戦没者新追悼施設建設は戦争の検証・総括を行ってから

2009-08-15 10:41:04 | Weblog

 民主党鳩山由紀夫代表が政権を獲得すれば新たな国立追悼施設の建設に取り組む考えを表明したという。その理由の一つを次のように述べている。

 「A級戦犯が合祀されている靖国神社には天皇陛下も参拝されない。陛下が心安らかにお参りに行かれる施設が好ましいと思うのも一つの理由だ」(47NEWS

 民主党の政策集は戦没者の追悼に関して「特定の宗教性をもたない新たな国立施設」の設置を目指すとしている。(同47NEWS

 A級戦犯の合祀を外すことで天皇の参拝阻害条件をクリアした上に非宗教性を内容とした施設ということらしい。

 鳩山代表の表明に対して同党岡田幹事長が発言している。

 「有識者に議論していただき、それを尊重する形にすべきだ。政党が前面に出るのはいかがなものか」(時事ドットコム

 「国として、国家、国民のために命を落とした方々を祭る場が不可欠だ」(同時事ドットコム

 「国立のものができたから靖国には行かないとなるかどうかは、そのときのリーダーの判断の問題だ。靖国問題とは切り離して考えるべきだ」(同時事ドットコム

 岡田幹事長の「国として、国家、国民のために命を落とした方々を祭る場が不可欠だ」は戦前の日本という国の内容を問わない麻生と何ら変わらない姿勢を示している。

 「国立のものができたから靖国には行かないとなるかどうかは、そのときのリーダーの判断の問題だ。靖国問題とは切り離して考えるべきだ」はあくまでも靖国神社と新国立追悼施設とは別物で、「ときのリーダーの判断」で靖国神社への参拝もあり得るということであろう。いわば靖国神社は靖国神社として残る。どちらに参拝するかはその人の判断だということである。

 当然首相在任中は新国立追悼施設に参拝し、在任後は靖国神社に参拝ということも十分にあり得る。

 鳩山表明に関して麻生首相も当然ながら口を挟んでいる。記者から質問があったからだろうが、なくても口達者を性格としているから、口を挟まないわけにはいかないのではないだろうか。昨14日の首相官邸でのぶら下がり記者会見での発言だそうだ。

 「国民の合意を得られるかが一番の問題だと思う。施設を作ったら靖国の話がなくなるのか、なかなかそんな簡単にはいかないのではないか」(毎日jp

 靖国は靖国として残る。「お国のために戦って尊い命を捧げた」者の魂を迎えて祀るとする靖国神社の存在性は、それが戦前の価値観から発生した存在性であったとしても、「お国のために戦って尊い命を捧げる」ことに応えた戦没者それぞれの存在理由を美しい無償の行為としてそれをぞれの遺族が自らの誇りと確認できる装置として存在するからだろう。その結果、靖国神社は国のために命を捧げた戦没者の魂が漂う場所という地位を確立した。

 どのような国立追悼施設が建設されようとも、靖国神社が一旦確立した地位を奪うことはできないに違いない。国の内容を問わないまま「お国のために尊い命を捧げた」というキーワードが日本人の総体的な血となっているからだ。

 だからこそ、新追悼施設の建設を目指す立場にいても、岡田幹事長のように同じく国の内容を問わないまま「国として、国家、国民のために命を落とした方々を祭る場が不可欠だ」となる。

 どのようなケースの死であっても、死者を弔うのは遺された者の当然の務めであろう。国が起こした戦争であり、その戦争に兵士として駆り立て戦死させたのだから、その戦死者を国として弔うのは同じく当然の務めであろう。

 それでも、その戦争がどのような戦争であったかによって、戦死者の立場は違ってくる。どのような戦争であったかを問うことはどのような国であったかを問うことにつながる。

 その戦争が世界に何らかの害悪を及ぼした戦争であったのか、世界に何らかの貢献を果たした戦争であったのか。

 前者であったなら、戦死者は例え本人が「天皇陛下のため・お国のために」戦うべく参加した戦争のつもりであったとしても、戦争のために国家に死の犠牲を強いられた戦争ということになり、後者なら、死を以って報いる価値のあった戦争ということになる。

 当然、どう悼むのか違いが生じる。もし国の犠牲となった戦死であるなら、「国の犠牲となった、戦争の犠牲となった、無念だったろう」と悼むことになり、後者なら、「世界に貢献したのだ、立派だったな」と悼むことになる。

 歩道を歩いていて自動車に跳ねられて死亡した場合、遺族は「その歳で自動車に跳ねられ死んでしまった、さぞかし無念だったろうな」と悼むのと同じである。川で溺れた者を救おうと飛び込んだものの、自分まで溺れて死んでしまった場合、遺族は「人助けしようとして死んだのだ。残念だったろうが、立派だったな」と悼むのと同じである。

 死の経緯に応じて、悼み方が違ってくる。それを明らかにするために日本の戦争がどんな戦争であったのかの検証・総括を行って、その答に基づいて新しい追悼施設は建設されるべきではないだろうか。

 もしも田母神俊雄が懸賞論文に書いたように「もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」と相対化の罪薄めを行い得るなら、あるいは「戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである」、さらに「大東亜戦争の後、多くのアジア、アフリカ諸国が白人国家の支配から解放されることになった。人種平等の世界が到来し国家間の問題も話し合いによって解決されるようになった。それは日露戦争、そして大東亜戦争を戦った日本の力によるものである。もし日本があの時大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと百年、二百年遅れていたかもしれない。そういう意味で私たちは日本の国のために戦った先人、そして国のために尊い命を捧げた英霊に対し感謝しなければならない。そのお陰で今日私たちは平和で豊かな生活を営むことが出来るのだ」と位置づけ、正義の戦争とすることができると検証・総括されたなら、あるいは安倍晋三が06年9月26日の首相就任後の10月16日の衆院予算委員会で「日本において、国内法的にいわゆる戦争犯罪人ではない。・・・・いわゆるA級戦犯と言われる方々は、東京裁判において戦争犯罪人として裁かれたわけだが、国内としては、国内法的には戦争犯罪人ではないということは先ほど申し上げたとおりで、私の認識もそうであります」と述べたように戦争犯罪人の存在しない戦争=悪ではなかった戦争であるとする検証・総括を受けたなら、靖国神社のA級戦犯合祀は誰にとっても障害となる問題ではなくなる。現天皇も日本の戦争の宣戦布告を行った昭和天皇の子供として堂々と靖国神社に参拝すればいい。

 いわば何も新しい国立追悼施設を建設するまでもないだろう。靖国神社一つでいい。

 だが、検証・総括が田母神や安倍の主張とは正反対の結果が出て、日本の戦争がアジアの国と人命に多大な被害をもたらした侵略戦争で、兵士はそれに加担した犠牲者だと位置づけられたなら、今までの“顕彰”の意味で行った「天皇のため・国のために尊い命を捧げた」は否定且つ「天皇のため・国のために」が決して美しい目的ではなかったことが暴露されることになるだろう。

 例え靖国神社では従来の“顕彰”が引き続いて行われたとしても、そのために建設が必要とされる新国立追悼施設に於いては、「天皇のため・国のためにの名のもと、多くの尊い命が犠牲にされた。このような犠牲が二度国民の運命に降りかからないようにしなければ、あなたがの死はムダとなる。決してムダにはしない」が麻生や安倍といったムジナたち、あるいは最近では野田聖子が言う「平和の祈り」とは違う新しい平和の祈りとなるだろう。

 もし戦争の顕彰・総括を徹底的に行わないまま新国立追悼施設を建設したとしても、靖国神社に対して非宗教施設というだけのことで、大方の日本人の精神の中では常に靖国神社を上に置くことになるに違いない。

 それは合理的精神を欠くと言われている日本人が合理性を獲得する機会を失うことをも意味し、合祀的精神を欠いたまま推移することを意味するに違いない。



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