麻生の言う「日本の保守」の正体

2009-08-05 03:54:19 | Weblog

 いよいよヤキがまわった日本の首相麻生太郎

 麻生首相が2日(09年8月)、地方遊説のため訪れた愛知県で保守色を前面に出した演説を行ったと言う。

 「我々は守るべきものは守る。伝統であり、歴史であり、皇室であり、日本語であり、国旗を大事にする。日教組の先生をされた民主党が国旗を振りますか。日本にとって最も大事にすべきだ」(《首相「伝統、国旗…守るべきもの守る」演説で保守色拍車》asahi.com/2009年8月2日18時58分)

 「どこかの政党は、今回の選挙を『革命的選挙にする』と言っている。われわれ自民党は真の保守政党だ。革命を起こすつもりなんか全くない」(《首相が「保守色」前面に 安保・教育で民主批判》山陽新聞ウェブ記事09年8月3日20時33分)

 「守るべきものは家族、郷土、日本語、皇室、国旗だ」(同山陽新聞ウェブ記事

 上記「asahi.com」記事は〈演説冒頭では「一連の私の発言や力不足から党の結束の乱れが出て、自由民主党に対する信頼感の欠如につながった」と謝罪し、「競争が行き過ぎて弱者がしわ寄せを食らう。弊害を率直に認めて訂正しなければならない」。そのうえで経済対策の実績や民主党批判を続けるスタイルを定着させつつある。〉と麻生の演説パターンを解説しているが、一見反省しているように見せかけているその謝罪は「党の結束の乱れ」をつくり出した自身のリーダーシップの欠如と格差社会や年金不安、生活不安等をつくり出した自民党政治への謝罪のみであって、そのような自民党政治への自身の共犯性、あるいは加担性には触れていない不十分な謝罪でしかない。

 いわばそれらを脇に置いた謝罪であって、謙虚な姿勢がニセモノだからできる不十分さであろう。「医者の確保をとの話だが、自分で病院を経営しているから言う訳じゃないけど、大変ですよ。はっきり言って、最も社会的常識がかなり欠落している人が多い。ものすごく価値判断が違うから。それはそれで、そういう方をどうするかという話を真剣にやらないと。全然違う、すごく違う。そういうことをよく分かった上で、これは大問題だ」(08年11月19日、全国知事会での発言)から見て分かるように謙虚さとは無縁の人間に出来上がっているのである。

 上記「山陽新聞ウェブ記事」は麻生が保守色を前面に出している理由とその効果を次のように解説している。

 〈民主党が「国の基本政策である安全保障、教育、憲法などをないがしろにしている」(自民党パンフレット)との立場から、保守票をつなぎ留めるのが狙いだ。

 ただ、首相はこれまで「景気優先」を一枚看板に据えてきただけに「苦し紛れの戦術」(ベテラン議員)の感も否めない。改憲志向の「美しい国づくり」をスローガンに掲げた安倍晋三元首相は2007年参院選で惨敗しており、麻生流の“右旋回”が奏功するかは見通せない。〉――――

 「どこかの政党は、今回の選挙を『革命的選挙にする』と言っている。われわれ自民党は真の保守政党だ。革命を起こすつもりなんか全くない」云々――。

 「山陽新聞ウェブ記事」によると、〈民主党の鳩山由紀夫代表が政権交代を見据え「革命的な総選挙になる」と発言したことを踏まえ、民主党を「革命政党」と言わんばかりに批判〉したものだという。

 鳩山由紀夫代表が「革命的な総選挙になる」と発言したことが、自民党は「革命を起こすつもりなんか全くない」となる。単細胞・短絡思考の持主でなければできない立派な関連付けである。

 これまでの自民党政治を根本的に改める総選挙になるという意味で、鳩山代表は「革命的な総選挙になる」と言ったのだとは普通の頭の持主なら簡単に理解できるだけではなく、民主主義のルールに則った選挙を前提としていることは言わずもがなのことで、麻生だけがそのことを理解できる頭を持っていないということだろう。

 民主主義の土俵の外にいて、軍事革命だ、暴力革命だ、首相官邸を占拠して、麻生を追い出すと言っているわけではない。あくまでも国民の選択に委ねた「革命」――根本的な政治変革の機会だと把握して戦っているのである。

 「苦し紛れの戦術」と言うよりも、いよいよヤキがまわったなとしか言いようがない。

 「我々は守るべきものは守る。伝統であり、歴史であり、皇室であり、日本語であり、国旗を大事にする。日教組の先生をされた民主党が国旗を振りますか。日本にとって最も大事にすべきだ」と言っている。

 麻生の言う「伝統」とは自民党政治が体質的伝統としてきた「バラ撒き・ハコモノ政治」のことを言い、それを守るということなのだろうか。

 この手の国民に不利益を与えた「伝統」を棚に上げて、自民党が言う「伝統」をすべて善としている。中央集権体制だと言われている現在の中央と地方の上下関係も日本人が民族性としている権威主義の行動性から発した政治体制であって、民族性としているゆえに封建時代の昔から延々と現在に至るまで後生大事に引き継いでいる「伝統」であろう。

 女性の社会参加が欧米諸国に比較して遅れているのも男を上に置き女性を下におく男尊女卑の権威主義性の名残りが仕向けている「伝統」としてある不平等な社会進出模様であろう。

 女性の社会進出の遅れを証明する7月24日付「asahi.com」記事がある。参考引用してみる。

 《「女性差別、変わらず」国連委、日本に苦言》

 〈【ニューヨーク=松下佳世】国連本部で開会中の国連の女性差別撤廃委員会が23日、日本における女性差別の現状を6年ぶりに審査した。日本政府は、男女雇用機会均等法の改正など、男女共同参画社会の実現に向けた取り組みを強調したが、委員からは女性の社会進出の遅れや従軍慰安婦問題への不十分な対応など厳しい指摘が相次いだ。

 30年前に採択され、女性にかかわる世界の「憲法」とも呼ばれる女性差別撤廃条約の批准国は現在186カ国。各国は4年ごとに男女平等の進展具合を報告書として提出し、委員会の審査を受ける。審査結果は後日、委員会から「最終見解」として勧告され、各国は改善義務を負う。

 日本は前回、03年に審査対象となった。この際、一般職と総合職といった「コース別雇用管理」などの形を取った「間接差別」や、民法で規定されている夫婦同姓や結婚可能年齢の男女差、婚外子への差別的な扱いなどを改善するよう注文が付いていた。

 このため今回は、女性問題に取り組むNGOが45団体84人からなる代表団を国連本部に派遣。「前回の委員会勧告がほとんど実行されていない」と政府への圧力強化を求めた。中でも、性差別による人権侵害で国の対応が不十分な場合に委員会へ直接訴える道を開く「個人通報制度」が盛り込まれた選択議定書を早期批准するよう訴えた。

 この日の審査では、委員の側からも選択議定書の批准を求める声が出たが、日本側は「検討中」と述べるにとどまった。民法改正などの対応も進んでいないことから、「日本では(法的拘束力を持つ)条約が単なる宣言としか受け取られていないのではないか」と批判する委員もいた。〉――

 かくかように各種女性差別を日本は伝統としている。こういったいくらでもある様々な悪しき伝統を隠したまま、「伝統を守る」と言えば立派な発言・立派な姿勢ということになるとする固定観念が幅を利かしている。幅を利かしているから、麻生みたいに「伝統を守る」なる発言をネタに自分を立派に見せることになるのだろう。

 麻生たち国家主義者はよき伝統を守ると言っているのだと言うだろうが、中央の官僚・役人が何様顔に踏ん反り返っていて、そういった彼らに対して地方の役人がペコペコ頭を下げる権威主義的上下関係や女性差別といった悪しき伝統を改善できずに守る一方で、「よき伝統を守ると言っているのだ」はご都合主義の矛盾そのものであろう。

 単細胞麻生が守るべき項目に入れている「歴史」にしても、伝統と同じで、日本の歴史のすべてが善なる装いを纏っていたわけではない最大の例として多くの日本人が戦前の侵略戦争を負の歴史の第一番に挙げるだろう。だが、日本民族優越主義者たちはそれを戦略戦争、あるいは負の歴史とした場合、日本民族の優越性を剥ぐことになって認め難く、逆に日本のすべての歴史に善なる装いを纏わせるべく、侵略戦争ではなかったという牽強付会を働く。

 また麻生国家主義者は「守るべき」項目に伝統・歴史・皇室・日本語・国旗、そして家族、郷土と挙げているが、国家主義者としての体面にふさわしく「守るべき」対象を国民を構成している個人個人に置かず、最小社会単位の「家族」に置いている。麻生の意識の中の日本国憲法は国民主権とはなっていないからだろう。これは戦前と同様に国民一人ひとりではなく、“家”を国家の基盤としていたことに準じた統治意識からの価値観と見るべきである。

 「皇室」を「守るべき」項目として何番目に持ってこようとも、象徴天皇として上に戴いている以上、頂点に置いているのは確かである。戦前の日本は天皇を親として、日本人全体を家族と見ていた。  

 大体が安心して子供を産めない社会、産んでも育児に苦労する社会を作り出しておいて、「守るべきものは守る」の中に「家族」を取り上げるとは恥知らずも最高を極めていると言わざるを得ない。「保守」の観点から国家を見た場合、麻生の「家族」が国家体制を構成する基盤的な社会単位と看做していることから、産みたいが産めない、賃金と身分の保証が不安定なことから結婚できない等々の個人が抜け落ちることになる。

 7月31日に麻生が自民党マニフェストを記者会見して発表するとき、「私が目指す安心社会とは子どもに夢を、若者には希望を、そして高齢者には安心を、であります。全世代、全生涯を通じて、安心保障をつくります。これを実現するための政策を加速します」ともっともらしげに言っているが、麻生の国家観から見た場合、子供も若者も高齢者も「家族」として把えてはいるものの、個人の姿としては把えていないのだから、そう言わなければ選挙の票が望めないから言っているに過ぎないことなのは分かる。

 「国旗を大事にする。日教組の先生をされた民主党が国旗を振りますか。日本にとって最も大事にすべきだ」と言っている。

 麻生は両院議員懇談会でも解散後記者会見でも国旗を取り上げている。

 「自由民主党は真の保守党です。私たちは理念のもとに、集まった同志であります。ここに国旗が掲げてありますが、当然のこととして、国旗を掲げている政党がどこにありますか」(両院議員懇談会)

 「我々は、ここに国旗を掲げてありますけれども、少なくとも国旗国歌法というのを通したときも、自公によって、あの国旗国歌法は国会を通過した。それが、我々のやってきた実績の一つです」(解散後記者会見)

 以前ブログで麻生は日の丸に日本民族の優越性を象徴させていると書いたが、1999年6月11日に政府が国旗国歌法案の提出と同時に出した「君が代」の歌詞内容に関わる政府統一見解は、

 〈「君」とは、「大日本帝国憲法下では主権者である天皇を指していたと言われているが、日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈するのが適当である。」

 (「君が代」の歌詞は、)「日本国憲法下では、天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当である。」

 この二つの解釈は、あまりにも矛盾しています。「君」=天皇と言いつつ、「君が代」を「我が国の末永い繁栄と平和を祈念したもの」と強引に解釈しています。内外から激しい批判をあびた小渕首相(当時)は、すぐさま政府解釈の変更を行います。

小渕首相(当時)による解釈の変更(1999.6.29)

 (「君」とは)「日本国憲法下では、日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する国民の総意に基づく天皇のことを指す。」

 「『代』は本来、時間的概念だが、転じて『国』を表す意味もある。『君が代』は、日本国民の総意に基づき天皇を日本国及び日本国民統合の象徴する我が国のこととなる。」(君が代の歌詞を)「我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと解するのが適当。」〉(HP《「君が代」の政府解釈の矛盾と修身教科書での本当の解釈》から)――

 国民を「主権の存する」対象としているが、「君」を例え「日本国及び日本国民統合の象徴」と位置づけていようと、「万世一系」の言葉が証明しているようにあくまでも戦前とつながった天皇を指していて、常に天皇との関係性で日本という国も、その「末永い繁栄と平和」も把えている。当然主権在民も天皇との関係性で把えられていることになる。

 天皇との関係性のない場所での「主権在民」は存在しない。いわば日本に於いての「主権在民」は国民の権利として絶対的姿を纏っているわけではなく、天皇との関係で相対的位置に貶められている。

 これが日本の保守が考える日本の姿なのである。主権在民を土台に据えた日本ではなく、天皇を土台に置き、天皇に日本民族優越性の最たる象徴を置いている。その結果として、「万世一系」は勿論、2600年の歴史だとか、あるいは世界に類のない男系天皇といった言葉で日本という国を誇ることになる。

 麻生の「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」も天皇との関連付けなくして存在しなかった優越意識からの発言であったろう。小泉内閣の外相時代に「英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのであり、首相万歳と言ったのはゼロだ。天皇陛下が参拝なさるのが一番だ」という発言があることからも分かるように天皇あっての国民の関係――戦前の天皇を絶対とした国家意識からの天皇と国民の関係を戦後も引きずって、天皇にそれを表現させたい衝動を隠さなかったのである。天皇を日本民族優越性の象徴とした「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない」なのは間違いない。

 2008年9月29日の第170回国会での麻生内閣総理大臣所信表明演説 では、「わたくし麻生太郎、この度、国権の最高機関による指名、かしこくも、御名御璽(ぎょめいぎょじ)をいただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました」と天皇の署名・公印の公的呼称である「御名御璽」を持ち出しているが、国民の負託を受けた国会議員によって選出されたのだから、総理大臣としての基本的責任を国民に置かなければならないはずだが、形式に過ぎない「御名御璽」を「いただき」と自らの責任発生の対象を天皇に置いている。

 自民党が歴史的大敗を喫した今回の都議選の遊説の際も、〈首相は、各事務所や街頭では握手攻めにあい、日本のサッカーワールドカップ出場決定と関連付けて「日本には(元日本代表の)中田英寿みたいなスーパースターはいない。11人全員でやった。これが日本のサッカーだ」と総力戦で都議選を勝ち抜く決意を強調した。ただ「日本のスーパー(スター)は天皇陛下ぐらい」と脱線気味の発言をする一幕もあった。〉(《「日本のスーパースターは天皇陛下だけ」麻生首相が「?」発言》msn産経/2009.6.7 19:31 )ということだが、一国の首相の最大の責務は国民をスーパースターとすべきで、それが「子どもには夢を、若者には希望を、そして高齢者には安心を」につながっていくはずだが、国民の上に天皇を置いていて本質のところでは主権在民意識はないから、子供や若者、母親、高齢者といった国民を対象とした発言のすべてを選挙用と見るべきだろう。

 何度でも言うが、日本の保守にとっての国民は常に天皇との関連付けでのみ存在する。「守るべきものは」、優越的価値意識を持たせている「伝統であり、歴史であり、皇室であり、日本語であり、国旗」であり、そして家制度としての「家族」、その家族を存在足らしめている「郷土」であって、主権在民であるとするところの個々人は実際には天皇との関連付けなくして存在させるべき対象であるゆえに、天皇あるいは天皇制をバックボーンとした日本の保守思想である日本民族優越性との整合性が取れず、「守るべき」対象から除かれる。

 日本の保守にとって「主権在民」は日本国歌「君が代」の歌詞を天皇のみならず国民と関連付ける苦し紛れの解釈か選挙用の票稼ぎの言葉としてしか存在しない。


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