〈麻生太郎首相は10日夜、15日の終戦記念日に靖国神社を参拝する可能性について「国家のために尊い命をささげた人たちを、政争の具とか、選挙の騒ぎとかにするのは間違っている」と述べ、終戦記念日に限らず、首相在任中の靖国参拝に否定的な考えを示した。首相官邸で記者団に語った。「政治とかマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべきものだ。もっと静かに祈る場所だ」と強調した。
首相は外相時代の2006年、靖国神社が宗教法人を任意に解散し、非宗教的な特殊法人に移行する私案を発表している。昨年10月の衆院予算委員会では「(靖国に)行くとも行かないとも答えることはない」と答弁したが、首相周辺は「首相が参拝すれば私的参拝とは受け取ってもらえない」として、在任中は参拝しない方針を明らかにしていた。
ただ、昨年10月の靖国神社の秋季例大祭と4月の春季例大祭では、神前に供える真榊(まさかき)料として5万円を支払い、「内閣総理大臣 麻生太郎」の名義で供え物を奉納している。(19:39) 〉――――
「政治とかマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべきものだ」を「在任中の参拝に否定的」の根拠としているのだろう。
各マスコミの世論調査に現れている国民の政権選択に関わる現在の関心から判断すると、自民党が下野し、政権交代に向けた期待が強まっている状況からして衆議院選挙の投票日の8月30日の次の日、8月31日から首相の職から解放される可能性が高いことを示している。いわば8月31日以降「首相在任中」でなくなれば、例え「前日本国総理大臣 麻生太郎」と記帳しようと、“現”でない以上、いつでも好きなときに参拝できることになる。少なくとも秋の例大祭には十分に間に合う。
麻生太郎自身にしても、その可能性が高いことを承知していることを示す兆候を既に見せている。昨11日の千葉県野田市内で行った街頭演説で終戦時に首相だった鈴木貫太郎に言及して、「鈴木先生は『(戦争は)負けっぷりはよくせにゃいかん』と吉田茂に言っている。吉田内閣は長いこと続いたが、いろいろな意味で教えていただいた」と話したことが「衆院選を前に首相が負けを覚悟したとも受け止められる発言」だと「毎日jp」記事(《麻生首相:街頭で「負けっぷり」に言及…ハラくくった!?》/2009年8月12日 0時11分)が推測しているが、如何に戦況が不利でも、自民党総裁という立場からしても、自民党を母体として麻生内閣を組織し、率いる内閣総理大臣という立場からしても、勝ちに行かなければならない責任を負っている以上、以前強がって言っていた「決して逃げません」を再度口にすべきを、口にはせず、それが譬えであっても口にすべきではない「負けっぷり」なる言葉を口にしたのだから、選挙の敗北を「覚悟」と受け取られても仕方がなく、それを事実とした場合、首相でなくなる「覚悟」に連動させていたはずである。
尤も本人が「負けを覚悟」しようがしまいが、現在の状況は確実に「負け」を示し、「どちらが首相にふさわしいか」の世論調査が示しているように否応もなしに首相職からの解放を予感させている。
「日経ネット」が伝えている麻生の靖国参拝に関わる発言は「YOUTUBE動画」から詳しく知ることができる。記者の質問が小声で聞き取りにくいため、質問の箇所を「毎日jp」記事――《「首相VS記者団」 靖国「政治とかマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべき」 8月10日午後6時5分ごろ~》から拝借することにした。麻生の発言を青文字で記した。
Q:総理、朝日新聞です。15日の終戦の日に総理は靖国神社に参拝するおつもりはありますでしょうか。
「靖国についての話はお宅の新聞に投稿したことがある」
Q:は。
「読んだことありますか?」
Q:ああ。存じ上げています。
「それが答えです」
Q:総理。
「あなたの質問、不満足そうだから、読んでいないようだから」
Q:15日以外の日についても同様に、お考えについては。
「読んだ、記事を読んだ上であの質問をしてられるんですか?(笑いながら)あれに書いてあったと思いますがね。その上で、みなさんに分からせようと思って、聞いておられるように理解する、好意的に理解する。そういうことかしら?
僕は靖国というものは、少なくとも国家のために尊い命を捧げた人たちを政争の具とか、選挙の騒ぎとか、新聞のネタにするのは、まちがっていると思います。あれは最も、政治とか、そういったマスコミの騒ぎから遠くに置かれて然るべきもんですよ。もっと静かに祈る場所だと。それが答えです」(以上)――
いくら投稿したといっても、すべての国民、すべての有権者が「朝日新聞」に目を通しているわけではない。しかし記者は質問するとき、どの新聞の読者と特定せずにより多くの国民、より多くの有権者に知らしめるべく質問し、答を引き出そうとする。「朝日新聞」一社だけの問題ではない。それを投稿したから、それを読んだはずだ、それが答だという。「あれに書いてあったと思いますがね。その上で、みなさんに分からせようと思って、聞いておられるように理解する、好意的に理解する。そういうことかしら?」と言わなくてもいい余分なことまで小賢しいばかりに言って、自分がどれだけ愚かしいことを言っているか気づいていない。
戦死兵士を「少なくとも国家のために尊い命を捧げた人たち」と言う。彼らの行為を美しい行為・正しかった行為だと肯定している。
その種の肯定はそのような行為を動機付けた対象に対する肯定をも含む。行為を動機付けた対象を否定した場合、行為を動機付けられた側の肯定は矛盾をきたす。相互の肯定のみが美しさ・正しさの整合性を獲ち得る。
戦死兵士に「国家のために尊い命を捧げ」ることを動機付けた対象とはここでは戦前の日本国家――日本政府と軍部なのは断るまでもない。
いわば、戦死兵士を「国家のために尊い命を捧げた」と肯定することで、戦前の日本国家及び日本国家が発動した戦争を併せて肯定して、そこに正しかった戦争・正しかった国家だとする論理を含ませている。
戦前の日本の戦争は間違った戦争だとした場合、靖国神社に祀られている戦死兵士がそのような戦争を起こした「国家のために尊い命を捧げた」は滑稽な論理矛盾をきたす。「尊い命を」無駄に犠牲にしたことになるからだ。
いわば麻生太郎は戦前の日本国家を肯定し、戦前の日本の戦争を肯定している。このような肯定は極めて国家主義的な政治性を帯びた肯定であり、兵士及び非戦闘員たる国民のうちのすべての戦争犠牲者を蔑ろにし、貶める発想であろう。靖国神社とそこの戦没者を国家主義的に極めて政治的に扱っていながら、「僕は靖国というものは、少なくとも国家のために尊い命を捧げた人たちを政争の具とか、選挙の騒ぎとか、新聞のネタにするのは、まちがっていると思います。あれは最も、政治とか、そういったマスコミの騒ぎから遠くに置かれて然るべきもんですよ。もっと静かに祈る場所だと。それが答えです」などと平気で矛盾することを言っている。
間違った戦争、間違った国家のために「尊い命を捧げさせられた」とすることによって、すべての戦争犠牲者の死及び遺された者の苦しみは初めて整合性を獲得できるのではないだろうか。
野田消費者行政担当大臣が「終戦の日」に靖国神社に参拝する意向を示して、「平和を祈るために参拝するのが小さなころからのわが家の行事であり、大臣であろうとなかろうと、野田聖子としてしていることだ。毎回、私人として行っている」(NHKインターネット記事)と言っているが、戦前の日本国家・戦前の日本の戦争を肯定して「平和の祈り」は成り立つだろうか。
戦前の日本国家・戦前の日本の戦争を否定することから始めて、「平和の祈り」はスタートするはずだと思うが、そうではないのだろうか。
8月10日付の「日経ネット」《首相、在任中の靖国参拝に否定的》が題名通りの内容の記事を伝えている。参考引用してみる。