「政治結果責任論」からミャンマー・チベット問題を見る

2008-04-23 03:55:25 | Weblog

 4月19日(08年)土曜日の当ブログ記事≪善光寺聖火リレー辞退/チベット問題抗議は付け足しの体裁?≫に、善光寺の聖火リレー出発地点の辞退は同じ仏教関係者であることからの連帯を主な理由としたものではなく、日に100本前後の聖火リレー開催反対の電話がかかってきたことや世界各地で聖火リレーが中国のチベット問題対応に対する抗議の格好の標的に曝されている事態等から、同じ仏教関係者として何らかのアクションを起こさざるを得なくなった付け足しの体裁ではなかったか、そのことはチベット問題に連帯を申し出る仏教組織が善光寺以外に聞いていないことからも証拠立てることができると書いたが、自分自身は「聞いていな」くても、実際には何らかの抗議のアクションを起こしている仏教組織があるのではないかと、後まで気になった。

 次の日洋式トイレに腰掛けて静かに小便を流していると、かなり前に東本願寺か西本願寺がチベットと関わった記事に出くわした記憶が甦って、早速インターネットで「本願寺 チベット」で検索してみると、真宗大谷派(東本願寺)と浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)のHPが文言は違うものの、同じ題名で同じ趣旨の『声明』を出していた。真宗大谷派(東本願寺)の『声明』は「財団法人全日本仏教会」が「理事名」で発した『声明』をそのまま載せた形となっている。

 ≪チベット情勢についての声明≫/真宗大谷派(東本願寺)(2008.3.24更新)

 <2008年3月17日、財団法人全日本仏教会がチベット情勢についての声明を発表しました。

 チベット情勢についての声明

 日本の伝統仏教界唯一の連合体である財団法人全日本仏教会および世界仏教徒連盟日本センターを代表し、現今のチベット情勢について、以下の通り表明いたします。
 全日本仏教会は世界仏教徒連盟の唯一の日本センターとして、世界仏教徒連盟に加盟する各センターとは、その所属する国家・地域の政治形態の如何に関わりなく、同じ仏・法・僧の帰依三宝の立場から対等な関係を築いてきました。その立場は今後も変わることはありません。
 ラサ市はチベット仏教の聖地です。今回、そのラサ市をはじめ中国各地において僧侶・市民と治安部隊の衝突により多くの死傷者が出ている深刻な事態に対し、私たち日本の仏教徒は深く憂慮しています。関係者に対しては、暴力に訴えることなく、対話による問題解決の可能性を模索するよう強く求めます。
 なお、私たち日本の仏教徒は今後ともチベット情勢の推移を注視してまいります。
   2008年3月17日
財団法人全日本仏教会理事長   安原 晃
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 ≪チベット情勢についての声明≫/浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)

 チベット情勢についての声明

 この度、中国チベット自治区ラサにおいて、僧侶や市民による政府に向けての抗議行動に対して、武装警察隊が出動し、鎮圧にあたり、多数の死傷者を出しているとの報道に接しました。現在、さらに混乱は広がりを見せているとの報道もあり、私たち浄土真宗本願寺派は、いよいよ事態が悪化していくのではないかと深く憂慮しています。

 チベット仏教の聖地とされるラサ市におけるこうした事態は、同じ仏教徒として大変悲しいことであります。 お釈迦さまは、「すべての者は暴力におびえ、すべてのものは死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」(『ダンマパダ』)と説かれています。

 私たちは、宗祖親鸞聖人の「世のなか安穏なれ」との願いのもと、いのちの尊さにめざめ、それぞれのちがいを尊重し、ともにかがやくことのできる「御同朋の社会」をめざしています。

 暴力や武力による行動ではなく、あくまでもお互いの立場を尊重し合いながら、平和的な対話などによって、これらの深刻な事態の速やかな終結を望みます。

       2008(平成20)年3月18日
 
 浄土真宗本願寺派 総 長 不二川公勝
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 上記いずれかの『声明』が善光寺の態度に影響を与えたかどうかは分からない。但し「財団法人全日本仏教会」の加盟団体の一つである。目にしていないことはないはずである。『声明』を出したのが3月17日と18日。善光寺の辞退は1ヵ月後の4月18日。善光寺側が『声明』を受け取っていたと考えると、反応が遅すぎ、『声明』が態度決定の要因の一つとは考えにくくなる。

 真宗大谷派(東本願寺)の「暴力に訴えることなく」と、浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)の「暴力や武力による行動ではなく」はチベット人の抗議形態を批判しているのだろうか、中国当局が弾圧方法とした「武力」を批判しているのだろうか。それとも「平和的な対話」と言っているのだから、双方共に批判しているのだろうか。

 チベットの中国化が民意を問う選挙を手段とした民主主義を通したものではなく、上(中国共産党)からの強制であるなら、政治暴力と言えるもので、非物理的ではあったとしても、既に暴力の形を取っている以上、民主主義制度のない場所でチベット人の抗議が対抗上自己に可能な、世界に訴え、世界の注目を集めるにより有効な物理的な暴力の形を取ったとしても非難はできまい。

 またダライ・ラマとの対話を求めている欧米先進国や日本に対して中国当局がダライ・ラマが受け入れ不可能な条件を掲げている現状からすると、望むべくもない「平和的な対話」を求めていることとなる。

 もしもそういったことを承知で出した「声明」と言うことなら、最初から何もしないわけにはいかないから出した「声明」――声明のための「声明」と化す。「声明」を出すことを目的とした形式・儀式であり、そうである以上、「声明」は形式・儀式を以って完結することとなる。

 たが、当方の思い込みに過ぎない疑いもあるから、「声明」に添って何らかの物理的行動を起こしているかもしれないと思って、ニュース検索してみた。二つの記事に出会った。

 ≪浄土真宗本願寺派:福岡教区、チベット人の人権擁護など要請 /福岡≫(毎日jp/08年4月10日)
 <浄土真宗本願寺派福岡教区(416カ寺)は9日、中国駐福岡総領事館(中央区地行浜)を訪ね、中国政府が中国チベット自治区とチベット人に圧力をかけていることに対し、平和的解決を求める要請書を手渡した。
 要請書は武樹民・福岡総領事にあて、武力鎮圧の中止▽対話による解決▽チベット人の人権擁護--を求めている。また書面では、満州事変(1931年)の際に中国仏教会から日本仏教者へ「侵略戦争停止」を呼びかける書簡が送られた事実に触れ、「当時の日本仏教者はこの要請に対し何も行動せず、侵略戦争を後押しした。このことを深く反省し、非暴力の立場からチベット人の人権を侵害しないよう要請する」と述べている。
 総領事館側は取材に対し「要請書の内容が基にしている(僧侶の拘束や実弾発砲といった)報道は事実ではない」とコメントした。〔福岡都市圏版〕>・・・・・
もう一つは京都新聞だが、閲覧可能期限を過ぎていて、全文を読むことはできなかった。二つあったインデックスの解説だけを紹介すると、

 ≪ラサから3人避難 チベット滞在の大谷大生≫

 <京都新聞 - 2008年3月24日
大谷大(京都市北区)は24日、大規模暴動が起きた中国チベット自治区ラサに滞在していた学生3人が同日までに自治区から避難したと発表した。学生にけがなどはなく、2人は日本に帰国、1人は安全な場所に滞在しているという。 大谷大によると、ラサにいたのは男子・・・・>と<・・・日までに自治区を出て、女子学生2人が23日に帰国した。学生たちは疲れており、当時の状況を聴ける状況ではないという。 大谷大は、真宗大谷派(本山・東本願寺)の宗門校。インド・チベット仏教の研究にも力を入れており、「チベット仏教」などの講座を開設している。>・・・・・

 京都新聞の記事は現地でチベット仏教を勉強していたが、騒動を逃れてチベットをを脱出したといった内容で、抗議活動を伝えるものではなそうだ。

 「浄土真宗本願寺派福岡教区」は中国駐福岡総領事館にチベット問題に関して「平和的解決を求める要請書を手渡」すアクションを起こしているものの、要請の形を取らしめた「事実」は存在しないという相手の態度を崩すことができければ、「要請」は要請の範囲を出ず、無力なまま形式・儀式で終わる。

 確かに「要請書」の手渡しはHPに「声明」を出すだけのことから一歩踏み出してはいる。だが、それらが形式・儀式で完結させないために何らかの工夫があるべきであろう。そうでなければ、「声明」は出すだけ、「要請書」は手渡すだけで了とする自己目的化の道へと進みかねない。実際に多くの声明、要望(書)の類が自己目的化しているのを見ている。

 東本願寺や西本願寺単独でもそれ相応の組織と力を備えているはずだし、それを超えて「財団法人全日本仏教会」ということなら、加盟団体を総合した組織と力は大きなものがあるはずだが、それと比べものにならない組織・権力を備えていながら、日本政府の「声明」、「要望(書)」、「要請・要求」、あるいは「親書」の類がさしたるインパクトを与えずに自己目的化の道を辿ったまま放置状態となっている。

 例えば07年9月27日にミャンマーで市民の反政府デモ取材中の日本人フリーカメラマン長井健司氏(50)がミャンマー当局のデモ治安部隊員に銃撃を受け、殺害された事件で主たる政府構成員の福田首相も高村外相も真相究明と真相究明に欠かせない所持していて所在知れずとなったビデオカメラの返還、そしてミャンマーの人権状況の改善を「要請」していながら、何一つ目的を果たせないでいる。

 昨07年11月にシンガポールで開催された東アジア首脳会談で福田首相は同じく出席していたミャンマー首相と会談し、ミャンマーの民主化と長井健司氏の遺留品返還に対する誠実な対応を直接要求しているにも関わらずである。

 高村外相にしても東アジア首脳会談を機にミャンマー外相と会談して同じ要求を直接伝えている。

 目的を果たせない「会談」に何の意味があるだろうか。意味をつくり出せずに、会談したことが目的だったいうことになりかねない。

 また福田首相は訪中している自民党の伊吹・公明党の北側両幹事長を介して胡錦涛主席にチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ十四世との対話を手段とした平和解決を促す福田親書を手渡しているが、中国側のチベット問題は内政問題だとの姿勢を崩すに至っていない。結果として何の力も持たず、親書を手渡しただけという形式・儀式で完結させることとなっている。相手もだた受け取っただけで終わらせているのだろう。

 多くの政治家が政治は結果責任だという。我が日本の国家主義者首相であった安倍前首相が特に十八番としていた言葉だが、自分の口から「政治は結果責任だ」と言いながら、その言葉を形式・儀式で終わらせ、言葉だけのものに貶めて何ら省みることはなかった。口で言うだけを目的とした言葉であっては、国民の負託を受けた意味を成さなくなる。「結果責任」を果たしてこそ、国民の負託との釣り合いが取れる。

 「政治結果責任論」から言うと、「声明」、「要望(書)」、「要請・要求」「親書」の類がそれぞれの内容を具体化させる結果を得てこそ、責任を果たせたと言える。逆説するなら、具体化させる責任を負う。「政治結果責任」イコール「具体化責任」と言える。

 となると、日本人フリーカメラマン長井健司氏殺害に関わって福田首相や高村外相が遺留品返還や真相究明、民主化を一旦「要望」、「要請」した以上、具体化させる責任――「具体化責任」を負う。相手の頑強な抵抗、もしくは無視に出遭って具体化が進まないときは、形式・儀式で終わらせずに具体化の責任を果たすために具体化を見るまで「要望」、「要請」を手を変え品を変え継続すべきであろう。手段の一つに援助の停止・延期も入る。

 福田首相がチベット問題の解決に向けてダライ・ラマと対話を求める親書を胡錦涛主席に手渡した問題でも、親書でそう要請した時点で具体化責任を負ったのであり、そうである以上、具体化責任(=結果責任)を果たさなければならない。

 胡錦涛主席が5月6日に訪日を予定してしているとのことだが、それを機会にチベット問題の平和的解決を求めるだろうが、そうしないと格好がつかないからただそうするのではなく、形式・儀式の類に貶めないために5月6日まで待たずにあらゆるチャンネルを使って機会あるごとにダライ・ラマとの対話を求める一旦始めたアクションを「声明」、「要望(書)」、「要請」「親書」等の形式で具体化を見るまで具体化責任を果たす努力を積み重ねるべきだろう。具体化こそが結果責任へとつながっていく。

 また、閣僚の退任時、在任中に各自が掲げ、推し進めた政策・活動に関する成果を総括・検証し、それぞれがどれ程の結果を見たか、どれ程の具体化責任を果たしたか、結果責任を問うべきである。そうしなければ単に大臣の椅子に座りました、官僚の操り人形となってすべて乗り越えてきましたで職を全うすることができることとなり、口にした言葉は全部が全部単に口にしただけ、自分の言葉として発したわけではなく、儀式・形式の類でございましたということになりかねない。

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