本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

私的ギャンブル史第Ⅲ。

2015-03-29 17:08:58 | 

 《出目》の話は現在の私の筆力では正確に記述出来ないので、話はまだ半分も済んでいないが一旦中止して、今日はまた私の競輪の師匠の話に戻すことにする。

 彼とは勤務がバラバラで、そうしょっちゅう一緒に出掛けていたわけではないが、それでも多いときには一ヶ月に1~2回は同行した。彼が儲けたときには奢って貰うこともあったが、彼は酒飲みだったが私は下戸だったため、お付き合いでおでんや焼き鳥を摘まむ程度だった。
 付き合い始めた当初師匠は「自分は元博徒だった」とこちらが訊いてもいないことをあっさり告白するので驚いた私が「それはヤクザの下っ端だったということですか?」と図々しくも訊いてみたら笑って「そうだ」と応えた。後でわかったことだが、若い頃は千葉県かどこかの小さな組の幹部クラスだったのだ。それで《手入れ》か何かで不都合があったとき「足を洗って今の会社に拾って貰った」という話だった。そして真面目な務め人になった結果「年金も貰えるようになって助かったよ♪」と喜んでいた。妻帯した経験があったか否かは語らなかったが、私の知る範囲では《生涯独身》を通した人だった。頭は(《懺悔》の気持があったのか)《いつも坊主刈り》にしていた人だった。
「同じ穴に突っ込むにも競輪の《穴場》に突っ込んだ方がいい」とふて腐れ気味に放言したこともあった。投票所のことを昔は《穴場》と呼んでいたのだ。

 私が18年住んだ東京を離れてからは彼との付き合いは疎遠になったが、それでも私の住む名古屋市郊外の安アパートに2回程遊びに来たことがある。当時私は2Kの広い部屋を借りながら(通勤が面倒で!)住み込みで働いていたから、年金生活に入ったお師匠さんには合鍵を渡して自由に使って貰ったのだが、それでも彼は2回とも一週間程度しか滞在しなかった。名古屋には新幹線の各駅停車こだまで来た。ひかりでは乗っている時間が短くてつまらないと言っていた。
 一通りの名古屋見物はしたようだが、そして私の自転車に乗って近隣を散策もしたようだったが、競輪には行かなかったと思う。今思えばあれだけ没入していた競輪にも当時既に相当な不平不満が鬱積していたのだ。そして外出しないときは専ら好きな《イイチコ》という焼酎の一升瓶を買い込んで来て、私の部屋で一人お湯割りを飲んだくれていたのだ。

 ☆私が付き合っていたときは(これは勃興期の印象に依るものだったと思われるが)「競艇だけは行くな! 競艇に通うようになったら人間おしまいだ。あそこは汚いし、ヤクザ者の行く場所だ」と酷評する人だったのだが、人間変われば変わるもので、職を解かれ環境も交友関係も変わると、言うことが激変というかコロッと変わってしまった。これは名古屋と東京で電話で話したときのことだが、競艇のことを「あんなに素晴らしいギャンブル場はない!」とまで絶賛し始めたのである。周りの老人たちがみんな競艇ファンだったからである。彼は学会のことも褒め称える人ではなかったが、これも周りに学会員が多いのか、寧ろ褒め称える人になってしまった。それもこれもお友達の影響だろうかなと、その時の私は笑って済ませたが、愛知県から大阪に移ってからは、私も(私の場合必ずしも友人の影響ではなかったが)考えることに大きな変化が起きたのだった。名古屋には来てくれたお師匠さんだったが、大阪の部屋は狭いこともあって一度も来てくれたことがないし、実は安否の確認も今は出来ていない。消息不明で居場所もわからないのは残念だ。

 それで今になって思い出すのは、厳禁されていたはずの競艇にも私は既に東京で何回も足を踏み入れているのだ。これは師匠とはまた別のギャンブル仲間の影響である。多摩川にも平和島にも行った覚えがあるから《汚い場所》と言うなら寧ろ競輪場の方が汚いということは、東京に居たときから私は判っていた。ということは、私は今自分で勝手に記憶している程従順な門下生ではなかったのである。これは《記憶の改竄》という程大袈裟なことではないが自分には意外だった。

 ☆私が師匠の教えに背いて「競輪を嫌いになった!」のはシステム即ち制度の問題からである。師匠自身も同様にほぼ時期を同じくして競輪より競艇を好むようになったのだから、この点は奇妙に符合する。
 競艇は《世界は一家、人類は兄弟》の笹川ファミリーが築き上げたギャンブルのシステムだが、競輪は《戦後復興》の一助として、《官》が構築した制度である。が、ファンが投じた巨額の資金は戦後復興に大きく寄与したはずだが、時流れて《寺銭》が少なくなって来ると、ファンは寧ろ邪魔者扱いを受ける仕儀となってしまい、主催者たる各地方自治体と選手会とが《上がり》の分配を巡って、ファンそっちのけで醜い争いに明け暮れるようになった。この点を《サンケイスポーツ》だったか、何かの折に指摘してやったらご褒美に?首から下げられる紐付のボールペンをくれた。(あそこは私にはいろいろくれるところで以前淀川長治さんの思い出を書いたときにも何かくれた。現金だったかな?w)
 主催者たる各自治体が組むのは一年使い切りの単年度予算である。余ったら「何だ要らないのか?!」と予算を削られてしまうから、役人たちは必死をこいて《予算の蕩尽》に励む。システムが元々高くもない人間の品性をますますもって下劣にするのである。私の聴いた話では伊東温泉競輪の役人たちは余った金でドイツまで《温泉の研修旅行》に出掛けたそうである。非道い話だ。


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