現地時間の2015年4月25日正午前(日本時間の午後3時過ぎ)、ネパール中部を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生、死者5266人に達したと今日30日朝のNHKテレビがニュースで報じていた。
ネパールはアジアで最貧国の一つとされている。「Wikipedia」は、〈IMFの統計によると、2013年のネパールのGDPは193億ドル。一人当たりのGDPは693ドルであり、非常に低い水準である。 2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は2200万人と推定されており、国民の70%を超えている。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に分類されている。〉と、ネパールという国と国民の貧しさを記述している。
2011年ネパール人口2649万人のうち貧困層が2200万人。その貧しさを窺うことができる。
当然、防災インフラ整備が殆ど進んでいないと見なければならない。地震を伝えるマスコミが、「耐震性を考慮していない建物が多い」と報じ、なお且つ「山岳地帯で地滑りも起きやすい」と自然災害に対して劣悪な状況下にあることを知らせていた。
こういった劣悪な防災状況の中、海底を震源とするのではなく、陸地型で震源地が足下のマグニチュード7.8の大きな地震が発生した。地震発生と同時に倒壊した建物に多くの住人が下敷きとなり、多くの死者や多くの怪我人が出ることを、少なくとも予想しなければならない。
家の倒壊に遭いながら、無事であった住人、あるいは家の倒壊を免れて無事であったとしても、巨大地震に対してかなり震度の大きい余震は付きものだから、一度は倒壊を免れたとしても、2度目、3度目の保証はないから、避難所として使う耐震性を備えた学校の体育館等の存在は最貧国であることことから期待できないことを考えると、無事であった住人は外に放り出され、外で暮らすことになる。
こういった予想されうる被害状況、あるいは予想しなければならない被害状況から、被災者にとっての差し迫った必需品は食糧、外で暮らすためのテント、医薬品、昼間の気温は約25度前後だが、雨が降ると夜は10~12度前後に下がるというから、毛布やその他の暖房用具ということになる。
インドは4月25日正午前の地震発生当日、25日夜から26日早朝にかけてネパールの被災者500人以上を空軍機でニューデリーに運び、多分並行してのことだろう、個別に行うことは考えられないから、日付は4月26日となっているが、26日早朝からだと思うが、航空機10機で飲料水や食料などを空輸すると共に陸軍の医療チームやインフラ復旧の工兵部隊、救助隊を首都カトマンズに派遣して、倒壊した建物の下に閉じ込められている住人の捜索と救助活動を開始している。
インドが捜索と救助活動に迅速に取り掛かることができた事情はインドがネパールの隣国であるという地理的な近さもあるが、地理的な遠近は誰も変えることができない要件なのだから、国際的支援に関しては距離を問題とするのではなく、捜索と救助活動に向けた本国出立等の行動の開始時間自体が問題となる。
行動の開始時間を問題とする理由は倒壊建物等に生き埋め状態になった場合、生存率が一挙に下がる72時間(3日間)が「生存限界」とされていることから、捜索と救助活動開始は可能な限り72時間(3日間)以内を目指す時間との戦いを負うことになるからだ。
と言うことは、被災地が遠い距離にある程、迅速な捜索と救助活動開始を可能とするためには行動の開始自体を早くしなければならないことになる。
インドは地震発生の当日夜から行動を開始した。
生存に関わる緊急性を必要とする活動以外の瓦礫の撤去、あるいはインフラ再建、重症ではない怪我人に対する医療活動、食糧支援等はさして時間との戦いを強いられるわけではないから、海外からの支援活動の開始時間は1日2日の余裕を持たせることはできる。
中国も行動の開始が早かった。地震発生翌日の4月26日早朝、捜索・救助隊員のほか、医療関係者、地震専門家ら計62人、6頭の捜索犬を伴った国際救援隊が北京を発って被災地に向かい、同4月26日夕方に現地に到着、捜索や救助活動を開始した。
日本政府はネパール政府の要請に基づいて国際緊急援助隊救助チームを派遣することを決定、その派遣をJICAに依頼し、団長(外務省)、副団長(警察庁、総務省消防庁、海上保安庁、JICAから各1名)、救急救助要員44名、救助犬ハンドラー5名、通信隊員2名、医療関係者5名、構造評価専門家2名、業務調整員7名の計70名の構成要員で、4月26日午後5時50分過ぎ、チャーター機で成田空港を出発。タイのバンコクを経由してカトマンズ到着は日本時間4月27日午後3時40分の予定。
ところが現地の空港が混み合って、着陸許可が下りなかったために一旦インドのコルカタに引き返すことになった。
このこと自体は不測の事態ゆえに仕方のないことだが、行動の開始自体を見ると、インドの4月25日正午前地震発生翌日4月26日早朝の被災地救援に向けた空軍機の出立、さらに中国の地震発生翌日の4月26日早朝の国際救援隊の北京出立と比べて、日本は成田出立は4月26日午後5時50分過ぎと、10時間前後の差がついていることになる。
防災先進国を自ら任じる日本が生存率が一挙に下がる「生存限界」とされる72時間(3日間)の時間との戦いに加わらないとしているなら、何ら問題はない。
但し日本の政治家は「国民の生命・財産を守る」などと言う資格を失う。他国民の生命・財産を思い遣らない自国民の生命・財産は如何わしい限りとなる。
アメリカは中国や北朝鮮国民の生命・財産を思い遣るから、中国や北朝鮮の人権状況にモノ申すはずだ。だが、日本政府は殆ど批判することをしない。
防衛省は被災状況や支援ニーズを把握するために調査チーム3人をJICAの国際緊急援助隊救助チームに同行させた。
「アジアの最貧国の一つ」、「耐震性を考慮していない建物が多い」、「山岳地帯で地滑りが起きやすい」、「防災後進国」といったキーワードで調査チームを派遣せずとも被災状況と支援ニーズを把握できる想像力を持たないらしい。
大体が被災国の国情に応じた地震の大きさのみで、支援ニーズは把握できるはずだ。食糧、水、医薬品、防寒用具、重機等々、定番化している。
だが、被災状況や支援ニーズを把握するために調査チームを派遣した。
調査チームの報告を受けてのことか、中谷防衛相が医療援助チーム約110人と空輸部隊約160人で構成の270人の自衛隊部隊を国際緊急援助隊として約派遣する方針を決め、27日夜、自衛隊に対して派遣を伝えた。
翌4月28日、日本政府は270人を国際緊急援助隊として同国に派遣すると発表、第1陣の部隊21人が同4月28日深夜に首都カトマンズに向けて日本を出発。
第1陣21人は4月29日深夜(日本時間30日未明)、首都カトマンズに到着。
「医療援助」だから、倒壊した建物に閉じ込められた住人の人命救助活動そのものには関わらないと言うことなのだろう。「生存限界」とされる72時間(3日間)が過ぎていても、何ら問題はない。
どうも日本政府は防災先進国を自ら任じながら、自然災害を受けた外国への国際緊急援助隊派遣は生存率が一挙に下がる「生存限界」とされる72時間(3日間)の時間との戦いを問題外とした派遣に見える。
そんなこと関係ねぇ、関係ねぇったら、関係ねぇ、オッパピーとばかりに。