麻生の国内核武装論を高めて北朝鮮圧力とすることの愚かしさ

2009-08-09 17:00:29 | Weblog

 

 私事だが、パソコン操作中「Internet Explorer8」が自動更新され、ここのところインターネット接続に時間がかかるものだから、「7」から「8」なら少しは早くなるだろうと機械的にインストールしたら、「Outlook Express」でのメール文章作成でボタン操作がおかしくなり、それだけで済まず、インターネットに接続不可能となって、アンインストールしようとして「復元」を何度か行っても直らず、手順の後先が間違えたかなと思いつつ、「プログラムの追加と削除」や「レジストリ」を探しても肝心のファイルが見つからず、到頭「リカバリ」で解決したが、消えてしまうファイルやアプリケーションの保存に時間がかかったこと、その復元がまだ途中の段階だが、これで2~3日はブログが休めると思ったものの、逆にげんなりしてしまい、集中しない頭でこの記事を書くことになった。纏まっていない文章となっていたとしたら、悪しからずご容赦を。
 広島市中区平和記念公園で8月6日開催「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)で、我が日本の麻生太郎首相は顔にも平和主義者の優しさが表れている平和主義者面目躍如の挨拶を行って、人となりを知る国民を驚かした。

 〈広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に当たり、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊に対し、謹んで哀悼の意を捧げます。今なお、被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心よりお見舞いを申し上げます。

 64年前の今日、原子爆弾が、この地に投下され、幾万の尊い命が一瞬にして奪われ、多くの方々が傷つきました。美しい「水の都」、広島の街も焦土と化しました。

 ・・・(中略)・・・・

 日本は、被爆の苦しみを知る唯一の被爆国であります。広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければなりません。

我が国は、これまで15年間にわたって、国連総会に核廃絶決議を提出してきました。こうした中で、昨今、米露両国は、核兵器の一層の削減を目指して交渉を進めております。G8のサミットでは、先月ラクイラにおいて、初めて、「核兵器のない世界」を宣言し、世界的な核軍縮・不拡散に関する気運の高まりを維持・強化するための力強いメッセージを表明しております。

 そして本日、私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます。(以下略)〉(首相官HPから)

 平和記念式典は午前8時開催。原爆投下と同時刻の8時15分に原爆犠牲者と戦争犠牲者に黙祷。「首相官邸HP」によると、式典後、麻生総理は舛添厚生労働大臣と共に広島市内のホテルで、「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書」に署名。次に「被爆者代表から要望を聞く会」に出席、次いで午前中だとマスコミが伝えている記者会見に臨んでいる。

 じっくりなのか、駆け足で消化したのかは分からないが、兎に角日本国の総理大臣として2つの約束を広島市民、ひいては日本国民に向けて誓っている。

 1.「広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの
   努力を傾けていかなければなりません」
 2.「私は、改めて日本が、今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向け
   て、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます」
 
 さらに言うなら、7月8日から10日(09年)開催のイタリア・ラクイラ「G8サミット」に触れて、「先月ラクイラにおいて、初めて、『核兵器のない世界』を宣言し、世界的な核軍縮・不拡散に関する気運の高まりを維持・強化するための力強いメッセージを表明しております」と言っている。
 
 これは自身も参加、議論・討議に加わり、メッセージ発信者の一人となっているのである。いわば「『核兵器のない世界』を宣言」した一人となったことを示している。

 平和記念式典の挨拶で述べた被爆犠牲者に対する哀悼の意、日本国民に向けた高邁・偉大な約束は平和記念式典の間だけではなく、「被爆者代表から要望を聞く会」に出席、退席する時間まで少なくとも舌の根にしっとりと残っていたはずだが、いや残しておかなければならなかったはずだし、普通の極々一般的な常識を持っている人間なら、その舌の根が乾かない短時間内にその舌の根をすっかり干からびさせて、日本の安全保障を基本のところで大国アメリカの核を以って代える、いわゆる「核の傘」論の維持・有効性を表明したと言う。

 「NHK」記事――《「麻生首相 米の「核の傘」必要」》からこの辺りの消息を見てみる。

 ――日本がアメリカの核の傘に守られている中で、どう核軍縮に取り組んでいくのかの記者団の質問に答えて、

 麻生「核軍縮と言うものがァー、世界で、一斉に、同時になくなる(軽く自分から頷く。)――いうなら、可能性かもしれません。ある日突然、ハイってなくなりました。しかし、それは通常では考えにくいと思いますねぇ。

 一方的に誰かがやめたら、相手もきれいにやめてくれましたぁー。そういう世界ではないと思っております」(以上同記事動画から)

 その上で――

 麻生「核で他国を攻撃しようという国が隣にある。北朝鮮の核ミサイルは日本にとって明白な脅威だ。それに対して、日本は、核で抑止する力を持つアメリカと同盟関係を結んでいるという現実を踏まえる必要がある」(同NHK記事)

 核兵器が「世界で、一斉に、同時になくなる」条件を世界が抱えているならいいが、そうなっていない「現実を踏まえる」なら、北朝鮮の核脅威があり、その脅威への対抗手段をアメリカの「核の傘」に置き、必要とするのは止むを得ないという趣旨の発言である。

 「世界で、一斉に、同時になくなる」条件を常なる絶対前提とするなら、「核兵器のない世界」という目標をも同時に暗転させることになるのだが、麻生の頭の中ではそうはなっていないらしい。

 いわば例え日本の首相として習慣上義務づけられている平和記念式典出席であったとしても、「世界で、一斉に、同時になくなる」を不可能とするなら、「核兵器のない世界」も並行して不可能としなければならないとする考えを披露すべきだが、そのことに反して、「広島、長崎の悲劇を二度と繰り返さないためにも、国際平和の実現に向け、あらん限りの努力を傾けていかなければなりません」とか、「今後も非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立っていくことをお誓い申し上げます」とか言うべきでないことを舌の根を干からびさせて平気で口にする二枚舌、三枚舌を恥ずかしげもなく演じている。

 そして今日8月9日、長崎の平和記念式典で広島で述べたと同じような平和主義的な挨拶を何ら恥じることなく口からスラスラとこぼれ落ちさせている。「核廃絶」、あるいは「核兵器のない世界」を訴えつつ、別の場所では「核の傘」の必要性を訴える。

 一国の首相でありながら、自分が口にする言葉の合理性・整合性に思いを致すことがないからできた平和式典での空々しい平和主義者の装い、欺瞞に満ちた姿だったのだろう。逆に各場面場面ではそうは思わせないところが、さすが日本の首相麻生太郎だと褒めるべきかもしれない知れない。

 麻生太郎はアメリカの「核の傘」維持・必要論の持ち主と言うだけではなく、日本国内での核武装論の高まりを期待している。

 7月31日の「asahi.com」記事――《北朝鮮核めぐり、首相が核武装論に言及 日韓首脳会談時》が伝えている。

 〈麻生首相が6月28日に東京で行われた日韓首脳会談の際、「北朝鮮核問題が深刻化すれば、国内で核武装すべきだという声が強まる」と述べていたことがわかった。複数の日韓関係筋が明らかにした。北朝鮮の核問題で、カギを握る中国の取り組みを促す説得材料の一例として取り上げたという。〉――

 記事は最後で次のように解説している。

 〈北朝鮮の核実験後、日韓両国内の核武装論を中国が警戒しているとされる。ゲーツ米国防長官も5月の日米韓防衛相会談で、日韓両国への「核の傘」の強化に言及。日韓で核武装論が浮上しないように手を打ってきた。国内の核武装論を利用するかのような発言は首相としては不適切との批判も出そうだ。
 麻生首相は外相時代の06年10月、衆院外務委員会で核武装論をめぐり「隣の国が(核兵器を)持つとなった時に、一つの考え方としていろいろな議論をしておくのは大事だ」と発言し、4野党から罷免を求められたことがある。〉――

 現在はそういう状況になっていないにも関わらず、日本国内の核武装論の高まりの原因を北朝鮮の核開発や拉致問題に対する北朝鮮当局の不誠実な態度に対する反発に置き、そうなった場合の状況に中国が北朝鮮の存在が深くかかわっている自国防衛の観点から懸念を示して、北朝鮮に圧力をかけることを期待する。

 その方便としての“国内核武装論の高まり”説だったとしても、実際に日本国内で核武装論が高まった場合、核武装への一歩となるだろう。麻生を筆頭に安部や中川昭一、小池百合子、その他の核武装論者、国家主義者、日本民族優越論者が核武装世論の高まりに便乗して核武装に向けて率先して動くことになるだろうからだ。

 あるいは北朝鮮の核開発問題・拉致問題解決に向けた効果ある圧力として日本国内の核武装論の高まりを挙げたことが実際に国内の核武装論を誘導した場合、麻生の発言はその源をつくり出した世論誘導に当たることになる。

 そもそもからして「北朝鮮核問題が深刻化すれば、国内で核武装すべきだという声が強まる」といった発言は「すべきだ」とする意志方向を持たせた言葉が証明しているように核武装に向けた「声」(=議論)であって、それが議論のみにとどまって核武装に至らなくても、麻生やその他同じ穴のムジナがこれまで言っきているように議論は非核三原則の姿勢を壊すものではないとする趣旨の発言とは矛盾する言い分なのは明らかである。

 以前ブログでも取り上げたが、非核三原則厳守はタテマエであって、麻生その他が政治的に核武装に関わる世論誘導衝動をかねがね抱えていることから発した、一種の“世論誘導”であろう。

 「かねがね」と言うのは、北朝鮮が2006年10月9日に初めて地下核実験を行ったことを受けて当時の自民党中川昭一政調会長は10月15日テレビ朝日の「サンデーモーニング」で次のように発言している。

 「非核三原則は守るが、議論はしないといけない。重要な戦後の約束を見直す必要があるのかどうか、議論を尽くす必要がある」

 そして同6月の27日にアメリカでアミテージ元国務副長官と会談、「日本はかつてアメリカが直面したキューバ危機に匹敵する切迫した状況にある」として核保有について議論することへの理解を求めたいう。

 このような発言と動きに関して当時の麻生外相は次のように言っている。

 「非核三原則は政府の立場として変わらないが、この話をまったくしていないのは多分日本自身であり、他の国はみんなしているのが現実だ。隣の国が持つとなったときに、一つの考え方としていろいろな議論をしておくのは大事だ」

 「日本は言論統制された国ではない。言論の自由を封殺することにくみしないという以上に明確な答えはない。・・・・北東アジアの核の状況は一転した。持たないなら持たないで、もう一回きちんと論議することも止めるのは言論封殺だ」

 「非核三原則は政府の立場として変わらない」としているものの、やはり核武装に向けた議論の必要を論じているのであって、意識の底にあるのは“核武装衝動”であり、それを実現するための“世論誘導衝動”であろう。

 「非核三原則」を絶対とするなら、所有するかどうかの議論は必要ではなく、核に代わる外交術の創造に向けた動きを示すだろう。

 次もブログで取り上げているが、安倍晋三の首相就任後の発言、「政府や与党が核保有を公式に議論することはない」との姿勢が表面的なタテマエでしかないのは、首相就任前の「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持するのは憲法によって禁止されていない。そのような限度にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではない」(毎日jp)としている自身の考え方そのものが証明していることであり、このような考え方こそが意識の内側に “核武装衝動”を芽生えさせるキッカケとなる原因であろう。

 当然政治家として核武装に向けた“世論誘導衝動”を抱えることになる。

 中川昭一にしても同じである。

 「憲法の政府解釈では、必要最小限の軍備の中には核も入るとしている。その片方で非核三原則がある。現実の政策としては核は持たないということになるが、憲法上は持つことができると政府は言っている」(上記毎日jp

 憲法上も持つことはできないとして、非核三原則との整合性を図らなければならないとは言っていない。

 北朝鮮は既に核武装している。日本で核武装論が高まっただけで、北朝鮮に核武装の正当性を与えることになるだろう。日本は北朝鮮核脅威に対する対抗手段としての「核武装論」だと言うだろうが、北朝鮮は準備して置いて正しかったと、国家危機管理上、正しい判断だったと核武装正当化主張を国内外に示すことになるに違いない。そうなったら、もはや誰も北朝鮮の更なる核兵器所有を止めることはできないだろう。

 北朝鮮の一層の核開発、核兵器の増幅所有が止まるのは、海外拡張政策に則った日本の侵略戦争がアメリカ軍の攻撃によってその歩みを止められたように自らが核戦争を起こして、アメリカ等から報復攻撃を受けて自滅するときかもしれない。いわば行き着くところまで行き着くというやつである。

 だが、そのときは日本が核武装に至っていたとしても、北朝鮮に劣らない人的にも物的にも相当なダメージを受けることになる危険性は排除できない。

 軍事に対抗するに軍事を以って対抗する。核に対抗するに核を以ってする。このような敵意に満ちた対抗意識を相互に増殖させる政治的、あるいは民族的競争メカニズムにはまったとき、核にしても核武装論にしても相互に対抗意識を募らせる力としては役に立つが、対抗意識を抑える“圧力”としての力は失うだろう。

 とすると、麻生の「北朝鮮核問題が深刻化すれば、国内で核武装すべきだという声が強まる」とか、その「声」を中国を動かす圧力とする考え方、あるいは外相時代の「隣の国が(核を)持つとなったときに、一つの考え方として(核武装も含めた)いろいろな議論をしておくのは大事だ」といった考え方は相手の対抗意識に火をつけることはあっても、逆の作用を引き起こすことにはならない、極めて愚かしい“核武装衝動”とは言えないだろうか。

 今日8月9日、核武装論者である我が麻生首相がその主義主張に矛盾させて長崎の平和祈念式典に出席したことは既に触れたが、その後広島と同様に記者会見を設定、核兵器保有国が先制不使用を宣言する構想に関連させて「米国に核の先制不使用を求める考えはあるか」との質問に次のように答えたという。

 「『わたしは先制攻撃しません』と言っても検証する方法はない。先制不使用の考え方は、日本の安全を確保するには、現実的にはいかがなものか」(《核の先制不使用宣言「現実的でない」=麻生首相、長崎で会見》/font>時事ドットコム/2009/08/09-13:25)

 〈また、自民党内に、敵基地攻撃能力の保有の検討を求める声があることに関しては、「日米間の役割分担に関する話は、検討すべきものと考えている」と述べた。〉(同時事ドットコム
 
 原爆慰霊記念式典でいくら平和主義者の顔を装うとも、日本の安全保障確保のためにはアメリカの核を必要とする考え方に変わらないことを示した一連の発言となっている。

 また広島の記者会見での「北朝鮮核問題が深刻化すれば、国内で核武装すべきだという声が強まる」という発言と併せて核武装論の高まりは核武装への一歩であることを考えると、アメリカの「核の傘」必要論は日本が核武装するまでの一時的猶予としてある欲求と見なければならないのではないだろうか。

 いずれにしても“核武装衝動”を内に隠した我が日本の麻生太郎と見なければならない。こういった連中が「日本の保守」を誇大広告的に名乗る。

コメント (1)
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