円楽さん、異例の引退表明 「もう恥はさらせない」
2007年2月25日(日)23:07 (朝日新聞)
テレビ番組「笑点」の司会で知られる落語家三遊亭円楽さん(74)が25日、「ろれつが回らない。もう恥はさらせない」と、記者会見で引退を表明した。円楽さんは05年10月に脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、リハビリを続けて1年後に関西の高座に復帰。この日、「出来次第では、引退を覚悟している」と話して東京の国立演芸場の「国立名人会」に臨み、古典「芝浜」を口演した。
口演後に会見した円楽さんは開口一番、「だめですね」。約30分の予定が40分余りに長引いた「芝浜」を「ろれつが回らなくて、声の大小、抑揚がうまくいかず、噺(はなし)のニュアンスが伝わらない」と総括。「もう、よくなるということが全然ない。今日が引退する日ですかね」と話した。
会見では、評論家から引退の再考を促す質問も出たが、円楽さんは「黙って去っていく形が、自然かもしれません。お客さんは『まだまだできる』と言って下さると思いますが、それに甘えてたんじゃ、あたし自身が許さないんです」ときっぱりと語った。
円楽さんは現在、週3回の人工透析を続けている。今後、高座にあがることはないが、「弟子の会などに対談者としてゲスト出演する可能性はある」という。
円楽さんは東京・浅草出身で、55年に六代目三遊亭円生に入門。29歳で真打ちに昇進するなど早くから頭角を現した。「笑点」には66年の放送開始と同時にレギュラーで出演。83年から05年に倒れるまで断続的に司会も務め、人気を集めた。06年5月放送の40周年番組でも司会をした。
また、78年に師匠円生が落語協会を脱退した際、それに連なり、師匠の死後も円楽一門として弟子たちを率いている。
八代目桂文楽が71年、噺の途中で絶句し、「勉強し直して参ります」と言って高座を降り、二度と復帰しなかった例はあるが、高座の出来への不満から直後に引退表明したケースは極めて異例。
〈「笑点」の司会を引き継いだ落語芸術協会長の桂歌丸さん(70)の話〉 師匠・三遊亭円生譲りの噺(はなし)を数多く持っている人だし、お弟子さんも多いし、まだ我々のお手本でいてもらわなくちゃならない人なんだ。引退なんてとんでもない。もったいない。宝物を捨てるようなもんだ。ただ、引き留めるとよけいに反発するでしょう。頑固で強情な人だから。きっちりとしゃべりたいという美学もいいが、完全主義も時と場合によります。失敗しても次にうまくできればいいんだ。「ろれつが回らないのが情けない」って言うけれど、治ると思えば治るんだ。今度会ったら、怒ってやりますよ。
〈上方落語協会長の桂三枝さん(63)の話〉 昨年末に雑誌で対談したときはお元気だったので、驚いた。芸人は死ぬまで現役というイメージがあるなかで、円楽師匠は引き際の潔さを教えてくれた気がする。かつて弟子のために寄席を作ったように、常に落語界を考えておられた。今後は演者としてでなく、指導者として我々にアドバイスをしてください。お疲れ様でした。
============
以上、引用終わり。
cf.笑点の歴史についてはウィキペディアが詳しい。
「芝浜」というのは三遊亭円朝の作ったとされる人情噺で、酒と博打に目の無い天秤棒担ぎの漁商(主人公)が、ある朝魚河岸で大金を拾うのだが、亭主の性癖を百も承知のおかみさんが一計を案じて・・という話である。
これも「三題噺」の一つとされているが、「三題噺」で有名なのは例えば「鰍沢」などで、客席からお題を募り、選ばれた三つのお題を話に取り入れた落語を即興で演じるというなかなか手の込んだ風雅な余興であった。
これに案を得たのか、以前『落語のご』という関西系の公開収録の寄席番組があって、これは笑福亭鶴瓶と桂ざこばの二人が、やはり客席から三つのお題を頂戴して即興で小話(一応は現代落語)を作って演じるという趣向だった。鶴瓶の方は小才が利くのか毎回そつなくこなしていたが、ざこば師匠の方は毎度しっちゃかめっちゃかにパニクッテいたという記憶がある。テレビではざこば師が話を紡ぎ出せずに本当に弱り切っているのがよくわかって、即興の話芸というのはとても難しいのだろうな、と思ったものである。
で、関山和夫「日本の話芸」には以下の記述があった。↓
・・・三笑亭可楽によってはじめられた三題噺は、幕末期の江戸落語界に強い影響を与えた。文久(1861~1864)のころに三題噺が流行し、「酔狂連」や「興笑連」というグループがあった。酔狂連の一人であった三遊亭円朝(1839~1900)の「鰍沢」や「大仏餅」などは三題噺の会で生まれたものである。・・・
============
円楽師匠は古典落語のレパートリーが多い方と聞く。引退されるのであれば、一門の方に是非継承されて欲しいものである。
古典とは言ってもせいぜいがところ幕末からのものである。明治期の落語の口演が僅かにレコードとして録音され残っているが、あれを聴くと当時も今も殆ど差異の無い口語が使われていることがわかる。
私はいわゆる『現代落語』というものにはあまり興味が沸かなくて、好きな演目と言えば現三代目三遊亭円歌師匠(昔の歌奴)の『授業中』『中沢家の人々』くらいだろうか。
============
今は時間をかけてじっくり聞かせる落語よりも、秒間も措かずに『条件反射』のような「笑い」を取り続ける漫才や漫談の方が幅をきかせている時代である。
こういう面から見ても、ややもすると私にはスローライフの時代の方が今よりは遥かに豊かであったように思われて来るのだが、これも単なる年寄りの郷愁に過ぎないのかも知れない。
cf.落語の楽しいリンク集
2007年2月25日(日)23:07 (朝日新聞)
テレビ番組「笑点」の司会で知られる落語家三遊亭円楽さん(74)が25日、「ろれつが回らない。もう恥はさらせない」と、記者会見で引退を表明した。円楽さんは05年10月に脳梗塞(のうこうそく)で倒れ、リハビリを続けて1年後に関西の高座に復帰。この日、「出来次第では、引退を覚悟している」と話して東京の国立演芸場の「国立名人会」に臨み、古典「芝浜」を口演した。
口演後に会見した円楽さんは開口一番、「だめですね」。約30分の予定が40分余りに長引いた「芝浜」を「ろれつが回らなくて、声の大小、抑揚がうまくいかず、噺(はなし)のニュアンスが伝わらない」と総括。「もう、よくなるということが全然ない。今日が引退する日ですかね」と話した。
会見では、評論家から引退の再考を促す質問も出たが、円楽さんは「黙って去っていく形が、自然かもしれません。お客さんは『まだまだできる』と言って下さると思いますが、それに甘えてたんじゃ、あたし自身が許さないんです」ときっぱりと語った。
円楽さんは現在、週3回の人工透析を続けている。今後、高座にあがることはないが、「弟子の会などに対談者としてゲスト出演する可能性はある」という。
円楽さんは東京・浅草出身で、55年に六代目三遊亭円生に入門。29歳で真打ちに昇進するなど早くから頭角を現した。「笑点」には66年の放送開始と同時にレギュラーで出演。83年から05年に倒れるまで断続的に司会も務め、人気を集めた。06年5月放送の40周年番組でも司会をした。
また、78年に師匠円生が落語協会を脱退した際、それに連なり、師匠の死後も円楽一門として弟子たちを率いている。
八代目桂文楽が71年、噺の途中で絶句し、「勉強し直して参ります」と言って高座を降り、二度と復帰しなかった例はあるが、高座の出来への不満から直後に引退表明したケースは極めて異例。
〈「笑点」の司会を引き継いだ落語芸術協会長の桂歌丸さん(70)の話〉 師匠・三遊亭円生譲りの噺(はなし)を数多く持っている人だし、お弟子さんも多いし、まだ我々のお手本でいてもらわなくちゃならない人なんだ。引退なんてとんでもない。もったいない。宝物を捨てるようなもんだ。ただ、引き留めるとよけいに反発するでしょう。頑固で強情な人だから。きっちりとしゃべりたいという美学もいいが、完全主義も時と場合によります。失敗しても次にうまくできればいいんだ。「ろれつが回らないのが情けない」って言うけれど、治ると思えば治るんだ。今度会ったら、怒ってやりますよ。
〈上方落語協会長の桂三枝さん(63)の話〉 昨年末に雑誌で対談したときはお元気だったので、驚いた。芸人は死ぬまで現役というイメージがあるなかで、円楽師匠は引き際の潔さを教えてくれた気がする。かつて弟子のために寄席を作ったように、常に落語界を考えておられた。今後は演者としてでなく、指導者として我々にアドバイスをしてください。お疲れ様でした。
============
以上、引用終わり。
cf.笑点の歴史についてはウィキペディアが詳しい。
「芝浜」というのは三遊亭円朝の作ったとされる人情噺で、酒と博打に目の無い天秤棒担ぎの漁商(主人公)が、ある朝魚河岸で大金を拾うのだが、亭主の性癖を百も承知のおかみさんが一計を案じて・・という話である。
これも「三題噺」の一つとされているが、「三題噺」で有名なのは例えば「鰍沢」などで、客席からお題を募り、選ばれた三つのお題を話に取り入れた落語を即興で演じるというなかなか手の込んだ風雅な余興であった。
これに案を得たのか、以前『落語のご』という関西系の公開収録の寄席番組があって、これは笑福亭鶴瓶と桂ざこばの二人が、やはり客席から三つのお題を頂戴して即興で小話(一応は現代落語)を作って演じるという趣向だった。鶴瓶の方は小才が利くのか毎回そつなくこなしていたが、ざこば師匠の方は毎度しっちゃかめっちゃかにパニクッテいたという記憶がある。テレビではざこば師が話を紡ぎ出せずに本当に弱り切っているのがよくわかって、即興の話芸というのはとても難しいのだろうな、と思ったものである。
で、関山和夫「日本の話芸」には以下の記述があった。↓
・・・三笑亭可楽によってはじめられた三題噺は、幕末期の江戸落語界に強い影響を与えた。文久(1861~1864)のころに三題噺が流行し、「酔狂連」や「興笑連」というグループがあった。酔狂連の一人であった三遊亭円朝(1839~1900)の「鰍沢」や「大仏餅」などは三題噺の会で生まれたものである。・・・
============
円楽師匠は古典落語のレパートリーが多い方と聞く。引退されるのであれば、一門の方に是非継承されて欲しいものである。
古典とは言ってもせいぜいがところ幕末からのものである。明治期の落語の口演が僅かにレコードとして録音され残っているが、あれを聴くと当時も今も殆ど差異の無い口語が使われていることがわかる。
私はいわゆる『現代落語』というものにはあまり興味が沸かなくて、好きな演目と言えば現三代目三遊亭円歌師匠(昔の歌奴)の『授業中』『中沢家の人々』くらいだろうか。
============
今は時間をかけてじっくり聞かせる落語よりも、秒間も措かずに『条件反射』のような「笑い」を取り続ける漫才や漫談の方が幅をきかせている時代である。
こういう面から見ても、ややもすると私にはスローライフの時代の方が今よりは遥かに豊かであったように思われて来るのだが、これも単なる年寄りの郷愁に過ぎないのかも知れない。
cf.落語の楽しいリンク集