本家ヤースケ伝

年取ってから困ること、考えること、興味を惹かれること・・の総集編だろうか。

管理社会。

2011-09-30 02:03:39 | 社会
1.おとついは夕方になって、そのまま大阪に帰るのでは馬鹿みたいだと思い、京都駅前から220円の市バスに乗って四条河原町まで出たのである。四条河原町交差点の旧阪急デパート跡地には(改装したのかどうか)「マルイ」デパートがそっくりそのまま入っていた。交差点で1袋百円で「干しいも」を売っていたので「7袋500円!」と言われたが1つだけ買った。あと、三条河原町角の「かっぱ寿司」は閉店したのかどうかわからないが「工事中」だった。しばしば寄っていた店なので気になったのである。新京極あたりをぶらぶら歩いてみて私が気づいたのはその程度のことであった。

2.三条河原町交差点には「ポパイ」のサンドイッチマンがいた。百円サービスのチラシを4枚もくれたので少しだけ話した。
 時給制のアルバイトだという彼は、京都には四条と三条に二軒だけポパイがあると言うのであった。サービス券を使えば京都のポパイでは1時間180円でお茶が飲めると彼は言った。但しその席ではPCが出来ないので私には不向きだった。彼のくれたサービス券は後で見たら大阪でも使えるので何だか得したような気になった。w

 私は新京極で見た某ネット喫茶のことを彼に話した。一階入り口には2台の無人コインPCがあって、「5分百円」で稼動していた。せめて「10分百円」程度なら私も使ってみても良かったのだが、5分百円では高いと思って止めたのである。喫茶店自体は上層階にあったが、そこも高いので上がらなかった。安かったらナイトパックも考えたのだが・・。

3.メモによれば18:40頃三条京阪の駅に入った。切符は京橋の金券ショップで本来は「非売品」の筈の京阪株主券を買ってあった。京橋ー京都間ではこの一回使い切りの切符の方が正規の乗車券より数十円安く乗れるのである。

 京阪三条駅の特徴は、地下のホームに降りる前、改札を入ってすぐのところにちょっとしたオープンな休憩スペースがあって、そこで飲食も出来るし本も新聞も読めるのである。で、急いで帰宅する必要もない私はそこで『ミシェル・フーコー』を読み始めたわけである。

「はじめに」を読んだ限りでは正直私はこの著者に失望し「なんでまたこんな本を買ってしまったんだろう!」と後悔した。
「後悔先に立たず」であり、「良書を読む秘訣は悪書を読まないことである」(ショーパンハウエル)なのである。が、本文に入ってすぐこの後悔は私の中で消散した。言っていることは(部分的にだが)結構面白いのである。w
 ただ読み進んで行くうち、やはりこの著者の韜晦・昧渋な語り口には辟易するところがあった。端的に言ってしまえば、M・フーコーの専門研究者であり大学で講義しているという著者であるが、今流行りの言葉に倣うなら「泥鰌が金魚の真似をしたってしょうがねえだろ!?」ということなのである。章が変わってもいつまでも(かどうか)同じところを出たり入ったりする著述法は私には不満であった。
 私は(多分)根っからの単細胞な単純人間であるから、「何事も単純明快にすっきりくっきり」が好きな性分なのである。

 しかしせっかくの縁であるからこの本は最後まで読むつもりだし、フーコーの3部作も(金の都合が付けばだが)30年ぶりに再び買い揃えたい気になっている。フーコーは私の中では今、ある意味PCの購入より優先順位が高くなったかも知れない。

4.「管理社会」という言葉を著者は好んで使ってはいない。それでこの言葉を先験的なお達しを受けたかのように日頃平然を使い続けて来た私もちょっとだけ考えてみたのだが、この言葉は今や「時代の潮流」には乗っていないのではないか。

 有史以来(というよりは生物史全体を通しても、だ!)「管理」のなかった「社会」など凡そ存在し得なかったのではないだろうか。
 厳密な検証など私には不可能だが、そもそも「管理」と「社会」とは同義反復でありダブルミーニングである。
逆に「管理」はあっても「(人間或いは生命の)社会」ではない何者かは充分に存在し得るだろう。例えば「管理宇宙」とか「管理ダークマター」とかはどうだろう?w

5.これはまだ詳細な検証も為されていないし「計算間違いではないか!?」とさえも言われている「新発見」であるが、どこかで「光よりも速いニュートリノ」が見つかったらしい。

「妄想」の中では、我が埴谷さんも既に20世紀末に光よりも速い「暗黒速」なるものを発見(発明?)している。
 村山 斉の宇宙論でも巻末では「暗黒物質」「暗黒エネルギー」について言及しているし、彼の紹介する「多元宇宙」に於いては、それこそ「何でもあり」の世界が何百万通りかそれ以上も出現可能らしいのである。

 かくして人間の「妄想」は尽きることがない。

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cf.ドゥルーズ・フーコー論 : ↓

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規律社会/管理社会

労働

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 作成:橋口 昌治(立命館大学大学院先端総合学術研究科)


■ジル・ドゥルーズ1990→19920420『記号と事件』河出書房新社
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/deleuze.htm

「――フーコー論で、それからINA(国立視聴覚研究センター)のテレビ・インタビューでも、あなたは権力の三つの実践形態をつきつめて研究しなければならないと提案しておられます。三つの実践形態とは、まず「君主型」、それから「規律型」、そして特に重要なのが「コミュニケーション」をあやつる「管理型」の権力であるわけですが、この最後の形態が、いま、ヘゲモニーを獲得しようとしています。管理型権力の筋書きにしたがうと、一方では言論や想像力にもおよぶ完璧このうえない支配の達成が想定されています。しかしもう一方では、いま、かつてないほどの勢いで、すべての人間、すべてのマイノリティ、そしてすべての個別性が発言権をとりもどし、それと同時に自由の度合いを高める潜在能力をもつようになってきた。『グルントリッセ』のマルクス的ユートピアでは、コミュニズムは自由な個人を横断する組織の形状を呈し、その条件を保証するものとして技術的基盤が位置づけられていました。では、いまでもなお、コミュニズムは成り立つのでしょうか。コミュニケーション社会が到来したいま、コミュニズムは従来ほどユートピア的ではなくなったのかもしれません。この点をどうお考えになりますか。

 ドゥルーズ――私たちが「管理社会」に足を踏み入れているのはたしかです。社会はもはや規律型とは言いきれないものになっているのです。フーコーは、規律社会と、その主たる技法である「監禁」(病院や監獄だけでなく、学校や工場や兵舎もそこに含まれる)の思想家とみなされることが多い、しかし、じつをいうと、フーコーは、規律社会とは私たちがそこから脱却しようとしている社会であり、規律社会はもはや私たちとは無縁だということを述べた先駆者のひとりなのです。私たちは管理社会に足を踏み入れている。管理社会は監禁によって機能するのではなく、不断の管理と瞬時に成り立つコミュニケーションによって動かされている。管理社会について、分析の口火をきったのはバロウズでした。(…)これから先は教育が閉鎖環境の色合いをうすめ、もうひとつの閉鎖環境である職業の世界との区別も弱まっていくだろうし、やがては教育環境も職業環境も消滅して、あのおぞましい生涯教育が推進され、高校で学ぶ労働者や大学で教鞭をとる会社幹部を管理するために「平常点」の制度がととのえられていくにちがいありません。学校改革を推進するかに見せかけながら、実際には学校制度の解体が進んでいるのです。管理体制のなかでは何ひとつ終えることができない。(…)管理やコミュニケーションの社会によって、「自由な個人を横断する組織」のかたちで考えられたコミュニズムを成り立たせる可能性を秘めた形態が生まれるのではないか、あなたはそう質問なさった。私にはよくわかりません。もしかするとあなたのおっしゃるとおりになるかもしれない。しかし、それを支えるのはマイノリティによる発言権の回復ではないはずです。言論とかコミュニケーションとかいうものすでに腐敗しきっている恐れがあるからです。(…)そこで重要になってくるのは、管理をのがれるために非=コミュニケーションの空洞や断続器をつくりあげることだろうと思います。」(p.287-290)

「主体化も〈事件〉も脳も、私にはどうも同じものだと思えてならない。世界の存在を信じることが、じつは私たちにいちばん欠けていることなのです。私たちは完全に世界を見失ってしまった。私たちは世界を奪われてしまったのです。世界の存在を信じるとは、小さなものでもいいから、とにかく管理の手を逃れる〈事件〉をひきおこしたり、あるいは面積や体積が小さくてもかまわないから、とにかく新しい字空間を発生させたりすることでもある。これはあなたが「ピエタ」とおっしゃったものと同じです。抵抗する能力はどれだけのものか、あるいは逆に管理への服従はどのようなものなのかということは、具体的なこころみのレベルで判断される。創造〈と〉人民が同時に必要なのです。
「前未来」創刊号、一九九〇年春
聞き手――トニ・ネグリ」(p.291)

「Ⅰ.沿革
 フーコーは規律社会を十八世紀と十九世紀に位置づけた。規律社会は二十世紀初頭にその頂点に達する。規律社会は大規模な監禁の環境を組織する。個人は閉じられた環境から別の閉じられた環境へと移行をくりかえすわけだが、そうした環境にはそれぞれ独自の法則がる。まず家族があって、つぎに学校がある(「おまえはもう自分の家にいるのではないぞ」)。そのつぎが兵舎(「おまえはもう学校にいるのではないぞ」)、それから工場。ときどき病院に入ることもあるし、場合によっては監獄に入る。(…)しかしフーコーは、規律社会のモデルは短命だということも、やはり知りつくしていた。規律社会のモデルは、目的と機能がまったく違った(つまり生産と組織化するというよりも生産の一部を徴収し、生を管理するというよりも死の決定をくだす)君主制社会の後を受けたものである。(…)」(p.292-293)

「したがって、改革の名のもとに問題となっているのは、死に瀕した諸制度に管理の手をさしのべ、人びとに暇つぶしの仕事を与え、目前にせまった新たな諸力がしっかりと根をおろすのを待とうということにすぎないのだ。こうして規律社会にとってかわろうとしているのが管理社会にほかならないのである。「管理」とは、新たな怪物を名ざすためにバロウズが提案した名称であり、フーコーが私たちの近い将来として認めているのが、この「管理」なのだ。ポール・ヴィリリオもまた、いわば戸外で行使される超高速の管理形態を分析し、これが、閉じられたシステムの持続において作用した旧来の規律にとってかわるだろうと述べている。途轍もない規模に達した薬品の生産や、組織的な核兵器開発や遺伝子操作などは、たとえそれが新たなプロセスに介入してくる運命にあったとしても、あえて引き合いに出すにはおよばない。もっとも冷酷な体制はどれなのか、あるいはいちばん我慢しやすい体制はどれなのかということは考える必要がない。冷酷な体制でも、我慢できる体制でも、その内部では解放と隷属がせめぎあっているからである。たとえば、監禁環境そのものともいえる病院の危機においては、部門の細分化や、デイケアや在宅介護などが、はじめのうちは新しい自由をもたらしたといえ、結局はもっと冷酷な監禁にも比肩しうる管理のメカニズムに関与してしまったことも忘れてはならない。恐れたり、期待をもったりしてはならず、闘争のための新しい武器を探しもとめなければならないのである。」(p.293-294)


■酒井 隆史 20010723 『自由論』青土社
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0107st.htm

「(…)ちょうど日米欧三極委員会の『民主主義の統治能力』報告は七五年に提出されているが、それは、フーコーのいう規律・訓練権力の装置の配備の場となる「市民社会」の危機を明確に記していた(16)。
 それから一九七〇年代の後半にはフーコーは規律社会の終焉を展望している。フーコーはそこでは、リジッドなアイデンティティを主要な照準点として行使される権力形態としての規律はもはや過去に属する権力テクノロジーであると断言しているのである。たとえば「ここ数年で社会も個人も変化してきており、ますます多様化し自律的になっています。規律によって強制されたのではない人びとのカテゴリーがますます増大しているのです。それゆえ規律なき社会の発展を想像するよう要請されています。支配階級はいまだ古いテクノロジーにとりつかれているようですが」(1978c p.533「規律社会の危機」)。」(p.34)

「ところが危機管理・緊急状態のポリティクスのメカニズムの機軸にあるのは「抑圧」ではなく〈排除〉である。それは「正常状態」の達成と維持を、媒介を省略して性急に、そして暴力的に実現しようと試みる。〈排除〉の機制のもとでは、コンフリクトはシステムの言語に翻訳されないのであり、コンフリクトは正当性の場に登録されないのである。敵対的な社会実践は端的に病理でありテロルとしてたちあらわれる。ただし問題は、こうした危機・緊急状態のポリティクスがネオリベラリズムにおいては「正常な」統治のメカニズムを構成する傾向にあるという点である。」(p.35-36)

「ふたたび湾岸戦争を例にとるならば、それはネオリベラリズムのポリティクスの背後に存在する新しい権力のダイアグラムの存在をかいまみせているだろう。現代の戦争においてはもはや陣地戦(war-of-position)は決定的に無効になるのである。陣地戦は時間・空間的にローカルに限定されたポジション、「場所(place)」に依存した闘いである。(…)つまりアイデンティティに依存する闘いは、スムーズな平面、あるいはマニュエル・カステルが「場所(place)」に対比させる「フローの空間」のうちで完全に権力によって掌握されてしまう(Castells 1996 pp.376-423)。「無限にプログラム可能なコードと情報のフローで構成されたサイバースペースのスムーズ平面」、これが、規律社会以後の、すなわち「管理統御(コントロール)社会」(ドゥルーズ)の隠喩的空間なのである。資本主義のグローバル化の文脈でいえば、情報化によって資本は、世界のどこであれ、投資と生産のための最適な環境を瞬時に把握し貨幣を動員する。それは国民国家のような「場所」に依存した単位を超えて、リアルタイムに世界単位で作動するのである。」(p.38-39)


■Lazzarato, Maurizio 2004 La polotica dell'evento,Rubbettino Editore.=20080625 村澤 真保呂・中倉 智徳訳 『出来事のポリティクス――知‐政治と新たな協働』,洛北出版,382p. ISBN-10: 4903127079 ISBN-13: 978-4-903127-07-1 \2800 [amazon]/[kinokuniya] ※ autonomia f05 sd-sc1


■熊沢 誠 20060220 『若者が働くとき――「使い捨てられ」も「燃えつき」もせず』,ミネルヴァ書房,220p. ISBN-10: 4623045935  ISBN-13: 978-4623045938 [amazon]/[boople]

「ことの性質上はっきりとは時期を明示できませんが、およそ九〇年代以降の若者は総じて、就職先や職種や雇用形態の選択については、あなたの個性を発揮できるようにあなた自身が選びなさいと投げ出されています。若者は長期にわたる「自分探し」が許され、「自分」が見つかるまでは、つまり「本当にやりたいことが見つかるまでは」、学校卒業後も就業上のステイタスは「とりあえず」でよいと認められています。ここには実は大きな階層差があって、恵まれない階層出身の若者ほど無収入の「自分探し」を許されていないのですが、今では「就職斡旋力」の衰えた学校はもとより、貧しい親にしても、子弟を「いやでも地味な仕事に就かせる」説得力を喪っているのです。」(p.119)

「およそ一五~二〇年ほど前まで、日本の家庭や学校や企業は、次代を背負う若者たちにしかるべき成熟を遂げさせるように一種の「まともさ」を強制してきたと思います。」(p.120)

「家庭、学校、企業という三つのエスタブリッシュメント(既存の権威)が若者に迫ってくる「まともさ」への、ソフトに言えば誘導に、ハードに言えば強制に、当時の若者は大勢としては従い、地味ながら堅実な生活者に成熟してゆきました。そして、そこに管理社会の支配を感じとった少数者は、反主流派の労働運動や、八〇年代にはかろうじてまだその名に値した革新政党や、学会や言論界に立てこもって別の生きざまを模索する「左翼」になりました。ともあれ、ここでもっと注目すべきは、上に述べたような既存の権威による若者の誘導または強制は、一九九〇年の頃から急速に後退しているようにみえることにほかなりません。」(p.122)

「このような「まともさ」への誘導または強制の後退は、つい最近に政府が若者労働対策に乗り出すまで、新自由主義という時代のキーワードだけを掬いとったスローガン、「自己選択」「個性尊重」の名のもとに正当化されてきました。つまり職業・職場選択の文脈では、「自分探し」は若者自身に丸投げされているのです、「やりたいこと」はきみ自身が探すんだよ、と。ちなみに基本的な感性がつくられるのは一五~二五歳の時期といわれますが、二〇〇五年のいま、三五歳の人の感性形成期は八五年~九五年、いま二五歳の場合は九五年~〇五年に当たります。いずれも完全に上の「後退」以降に属します。問題はこの「丸投げ」された「自己選択」の現状なのです。」(p.124)


*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(B)・課題番号16330111 2004.4~2008.3)の成果/のための資料の一部でもあります。
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/p1/2004t.htme

UP:20070806, 20090624 REV:0808
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「天宮1号」を打ち上げ=宇宙基地建設へ実験-中国
 【北京時事】中国は29日午後9時16分(日本時間同10時16分)、宇宙ステーション建設に向けた無人実験機となる「天宮1号」を北西部の酒泉衛星発射センターから長征2号FT1ロケットで打ち上げ、予定の軌道に乗せることに成功した。中央テレビが伝えた。11月にも無人の宇宙船「神舟8号」を打ち上げ、天宮1号とのドッキング実験を行う。
 2020年をめどに有人宇宙ステーションの建設を目指す中国にとって、ドッキング実験はその一歩。同センターでは温家宝首相らが、北京の宇宙飛行制御センターでは胡錦濤国家主席らが集まり、10月1日の国慶節(建国記念日)を前にした天宮1号の打ち上げを見守り、国威を発揚した。(2011/09/29-22:50)時事通信

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沖縄密約訴訟:「大勝利だが大敗北」原告側、一定の評価も
2011年9月29日 21時53分 更新:9月29日 22時17分

 密約は確かに存在したが、その文書は今はない--。沖縄返還の際の日米密約を裏付ける文書の開示を求めた訴訟の控訴審で29日、東京高裁は情報公開法制定(99年5月)前に国側が廃棄した可能性を指摘した。原告側は「大勝利と同時に大敗北」と表現。「情報公開法の精神が踏みにじられた」と批判のボルテージを上げた。

 判決後、原告・弁護団は東京・霞が関の司法記者クラブで会見。原告の元毎日新聞記者、西山太吉さん(80)は「特定の職員が特定の方法で管理し、廃棄した可能性に踏み込んだ。1審よりもドーンと進んだ」と一定の評価をした。だが、次第に「判決は『捨てたんだから、ないものはない』と言い、廃棄について遺憾の『い』も言っていない」、「司法の独善、限界が露呈された。情報公開とはそんなものか」と机をたたきながら、語気を強めた。

 一方、上告について原告団は「検討する」と述べるにとどめた。

 原告団は1月、作家の澤地久枝さん(81)を代表に「市民による沖縄密約調査チーム」を結成し、開示された4500ページを超える外交文書を分析した。開示された文書は、沖縄返還交渉段階のものが多数を占め、財政負担が発生する最終的な合意段階の文書が欠けていた。このため原告側は廃棄の可能性も念頭に「不合理だ」と控訴審で主張した。

 澤地さんは会見で「これまで外務省は一枚岩となって密約文書の存在を一切認めてこなかった。裁判所はその外務省を救った。実に内容のない、お粗末な判決」と批判した。【野口由紀】

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5.「すぐ切れる若者たち」という使い古されたフレーズがあるが、最近の私も「すぐ切れる」ことに関しては人後に落ちない。
 例えば交通事故である。あれは相手のあることであるから、自分が交通法規を遵守していたからと言って巻き込まれないとは限らない。外出していれば(或いは例外的にだが自室に閉籠っていても、だ!)いつでも事故に巻き込まれる可能性がある。その際は「相手が悪かったから」と諦めるしかないだろう。

 福島の「原発事故」も原理は同じである。住民の方々は何が悪かったということではない普通の生活者だった。強いて言うならば国・東電・メディアらが札束片手に醸し出す「安全神話」をお人好しにもうっかり信じ込んでしまったことが、今となれば過誤・過失の類に分類されても仕方ないことだが、かといって誰がその過ちを論難出来るだろうか。
 「賠償責任」を少しでも値引きしたい東電は、醜くもああだこうだと御託を並べている現況である。

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