沿道に数メートル置きに制服警察官が立ち警戒の壁をつくった総勢3000人規模の物々しい厳戒態勢の中、長野聖火リレーは4月26日(08年)午前8時半前に開始。その外側に中国国旗を持った中国人留学生らとチベット留学生やチベット支援者がそれぞれの場所を確保して対峙する中で聖火リレーの行事は行われた。
聖火ランナーに対する直接の防御は北京五輪組織委員会が派遣した白帽子・青のトレーニングウエアの2人の聖火警備隊員までを準備し、その両者を透明のプラスチック製盾を持った数人のトレーニングウエア・臙脂色の帽子の警察官が前後から守り、さらにその左右を機動隊員を交えたトレーニングウエア姿・臙脂色の帽子の警察官と防犯チョッキを身に付けた同じ臙脂色の帽子の警察官が各2列縦隊で合計占めて90人が整然と一緒に走る物々しいばかりの防御体制を取っていた。
途中モノを投げつけたり、乱入したりする者が出現して数人が逮捕されたあと、<午後0時半前。大勢の中国人留学生らが集まる「若里公園」(ゴール地点)に聖火が到着。雨の中、公園内は大小の真っ赤な中国国旗で埋め尽くされ、チベット人を支持する人たちが離れた場所で抗議の声をあげ>ていた。(≪北京五輪:長野聖火リレー 沿道、小競り合い/平和の祭典、厳戒(その1)≫毎日jp/08年4月26日)
さらに国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」のロベール・メナール事務局長、その他がリレーコースの「大門」交差点で聖火の通過後移動し、手錠をかたどった旗を掲げて抗議のデモを行っている。(≪善光寺でチベット暴動の追悼法要、国境なき記者団も抗議活動≫08.4.26/読売新聞)
聖火ランナーはテレビの画像を見る限り、選出されたランナーが一人ずつ走ってリレーする形を取っていたようだが、一人ずつが掲げるトーチを守るために出動させた警戒態勢にしては異常なまでに物々し過ぎる防備に思えた。
いわば聖火リレーが行われた時空間上に過剰なまでに物々しい「監視社会」が出現したのである。
この長野「監視社会」は意図したものではなくても、警備を優先させるあまり中国の監視社会と相互対応し合った、その反映となっていなかったろうか。つまり過剰なまでの警備優先が結果的に中国の監視社会を一時的、擬似的に再現せしめたと言えないだろうか。
中国は政府の過剰なまでのネット検閲、ネット規制、政府批判の出版物の取締まり・出版禁止、人権活動家の活動制限、テレビと新聞の検閲、ニュース・記事の差し止め、天安門事件で武力弾圧を行ったことで役目の一つとなった国民に対する人民軍の威嚇的支配性等々を手段とした基本的人権を否定する過剰なまでの国民を監視する「監視社会」となっている。その本質部分がミニチュア版・ヒナ型の形を取って長野に出現したのである。
言葉を換えて言うなら、中国が共産党一党独裁体制で国家秩序(=国民の活動)を監視し、維持しているように長野に於いて警察官3000人体制で秩序を「監視」し、維持した。
もし中国が民主国家で国民の基本的人権の保障を憲法で明記していたなら、例え抗議デモを予想していたとしても、それを思想・信条の自由と認めて、それが暴力化した場合の取締まりは開催国の判断に任せただろうから、聖火警備隊員まで送ることはなかっただろうし、中国人留学生を動員することもなかたっだろうから、開催国の日本にしてもこうまで過剰な警備に走ることはなかったろう。
実際にはその逆転現象を描いているのだから、こういった経緯からも中国監視社会がつくり出した長野の過剰警備であり、中国監視社会の擬似的再現と言える。
もしこの見方が妥当なら、日本政府もJOCも長野市も警察も、当然のことに走った聖火ランナーもそれと知らずに中国監視社会の擬似的再現に手を貸したことになる。
知らぬが仏で、日本人関係者は聖火を無事に守り、無事に終わることだけが頭にあったからだろう、警察官3000人の警戒体制に何ら疑問を持たない反応を示していた。
以下昨26日夕方7時のNHKニュースから。
日本オリンピック委員会・竹田恒和会長「日本中の方々に北京オリンピック大会の開催の意義と平和と友好のメッセージを伝えてくれるもの確信いたしております」(午前8時半前のスタート時で)
情報が世界に向けて発信されることも考えずに、一国主義の発言となっている。
長野市鷲澤正一市長「まずまず責任を果たしたと、いうふうに思っています。長野とすれば、平和、えー、に向けての情報発信という、まあ、言い方がいいかどうか分かりませんけれども、というような形はできたのではないかな、というふうには思っていますけども・・・」
中国とチベットの剥き出しの対立を露わにした聖火リレーだったというのに、どのような「平和に向けての情報発信」と言うのだろうか。厳戒と監視があっての「まずまず」の終了に過ぎなかった。
野球日本代表監督・星野仙一「この私はすんなりと走れまして、ええー、次の末續君(陸上ランナー)にきちっと、おー、バトンタッチできまして、ええ、非常によかったと思っています。ある意味、気持ちがいいもんですね。トップランナーで、こう聖火を持ってですね、ええ、走るというのは――」
自分のことだけの自己中心主義に浸った言葉となっている。溢れんばかりの中国国旗もチベット国旗も目に入らなかったに違いない。
競泳選手・北島康介「コケたらどうしようかと、っていう、そういう心配が一番強かったですね。つまずいたら、格好悪いなあっていうか、僕は泳ぐだけだし、競技をして、みんなに見てもらうことが一番なんで、取り合えず、自分がやることはやって、で、見てくれる人が何か感じてもらえれば、いいんじゃないかなあと思います」
そう、自分のことだけを考えましょう。
元プロテニスプレーヤー・松岡修二「10年前、長野聖火リレーを走らせて貰ったんですが、今回は正直、様子は全く違っていたと思います。でも、やっぱりアスリートの思いというのはですね、そういうものは絶対変わらないと思いますし、僕は本当に、その平和とスポーツのよさ、オリンピックのよさを願いながら走らせて貰ったんですが――」
少しは変って、世界の人権問題も考えてもらいたいものだが、そんな思いはさらさらない。即物的解説しかできない元プロテニスプレーヤーといったところか。
有森裕子「普通でない中で行われたっていう中で、私は参加した一人として、複雑でした。平和を願っているアスリートたちが自分たちの競技を、あの、真剣に、あの、そのない最高のパフォーマンスで、私は子供たちや、人たちに伝えていく。それが大事な、できることの一つだと思います」
平和は誰でも願う。願わないのは武器商人ぐらいだろう。しかし現実は願っているとおりの平和を望むことができない多くの人々がいる。そこまで考えずに、平和を願う殆どの人間が「平和を願う」止まりで終わっている。やはり自分たちだけが平和でありさえすれば、結構毛だらけ、猫灰だらけなのだろう。
崔天凱中日中国大使(中国政府への抗議活動を問われて)「ごく少数の人が長野に来て、オリンピック精神に挑戦し、妨害したが、リレーを応援する多くの人たちの前では小さなことだ」
「中国政府への抗議活動は長野だけではありませんが、そのことについてはどうお考えですか、小さなことですか?」とやんわりと聞き返したらどうだろうか。