自分がいつか必ずや死すべき存在であることなど死ぬ迄(!)忘れ切っていたい」の一言に尽きるのではないか。

 「人は畢竟自らの死と和解する事は出来ない」(M・フーコー)のである。

 3.について。
 本題に入る前に『テレ朝の古舘キャスターvs古賀コメンテーター』の論争についてだが、私は見る聞くなしに古賀乗りである。『日刊ゲンダイ』に依ればテレ朝の会長はあの安倍ポンと驚く無かれ懇意なのだそうで、そんな会社に宮仕えしている古舘に「本当のこと」など言える筈もない。「報道と権力がお仲間だった」なんて話を聞いたらあのヒットラー総統もびっくらこいて腰を抜かすに違いない。そんな報道は産経一社で沢山だが、視ていると全社が右へ倣えしているように映る。
 もっと簡略化し図式化して言ってしまうと、今の古舘には《官》の匂いがするのである。官僚の経験もない彼が官僚出身の古賀を上から目線のもの言いで「それは違いますよ。あなたを干すなんて誰も言っていませんよ。思い込み、思い上がりも甚だしい。貴方は番組のコメンテーターの一員に過ぎません。貴方にはこれからもこの番組でコメントして頂きますから」・・・云々と醜い言い逃れに徹したのであるから、人は変われば変わるものである。古賀本人が言っているように、古舘や局の意図などこの際どうでもいいのだ。「相手がこの降板をどう受け止めたか」こそが、直近の争点なのだ。
「実はあの話はこうだった」云々の内幕暴露ものは、彼がリタイアしてテレビ朝日と縁を切った後に好きなだけして貰ったらいい。今現実の古舘キャスターはすっかりあの半分腐りかけたテレ朝に飼い馴らされてしまって、スポーツ実況中継をしていた頃のあのはちゃめちゃで無軌道だった面影は何処にもない『単なるぶりっ子』に過ぎないのだ。官許の《良い子でいたい人間》《良い子になりたい人間》などにはろくな仕事は出来ない。これが昔から決まっている原理原則だ。

 そこでさて過剰生産と過剰消費が裏表になってそこに住まう人間全てを馴致して止まない日米社会である。「作って作って作りまくれ!余ったら溝(どぶ)にでも捨てろ!」という生産と消費の大原則が欧米諸国も極東国家も《同じ穴の狢(ムジナ)》として推進しているセオリーそのものであるが、「もっと作れ!」⇄そのためには⇄「もっと売れ!」の循環をエンドレスに繰り返すマネーゲームの、その先頭に立っているのが日米の両『経済大国』である。こんなことだったら私などが敢てしゃしゃり出て指摘するまでもないわかり切った事実だが、他方渦中にいる人間にはそれが一向に見えて来ないというのも避けがたい事実なのである。

 アメリカは軍・産・学が翻然一体となって国民全体を掌握し支配する謂わば『完成された最終資本主義』『完璧資本主義』の国家体制を築き上げた最終最後の資本主義であるが、これに範をとって『親分、あっしも連れて行って下せえまし♪』と恥も外聞もなく揉手で擦り寄っているのが我らの安倍ポンである。無論《制度即ちシステム》というものには始まりもあれば終わりもある。『いつまでもあると思うな親と金』である。それを知ってか知らずにか、安倍政権の人気度は48%もあるというのである。我が国政権の支持率で言えば30%もあれば高支持率とされるのがこれまでの政権だったのだから、今の我が国国民の半数近くはトチ狂ってしまったと言っても差し支えないだろう。これもまた「全ては金目でしょ♪」レベルのお粗末な話であるから、見方を変えればそれだけ我々の生活が逼迫しているということなのだ。「溺れる者は藁をも掴む」のあれである。金銭的には我が国民の大半はさほど困窮してはいない《筈》だがところが、「お前んとこはあれがないだろ?」とか、「お前んちは**にも行ったことがないのか?」と阿呆メディアに煽られると、元々根が浅はかな我々アホ共はすっかりその気になってしまうのである。


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