右翼の国家主義者安倍晋三が国家権力を握っている日本で素直に国旗掲揚も国歌斉唱もできない

2015-04-10 08:52:50 | 政治

 
 安倍晋三が4月9日の午前の参院予算委員会で国立大学の入学式や卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱を行うことが望ましいとの認識を示したと「時事ドットコム」が伝えている。

 松沢成文次世代の党「殆どの国立大学で国歌斉唱を実施せず、国旗を掲揚しない大学も12から13ある」

 安倍晋三「学習指導要領がある中学、高校では実施されている。(国立大でも)教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきだ」

 国旗を掲揚し、国歌を斉唱するということは、その瞬間だけのことではあっても、それを行う者にとってはそれらのことを通して国家と共にあることの表明の儀式となる。

 勿論、掲揚した国旗にそうしなければならないからと形式的に一礼し、形式的にただ口を動かして国歌を斉唱をする者も存在するが、国家と共にあることの表明の儀式とすることが国旗掲揚と国歌斉唱に求められる真の意味であろう。

 国家権力の側から言うと、国民に国家と共にあることの表明の儀式を繰返させることによって、その表明を意識に植えつけ、習慣的な意識とさせて、国民を国家と一体化させることを望む。

 このことは戦前の日本国家を見れば理解できる。

 と同時に戦前の日本国家は同じ日の丸の日本の国旗であっても、時代の思想や時の国家権力の政治思想によって日の丸が象徴する色合いは違ってくることを教えている。

 戦前の日の丸が軍国主義・植民地主義の象徴であったとしても、あるいは大東亜の盟主を象徴した日の丸であったとしても、戦後の日の丸は平和国家の歩みを象徴しているのだからと国旗掲揚の正当性を与え、併せて国歌斉唱の正当性を与えることはできる。

 だが、国旗というものがそのように時代時代の思想や国家権力の政治思想によって異なる象徴を映し出す性格を有するなら、戦後の日の丸が例え戦後日本の平和の歩みを象徴していたとしても、時の国家権力者が平和とは相容れない政治思想を有していたなら、日の丸自体がそのような政治思想を象徴するまでになっていなくても、国旗掲揚、あるいは国歌斉唱という国家と共にあることの表明の儀式はその国家権力者の政治思想が体現している国家と共にあることの表明の儀式ともなり得る。

 例え形式的な国旗掲揚に対する一礼であり、単に口ずさむ形式的な国歌斉唱であったとしても、国民の殆どがそれらを慣習とした場合、国家と共にあることの表明の儀式と解釈して、平和とは相容れない政治思想を有している国家権力者を喜ばせ、力を与えることになって、そこに権力の正当性を見い出させることになる。

 平和の時代であったとしても、あるいは日本が平和の歩みを進めていたとしても、時の国家権力者の政治思想次第では下手には国旗掲揚も国歌斉唱もできないということである。

 右翼の軍国主義者安倍晋三が国家権力を握っている日本で、その政治思想に正当性を与えるような国家と共にあることの表明の儀式である国旗掲揚と国歌斉唱を素直に行うことのできる国民がどれ程存在するというのだろうか。

 だが、安倍晋三は国旗掲揚も国歌斉唱も行わない大学にまで強制しようとしている。

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