――麻生総理、経済成長戦略について伺います。経済全体のパイを大きくする成長戦略を重視されていますが、民主党は家計を直接支援し、内需主導の経済を創り出すとしています。これをどう評価しますか。
麻生「これは自民党は間違いなく、健全な保守主義だと思っています。即ち、経済を成長させて、その上で、そのパイをみんなに分配する。健全な保守主義の基本だと思っております。民主党の方は、これはバラ撒き、社会主義、という性格なのではないかと、簡単に言えば、そうだと思います。
少なくとも成長戦略、というものが、もしくは、成長政策が、全く書かれていない、と思っております。何となく、バラ撒き政策をして、成長政策と名付けておりますけれども、あれは成長政策と言わない。少なくとも、高速道路をタダにして、もしくは子供手当てをして、それが成長に、政策と言えるかと言えば、その財源はどうされるんですかと。
また、子供は、みなさん平等に2万6千円ずつですか、払われるということになるんですが、その財源はどうされるんですか。みんな一律にされると言っておられるんですよ。その財源はどうするんですか。5兆数千億かかる、と言われております。
また、小さな子供がいないご家庭に於いては、これは子供手当てというものの点から、いくと、これは、扶養控除などなど、、多分切られる、と言うことになると思いますんで、その点は増税になるんだと思っております。
それに対して自民党の成長戦略、というのは極めてはっきりしていて、先ず、戦略分野、分野ですよ、伸ばすべき分野としては、低炭素革命、そして二つ、二つ、二つ目がぁー健康長寿社会。そして、三つ目は、国民の魅力(こう聞こえたが)の発揮という戦略分野を立てて、その上で具体的な目標としては、向こう3年間で40兆円を超える需要をつくり出して、200万人の雇用を創出する。
太陽、光発電と言うんですが、まあ、天井についている、屋根についている、あれは今後20倍にします。いうような目標を掲げる。実現するための政策、ということでは、エコカーの買い替え、には大幅に支援をし、また太陽光発電、などというものについては、買取りの制度、なんていうもの、こういったものをきっちり示していく。我々はそういったものをきちっとして成長戦略、政策を示しているのが一番の違いではないかと、そう思っております」・・・・・
次いで鳩山民主党代表
――自民党との違いについて伺います。先ず経済運営についてなんですけれども、民主党は子供手当てなどで、家計を直接支援して、内需を拡大をしようと、いわゆるそういう内需拡大を通じて、まあ、自民党は来年度後半に2%の経済成長をと言ってますが、そうした内需拡大を通じて、どのくらいの成長が見込めると、いうふうにお考えですか。
鳩山「私たちはですね、先ず、今お話がありましたように子供手当て、これは1年目は半額ということであります。2年度目が2万6千円、毎月お支払いさせていただくということを行います。
さらに、いわゆる年金の問題についても国家プロジェクトで一生懸命、努力をして消えない年金に導いていこうと、いうことを行っていきたい。さらには高速道路の無料化とか、あるいは暫定税率の撤廃とか。こういうことを丹念に行っていきたい。
既に今お話がありましたように、家計をですね、直接刺激をする。内需拡大をする。国民のみなさんの財布を厚くしない限り、いくらですね、経済政策を打った、打ったと言っても、今までの10年間で100万円程も、収入を減らしてしまっている制度でありますから、そう簡単に内需というものを刺激することはできない。
私たちはその意味で、直接的な内需刺激、いうものを取っていきたい、いうことを考えています。
1年目ではですが、今申し上げましたようにすべてが全部行うということではありません。従いまして、刺激ができる、という意味に於いては1%程度ではないかと思っておりますし、また様々な他の要因というものがこれから出てくる可能性もありますので、簡単なことは申し上げることはできないと思いますが、そのぐらい1%から2%ぐらい、我々とすればですね、この全額を行ったときには、それぐらいの効果、は十分にあると、そのように思っています」
――鳩山さん、その子供手当て、高速道路の無料化、それから農家への個別所得補償。こうした民主党の掲げる政策に魅力を感じる有権者たちも、果して本当に実現するんだろうかということを見極めようとしています。政権を取ったら、ホント-ニ、実現すると約束できます?
鳩山「これはですね、今までの政権与党lがマニフェストを色々といいことを書いて、殆んど何も実現してこなかったのに、マニフェストというものの信頼性が薄いのかもしれません。でも、私たちは国民のみなさんとの契約として、マニフェストを真剣に議論して、つくり上げたものであります。
従いまして、マニフェストに書いたものが(ママ)、必ず実現を致します。それは安心をして頂きたい。財源の問題は一切気にする必要はありません。端的に言えば、優先順位の高いものから行わせていただく。我々、16兆8千億円、全部行うと、かかると試算しております。
その16兆8千億円を最優先させて頂きますので、その結果、今まで政府がやっている仕事の中で、事業の中で、できないものも出てくるのも止むを得ません。タダ、その殆んどが私共から言わせると、ムダ遣いのものであるから、できなくてもしょうがない。あるいは不要不急の仕事である、1年2年待っても構わない、そのように思っていますので、どうぞマニフェストの信頼性に関しては安心して頂きたい」
――財源についてですが、消費税率についてなんですが、まあ、今後4年間は引き上げないと言いますが、一方、先日麻生さんとの討論の中で消費税はいつまでも上げないで済まないことは認識していると、おっしゃいました。消費税をいつ、どのくらい引き上げることが必要になるんでしょうか。
鳩山「私共はですね、先ず、消費税の増税などはという議論は、政治に対する国民のみなさんの信頼というものがなければ、絶対にできない話だと思っております。即ち、今の麻生政権、景気がよくないで、すぐにも消費税増税するみたいなことをおっしゃっていますが、こんなに支持率の低い政権で消費税の増税などできる話ではありません。
先ず、ムダ遣いをなくすということを、徹底的に行って、国民のみなさんが政権はよくやっているなと、これならば信頼できるよと、言うことを聞くよという状況に先ずすることが大事であります。まだその状況になっていない。
我々が政権を取って4年間、必死にムダ遣いというものを削減を致します。できるならば、一掃したい。そのように思っています。そのようにして一つには国民のみなさんの政治に対する信頼を戻す、いうことが不可欠であります。それから我々、社会保障、即ち、最低保障年金と言っておりますが、最低保障年金は税額、全額税で賄う、いうことを決めております。
そのために将来20年かけて、徐々に徐々に移行させていくことにしたいと思っておりますが、20年後には当然、消費税率を上げなければならないということになります。考えてみれば、その中間ぐらいところで、消費税の議論というものを大いに行わなければならなくなる、そのように考えております。10年ぐらいの話だと思っております」
――今おっしゃいました最低保障年金の話なんですが、すべての人がですか、一定額の年金を受け取れるようにすると、いう制度で、その部分はですね、全額消費税で賄うと、今おっしゃいましたですねえ。そうしますと、医療や介護に当てる分が不足してしまうのではないかというふうな批判が与党側から出てるんですけども、これに対してどのようにお考えになりますか。
鳩山「私共は医療に対しても2兆円、介護に対しても1兆円、さらに増やす必要がある。そのように試算をしております。なぜならば、医療もご案内のとおり、地域に於いてはお医者さん、いなくなる。あるいは看護師さんがいなくなる。介護の報酬があまりに低いものだから介護労働する方がいなくなってしまうと、いうことになってしまうんです。
従って、私共は医療・介護に対しても、充実をさせていかなければならない。そのように考えています。そしてその財源は、既にその16兆円8千億円の中に入っておりますので、私共がいわゆる、ムダ遣いというものを一掃する。あるいは埋蔵金と言うものの手当てをする、と言うようなことによって、賄うことができる、そのように考えています」(以上)――
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麻生は最初に「経済を成長させて、その上で、そのパイをみんなに分配する」と言っている。それが「健全な保守主義の基本だ」と。そして民主党の経済政策を「これはバラ撒き、社会主義、という性格なのではないかと、簡単に言えば、そうだと思います」と。
だが、02年2月~07年10月のいざなぎ景気を超えた戦後最長景気では米国の過剰消費景気と中国の金融景気を受けた外需によってトヨタ、キャノンといった大手企業が軒並み戦後最高益の企業利益を弾き出したが、その利益が個人に還元されず、逆に奪って、雇用者所得は僅かにマイナスを記録するところにまで落ち込み、その影響を受けて個人消費は低迷して、麻生の言う経済成長に応じた「パイ」は個人には一切還元されることがないまま、「実感なき景気」と言われた。そして「100年に一度と言われる金融危機」の直撃が特に低所得者に打撃を与え、なお一層の個人消費の冷え込みを誘っている。
戦後最長景気に於いてパイが「パイ」としての役目を果たさなかったのは世界を舞台とした世界各国の企業との企業間競争が激化して、それぞれが競争力を確保するために製品単価を下げる必要上、人件費を抑えたことによる雇用者所得の伸び率の減少が影響したということだが、経済成長が必ずしも利益配分の「パイ」につながらない例として記憶しておくべきだろう。
となると、例え今後景気が回復することがあっても、企業間競争はさらに激しくなることを考えると、人件費の伸びは依然として期待しにくいという局面が続く恐れがあり、戦後最長景気時と同様、麻生たちが唱える経済成長が約束するというパイの保証は揺らぐ。
また景気循環の法則から言っても、バブルの崩壊、そして今回の金融危機が証明しているように常に経済成長が保証されるわけではないから、麻生は保証のない経済成長を保証して、パイの分配を言うインチキセールスを国民に約束している過ぎないとも言える。
常に経済成長は約束されない、経済成長を果たしたとしても、人件費を抑制したままの経済成長であったなら、戦後最長景気に於ける個人所得が証明しているように、自民党マニフェストが謳っている10年で手取り100万円増、1人当たりの国民所得を世界トップクラスといった「パイ」にしても、鳩山代表が言っていたように、「今までの10年間で100万円程も、収入を減らしてしまった」地点から100万円増の差引きゼロの地点に漕ぎつけることができるならまだしも、単に幻想を振り撒いただけのことで終わって、「100万円程も、収入を減らしてしまった」元々の地点に佇み続けることになりかねない。
麻生は「自民党の成長戦略」の具体像として「低炭素革命」と「健康長寿社会」、「国民の魅力の発揮という戦略」の3つを掲げたが、麻生自身も一枚噛んで推し進めてきた小泉改革で社会保障費の自然増を毎年2200億円抑制しておきながら、「健康長寿社会」を謳うとは恥知らずもここに極まれりであろう。
2006年度施行の障害者自立支援法で決めた障害者が福祉サービスを受ける際の利用料のほぼ無料から原則1割負担への変更、要介護認定基準の一時的改正で従来のサービスが受けられなくなった事態がどれ程障害者の負担を強いたか。いくら「健康長寿社会」を声高らかに謳ったとしても、過去の様々な改悪を払拭することはできないだろう。
麻生は「低炭素革命」ということで「太陽光発電」を挙げたが、政府は家庭用太陽光発電設備に向けた補助制度を06年3月で打ち切っている。その結果、日本の2008年末の太陽光発電の累計導入量が200万キロワット弱にとどまり、スペインに抜かれて世界2位から3位に後退(「msn産経」)するという成果を挙げたのだが、地球温暖化防止が世界的に騒がれて、二酸化炭素の排出防止だと言うことで、今年(09年)の1月に復活、その見通しの悪さ、将来予測の見劣りからしたら、「あれは今後20倍にします」と自慢げに言う資格はない。
しかも「太陽、光発電と言うんですが、まあ、天井についている、屋根についている」と誰もが知っている余分なことまで言っている。太陽光発電の知識に関して国民を知らない場所に貶める思い上がりが見て取れる。欧米では既に行っている家庭での太陽光発電の余剰電力を一定価格で電力会社が買い取ることを義務づける「固定価格買い取り制度」の導入を発表したのは今年の2月になってからのことで、「買取りの制度、なんていうもの、こういったものをきっちり示して」いなかった、世界的潮流に後追いしているだけのその後手後手の対策に過ぎない。
以前テレビでやっていたが、アメリカでは巨大風車をまわす風力発電の電気を電力会社が買い取るそうで、広大な土地に何本も建てた風車の持主は「風がカネを生む」と笑いが止まらないといった嬉しさを隠しもせずに言っていた。尤も農作をやめて風力発電に代えたなら、持主に収入を保証したとしても、社会的には一長一短となる。
「太陽光発電」は代替産業である。自民党はマニフェストで今更ながらに「太陽光発電の導入量を20年に20倍、30年には40倍を目標とし、太陽光世界一を目指す」としているが、増えた分、火力発電等の既存の発電施設の稼働率を下げることになり、最悪停止ということもあり、当然、人員の削減へと向かう。麻生は「向こう3年間で40兆円を超える需要をつくり出して、200万人の雇用を創出する」としている「需要」に関しは既存産業の需要減、「約200万人の雇用」に関しては労働力の移動を計算した差引きが行われなければならない。
計算を含んだ「向こう3年間で40兆円を超える需要をつくり出して、200万人の雇用」だと言うかもしれないが、赤字国債大量発行の財政出動と中国向け輸出の好調で景気の下げ止まりをどうにか実現したが、景気先行きの懸念材料とされる完全失業率の高さや雇用者報酬のマイナス、個人消費の低迷を解消するところまでいっていない現在の状況は「今後3年間」も信用できないのだから、とても計算済みとは思えない。ハッタリ麻生の言うことだと、そこまで考えると、話半分で聞く程度の信用性しかないように思える。
このように自民党の「経済を成長させて、その上で、そのパイをみんなに分配する」にしても、世界的に後手に回っている太陽光発電の普及やその買取り制度にしても、全幅の信頼が置けないのに対して民主党の「家計を直接刺激して内需拡大する」は既に触れたように少なくと景気の懸念材料となって個人所得を一部を除いて増やす政策であって、「経済成長のパイ」が確たる保証がない以上、より確かな保証となり得るのではないだろうか。
アキバのアイドルを自任、若者にこそ人気があると頭から信じ込んでいるらしいことも八王子を第一声とした理由にあるのではないだろうか。なら、なぜアキバにしなかったということになるが、柳の下に2匹目のドジョウを狙った、二番煎じ、三番煎じと批判されかねない恐れを避けたといったところだろう。
大体が政治指導者は特に政治情報の経験を積んだ人間の批判に耐え得る政策、指導力を必要条件とするだろうから、そのことを基本に置いて若者であろうとなかろうと年齢、職業に関係なく誰が情報伝達の対象であっても、その批判に耐え得る情報を発信しなければならないはずで、そのことを考慮に入れた場合、「若者」を重点対象とする必要性は必ずしも重要とは言えない。
大体が情報社会である。新聞・テレビ・インターネットで1日と時間を置かずに日本中にその映像と共に情報が伝えられる。その時点で情報伝達対象は不特定化する。
ホームレスにしてもラジオを持っている者もいる。街路灯等から電気を盗んで見れるようにしたテレビを持っている者もいるかもしれない。ラジオを聴きながら、あるいはテレビを見ながら、「麻生め、相変わらずお為ごかしをほざいている」と呟いているホームレスもいるかもしれない。
マスメディアを介した情報伝達対象の不特定化を逆説するなら、例え大学の講堂での大学生相手の「大学生生活」をテーマとした講演であっても、情報を発信する最初の時点で情報伝達対象を不特定化して、誰の批判にも耐え得る情報発信が条件となるということであろう。特にマスメディアがその情報を日本全国に向けて仲介する場合はすべての人間の批判に耐え得る情報発信が必要になる。
だとすると、〈若者が学ぶ大学が多く、「成長戦略を重視する党として未来を意識した」〉は単なる体裁、あるいはタテマエということにならないだろうか。ならないとしたら、では少ない年金や介護で苦労している高齢者の「未来」では間に合わない今ある“現実”はどうしてくれる、考えていないのか、対象に入らないのかという批判が起こりかねない。
麻生の第一声を「NHK」記事の動画から文字化してみた。
麻生「100年に一度と言われる、あの経済情勢の中に於いて、我々は政策より、政局より経済対策、景気対策を優先すべきだと確信しました。私共がやりました、経済対策は当たったんだと。無策だと言われた。色々言われましたが、結果がそれを示しています。景気対策はまだまだ道半ば、我々自由民主党は引き続きこの経済政策を継続します。
民主党のマニフェストの中にどこに経済成長が書いてあります。経済成長なくして、ただただ高速道路はタダにします。子供手当てはタダにします。こういうようなことはバラ撒きと言うんです。政権を選択するんじゃありません。政策を選択してください。日本を守るのは自由民主党です。そしてぇー、みなさん方の国民の生活を守るのは自由民主党。――」
最後に「みなさん方の国民の生活を守るのは自由民主党」ときっぱりと言い切っていたが、現在の年金や介護・医療、幼児を預ける保育施設の不足といった子育て問題、少子化は「100年に一度と言われる」経済危機に影響を受けた諸問題ではなく、自民党政治が「みなさん方の国民の生活を守る」ために長年に亘って積み上げてきた「みなさん方の国民の生活」という逆説であって、それを「みなさん方の国民の生活を守るのは自由民主党」と宣言するのは薄汚い欺瞞そのもの、ゴマカシそのものであろう。
いわば麻生はゴマカシを平気で口にしている。
麻生は「私共がやりました、経済対策は当たった」と言っている。「当たった」は的中したということで、成功の意味を含む。そして「結果がそれを示しています」と「結果」を成功の証拠として提示している。上記「NHK」動画記事は株価や経済成長率の数字が上がったことを成功の証拠として挙げたと伝えているが、17日の主要6政党党首討論会でも言っていた「経済成長率は1年3ヶ月ぶりにプラスになりました」といったことを再び繰返して、成功の傍証としたのだろう。
しかし株価はアメリカの株価を反映させた上下動で、日本発の主体的株価の動きとはなっていない。
にも関わらず麻生内閣の経済対策は成功したと遊説第一声で宣言した。だが、成功したと自ら宣言したにも関わらず、続いて「景気対策はまだまだ道半ば」と、自らの宣言に反して成功に至っていないことを自ら証言している。
「景気対策はまだまだ道半ば」――実態はそれ以下と見ている者が多いと思うのだが、どちらにしても到達していないことは誰の目にも明らかなことで、そのことからすると、「私共がやりました、経済対策は当たった」=成功したは薄汚い欺瞞と化す。ゴマカシそのものとなる。
野球ではプロ野球でも高校野球でも、9回裏逆転打を浴びて逆転負けといった失敗はいくらである。9回が終わるまで、投手起用にしても選手起用にしても、監督の采配が「当たった」、成功したとは言えない。
経済の実情はどうなのか、新聞等から見てみる。
主要6政党党首討論会でも言っていたように09年4~6月期の物価変動の影響を除いた実質GDP(季節調整済み)は前期比0.9%増、年率換算で3.7%増で、GDPがプラス成長となるのは08年1~3月期以来、5期ぶりだそうだ。(《GDP、5期ぶりプラス成長 年率3.7%増、4~6月》asahi.com/2009年8月17日10時23分)
麻生はテレビで「先進国の中で一番高い数値だ」といったことを言って自慢していたが、中国で中国政府が大型の景気刺激策として日本円で総額50兆円を超える規模の内需拡大策を打ち出して引き出した国内経済の回復を受けた日本の中国外需の恩恵も無視できない量で入っている「プラス成長」でもある。
但し中国でも内需拡大策が功を奏しつつも、元々は日本と同じ外需依存型経済構造を取っているために経済成長の大きな原動力となってきた輸出や海外からの直接投資が欧米の景気が好転しないことから改善しておらず、大きな懸念材料となっていると「NHK」記事が伝えている。
いわば中国の本格的な景気回復にしても欧米の本格的な景気回復待ちということで、その条件を欠いた場合、中国の内需恩恵を受けた日本の中国外需にしてもその継続性の保証を失うことになる。
と言うことは、中国の国内景気回復とそのことによる日本の中国外需の助けを一因とした「GDP3.7%」でもあるのだから、決して「私共がやりました」とは言えず、当然のこととして、現時点で「私共がやりました、経済対策は当たった」と言える状況にはないことになる。
GDP3.7%プラス成長に関して、上記「asahi.com」記事は次のように解説している。
〈ただ、本格回復は遠い。プラス成長に転じたとはいえ、4~6月期の実質GDPの実額は年換算で526兆円と、直近のピークの08年1~3月期の569兆円を大きく下回る。物価変動を反映し、実感により近いとされる名目GDP(季節調整済み)は、4~6月期も前期比0.2%減、年率換算で0.7%減で、5期連続のマイナスだった。 〉――
選挙遊説で「経済対策は当たった」と自慢して宣伝する程のことではないということである。
同記事は「GDP3.7%」の貢献項目に「輸出と個人消費の持ち直し」を挙げている。「輸出」は「NHK」が伝えていたように中国外需が中心だとしている。「個人消費」はGDPの5割超を占めていて、3期ぶりにプラスに転じたそうだが、その原因を政府が景気対策で導入した家電購入補助のエコポイント制度やエコカー減税を受けた薄型テレビや自動車の販売が主として下支えしたものだとしている。
記事は〈景気の先行きが不透明で企業が工場設備の増強を抑えていることから、設備投資は08年4~6月期から5期連続でマイナス。住宅投資は2期連続で減少した。〉と懸念材料を伝えているが、「個人消費」が主としてエコポイント制度・エコカー減税等の政府の景気対策を受けたものであるなら、車や家電製品を買い替える余裕のある高額所得者、あるいは比較高額所得者のみの「個人消費」の傾向が強く、絶対多数を占める中小所得者には無縁の現象だったと言うことではないだろうか。高額所得者、比較高額所得者の「個人消費」にしても、一通り買い換える先食いが終わったとき、その反動を受けた消費低迷を受けない保証はない。
主として高額所得者、あるいは比較高額所得者が貢献した「個人消費」であることは「毎日jp」(09年8月18日)記事――《トヨタ:レクサスのハイブリッド車 受注1カ月で1万台》が証明してくれる。
〈トヨタ自動車は18日、高級車ブランド「レクサス」初のハイブリッド専用車「HS250h」の受注台数が、7月14日の発売から約1カ月で1万台に達したと発表した。当初の月間販売目標(500台)の20倍で、同社は「現在受注しても、納車が来年2月下旬になる」と説明している。
HS250hは、ガソリン1リットル当たりの走行距離が23キロで、高級セダンながらコンパクトカー「ヴィッツ」並みの燃費性能を持つ。最廉価モデルが395万円とレクサスでは最も安いことも顧客獲得につながっている。発売時点で受注台数が3000台に達していた。【坂井隆之】〉――
「最廉価モデル」で「395万円」――いくら36ヶ月のローンでも、1千万人を超える年収200万円以下の人間には手が出ないだろうし、派遣切りに遭った、会社が倒産して職を失った、ローンが払えなくてマンションや持ち家を手放すことになったと言った人間にはよその国の「個人消費」であろう。
昨18日の「NHK」記事――《所得の下落が景気の懸念材料》が上記「asahi.com」記事とは別の、景気の先行きに対する題名どおりの懸念材料を伝えていて、「個人消費」が所得に関係していることの補強材量となっている。
GDP・国内総生産の速報値は物価の変動を除いた実質で1年3か月ぶりのプラス成長したものの、雇用者の所得を示す指数は7年ぶりに大幅に落ち込み、景気の先行きに対する懸念材料となっているとしている。
具体的には、〈速報値と合わせて発表された雇用者の給与所得の総額を示す「雇用者報酬」は1.7パーセントのマイナスと前の3か月に比べて1.2ポイント悪化し、失業率が過去最悪の5.5パーセントを記録した平成14年以来、7年ぶりの大幅な落ち込みとなってい〉て、その原因として〈企業業績の悪化によるボーナスの大幅な減額や、失業率が過去最悪に迫る水準となるなど雇用情勢が悪化したため〉で、〈雇用情勢の悪化や所得の大幅な落ち込みは消費者の節約志向に拍車をかけるため、今回プラスに転じた個人消費を再び冷え込ませかねず、景気の先行きの大きな懸念材料となってい〉るとしている。
「今回プラスに転じた個人消費」が所得に十分に余裕のある者の消費動向だということだろう。首切りに遭って収入を限りある失業手当に変えた者、あるいは企業業績の悪化から給与やボーナスを減らされた一般所得者の殆んどが関与しなかった「個人消費」と言うことなら、高・比較高所得者が一通り高額諸品を買い換えた局面を迎えた場合、ほぼ必然的に消費低迷の局面に入ることが予想される。
こういった内実的な状況を考えると、やはり「私共がやりました経済対策は当たった」は薄汚い欺瞞、ゴマカシとしか言えなくなる。
「asahi.com」記事――《にっぽんの争点:財源》消費増税か 予算見直しか(asahi.com/2009年8月18日8時13分)が記事の最後で次のように書いている。
〈自民党は「10年度後半に年率2%」の経済成長を目指している。平均的な民間予測に比べて楽観的な目標だ。経済成長による税収増もなく、財源が増税頼み(消費税増税)になれば、国民負担はどんどん大きくなり、「中福祉・中負担」もおぼつかない。(福間大介、山口博敬) 〉――
この「asahi.com」記事が伝えているように自民党はこれまでも赤字国債依存の財政運営を行っている。「国と地方の『借金』は09年度末で816兆円(国619兆円、地方197兆円)」(同記事)にのぼるそうだ。
赤字付けまわしでムダな道路、ムダな予算付け、天下りに向けたムダな報酬等々のムダ遣いを散々に続けてきた。ムダ遣いの綻び(ほころび)を繕うために医療費や介護、生活保護費などの社会保障関係予算を情け容赦なく削ってきた。地方にまわすカネも削った。弱者を殺して、政治家・官僚等の強者を生かす政治を自民党は専ら行ってきた。
その責任も取らずに、麻生は「私共がやりました、経済対策は当たった」と言う。弱者を殺して、強者を生かす政治を行ってきたことは棚に上げて、経済政策が成功したからと、「景気対策はまだまだ道半ば、我々自由民主党は引き続きこの経済政策を継続します」と言う。
政権にしがみつく口実としか聞こえない。政権にしがみつく口実に「経済対策は当たった」と言い、「我々自由民主党は引き続きこの経済政策を継続します」と言っているとしか受け取ることができない。
これまでの自民党政治の責任を取ろうとしないのだから、麻生が言っていることの何から何まで薄汚い欺瞞、ゴマカシしか見ることができない。
最後に大阪市で行った民主党鳩山代表の第一声。
「日本の歴史を塗り替える日がやってきた。4年前の選挙では『小泉旋風』が吹き荒れ、『郵政民営化で政治もよくなる、地域もよくなる、社会保障もよくなる』と、公約でうたったが、その公約はまったく果たされておらず、惰性の政治に終止符を打たなければならない。麻生総理大臣が『責任力』と言うなら、皆さんの一票の力で責任を取ってもらい、国民が主役になる新しい政治を、勇気をもっておこそう。冷たい政治ではなく、温かい政治をつくり出すために、民主党に政権交代の力を与えてほしい」(《衆院選が公示 焦点は政権選択》NHK/09年8月18日 14時31分)
司会「今回の選挙で有権者に一番訴えたいことは何か。持ち時間2分で――」
麻生「麻生太郎です。私が最も訴えたいことは責任力です。自民党には一貫性ある公約とそれを実行する力があると存じます。
訴えたい政策は3点。景気最優先・安心社会の実現。そして日本を守る。私は内閣総理大臣に就任して以来、経済対策に全力を挙げてきました。その結果景気の先行きに明るい兆しが見えてきました。今日発表された経済成長率は1年3ヶ月ぶりにプラスになりました。しかし国民の皆様に景気回復を実感していただくまでには至っておりません。未だ道半ばです。景気最優先。私は日本の景気を必ず回復させます。戦略なきバラ撒きでは経済は成長しません。
次は安心社会を実現します。一言で言えば、子供に夢を、青年に、若者に希望を、そして高齢者に安心を、です。行過ぎた市場原理主義とは決別します。改めるべきは改め、国民の暮らしを守ります。
そしてもう一つ守るのが日本の安全です。北朝鮮は日本人を拉致し、核実験やミサイル発射を強行いたしております。その明白な脅威から、日本を守らなければいけないと存じます。
また海賊対策。テロ対策。日米同盟。いずれも強化して、日本人の生命と安全を守り、国際貢献にも引き続き取り組みます。
安全保障の基本がフラフラしていては日本の安全は守ることはできません。麻生太郎と自由民主党は日本の、守り(ママ)、日本の安全に責任を持ちます」――――
我が日本の偉大なる総理大臣麻生太郎は最初に「私が最も訴えたいことは責任力です」と自信たっぷりに「責任力」を請合っている。自分では「責任力」があると頭から信じているからだろう。
そして引き続いて「自民党には一貫性ある公約とそれを実行する力があると存じます」と断言している。
「麻生内閣には一貫性ある公約とそれを実行する力があると存じます」とは言っていない。歴代自民党政権は各内閣と自民党が一体となり、自民党全体で推し進めてきた政権なのだから、「自民党には」云々は当然の言い回しであろう。麻生太郎自身、第二次橋本内閣で経済企画庁長官として初入閣(1996年)以来、自民党役員としては政務調査会長、副幹事長、幹事長を、閣僚としては総務大臣、外務大臣等を歴任している。自らも自民党の重要な一員として自民党政治及び自民党政権に深く関わり、自民党が伝統的に自らの体質としてきた「一貫性ある公約とそれを実行する力」を肌に感じて自らの体質とし、それを推し進めてきた一人となっていたはずである。
もし以前の内閣には「一貫性ある公約とそれを実行する力」がなかったが、麻生内閣にはそれがありますと言ったなら、自己矛盾そのものとなる。以前の内閣と与党としての自民党との一体性からしたら、自民党自体にも「一貫性ある公約とそれを実行する力」を持ち合わせていなかった、そのためにそれを内閣が守ることができるように後押しする力がなかったことになり、にも関わらず、以前の内閣は成り立ってきた。さらに「一貫性ある公約とそれを実行する力」を持ち合わせていないし、内閣に後押しする力もない自民党を母体として麻生内閣が成立したことになり、滑稽な矛盾を来たす。
あくまでも「一貫性ある公約とそれを実行する力」の主体は自民党でなければならないし、そのような自民党を母体とした内閣だからこそ、内閣と自民党は「一貫性ある公約とそれを実行する力」をブレること一切なく響き合わせることが可能となって、「自民党には一貫性ある公約とそれを実行する力があると存じます」と断言することができることになる。麻生太郎が言っていることは正しい。
だが、「自民党には一貫性ある公約とそれを実行する力があると存じます」と断言しながら、「行過ぎた市場原理主義とは決別します」とその「一貫性ある公約」に反した政策転換を宣言している。政策の転換は「一貫性ある公約」の転換をもたらす。
「改めるべきは改め」ると言っているが、そう言えば格好がつくように見えるが、麻生太郎は「行過ぎた市場原理主義」を推し進めた小泉内閣で総務大臣と外務大臣を務めて、自民党とも一体、小泉内閣とも一体を演じてきたのである。「改めるべきは改める」前に「自民党には」あるとする「一貫性ある公約とそれを実行する力」を土台として一体となって「行過ぎた市場原理主義」を推し進めてきた責任から自分自身を外していないだろうか。
自分自身を自民党政治の責任外に置いているからこそ、麻生自身も重要な協力者として加わり、自民党共々一体となって「行過ぎた市場原理主義」政策を強力に推し進めた結果、この党首討論の中の鳩山民主党代表からの麻生への質問でも、「子供から夢を奪ったのは誰でしょうか、若者から希望を奪ったのは誰なんでしょうか、特にお年寄りから安心感を全く奪ってしっまたのは、どの政権でしょうか」と言っているが、多くの国民が同じ印象を共有しているに違いなく、子供から夢を、青年、若者から希望を、高齢者から安心を奪う不安心社会を実現させておきながら、いわば麻生太郎も共犯者の一人だったにも関わらず、その責任を自らに問わないまま、「次は安心社会を実現します。一言で言えば、子供に夢を、青年に、若者に希望を、そして高齢者に安心を」と矛盾をサラサラ感じずに自信たっぷりに言っている。
不安心社会をつくり出した自民党政治の責任から自分を外に置いている麻生が「最も訴えたい」能力として「責任力」を言う。
単に「改めるべきは改め」、「決別すします」で済ますことのできる問題ではないということである。一蓮托生、共に進めてきた市場原理主義政治であり、新自由主義政治だったのだから。
麻生は自分もその一味となって子供から夢を、青年、若者から希望を、高齢者から安心を奪う不安心社会を構築した責任を取らないまま、「景気最優先。私は日本の景気を必ず回復させます。戦略なきバラ撒きでは経済は成長しません」と言って憚らない。
このような発言の経緯を可能とすることができるのは国の景気・経済があくまでも主で、国民の生活は従に置いているからだ。国民の生活の守りを基本に置いて景気対策に取り組むのと、日本の経済の守りを基本に置いて国民の生活を守るのとでは大きな違いがある。前者は国民の生活の守りを目的に据え、そこからスタートさせた日本の経済の守りとなるが、後者は国民の生活の守りはあくまでも日本の経済の守りを受けた結果生じる生活の守りとなる。
前者の場合勿論のこと政治の主役の座は国民が占めることになるが、後者は表立って経済活動をする大企業等を主役に位置づけることになる。
国民の生活を主に据えた経済政策なら、戦後最長の好景気時期に大企業は軒並み戦後最高益を出しながら、その利益を国民に還元しないで済ませて企業一人勝ちといった現象は決して起きなかったろう。
こういった経緯からも自民党政治が日本の経済の守りを基本に置いて国民の生活は従に位置づけた経済政策を行っていることが理解可能となる。麻生は単にこのような自民党の歴史・文化・伝統を受け継いでいるに過ぎない。
麻生が高らかに「景気最優先」と言えるのも、自民党が主として大企業の利害代弁を自らの伝統・文化・歴史としてきた、体質としてきたことを受けた「景気最優先」だからなのである。「国民の暮らしを守ります」は2007年7月の参議院選挙で与野党逆転の敗北を受け、政権放棄の危機が迫ってから言い出した国民目線に過ぎない。
このことは安全保障に関わる発言からも窺うことができる。
「そしてもう一つ守るのが日本の安全です」と安全保障の観点から「日本人の生命と安全を守」るとしているが、「日本人の生命と安全」の保護は何も安全保障に限ったことではなく、「国民の暮らし」の保護も重要な要件に加えなければならないはずである。
安全保障面からいくら領土を守っても、国民の生活が満足に成り立たなければ強い国とは言えないし、国を守ったとも言えない。北朝鮮みたいに国家とは名ばかりとなる。領土保全も国民の暮らしの充実も同等に必要優先事項でなければならない。領土保全と国民生活保全とは同時併行の両者一体のものとして相並び立てて初めて「日本人の生命と安全を守」ったと言えるはずである。
だが、麻生にはそのような考えはない。何度でも言うように自民党は子供から夢を、青年、若者から希望を、高齢者から安心を奪う不安心社会構築の政治を行って国民生活の保全を欠き、領土保全からのみの「日本人の生命と安全を守」るに傾いて両者の一体性を既に壊している。
麻生にはその認識がないから、北朝鮮の日本人拉致だ、核実験だ、ミサイル発射だ、海賊対策だ、テロ対策だ、日米同盟だ等々、日本の安全保障に於ける必要政策事項を並べ立てて力説することができる。
この点からも麻生が不安心社会をつくり出した自民党政治全体の責任から自分を外していることが分かる。
麻生の言っていることを譬えるなら、家庭内別居だ、夫も妻も愛人を抱えて好き勝手に振舞っている、大きくなった子供は引きこもりだ、娘は家出して若い男と同棲しているといった家庭の事情を抱えていながら、そういった中身を問題とせずに建物としての家は耐震補強が施してあって阪神大震災並みの地震に耐えられる強度がある、耐火構造の上、スプリンクーラーも設置してある、すべての出入口、すべての窓の防犯対策は万全だと誇るのと同じである。
「自民党には一貫性ある公約とそれを実行する力ある」とした自民党政治の一体性が果たすべき責任から、あるいは不安心社会をつくり出した自民党政治の一蓮托生が負うべき責任から自分を外に置く麻生の姿と、国の景気・経済をあくまでも「最優先」(=主)と位置づけて、国民の生活を従に置いている姿勢が党首同士の議論でも当然の姿として現れることになる。
何と言っても「私が最も訴えたいことは責任力です」と胸を張っているくらいだから、麻生らしく現れていることに知らぬが仏で気づかない。各党首が2分ずつ有権者に一番訴えたい主張を終えてから党首同士のテーマ自由の議論に移った。最初に鳩山民主党代表が自民党麻生に議論を仕掛けた。
鳩山「私はそれでは麻生総理にお尋ねします。先程麻生総理は演説の中で子供に夢を、若者に希望を、さらにお年寄りには安心をとおっしゃいました。子供から夢を奪ったのは誰なんでしょうか。若者から希望を奪ってしまったのは誰なんでしょうか。特にお年寄りから安心感を全く奪ってしまったのは、どの政権なんでしょうか。むしろ、そのことを厳しく問いたいと思います。国民の多くはそこに怒っている。私はそう確信をしています」
ここで質問をとめて、この質問に限っての麻生の答を聞くべきだったが、質問が続いた。
鳩山「景気が回復する兆しが出てきたと、そのような話がありました。私は、まるでこれは国民の実感から外れていると思います。特にリーマンショックの頃も、その前、10年間、自民党さんは景気は回復している。あるいは景気はいいんだと、いざなぎ景気を超えているんだと、そのようなことをおっしゃっていました。
しかしその10年間で家計の収入というものは100万円落ちているのでございます。景気がいいはずなのに、国民のみなさんの懐は100万円減ってしまっていると。ここにこの国の大きな難しさがある。そう私は思っています。
しかし麻生総理は、そのような形で景気の回復の兆しだと。2%、来年は末までに必ず景気を回復させる、そのときは消費税の増税だと、そのように公約されたわけであります。国民のみな様方の実感とはまるでかけはなれた現実にあるにも関わらず、このような数字の上での景気が、例えば2%回復したと、いう状況になれば本当に麻生総理は消費税の増税されるんでしょうか」
麻生「昨年の10月、当時は政策より政局、経済対策より解散・総選挙という声が大きかったと存じます。私は少なくとも今、経済対策・景気対策・雇用対策は優先される。少なくともアメリカ発の、世界発と言えます、同時不況ということになりました。過去60年間でこんなことはありませんから、その意味でこれに集中するというのは、当然だということで、この10カ月の間で、約4回の予算編成、をさせていただき、経済対策というものに集中させていただいたと存じます。結果として、今日の経済指標の発表を見ましても、間違いなく1年3カ月ぶりに経済指標は上がった。プラス3%台まで乗ってきた。こういったのは、これまでの対策の成果だったと思っております。
また雇用、そういったとこに非常に大きなしわが寄ったという事実は率直に認めた上で、雇用調整助成金などで、少なくとも、確かあれは産経新聞でしたか、あの雇用調整助成金がなかりせば失業率8.8%になっていたであろうと、書いてあったと記憶しています。少なくとも、そういう成果がやっと出てきた。
しかし、これはいわゆる数字の上の話であって、国民が肌でその景気回復を実感しているか、言えば、そこまで至っておりません。従って、景気回復を最優先させると、私は就任のときに申し上げたことが、全治3年とも申し上げました。まだ道半ばだと思っておりますんで、引き続きこの景気対策、最優先でやらなければならないものだと思っております」
鳩山代表「麻生総理、私の質問にまったくお答えになっておられないんでありまして、このような状況で数字が上がっただけでは、それでは(消費税は)上げないと、上げるとは決めてはいないというふうにおっしゃってるのか、やっぱり公約として来年度末には2%、そして今も3%という話であれば、もう上げてもいいような時期になっているのかもしれませんが、本当にこのような状況の中で、上げてしまうのかどうか、イエスかノーかでお答え願いたいと、私は敢えてまたお願いします」
麻生「そうではなく、理解しておられないと思います。少なくとも我々は法律の付則できちんと、この点は書いてお示しをしたと思います。そこで十分に答えております。
問題は景気回復というのを大前提になっておりますんで、景気回復が大前提の、景気回復というものに今、指標ができつつあると、いう段階ですが、まだ国民が肌で実感するまでに至っていない。まだ10カ月余ですから。その意味では引き続き、景気対策を最優先にやっていく。その結果、我々の所期の目的に達成し、景気回復を実感していただけるような、数字、また実感としても、双方ともに景気回復というものが国民の間に浸透していけるような段階までどうやってするかというのが、今最大の問題でありまして、消費税というものはその段階に於いて、ということは既に法律の付則で書いてあると記憶しています」
鳩山代表「何をもって景気回復というか、というかと、いうのが、全く明らかになっていないというのが、分かったわけでありますが、この話を伺っても押し問答だと思いますので、年金の話に移りたいと思います。
年金、いわゆる消えた年金、5千万件というものが発覚いたしました。それは民主党の長妻議員などが努力をして、ようやく分かった話でありまして、現実には無茶苦茶な、ボロボロの年金になっていたということが明らかになった。参議院選挙のときに、自民党さんは、これは1年で解決をするんだと、いう話をしました。いわゆる統合に関して、統合を1年間でやるというふうにおっしゃいました。しかし、あれから2年以上経っております。しかし、まるで何もできておりません。1千10万件というのが統合ができた数でありますが、まだ4千万件が残っていると。また殆んどが作業途中であると、目途が立っていない。この公約が全然守られていないことを、そしてなぜ解決ができなかったかということをお聞きしたい」
麻生「年金のことに関しましては、我々は残念ながら、これを目標と申し上げた年次内に解決できなかったことは事実であります。これは安倍内閣のときの公約だったと記憶します。それ以後、我々としては引き続き年金特別便などを出させていただきまして、多くの方々にご納得をいただいておるがゆえに返事が返ってこないという部分もあろうと思います。届いてない部分もあるかもしれませんよ。しかし、我々としてはこの点に最大限努力をし、引き続きその他の問題につきまして、年内を目途に、この問題については解決すると、いう話をさせていただいていると思います。
いずれにいたしましても、この年金の話というのは、色々な消えた年金、消された年金、色々あろうと存じますが、この問題に関しては、これはきちんと丁寧にやり続けていくという時間がどうしても必要だと、言うことだと思っております」
声・恰幅共にどこぞの暴力団の親分かと見間違えそうな堂々たる風情の公明党の太田代表から鳩山代表へと質問が移る。――
鳩山代表の最初の質問である、あるべき安心社会を損なったのは「どの政権なんでしょうか」との問いに麻生は全く答えていない。自民党に籍を置いている以上、自民党政治の責任に自らの責任を重ねる一体性を持たせた責任感を示すべきをそうはせず、自身の責任を自民党政治の責任から外に置いている。
そして答えたのは「間違いなく1年3カ月ぶりに経済指標は上がった」といった成果、「雇用、そういったとこに非常に大きなしわが寄ったという事実は率直に認めた上で」と断りを入れているものの、「雇用調整助成金」の成果の二つを最初に持ってきて誇っているが、その実「これはいわゆる数字の上の話であって、国民が肌でその景気回復を実感しているか、言えば、そこまで至っておりません」と最初の成果・誇りをいともあっさりと無意味とする“国民の実感”・国民の側の無成果を後に持ってきて差引きマイナスとしながら、何ら恥じるところがない。
「国民が肌でその景気回復を実感して」初めて、自らの景気対策・経済政策を誇り、成果とすべきを、そういった経緯を踏んでいないのはこれも明らかに国の景気・経済をあくまでも「最優先」(=主)と位置づけて、国民の生活を従に置いている姿勢の現れであろう。
また年金問題に関しても、「我々は残念ながら、これを目標と申し上げた年次内に解決できなかったことは事実であります。これは安倍内閣のときの公約だったと記憶します」と単に説明で済まし、ここでも自民党と一体であるべき責任の外に自分を置いている。例え「安倍内閣のときの公約だった」としても、「自民党には一貫性ある公約とそれを実行する力があると存じます」と自民党政治の一貫性・一体性を謳っている以上、「公約」とした責任は一内閣で終わるものではないはずだが、平気で一内閣で終わらせている。
自民党が国民の信を問うという責任を果たさずに総理大臣の首を次々と据え替えて平気でいられる理由はここにあるのだろう。長期政権の安心感から責任意識をなくしてしまった。
麻生太郎は責任を感じない自民党の中でも一番手に挙げてもいい責任を感じない政治家ではないだろうか。自分では「責任力」があると思っている錯覚は合理的自省心・客観的自己認識能力の欠如がそうさせている思い違いに過ぎないといったところだろう。
だが麻生首相は自らも担っているその合理性に反して、式辞でこう述べている件がある。
「我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております。国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となられた方々に、謹んで哀悼の意を表します」(YOMIURI ONLINE)
アジアに対して行った侵略戦争とは言っていない。だが、非のある戦争、非は日本にありとしている。非があるとするから、謝罪を附随させなければならない。
「国民を代表して、深い反省とともに、犠牲となられた方々に、謹んで哀悼の意を表します」――
もし日本の戦争が“非のある戦争”なら、国家権力に位置する者は靖国に祀られている戦没者を顕彰の対象とするのではなく、謝罪の対象としなければ矛盾が生じる。“非のある戦争”に駆り立て、尊い命を犠牲にさせたと。そうすることで矛盾は解消可能となる。
いわば“非のある戦争”によって「アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たと謝罪するなら、靖国に祀った戦前日本軍の兵士であった戦没者に対しても同じ謝罪の列に置かなければならないはずである。
だが、「アジア諸国の人々に対して」謝罪しておきながら、靖国に祀っている戦没者にはどのような謝罪もせず、逆に「国のために戦って尊い命を捧げた」と顕彰している。まさしく矛盾行為ではないだろうか。
「国のために」という言葉を「非のある戦争」という言葉に代えてみるとよく理解できる。
「非のある戦争のために戦って、尊い命を捧げた」――
“非のある戦争”は尊い命を捧げるべき対象とはならない、対象とはすべきではないはずだから、「非のある戦争のために戦って、尊い命を捧げた」は行動矛盾そのものとなる。
勿論戦争をしている間は“非のある戦争”だとはカケラも思っていなかったろう。大東亜共栄の戦争だ、八紘一宇の戦争だと信じ込まされて戦争に加わった。
だが、現在の価値解釈としてその戦争が大東亜共栄の戦争でも八紘一宇の戦争でもなく、麻生自身にしても、“非のある戦争”だとしてアジア「アジア諸国の人々に対して」謝罪している。
当然、靖国神社に祀っている戦没者に対しても現在の価値解釈を行うべきを戦前の価値解釈を引き続いて施している。「非のある戦争のために戦わせて、尊い命を犠牲にさせてしまった」と謝罪すべきを、“非のある戦争”とはせずに「国のために戦って、尊い命を捧げた」と顕彰している。
今回の全国戦没者追悼式には衆院議長は解散中のため出席しなかったが、出席した江田五月参院議長は追悼の辞で次のように述べている(《64回目の戦没者追悼式 首相「過去を謙虚に」 江田議長、加害責任強調》msn産経/2009.8.15 16:48 )から。
「わが国の侵略行為と植民地支配により、アジア諸国をはじめ、広い地域の人々にも多大な苦しみと悲しみを与えた」
日本の戦争の性格と「国のために戦って尊い命を捧げた」の顕彰とが論理矛盾をきたしていることがさらに理解できるように江田五月参院議長の言葉に代えてみる。
「侵略行為と植民地支配のために戦って、尊い命を捧げた」――
侵略戦争に尊い命を捧げるのは現在では北朝鮮やミャンマーといった全体主義国家の国民が国家権力に唆されて行うぐらいだろう。だが国家権力自体は侵略戦争とは言わない。正義の戦争と位置づけるに決まっている。戦前の全体主義国家日本がそうであったように。
だが、現在「侵略戦争」だと言うなら、あるいは“非のある戦争”だとするなら、否定されるべき「国」の態様であり、同じく否定されるべき「国のため」の奉仕であり、否定されなければならない「命を捧げる」国民の行動性だが、そのような価値解釈を施さずに戦前の価値解釈で以て依然として顕彰の対象としている。
麻生の「我が国は、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えております」云々がサラサラ心にない口先だけの謝罪で、ホンネは日本の戦争を正義の戦争、アジア開放の戦争だと看做しているということなら、「国のために戦って尊い命を捧げた」の顕彰に如何なる矛盾も存在しないことになる。
実体はそんなところなのだろう。
「A級戦犯が合祀されている靖国神社には天皇陛下も参拝されない。陛下が心安らかにお参りに行かれる施設が好ましいと思うのも一つの理由だ」(47NEWS)
民主党の政策集は戦没者の追悼に関して「特定の宗教性をもたない新たな国立施設」の設置を目指すとしている。(同47NEWS)
A級戦犯の合祀を外すことで天皇の参拝阻害条件をクリアした上に非宗教性を内容とした施設ということらしい。
鳩山代表の表明に対して同党岡田幹事長が発言している。
「有識者に議論していただき、それを尊重する形にすべきだ。政党が前面に出るのはいかがなものか」(時事ドットコム)
「国として、国家、国民のために命を落とした方々を祭る場が不可欠だ」(同時事ドットコム)
「国立のものができたから靖国には行かないとなるかどうかは、そのときのリーダーの判断の問題だ。靖国問題とは切り離して考えるべきだ」(同時事ドットコム)
岡田幹事長の「国として、国家、国民のために命を落とした方々を祭る場が不可欠だ」は戦前の日本という国の内容を問わない麻生と何ら変わらない姿勢を示している。
「国立のものができたから靖国には行かないとなるかどうかは、そのときのリーダーの判断の問題だ。靖国問題とは切り離して考えるべきだ」はあくまでも靖国神社と新国立追悼施設とは別物で、「ときのリーダーの判断」で靖国神社への参拝もあり得るということであろう。いわば靖国神社は靖国神社として残る。どちらに参拝するかはその人の判断だということである。
当然首相在任中は新国立追悼施設に参拝し、在任後は靖国神社に参拝ということも十分にあり得る。
鳩山表明に関して麻生首相も当然ながら口を挟んでいる。記者から質問があったからだろうが、なくても口達者を性格としているから、口を挟まないわけにはいかないのではないだろうか。昨14日の首相官邸でのぶら下がり記者会見での発言だそうだ。
「国民の合意を得られるかが一番の問題だと思う。施設を作ったら靖国の話がなくなるのか、なかなかそんな簡単にはいかないのではないか」(毎日jp)
靖国は靖国として残る。「お国のために戦って尊い命を捧げた」者の魂を迎えて祀るとする靖国神社の存在性は、それが戦前の価値観から発生した存在性であったとしても、「お国のために戦って尊い命を捧げる」ことに応えた戦没者それぞれの存在理由を美しい無償の行為としてそれをぞれの遺族が自らの誇りと確認できる装置として存在するからだろう。その結果、靖国神社は国のために命を捧げた戦没者の魂が漂う場所という地位を確立した。
どのような国立追悼施設が建設されようとも、靖国神社が一旦確立した地位を奪うことはできないに違いない。国の内容を問わないまま「お国のために尊い命を捧げた」というキーワードが日本人の総体的な血となっているからだ。
だからこそ、新追悼施設の建設を目指す立場にいても、岡田幹事長のように同じく国の内容を問わないまま「国として、国家、国民のために命を落とした方々を祭る場が不可欠だ」となる。
どのようなケースの死であっても、死者を弔うのは遺された者の当然の務めであろう。国が起こした戦争であり、その戦争に兵士として駆り立て戦死させたのだから、その戦死者を国として弔うのは同じく当然の務めであろう。
それでも、その戦争がどのような戦争であったかによって、戦死者の立場は違ってくる。どのような戦争であったかを問うことはどのような国であったかを問うことにつながる。
その戦争が世界に何らかの害悪を及ぼした戦争であったのか、世界に何らかの貢献を果たした戦争であったのか。
前者であったなら、戦死者は例え本人が「天皇陛下のため・お国のために」戦うべく参加した戦争のつもりであったとしても、戦争のために国家に死の犠牲を強いられた戦争ということになり、後者なら、死を以って報いる価値のあった戦争ということになる。
当然、どう悼むのか違いが生じる。もし国の犠牲となった戦死であるなら、「国の犠牲となった、戦争の犠牲となった、無念だったろう」と悼むことになり、後者なら、「世界に貢献したのだ、立派だったな」と悼むことになる。
歩道を歩いていて自動車に跳ねられて死亡した場合、遺族は「その歳で自動車に跳ねられ死んでしまった、さぞかし無念だったろうな」と悼むのと同じである。川で溺れた者を救おうと飛び込んだものの、自分まで溺れて死んでしまった場合、遺族は「人助けしようとして死んだのだ。残念だったろうが、立派だったな」と悼むのと同じである。
死の経緯に応じて、悼み方が違ってくる。それを明らかにするために日本の戦争がどんな戦争であったのかの検証・総括を行って、その答に基づいて新しい追悼施設は建設されるべきではないだろうか。
もしも田母神俊雄が懸賞論文に書いたように「もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」と相対化の罪薄めを行い得るなら、あるいは「戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである」、さらに「大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、二百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ」と位置づけ、正義の戦争とすることができると検証・総括されたなら、あるいは安倍晋三が06年9月26日の首相就任後の10月16日の衆院予算委員会で「日本において、国内法的にいわゆる戦争犯罪人ではない。・・・・いわゆるA級戦犯と言われる方々は、東京裁判において戦争犯罪人として裁かれたわけだが、国内としては、国内法的には戦争犯罪人ではないということは先ほど申し上げたとおりで、私の認識もそうであります」と述べたように戦争犯罪人の存在しない戦争=悪ではなかった戦争であるとする検証・総括を受けたなら、靖国神社のA級戦犯合祀は誰にとっても障害となる問題ではなくなる。現天皇も日本の戦争の宣戦布告を行った昭和天皇の子供として堂々と靖国神社に参拝すればいい。
いわば何も新しい国立追悼施設を建設するまでもないだろう。靖国神社一つでいい。
だが、検証・総括が田母神や安倍の主張とは正反対の結果が出て、日本の戦争がアジアの国と人命に多大な被害をもたらした侵略戦争で、兵士はそれに加担した犠牲者だと位置づけられたなら、今までの“顕彰”の意味で行った「天皇のため・国のために尊い命を捧げた」は否定且つ「天皇のため・国のために」が決して美しい目的ではなかったことが暴露されることになるだろう。
例え靖国神社では従来の“顕彰”が引き続いて行われたとしても、そのために建設が必要とされる新国立追悼施設に於いては、「天皇のため・国のためにの名のもと、多くの尊い命が犠牲にされた。このような犠牲が二度国民の運命に降りかからないようにしなければ、あなたがの死はムダとなる。決してムダにはしない」が麻生や安倍といったムジナたち、あるいは最近では野田聖子が言う「平和の祈り」とは違う新しい平和の祈りとなるだろう。
もし戦争の顕彰・総括を徹底的に行わないまま新国立追悼施設を建設したとしても、靖国神社に対して非宗教施設というだけのことで、大方の日本人の精神の中では常に靖国神社を上に置くことになるに違いない。
それは合理的精神を欠くと言われている日本人が合理性を獲得する機会を失うことをも意味し、合祀的精神を欠いたまま推移することを意味するに違いない。
番組の最後の方で民主党の「子供手当て」が議論の俎上にのぼった。
長妻昭「民主党のマニフェストは最大の財源を使って、子供手当て、月額2万6千円を中学3年卒業まで差し上げる。意味は年金・医療・介護に影響してくる。2055年には日本の人口は9千万人を切って、現役勤労者と65歳以上人口が1対1となる。現在は現役3人が64歳以上1人を支えている。2055年にはこれが持たない。フランス並みに子育てして、少子高齢化、この子育て・子供を反転して、上げていかなければならない。その対策が自民党にはない」
石原伸晃「長妻さんの意見として、私はちょっとビックリしたのだが、子供手当ては究極のバラ撒き政策です。3人お子さんがいたら、年間で90数万円、それを15年間与え続けたとしたら、1500万円。家が買える。そういうことを行って、その財源は年金にすべて消費税を注入するのだから、外のわけですよね。外の日本の財政の中で3人お子さんがいる方に15年ローンで家を買ってあげておいて、そして年金の方はすべて基礎年金は税でやる。社会福祉目的税化とういことでは私は山口さん、亀井先生のところは非常に近いですし、経済成長を行わなければ、成長戦略がなければ、パイの分配ができないわけです」
長妻昭「今新婚さんにアンケートを取ると、2人お子さんがほしいと言う。追跡調査すると、1人。最大の理由は経済的理由。その理由を取り除いて子供を産んでいただくということで(子供手当てを行う)。石原さんは今は世の中が恵まれてバラ色の日本だというイメージを持っているけど、そんな現状ではない」
石原「私は長妻さんの考え方ではないと思っていたけど、やっぱり現物支給はまずいですよ。やはりサービスで給付するのが社会保障であって、キャッシュをですね、どんどんどんどん与えていくということは、家買って貰えばまだいいですけど、パチンコですっちゃったら、これは(ほかの出席者が次々に口を出して聞き取れない。多分、)まずいですよ」
時間が来て、司会者が「みんなの党」を結成した渡辺喜美と日本新党田中康夫の声を伝えるコーナーに移る。(以上引用)
確かに子供手当てを家の購入に流用する者が出てくる可能性は疑えるし、パチンコ代に代えて、すっかりすってしまう親の出現の可能性も疑える。しかしすべてではないはずである。多くはその目的どおりに子供の教育費に充当させる良識を持っているずである。高額所得者の家程、子供の教育にカネをかけ、子供は子供の教育に多額のカネを投資する親の期待に応えて高学歴を獲得し、その高学歴を武器に高収入の職業を手に入れて親と同様の高所得者の階段を上り、親となると、自分がそうして貰ったように自分の子供の教育に多額のカネをかけて高学歴、さらに高収入の職業へと向けて金銭面から後押しする循環が社会に出来上がっていることが証明していることから、高額所得者でなくても、自分の収入以外に子供手当てを受けた場合、教育にカネをかけることで子供が高学歴と高収入の職業を手に入れる循環に乗ることが少なからず可能となるからだ。
子供が将来的に豊かな生活を手に入れれば、親もそのおこぼれ・恩恵に与ることができる。「パイの分配」は国から受けるのみのものではない。
だが、石原のように「パチンコですってしまうかもしれない」と制度全体を否定した場合、経済的に自分の力ではカネが教育を生むといった上記循環に子供を参加させることができない親とその子からまでその機会を奪うことになる。
結果、高額所得者は高額所得者の家系を固定的に代々維持することになり、中低所得者は中低所得者の家系を固定的に維持する社会の経済的な二極的固定化を招くことになりかねない。
一部の親のありようを疑って制度そのものを否定するのは、裁判で言うところの確たる物的証拠も状況証拠もないまま情状的には限りなく疑わしいからという理由だけで罰する「疑わしきは罰せず」を否定して「疑わしきは罰する」の非合理性を侵す僭越な原則違反に当たらないだろうか。
もし民主党の子育て手当てを否定するなら、家の購入資金に化けてしまうかもしれない、パチンコ代に消えてしまうかもしれないといった疑いで反対するのは論理的でも合理的でもない、非合理的であり、非論理的だということである。
その両方を石原は犯している。
石原の非合理性はここだけではなく、最初の年金制度に関わる議論の中でも見せている。宙に浮いた年金記録が生じた原因を述べる件でそれを犯していた。
「過去の社会保険庁の事務の中でかなり不届きなことがあったと。昼間も12時から1時まで社会保険庁の事務所も、安倍内閣になるまで休んでいるみたいな、そういう体質のところで、私たちの目が行き届いていなかったんで、この問題は引き続いて、2万5千件の方々のアプローチをしっかりとして問題を開発(ママ)していきたいと思っております」
「一番の問題は(民主党は)官僚主導、官僚主導って言うんですが、ここは一部のヒジョーニ強い組合の人が組織した従業員、そこの社保庁の人たちがやっていて、要するにサボっていたわけですね、ヤミ専従もやっていたわけですね。告発までされているわけですね。それで国庫の返還まで行っている。・・・・・」
「デタラメな、社会保険庁で働いている人たちの仕事がこれだけデタラメであるってことが明らかになってきた」云々――
「私たちの目が行き届いていなかった」は責任を認める発言ではない。今までは「目が行き届いていないかった」から、今後「目が行き届」くようにして、「問題を開発してい」くと善後策を述べたに過ぎない。
社会保険庁が労働組合による経営であるなら、「その体質」の責任は労働組合にある。だが、ことさらに説明するまでもなく、社会保険庁は厚生労働省の外局であって、長官の任命権者は厚生労働大臣であるばかりか、小泉内閣時代の2004年7月に民間人初の長官として村瀬清司を任命するまで厚労省キャリアの天下りが占めていた。
厚労相の任命権者は内閣総理大臣。内閣総理大臣も関わった社会保険庁長官の任命であり、天下りの容認であったろう。一般職員は単に組合に入っているというに過ぎない。勿論組合の力をバックに就業条件(労働条件)や賃金条件の改善(一般社会の常識から見たら改悪の場合もある)を求めることがあったとしても、職務上の「体質」そのものは社保庁長官の管理下にある、いわば社保庁長官及びそれ以下の上層部の人事・管理の問題であって、その「体質」が「デタラメ」、「不届き」ということなら、そうであることを許してきた各上司の責任であり、最終的には社保庁長官の責任事項となる。
そのことを棚に上げた石原伸晃の社保庁職員の「体質」のみに向けた責任所在の非論理的追及であろう。
以前《社保庁キー5千タッチは「上のなすところ、下これに倣う」》の題名でブログにも書いたことだが、
①窓口装置の連続操作時間は50分以内とし、操作時間50分ごとに15分の操作しない時間を設ける。
②窓口装置の1人1回の操作時間は平均200分以内とし、最高は300分以内とする。
③窓口装置の1人1日のキータッチは最高5000タッチ以内とし、最高1万タッチ以内とする。
④国民年金過年度(過去の会計年度)保険料の催告状発行は未納者の3分の2を対象とする。
⑤端末機の設置面積は1台当たり、5㎡以上とし、事務室の面積は職員1人当り4㎡以上確保する
。
⑥部屋は冬は18℃以上とし、夏は18℃以下と市、外気温との差は~(後は不明)。
⑦人事院規則に定める一般健康診断の他、機械を操作する事務員を対象とした次の特別健康診断を
実施し、経費を十分配慮する。
――等の覚書は1992年に社保庁長官と労組が交わし、問題となって05年に廃止した社保庁職員の職務に関わる「確認事項」である。いわば社保庁長官が文書の形式で認めることから始まって蔓延化させた職員の「不届き」、「デタラメ」な「体質」であって、職員や組合の問題だけではない共同作業事項であることが分かる。
そして責任の所在という問題と言うことなら、組織の下に位置する一般従業員、あるいは所属労働組合をバックに行動していたというなら、その労働組合よりも、彼らに対して組織の上に立つ社会保険庁長官を筆頭とした組織上層部により大きな責任あるのは誰の目にも明らかである。上の者の下の者に対する人事管理がなっていなかったに過ぎない。いわば上が好き勝手をさせていた結果の「デタラメ」、「不届き」に過ぎない。
もし石原伸晃が合理的、あるいは論理的な頭を持っていたなら、このことは理解できたはずだが、理解できずに一般職員や労働組合にのみ責任があるとする責任論から判断して、非合理的、あるいは非論理的な頭の持ち主と断ぜざるを得ない。
また石原一人が疑わしきをすべて罰する非合理性に侵されているわけではなく、ほぼ自民党全体の問題となっている。
自民党議員、特に国家主義の立場に立っている議員に多い現象だが、離婚から300日以内に出産した子供を一律に前夫との婚姻中に妊娠したものと看做すこれまでの民法の規定、いわゆる「300日規定」問題で、「不倫の子供はだめだ」といった自民党議員の発言に現れているように、例え出産が離婚から300日以内であっても、離婚成立前から夫以外の男との間に性行為が存在したのではないかという疑い、いわば夫がいる間の夫以外の男との性行為を認めがたいとすることからの反対、あるいは「離婚して別の男の子を出産しようとするのはけしからん」と旧来の家族制度に立って女性を可能な限り家に縛りつけようとする考えに反して本人の申し立てで離婚から300日以内の出産であっても現夫の子と認めることで離婚前からの夫以外の男との性行為や離婚そのものをより加速させかねない改定を恐れて反対するのも、反対理由とした女性の伴侶選択の制限、あるいは性道徳の外からの管理にとどまらずに子供の利益まで損なう、いわばすべてを罰する非合理性を侵すものであろう。
また未婚の日本人父と外国人母の間に生まれた子について、父の生後認知と両親の結婚を二条件として日本国籍取得を許可する国籍法3条1項の国籍法改正問題にしても一部可能性としてある偽装認知を取り上げて、「国籍売買を招くのではないか」と疑い、改正そのものに反対したのもやはり疑わしきをすべて罰する方法で制度そのものに反対した非合理な考えの現れであろう。
日本人男性が国内外で外国人女性と非婚の形で関係を持ち、子供を出産し放置する。「300日規定」問題でもそうだが、形式上の血のつながりや届け出た婚姻関係を優先課題として、当事者が望む実質的な血のつながりや実質的な関係を例え損うことがあってもそれを無視し、家族の形とか日本人の血といった形式から外れる疑いあるものをすべて否定という形で罰しようとする非合理性を働かす。
多くの自民党議員、特に国家主義的傾向のある議員に取っては非合理的でも非論理的でもなく、極めて合理的・論理的な判断であるらしい。
〈麻生太郎首相は10日夜、15日の終戦記念日に靖国神社を参拝する可能性について「国家のために尊い命をささげた人たちを、政争の具とか、選挙の騒ぎとかにするのは間違っている」と述べ、終戦記念日に限らず、首相在任中の靖国参拝に否定的な考えを示した。首相官邸で記者団に語った。「政治とかマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべきものだ。もっと静かに祈る場所だ」と強調した。
首相は外相時代の2006年、靖国神社が宗教法人を任意に解散し、非宗教的な特殊法人に移行する私案を発表している。昨年10月の衆院予算委員会では「(靖国に)行くとも行かないとも答えることはない」と答弁したが、首相周辺は「首相が参拝すれば私的参拝とは受け取ってもらえない」として、在任中は参拝しない方針を明らかにしていた。
ただ、昨年10月の靖国神社の秋季例大祭と4月の春季例大祭では、神前に供える真榊(まさかき)料として5万円を支払い、「内閣総理大臣 麻生太郎」の名義で供え物を奉納している。(19:39) 〉――――
「政治とかマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべきものだ」を「在任中の参拝に否定的」の根拠としているのだろう。
各マスコミの世論調査に現れている国民の政権選択に関わる現在の関心から判断すると、自民党が下野し、政権交代に向けた期待が強まっている状況からして衆議院選挙の投票日の8月30日の次の日、8月31日から首相の職から解放される可能性が高いことを示している。いわば8月31日以降「首相在任中」でなくなれば、例え「前日本国総理大臣 麻生太郎」と記帳しようと、“現”でない以上、いつでも好きなときに参拝できることになる。少なくとも秋の例大祭には十分に間に合う。
麻生太郎自身にしても、その可能性が高いことを承知していることを示す兆候を既に見せている。昨11日の千葉県野田市内で行った街頭演説で終戦時に首相だった鈴木貫太郎に言及して、「鈴木先生は『(戦争は)負けっぷりはよくせにゃいかん』と吉田茂に言っている。吉田内閣は長いこと続いたが、いろいろな意味で教えていただいた」と話したことが「衆院選を前に首相が負けを覚悟したとも受け止められる発言」だと「毎日jp」記事(《麻生首相:街頭で「負けっぷり」に言及…ハラくくった!?》/2009年8月12日 0時11分)が推測しているが、如何に戦況が不利でも、自民党総裁という立場からしても、自民党を母体として麻生内閣を組織し、率いる内閣総理大臣という立場からしても、勝ちに行かなければならない責任を負っている以上、以前強がって言っていた「決して逃げません」を再度口にすべきを、口にはせず、それが譬えであっても口にすべきではない「負けっぷり」なる言葉を口にしたのだから、選挙の敗北を「覚悟」と受け取られても仕方がなく、それを事実とした場合、首相でなくなる「覚悟」に連動させていたはずである。
尤も本人が「負けを覚悟」しようがしまいが、現在の状況は確実に「負け」を示し、「どちらが首相にふさわしいか」の世論調査が示しているように否応もなしに首相職からの解放を予感させている。
「日経ネット」が伝えている麻生の靖国参拝に関わる発言は「YOUTUBE動画」から詳しく知ることができる。記者の質問が小声で聞き取りにくいため、質問の箇所を「毎日jp」記事――《「首相VS記者団」 靖国「政治とかマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべき」 8月10日午後6時5分ごろ~》から拝借することにした。麻生の発言を青文字で記した。
Q:総理、朝日新聞です。15日の終戦の日に総理は靖国神社に参拝するおつもりはありますでしょうか。
「靖国についての話はお宅の新聞に投稿したことがある」
Q:は。
「読んだことありますか?」
Q:ああ。存じ上げています。
「それが答えです」
Q:総理。
「あなたの質問、不満足そうだから、読んでいないようだから」
Q:15日以外の日についても同様に、お考えについては。
「読んだ、記事を読んだ上であの質問をしてられるんですか?(笑いながら)あれに書いてあったと思いますがね。その上で、みなさんに分からせようと思って、聞いておられるように理解する、好意的に理解する。そういうことかしら?
僕は靖国というものは、少なくとも国家のために尊い命を捧げた人たちを政争の具とか、選挙の騒ぎとか、新聞のネタにするのは、まちがっていると思います。あれは最も、政治とか、そういったマスコミの騒ぎから遠くに置かれて然るべきもんですよ。もっと静かに祈る場所だと。それが答えです」(以上)――
いくら投稿したといっても、すべての国民、すべての有権者が「朝日新聞」に目を通しているわけではない。しかし記者は質問するとき、どの新聞の読者と特定せずにより多くの国民、より多くの有権者に知らしめるべく質問し、答を引き出そうとする。「朝日新聞」一社だけの問題ではない。それを投稿したから、それを読んだはずだ、それが答だという。「あれに書いてあったと思いますがね。その上で、みなさんに分からせようと思って、聞いておられるように理解する、好意的に理解する。そういうことかしら?」と言わなくてもいい余分なことまで小賢しいばかりに言って、自分がどれだけ愚かしいことを言っているか気づいていない。
戦死兵士を「少なくとも国家のために尊い命を捧げた人たち」と言う。彼らの行為を美しい行為・正しかった行為だと肯定している。
その種の肯定はそのような行為を動機付けた対象に対する肯定をも含む。行為を動機付けた対象を否定した場合、行為を動機付けられた側の肯定は矛盾をきたす。相互の肯定のみが美しさ・正しさの整合性を獲ち得る。
戦死兵士に「国家のために尊い命を捧げ」ることを動機付けた対象とはここでは戦前の日本国家――日本政府と軍部なのは断るまでもない。
いわば、戦死兵士を「国家のために尊い命を捧げた」と肯定することで、戦前の日本国家及び日本国家が発動した戦争を併せて肯定して、そこに正しかった戦争・正しかった国家だとする論理を含ませている。
戦前の日本の戦争は間違った戦争だとした場合、靖国神社に祀られている戦死兵士がそのような戦争を起こした「国家のために尊い命を捧げた」は滑稽な論理矛盾をきたす。「尊い命を」無駄に犠牲にしたことになるからだ。
いわば麻生太郎は戦前の日本国家を肯定し、戦前の日本の戦争を肯定している。このような肯定は極めて国家主義的な政治性を帯びた肯定であり、兵士及び非戦闘員たる国民のうちのすべての戦争犠牲者を蔑ろにし、貶める発想であろう。靖国神社とそこの戦没者を国家主義的に極めて政治的に扱っていながら、「僕は靖国というものは、少なくとも国家のために尊い命を捧げた人たちを政争の具とか、選挙の騒ぎとか、新聞のネタにするのは、まちがっていると思います。あれは最も、政治とか、そういったマスコミの騒ぎから遠くに置かれて然るべきもんですよ。もっと静かに祈る場所だと。それが答えです」などと平気で矛盾することを言っている。
間違った戦争、間違った国家のために「尊い命を捧げさせられた」とすることによって、すべての戦争犠牲者の死及び遺された者の苦しみは初めて整合性を獲得できるのではないだろうか。
野田消費者行政担当大臣が「終戦の日」に靖国神社に参拝する意向を示して、「平和を祈るために参拝するのが小さなころからのわが家の行事であり、大臣であろうとなかろうと、野田聖子としてしていることだ。毎回、私人として行っている」(NHKインターネット記事)と言っているが、戦前の日本国家・戦前の日本の戦争を肯定して「平和の祈り」は成り立つだろうか。
戦前の日本国家・戦前の日本の戦争を否定することから始めて、「平和の祈り」はスタートするはずだと思うが、そうではないのだろうか。
首相官邸HPから、『長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典あいさつ』挨拶全文を引用してみる。
「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に臨み、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。今なお、被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心よりお見舞いを申し上げます。
64年前、長崎の方々は、この地に投下された原子爆弾によって、筆舌に尽くしがたい苦しみを経験されました。七万ともいわれる尊い生命が、一瞬にして失われました。一命をとりとめた方も、いやすことのできない傷跡(しょうせき)を残すこととなられました。今、日本の平和と繁栄を振り返る時に、尊い犠牲があったことを決して忘れることはできません。
日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国であります。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければならないと存じます。
我が国は、これまで15年間にわたって、国連総会に核廃絶決議を提出してきました。こうした中で、昨今、米露両国は、核兵器の一層の削減を目指して交渉を進めております。G8のサミットでは、先月、ラクイラにおいて、初めて、「核兵器のない世界」に言及し、世界的な核軍縮・不拡散に関する気運の高まりを維持・強化するための力強いメッセージを表明をいたしております。
そして、本日、私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向け、国際社会の先頭に立っていくことを、改めてお誓い申し上げます。
被爆により、苦しんでおられる方々には、これまで保健、医療、福祉にわたる総合的な援護策を講じてまいりました。今回、原爆症の集団訴訟につきましては、原告の方々がご高齢でもあられること、また長きにわたり訴訟にたずさわってこられたことなどに鑑み、私は、新たな方針を決断しております。極めて異例な対応でありますが、一審で勝訴した原告の方々について、「国は控訴を取り下げることにより、原爆症と認定すること」を柱とする内容で、先日、合意をいたしました。原告団は、これをもって、集団訴訟を終結させることとなり、こうした合意に至ったことは、誠に喜ばしいことと考えております。
また、原爆症の認定を待っておられる方々に関しては、これまでも、できる限り多くの方々を、認定するとの方針で、臨んでまいりました。昨年四月からは、新たな方針に基づいて、約四千人の方々を認定いたしましたが、その後の司法判断を踏まえ、本年六月にさらに対象を拡大いたしております。今後とも、新たな認定基準に基づき、できる限り迅速な認定に努めてまいりたいと考えております。
また、昨年、在外被爆者の方々の被爆者健康手帳を容易に取得できるよう、改正被爆者援護法が施行されております。今後とも、多くの方々を援護できるように、引き続き、取組みを進めてまいります。
結びに、犠牲となられた方々の御冥福と、被爆された方々並びに御遺族の皆様の今後の御多幸、そして長崎市の一層の発展を心より祈念申し上げ、私のあいさつとさせていただきます。
平成二十一年八月九日 内閣総理大臣 麻生太郎」――――
参考までに3日前8月6日の『広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式あいさつ』を引用してみる。
「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。今なお、被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心よりお見舞いを申し上げます。
64年前の今日、原子爆弾が、この地に投下され、幾万の尊い命が一瞬にして奪われ、多くの方々が傷つきました。美しい「水の都」、広島の街も焦土と化しました。
しかし、戦後の歩みの中で、広島は、市民の皆様とともに、立ち上がり、今や「国際平和文化都市」として、大きく発展をしました。今日までの、広島の奇跡的ともいえる復興と発展に、尽力された皆さま方に心から敬意を表します。
日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国であります。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければなりません。
我が国は、これまで15年間にわたって、国連総会に核廃絶決議を提出してきました。こうした中で、昨今、米露両国は、核兵器の一層の削減を目指して交渉を進めております。G8のサミットでは、先月ラクイラにおいて、初めて、「核兵器のない世界」を宣言し、世界的な核軍縮・不拡散に関する気運の高まりを維持・強化するための力強いメッセージを表明しております。
そして本日、私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます。
被爆により、苦しんでおられる方々には、これまで保健、医療並びに福祉にわたる総合的な援護策を講じてまいりました。特に、原爆症の認定につきましては、できる限り多くの方々を認定するとの方針で臨んでおります。昨年四月からは、新たな方針に基づいて、約四千人の方を認定いたしましたが、その後の司法判断を踏まえ、対象を拡大いたしました。
被爆により、苦しんでおられる方々には、これまで保健、医療、福祉にわたる総合的な援護策を講じてまいりました。今回、原爆症の集団訴訟につきましては、原告の方々がご高齢でもあられること、また長きにわたり訴訟にたずさわってこられたことなどに鑑み、私は、新たな方針を決断しております。極めて異例な対応でありますが、一審で勝訴した原告の方々について、『国は控訴を取り下げることにより、原爆症と認定すること』を柱とする内容で、先日、合意をいたしました。原告団は、これをもって、集団訴訟を終結させることとなり、こうした合意に至ったことは、誠に喜ばしいことと考えております。
また、昨年、在外被爆者の方々の被爆者健康手帳の取得を容易にするため、改正被爆者援護法が施行されております。今後とも、多くの方々を援護できるよう、引き続き、取り組んでまいります。
結びに、犠牲となられた方々の御冥福と、被爆された方々並びに御遺族の皆様の今後の御多幸、そして広島市の一層の発展を心よりお祈り申し上げ、私のあいさつとさせていただきます。
平成二十一年八月六日 内閣総理大臣 麻生太郎」――――
赤文字で記した箇所は長崎の挨拶と一字一句同じとなっている。出だしの部分は――
「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。今なお、被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心よりお見舞いを申し上げます。」
「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に臨み、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。今なお、被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心よりお見舞いを申し上げます。」と赤文字箇所のみ言葉を変えているだけで、あとは単に長崎と広島の地名を使い分けているに過ぎない。
また被爆者に対する政府の対応を述べる下りの違いは広島式典後に日本原水爆被害者団体協議会代表者の出席の元、広島市内のホテルで「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書」に署名した状況変化を受けた違いでしかないのは内容パターンがほぼ同じであることから理解できる。
(広島平和祈念式典)「被爆により、苦しんでおられる方々には、これまで保健、医療並びに福祉にわたる総合的な援護策を講じてまいりました。特に、原爆症の認定につきましては、できる限り多くの方々を認定するとの方針で臨んでおります。昨年四月からは、新たな方針に基づいて、約四千人の方を認定いたしましたが、その後の司法判断を踏まえ、対象を拡大いたしました。」
(長崎平和記念式典)「被爆により、苦しんでおられる方々には、これまで保健、医療、福祉にわたる総合的な援護策を講じてまいりました。今回、原爆症の集団訴訟につきましては、原告の方々がご高齢でもあられること、また長きにわたり訴訟にたずさわってこられたことなどに鑑み、私は、新たな方針を決断しております。極めて異例な対応でありますが、一審で勝訴した原告の方々について、『国は控訴を取り下げることにより、原爆症と認定すること』を柱とする内容で、先日、合意をいたしました。原告団は、これをもって、集団訴訟を終結させることとなり、こうした合意に至ったことは、誠に喜ばしいことと考えております。」
問題は広島、長崎共、中段の赤文字で記した箇所である。最初の広島の挨拶で 「日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国」だと言い、「我が国は、これまで15年間にわたって、国連総会に核廃絶決議を提出してきました」と言い、「私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます」と高らかに宣言したにも関わらず、式典後の記者会見で日本の安全保障にはアメリカの「核の傘」が必要且つ有効だと言い、さらに「核軍縮と言うものがァー、世界で、一斉に、同時になくなる(と、軽く自分から頷く。)いうなら、可能性かもしれません。ある日突然、ハイってなくなりました。しかし、それは通常では考えにくいと思いますねぇ。一方的に誰かがやめたら、相手もきれいにやめてくれましたぁー。そういう世界でではないと思っております」と核廃絶の不可能性をも述べている。
これは式典で述べた「核廃絶」の訴えを二枚舌とする核の有用論であろう。なお始末の悪いことに核の有用を自身の国家安全保障上の政策だと国民の前に明かしておきながら、3日後の長崎平和祈念式典で再び「核廃絶」を心にもなく訴える二枚舌を繰返している。
要するに麻生太郎にとっては式典出席は儀式の意味しかなく、挨拶の内容は形式的文言に過ぎないということなのだろう。
首相官邸HPの挨拶文からは窺うことはできないが、いくつかのマスコミが漢字の読み違えがあったと伝えているとおりにここでは「傷跡(しょうせき)」と書き込んでおいたが、単に仮名が振ってなかった、あるいは取るに足らない小さな読み違いに過ぎないというわけではなく、また出席、挨拶が儀式・形式の類で終わっていることが原因したというわけではないのは対象が「傷跡」という漢字だからである。
麻生は自民党と民主党のマニフェストを落ち着いて比較して欲しいと夏休みの宿題としたが、「未曾有」を「みぞゆう」と読み間違えた程度のことと違う、宿題を出す資格もないことが分かる。
1945年8月6日と8月9日にそれぞれ原爆投下を受け、広島市の人口35万人(推定)のうち約14万人が死亡、長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡(Wikipedia)、戦後も死者を出し続け、直接被爆でなくても母親からの胎内被爆によって発症、健康障害を起こしていることがこれからも何世代も繰返されるかも分からない怯えを多くの患者たちに与えていること、最近のNHKテレビで現在もなお放射線を発して様々な遺伝子を壊して続けている見えない不安の塊を体内に抱えて日々消えることのない死の恐怖を今なお生々しい心の“傷”としている多くの患者たちの存在がある。
これらは第三者から見たなら「いやすことのできない」とは言うものの、「一命をとりとめた」後に残した「傷跡」かもしれないが、当事者から見たなら終わった意味を持たせてもいる「跡」ではなく、そのかけらもない、終わることのない生きたままの状態にある“傷”そのものであり、生きたまま責め苛み続けてくる“不安”、“恐怖”そのものであろう。
麻生太郎がこのような心の状況に思い遣ることができたなら、第三者の立場から「傷跡(きずあと)」と表現したとしても、「傷跡(しょうせき)」と読み間違えるのは読みを知らなかったという弁解は利かず、あまりにも失礼な間違いではないだろうか。
大学を出て、イギリスの名門大学に留学もしている麻生太郎がなぜさして難しくもない漢字の読みを知らなかったのだろうか。個人差はあるが、人間は他者の“傷”体験を自身の“傷”体験として学ぶ心の働きを持つ。その逆に自身の“傷”体験を他者の“傷”体験に重ねて、相互の傷の深さ・程度を推し量ろうとする心の働きを持つ。
このような心の働きによって、他者の心の傷を感じ取る感受性を育てていく。
それが故障なく働いて他者の心の傷を感じ取る感受性を十分に育んでいたなら、「傷」という言葉(漢字ではない)の持つイメージに関して貧弱な発想にとどまることは許されず、自然と奥深いイメージを持つこととなり、イメージは言葉の表現に限らず、文字でも表現する機会を得て、否応もなしに「傷跡」という文字を感受性を交えて読みと共に知ることになるだろう。
だが、麻生太郎は正確な読みを知らず、「傷跡(しょうせき)」と読んだ。
当然のこと裏を返すと、「傷」という言葉の持つイメージに関して貧弱な発想しかなかった、その種の感受性を育てていなかったからだということになる。他者の“傷”体験を自身の“傷”体験として学ぶ能力に欠いているからだと見なければならない。
そうであるなら、勿論自身の“傷”体験を他者の“傷”体験に重ねて、その傷の深さ・程度・苦しみを推し量ろうとする心の働きなど持ちようがない。麻生財閥の跡取りとして生まれ、金持の一員として生活に苦労なく育った。いわば特にこれといって心に傷を負う経験(“傷”体験)がなく、「傷跡」と言える後遺症を持つことはなかったことからの他者の“傷”体験を学ぶ能力の欠如ではないだろうか。
あのにこやかな笑顔を見てもわかるように“傷”とは無縁に人柄から言っても、顔に現れている精神性から言っても、帝国ホテルの高級バーで高級ブランデーをすすって、べらんめー口調を得意げに振り回しながらお仲間と大言壮語しているのがふさわしい心の持ち主なのである。心に傷を負った弱者を思いやる経験などなかったに違いない。自ら心の傷を負うこともなく、そのために他者の傷を思い遣ることもないに違いないと言うことなら、麻生太郎は世界一かどうかは分からないが、少なくとも日本一の幸せ者と確実に言える。日本で最高位の名誉職だからと、総理大臣を目指したのではないだろうか。
幸せだけの麻生太郎が「子どもには夢を、若者には希望を、高齢者には安心を」と言う。幸せだけの人間に他者理解を期待するのはないものネダリだろう。政策の違いを宿題にしてくれと言っているが、掲げている政策は立派なことは書いてあっても、政策実行者が他者理解に欠けているということなら、宿題をいくら解いても無意味となる。
戦前なら許されもするだろうが、人権意識を欠いてはならない戦後の日本で他人の心の痛み、心の傷を真に思いやれない人間が首相を務めている、あるいは他者理解の感受性を十分に育てていない人間が国民の生命・財産を守ることに最も高い関心を払わなければならない立場にあるこの見事な倒錯はどう説明したらいいのだろうか。
8月10日付「YOMIURI ONLINE」記事――《首相 式典あいさつ誤読 「傷跡」を「しょうせき」》の中で長崎県被爆者手帳友の会の井原東洋一会長の言葉を伝えている。
「あいさつを聞いた時には気付かなかった・・・・、細かな間違いとはいえ、被爆者や被爆地について根本的に理解しているのかさえ疑問に感じる。文章の上っ面を読むだけだから読み間違えたのでは」
井原東洋一会長にしても、他者の“傷”体験に対して「根本的な理解」を欠いていたからこそできた読み間違え、「傷跡(しょうせき)」だと見ている。
広島市中区平和記念公園で8月6日開催「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)で、我が日本の麻生太郎首相は顔にも平和主義者の優しさが表れている平和主義者面目躍如の挨拶を行って、人となりを知る国民を驚かした。
〈広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。今なお、被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心よりお見舞いを申し上げます。
64年前の今日、原子爆弾が、この地に投下され、幾万の尊い命が一瞬にして奪われ、多くの方々が傷つきました。美しい「水の都」、広島の街も焦土と化しました。
・・・(中略)・・・・
日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国であります。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければなりません。
我が国は、これまで15年間にわたって、国連総会に核廃絶決議を提出してきました。こうした中で、昨今、米露両国は、核兵器の一層の削減を目指して交渉を進めております。G8のサミットでは、先月ラクイラにおいて、初めて、「核兵器のない世界」を宣言し、世界的な核軍縮・不拡散に関する気運の高まりを維持・強化するための力強いメッセージを表明しております。
そして本日、私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます。(以下略)〉(首相官HPから)
平和記念式典は午前8時開催。原爆投下と同時刻の8時15分に原爆犠牲者と戦争犠牲者に黙祷。「首相官邸HP」によると、式典後、麻生総理は舛添厚生労働大臣と共に広島市内のホテルで、「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書」に署名。次に「被爆者代表から要望を聞く会」に出席、次いで午前中だとマスコミが伝えている記者会見に臨んでいる。
じっくりなのか、駆け足で消化したのかは分からないが、兎に角日本国の総理大臣として2つの約束を広島市民、ひいては日本国民に向けて誓っている。
1.「広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの
努力を傾けていかなければなりません」
2.「私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向け
て、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます」
さらに言うなら、7月8日から10日(09年)開催のイタリア・ラクイラ「G8サミット」に触れて、「先月ラクイラにおいて、初めて、『核兵器のない世界』を宣言し、世界的な核軍縮・不拡散に関する気運の高まりを維持・強化するための力強いメッセージを表明しております」と言っている。
これは自身も参加、議論・討議に加わり、メッセージ発信者の一人となっているのである。いわば「『核兵器のない世界』を宣言」した一人となったことを示している。
平和記念式典の挨拶で述べた被爆犠牲者に対する哀悼の意、日本国民に向けた高邁・偉大な約束は平和記念式典の間だけではなく、「被爆者代表から要望を聞く会」に出席、退席する時間まで少なくとも舌の根にしっとりと残っていたはずだが、いや残しておかなければならなかったはずだし、普通の極々一般的な常識を持っている人間なら、その舌の根が乾かない短時間内にその舌の根をすっかり干からびさせて、日本の安全保障を基本のところで大国アメリカの核を以って代える、いわゆる「核の傘」論の維持・有効性を表明したと言う。
「NHK」記事――《「麻生首相 米の「核の傘」必要」》からこの辺りの消息を見てみる。
――日本がアメリカの核の傘に守られている中で、どう核軍縮に取り組んでいくのかの記者団の質問に答えて、
麻生「核軍縮と言うものがァー、世界で、一斉に、同時になくなる(軽く自分から頷く。)――いうなら、可能性かもしれません。ある日突然、ハイってなくなりました。しかし、それは通常では考えにくいと思いますねぇ。
一方的に誰かがやめたら、相手もきれいにやめてくれましたぁー。そういう世界ではないと思っております」(以上同記事動画から)
その上で――
麻生「核で他国を攻撃しようという国が隣にある。北朝鮮の核ミサイルは日本にとって明白な脅威だ。それに対して、日本は、核で抑止する力を持つアメリカと同盟関係を結んでいるという現実を踏まえる必要がある」(同NHK記事)
核兵器が「世界で、一斉に、同時になくなる」条件を世界が抱えているならいいが、そうなっていない「現実を踏まえる」なら、北朝鮮の核脅威があり、その脅威への対抗手段をアメリカの「核の傘」に置き、必要とするのは止むを得ないという趣旨の発言である。
「世界で、一斉に、同時になくなる」条件を常なる絶対前提とするなら、「核兵器のない世界」という目標をも同時に暗転させることになるのだが、麻生の頭の中ではそうはなっていないらしい。
いわば例え日本の首相として習慣上義務づけられている平和記念式典出席であったとしても、「世界で、一斉に、同時になくなる」を不可能とするなら、「核兵器のない世界」も並行して不可能としなければならないとする考えを披露すべきだが、そのことに反して、「広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければなりません」とか、「今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます」とか言うべきでないことを舌の根を干からびさせて平気で口にする二枚舌、三枚舌を恥ずかしげもなく演じている。
そして今日8月9日、長崎の平和記念式典で広島で述べたと同じような平和主義的な挨拶を何ら恥じることなく口からスラスラとこぼれ落ちさせている。「核廃絶」、あるいは「核兵器のない世界」を訴えつつ、別の場所では「核の傘」の必要性を訴える。
一国の首相でありながら、自分が口にする言葉の合理性・整合性に思いを致すことがないからできた平和式典での空々しい平和主義者の装い、欺瞞に満ちた姿だったのだろう。逆に各場面場面ではそうは思わせないところが、さすが日本の首相麻生太郎だと褒めるべきかもしれない知れない。
麻生太郎はアメリカの「核の傘」維持・必要論の持ち主と言うだけではなく、日本国内での核武装論の高まりを期待している。
7月31日の「asahi.com」記事――《北朝鮮核めぐり、首相が核武装論に言及 日韓首脳会談時》が伝えている。
〈麻生首相が6月28日に東京で行われた日韓首脳会談の際、「北朝鮮核問題が深刻化すれば、国内で核武装すべきだという声が強まる」と述べていたことがわかった。複数の日韓関係筋が明らかにした。北朝鮮の核問題で、カギを握る中国の取り組みを促す説得材料の一例として取り上げたという。〉――
記事は最後で次のように解説している。
〈北朝鮮の核実験後、日韓両国内の核武装論を中国が警戒しているとされる。ゲーツ米国防長官も5月の日米韓防衛相会談で、日韓両国への「核の傘」の強化に言及。日韓で核武装論が浮上しないように手を打ってきた。国内の核武装論を利用するかのような発言は首相としては不適切との批判も出そうだ。
麻生首相は外相時代の06年10月、衆院外務委員会で核武装論をめぐり「隣の国が(核兵器を)持つとなった時に、一つの考え方としていろいろな議論をしておくのは大事だ」と発言し、4野党から罷免を求められたことがある。〉――
現在はそういう状況になっていないにも関わらず、日本国内の核武装論の高まりの原因を北朝鮮の核開発や拉致問題に対する北朝鮮当局の不誠実な態度に対する反発に置き、そうなった場合の状況に中国が北朝鮮の存在が深くかかわっている自国防衛の観点から懸念を示して、北朝鮮に圧力をかけることを期待する。
その方便としての“国内核武装論の高まり”説だったとしても、実際に日本国内で核武装論が高まった場合、核武装への一歩となるだろう。麻生を筆頭に安部や中川昭一、小池百合子、その他の核武装論者、国家主義者、日本民族優越論者が核武装世論の高まりに便乗して核武装に向けて率先して動くことになるだろうからだ。
あるいは北朝鮮の核開発問題・拉致問題解決に向けた効果ある圧力として日本国内の核武装論の高まりを挙げたことが実際に国内の核武装論を誘導した場合、麻生の発言はその源をつくり出した世論誘導に当たることになる。
そもそもからして「北朝鮮核問題が深刻化すれば、国内で核武装すべきだという声が強まる」といった発言は「すべきだ」とする意志方向を持たせた言葉が証明しているように核武装に向けた「声」(=議論)であって、それが議論のみにとどまって核武装に至らなくても、麻生やその他同じ穴のムジナがこれまで言っきているように議論は非核三原則の姿勢を壊すものではないとする趣旨の発言とは矛盾する言い分なのは明らかである。
以前ブログでも取り上げたが、非核三原則厳守はタテマエであって、麻生その他が政治的に核武装に関わる世論誘導衝動をかねがね抱えていることから発した、一種の“世論誘導”であろう。
「かねがね」と言うのは、北朝鮮が2006年10月9日に初めて地下核実験を行ったことを受けて当時の自民党中川昭一政調会長は10月15日テレビ朝日の「サンデーモーニング」で次のように発言している。
「非核三原則は守るが、議論はしないといけない。重要な戦後の約束を見直す必要があるのかどうか、議論を尽くす必要がある」
そして同6月の27日にアメリカでアミテージ元国務副長官と会談、「日本はかつてアメリカが直面したキューバ危機に匹敵する切迫した状況にある」として核保有について議論することへの理解を求めたいう。
このような発言と動きに関して当時の麻生外相は次のように言っている。
「非核三原則は政府の立場として変わらないが、この話をまったくしていないのは多分日本自身であり、他の国はみんなしているのが現実だ。隣の国が持つとなったときに、一つの考え方としていろいろな議論をしておくのは大事だ」
「日本は言論統制された国ではない。言論の自由を封殺することにくみしないという以上に明確な答えはない。・・・・北東アジアの核の状況は一転した。持たないなら持たないで、もう一回きちんと論議することも止めるのは言論封殺だ」
「非核三原則は政府の立場として変わらない」としているものの、やはり核武装に向けた議論の必要を論じているのであって、意識の底にあるのは“核武装衝動”であり、それを実現するための“世論誘導衝動”であろう。
「非核三原則」を絶対とするなら、所有するかどうかの議論は必要ではなく、核に代わる外交術の創造に向けた動きを示すだろう。
次もブログで取り上げているが、安倍晋三の首相就任後の発言、「政府や与党が核保有を公式に議論することはない」との姿勢が表面的なタテマエでしかないのは、首相就任前の「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」(毎日jp)としている自身の考え方そのものが証明していることであり、このような考え方こそが意識の内側に “核武装衝動”を芽生えさせるキッカケとなる原因であろう。
当然政治家として核武装に向けた“世論誘導衝動”を抱えることになる。
中川昭一にしても同じである。
「憲法の政府解釈では、必要最小限の軍備の中には核も入るとしている。その片方で非核三原則がある。現実の政策としては核は持たないということになるが、憲法上は持つことができると政府は言っている」(上記毎日jp)
憲法上も持つことはできないとして、非核三原則との整合性を図らなければならないとは言っていない。
北朝鮮は既に核武装している。日本で核武装論が高まっただけで、北朝鮮に核武装の正当性を与えることになるだろう。日本は北朝鮮核脅威に対する対抗手段としての「核武装論」だと言うだろうが、北朝鮮は準備して置いて正しかったと、国家危機管理上、正しい判断だったと核武装正当化主張を国内外に示すことになるに違いない。そうなったら、もはや誰も北朝鮮の更なる核兵器所有を止めることはできないだろう。
北朝鮮の一層の核開発、核兵器の増幅所有が止まるのは、海外拡張政策に則った日本の侵略戦争がアメリカ軍の攻撃によってその歩みを止められたように自らが核戦争を起こして、アメリカ等から報復攻撃を受けて自滅するときかもしれない。いわば行き着くところまで行き着くというやつである。
だが、そのときは日本が核武装に至っていたとしても、北朝鮮に劣らない人的にも物的にも相当なダメージを受けることになる危険性は排除できない。
軍事に対抗するに軍事を以って対抗する。核に対抗するに核を以ってする。このような敵意に満ちた対抗意識を相互に増殖させる政治的、あるいは民族的競争メカニズムにはまったとき、核にしても核武装論にしても相互に対抗意識を募らせる力としては役に立つが、対抗意識を抑える“圧力”としての力は失うだろう。
とすると、麻生の「北朝鮮核問題が深刻化すれば、国内で核武装すべきだという声が強まる」とか、その「声」を中国を動かす圧力とする考え方、あるいは外相時代の「隣の国が(核を)持つとなったときに、一つの考え方として(核武装も含めた)いろいろな議論をしておくのは大事だ」といった考え方は相手の対抗意識に火をつけることはあっても、逆の作用を引き起こすことにはならない、極めて愚かしい“核武装衝動”とは言えないだろうか。
今日8月9日、核武装論者である我が麻生首相がその主義主張に矛盾させて長崎の平和祈念式典に出席したことは既に触れたが、その後広島と同様に記者会見を設定、核兵器保有国が先制不使用を宣言する構想に関連させて「米国に核の先制不使用を求める考えはあるか」との質問に次のように答えたという。
「『わたしは先制攻撃しません』と言っても検証する方法はない。先制不使用の考え方は、日本の安全を確保するには、現実的にはいかがなものか」(《核の先制不使用宣言「現実的でない」=麻生首相、長崎で会見》/font>時事ドットコム/2009/08/09-13:25)
〈また、自民党内に、敵基地攻撃能力の保有の検討を求める声があることに関しては、「日米間の役割分担に関する話は、検討すべきものと考えている」と述べた。〉(同時事ドットコム)
原爆慰霊記念式典でいくら平和主義者の顔を装うとも、日本の安全保障確保のためにはアメリカの核を必要とする考え方に変わらないことを示した一連の発言となっている。
また広島の記者会見での「北朝鮮核問題が深刻化すれば、国内で核武装すべきだという声が強まる」という発言と併せて核武装論の高まりは核武装への一歩であることを考えると、アメリカの「核の傘」必要論は日本が核武装するまでの一時的猶予としてある欲求と見なければならないのではないだろうか。
いずれにしても“核武装衝動”を内に隠した我が日本の麻生太郎と見なければならない。こういった連中が「日本の保守」を誇大広告的に名乗る。
麻生首相が2日(09年8月)、地方遊説のため訪れた愛知県で保守色を前面に出した演説を行ったと言う。
「我々は守るべきものは守る。伝統であり、歴史であり、皇室であり、日本語であり、国旗を大事にする。日教組の先生をされた民主党が国旗を振りますか。日本にとって最も大事にすべきだ」(《首相「伝統、国旗…守るべきもの守る」演説で保守色拍車》asahi.com/2009年8月2日18時58分)
「どこかの政党は、今回の選挙を『革命的選挙にする』と言っている。われわれ自民党は真の保守政党だ。革命を起こすつもりなんか全くない」(《首相が「保守色」前面に 安保・教育で民主批判》山陽新聞ウェブ記事09年8月3日20時33分)
「守るべきものは家族、郷土、日本語、皇室、国旗だ」(同山陽新聞ウェブ記事)
上記「asahi.com」記事は〈演説冒頭では「一連の私の発言や力不足から党の結束の乱れが出て、自由民主党に対する信頼感の欠如につながった」と謝罪し、「競争が行き過ぎて弱者がしわ寄せを食らう。弊害を率直に認めて訂正しなければならない」。そのうえで経済対策の実績や民主党批判を続けるスタイルを定着させつつある。〉と麻生の演説パターンを解説しているが、一見反省しているように見せかけているその謝罪は「党の結束の乱れ」をつくり出した自身のリーダーシップの欠如と格差社会や年金不安、生活不安等をつくり出した自民党政治への謝罪のみであって、そのような自民党政治への自身の共犯性、あるいは加担性には触れていない不十分な謝罪でしかない。
いわばそれらを脇に置いた謝罪であって、謙虚な姿勢がニセモノだからできる不十分さであろう。「医者の確保をとの話だが、自分で病院を経営しているから言う訳じゃないけど、大変ですよ。はっきり言って、最も社会的常識がかなり欠落している人が多い。ものすごく価値判断が違うから。それはそれで、そういう方をどうするかという話を真剣にやらないと。全然違う、すごく違う。そういうことをよく分かった上で、これは大問題だ」(08年11月19日、全国知事会での発言)から見て分かるように謙虚さとは無縁の人間に出来上がっているのである。
上記「山陽新聞ウェブ記事」は麻生が保守色を前面に出している理由とその効果を次のように解説している。
〈民主党が「国の基本政策である安全保障、教育、憲法などをないがしろにしている」(自民党パンフレット)との立場から、保守票をつなぎ留めるのが狙いだ。
ただ、首相はこれまで「景気優先」を一枚看板に据えてきただけに「苦し紛れの戦術」(ベテラン議員)の感も否めない。改憲志向の「美しい国づくり」をスローガンに掲げた安倍晋三元首相は2007年参院選で惨敗しており、麻生流の“右旋回”が奏功するかは見通せない。〉――――
「どこかの政党は、今回の選挙を『革命的選挙にする』と言っている。われわれ自民党は真の保守政党だ。革命を起こすつもりなんか全くない」云々――。
「山陽新聞ウェブ記事」によると、〈民主党の鳩山由紀夫代表が政権交代を見据え「革命的な総選挙になる」と発言したことを踏まえ、民主党を「革命政党」と言わんばかりに批判〉したものだという。
鳩山由紀夫代表が「革命的な総選挙になる」と発言したことが、自民党は「革命を起こすつもりなんか全くない」となる。単細胞・短絡思考の持主でなければできない立派な関連付けである。
これまでの自民党政治を根本的に改める総選挙になるという意味で、鳩山代表は「革命的な総選挙になる」と言ったのだとは普通の頭の持主なら簡単に理解できるだけではなく、民主主義のルールに則った選挙を前提としていることは言わずもがなのことで、麻生だけがそのことを理解できる頭を持っていないということだろう。
民主主義の土俵の外にいて、軍事革命だ、暴力革命だ、首相官邸を占拠して、麻生を追い出すと言っているわけではない。あくまでも国民の選択に委ねた「革命」――根本的な政治変革の機会だと把握して戦っているのである。
「苦し紛れの戦術」と言うよりも、いよいよヤキがまわったなとしか言いようがない。
「我々は守るべきものは守る。伝統であり、歴史であり、皇室であり、日本語であり、国旗を大事にする。日教組の先生をされた民主党が国旗を振りますか。日本にとって最も大事にすべきだ」と言っている。
麻生の言う「伝統」とは自民党政治が体質的伝統としてきた「バラ撒き・ハコモノ政治」のことを言い、それを守るということなのだろうか。
この手の国民に不利益を与えた「伝統」を棚に上げて、自民党が言う「伝統」をすべて善としている。中央集権体制だと言われている現在の中央と地方の上下関係も日本人が民族性としている権威主義の行動性から発した政治体制であって、民族性としているゆえに封建時代の昔から延々と現在に至るまで後生大事に引き継いでいる「伝統」であろう。
女性の社会参加が欧米諸国に比較して遅れているのも男を上に置き女性を下におく男尊女卑の権威主義性の名残りが仕向けている「伝統」としてある不平等な社会進出模様であろう。
女性の社会進出の遅れを証明する7月24日付「asahi.com」記事がある。参考引用してみる。
《「女性差別、変わらず」国連委、日本に苦言》
〈【ニューヨーク=松下佳世】国連本部で開会中の国連の女性差別撤廃委員会が23日、日本における女性差別の現状を6年ぶりに審査した。日本政府は、男女雇用機会均等法の改正など、男女共同参画社会の実現に向けた取り組みを強調したが、委員からは女性の社会進出の遅れや従軍慰安婦問題への不十分な対応など厳しい指摘が相次いだ。
30年前に採択され、女性にかかわる世界の「憲法」とも呼ばれる女性差別撤廃条約の批准国は現在186カ国。各国は4年ごとに男女平等の進展具合を報告書として提出し、委員会の審査を受ける。審査結果は後日、委員会から「最終見解」として勧告され、各国は改善義務を負う。
日本は前回、03年に審査対象となった。この際、一般職と総合職といった「コース別雇用管理」などの形を取った「間接差別」や、民法で規定されている夫婦同姓や結婚可能年齢の男女差、婚外子への差別的な扱いなどを改善するよう注文が付いていた。
このため今回は、女性問題に取り組むNGOが45団体84人からなる代表団を国連本部に派遣。「前回の委員会勧告がほとんど実行されていない」と政府への圧力強化を求めた。中でも、性差別による人権侵害で国の対応が不十分な場合に委員会へ直接訴える道を開く「個人通報制度」が盛り込まれた選択議定書を早期批准するよう訴えた。
この日の審査では、委員の側からも選択議定書の批准を求める声が出たが、日本側は「検討中」と述べるにとどまった。民法改正などの対応も進んでいないことから、「日本では(法的拘束力を持つ)条約が単なる宣言としか受け取られていないのではないか」と批判する委員もいた。〉――
かくかように各種女性差別を日本は伝統としている。こういったいくらでもある様々な悪しき伝統を隠したまま、「伝統を守る」と言えば立派な発言・立派な姿勢ということになるとする固定観念が幅を利かしている。幅を利かしているから、麻生みたいに「伝統を守る」なる発言をネタに自分を立派に見せることになるのだろう。
麻生たち国家主義者はよき伝統を守ると言っているのだと言うだろうが、中央の官僚・役人が何様顔に踏ん反り返っていて、そういった彼らに対して地方の役人がペコペコ頭を下げる権威主義的上下関係や女性差別といった悪しき伝統を改善できずに守る一方で、「よき伝統を守ると言っているのだ」はご都合主義の矛盾そのものであろう。
単細胞麻生が守るべき項目に入れている「歴史」にしても、伝統と同じで、日本の歴史のすべてが善なる装いを纏っていたわけではない最大の例として多くの日本人が戦前の侵略戦争を負の歴史の第一番に挙げるだろう。だが、日本民族優越主義者たちはそれを戦略戦争、あるいは負の歴史とした場合、日本民族の優越性を剥ぐことになって認め難く、逆に日本のすべての歴史に善なる装いを纏わせるべく、侵略戦争ではなかったという牽強付会を働く。
また麻生国家主義者は「守るべき」項目に伝統・歴史・皇室・日本語・国旗、そして家族、郷土と挙げているが、国家主義者としての体面にふさわしく「守るべき」対象を国民を構成している個人個人に置かず、最小社会単位の「家族」に置いている。麻生の意識の中の日本国憲法は国民主権とはなっていないからだろう。これは戦前と同様に国民一人ひとりではなく、“家”を国家の基盤としていたことに準じた統治意識からの価値観と見るべきである。
「皇室」を「守るべき」項目として何番目に持ってこようとも、象徴天皇として上に戴いている以上、頂点に置いているのは確かである。戦前の日本は天皇を親として、日本人全体を家族と見ていた。
大体が安心して子供を産めない社会、産んでも育児に苦労する社会を作り出しておいて、「守るべきものは守る」の中に「家族」を取り上げるとは恥知らずも最高を極めていると言わざるを得ない。「保守」の観点から国家を見た場合、麻生の「家族」が国家体制を構成する基盤的な社会単位と看做していることから、産みたいが産めない、賃金と身分の保証が不安定なことから結婚できない等々の個人が抜け落ちることになる。
7月31日に麻生が自民党マニフェストを記者会見して発表するとき、「私が目指す安心社会とは子どもに夢を、若者には希望を、そして高齢者には安心を、であります。全世代、全生涯を通じて、安心保障をつくります。これを実現するための政策を加速します」ともっともらしげに言っているが、麻生の国家観から見た場合、子供も若者も高齢者も「家族」として把えてはいるものの、個人の姿としては把えていないのだから、そう言わなければ選挙の票が望めないから言っているに過ぎないことなのは分かる。
「国旗を大事にする。日教組の先生をされた民主党が国旗を振りますか。日本にとって最も大事にすべきだ」と言っている。
麻生は両院議員懇談会でも解散後記者会見でも国旗を取り上げている。
「自由民主党は真の保守党です。私たちは理念のもとに、集まった同志であります。ここに国旗が掲げてありますが、当然のこととして、国旗を掲げている政党がどこにありますか」(両院議員懇談会)
「我々は、ここに国旗を掲げてありますけれども、少なくとも国旗国歌法というのを通したときも、自公によって、あの国旗国歌法は国会を通過した。それが、我々のやってきた実績の一つです」(解散後記者会見)
以前ブログで麻生は日の丸に日本民族の優越性を象徴させていると書いたが、1999年6月11日に政府が国旗国歌法案の提出と同時に出した「君が代」の歌詞内容に関わる政府統一見解は、
〈「君」とは、「大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。」
(「君が代」の歌詞は、)「日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である。」
この二つの解釈は、あまりにも矛盾しています。「君」=天皇と言いつつ、「君が代」を「我が国の末永い繁栄と平和を祈念したもの」と強引に解釈しています。内外から激しい批判をあびた小渕首相(当時)は、すぐさま政府解釈の変更を行います。
小渕首相(当時)による解釈の変更(1999.6.29)
(「君」とは)「日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す。」
「『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる。」(君が代の歌詞を)「我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当。」〉(HP《「君が代」の政府解釈の矛盾と修身教科書での本当の解釈》から)――
国民を「主権の存する」対象としているが、「君」を例え「日本国及び日本国民統合の象徴」と位置づけていようと、「万世一系」の言葉が証明しているようにあくまでも戦前とつながった天皇を指していて、常に天皇との関係性で日本という国も、その「末永い繁栄と平和」も把えている。当然主権在民も天皇との関係性で把えられていることになる。
天皇との関係性のない場所での「主権在民」は存在しない。いわば日本に於いての「主権在民」は国民の権利として絶対的姿を纏っているわけではなく、天皇との関係で相対的位置に貶められている。
これが日本の保守が考える日本の姿なのである。主権在民を土台に据えた日本ではなく、天皇を土台に置き、天皇に日本民族優越性の最たる象徴を置いている。その結果として、「万世一系」は勿論、2600年の歴史だとか、あるいは世界に類のない男系天皇といった言葉で日本という国を誇ることになる。
麻生の「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」も天皇との関連付けなくして存在しなかった優越意識からの発言であったろう。小泉内閣の外相時代に「英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのであり、首相万歳と言ったのはゼロだ。天皇陛下が参拝なさるのが一番だ」という発言があることからも分かるように天皇あっての国民の関係――戦前の天皇を絶対とした国家意識からの天皇と国民の関係を戦後も引きずって、天皇にそれを表現させたい衝動を隠さなかったのである。天皇を日本民族優越性の象徴とした「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」なのは間違いない。
2008年9月29日の第170回国会での麻生内閣総理大臣所信表明演説 では、「わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽(ぎょめいぎょじ)をいただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました」と天皇の署名・公印の公的呼称である「御名御璽」を持ち出しているが、国民の負託を受けた国会議員によって選出されたのだから、総理大臣としての基本的責任を国民に置かなければならないはずだが、形式に過ぎない「御名御璽」を「いただき」と自らの責任発生の対象を天皇に置いている。
自民党が歴史的大敗を喫した今回の都議選の遊説の際も、〈首相は、各事務所や街頭では握手攻めにあい、日本のサッカーワールドカップ出場決定と関連付けて「日本には(元日本代表の)中田英寿みたいなスーパースターはいない。11人全員でやった。これが日本のサッカーだ」と総力戦で都議選を勝ち抜く決意を強調した。ただ「日本のスーパー(スター)は天皇陛下ぐらい」と脱線気味の発言をする一幕もあった。〉(《「日本のスーパースターは天皇陛下だけ」麻生首相が「?」発言》msn産経/2009.6.7 19:31 )ということだが、一国の首相の最大の責務は国民をスーパースターとすべきで、それが「子どもには夢を、若者には希望を、そして高齢者には安心を」につながっていくはずだが、国民の上に天皇を置いていて本質のところでは主権在民意識はないから、子供や若者、母親、高齢者といった国民を対象とした発言のすべてを選挙用と見るべきだろう。
何度でも言うが、日本の保守にとっての国民は常に天皇との関連付けでのみ存在する。「守るべきものは」、優越的価値意識を持たせている「伝統であり、歴史であり、皇室であり、日本語であり、国旗」であり、そして家制度としての「家族」、その家族を存在足らしめている「郷土」であって、主権在民であるとするところの個々人は実際には天皇との関連付けなくして存在させるべき対象であるゆえに、天皇あるいは天皇制をバックボーンとした日本の保守思想である日本民族優越性との整合性が取れず、「守るべき」対象から除かれる。
日本の保守にとって「主権在民」は日本国歌「君が代」の歌詞を天皇のみならず国民と関連付ける苦し紛れの解釈か選挙用の票稼ぎの言葉としてしか存在しない。