ジャーナリストでありながら、道理に暗い逆説性
08年4月10日の『朝日』朝刊、「私の視点」にジャーナリストを名乗っている田原総一郎の記事が掲載されている。≪日中メディア 国益めぐり激論 見えた変化≫
何様のジャーナリストだとの思い込みが強くて自分を売ることに忙しいから、勢い表現が大袈裟になる。題名を読んだだけで、「激論」も「見えた変化」も話し半分以下に受け止めておいた方が無難だとの予防線が事前に働いた(全文を箇条書きに引用)。
〈1〉3月24日、25日(08年)の2日間、北京で日中ジャーナリスト交流会議が開かれた。ギョーザ中毒事件、チベット騒乱、北京五輪・・・・。新聞、テレビなど日本側7人、中国側8人のジャーナリストが10時間にわたって非公開の激論を交わした。議論がかみ合わないまま終わった昨年11月の東京の1回目とうって変わった展開となった。熱いやりとりを紹介したい。
〈2〉両者が激しく対立したのはチベット騒乱の問題だ。中国側の一人は「警官隊が市民を弾圧する現場としてEU(欧州連合)や米国のメディアが報じた映像はチベット以外で撮った偽装だ」と映像を示して訴えた。それに対して私たちは「外国メディアをチベットから閉め出しているから、怪しい映像が出回る。取材させるべきだ」と強く主張した。それに応えたとは言い切れないだろうが、期間中、中国政府は外国メディアにチベット取材を認めている。
〈3〉 24日には、国際NGOの「国境なき記者団」のメンバーがチベットでの騒乱鎮圧に抗議して、ギリシャで行われた聖火の採火式に侵入した。だが、中国のテレビはその場面をはずして放映し、中国で流れるCNNのニュースもその場面になると突然、画面が暗転した。
そのことは2日目の討議でも取り上げられた。日本側が批判すると、中国側の一人が決然とした口調で「放送せず、事実を隠すほうがはるかに中国のデメリットが大きい。本当に愚劣な操作だ」と言い切った。日本側の参加者は、その勇気に感心すると同時に、改革・開放が進んでいることを改めて認識した。
〈4〉最も対立したのは、報道のあり方についてだった。中国側は「報道の究極の目的は国益を高めることである」と主張。日本側は「報道とは、例えば国益を損ねることになっても事実を追及して読者(視聴者)に提供することだ」と反論した。
戦前、日本政府は戦争を「国益を高めるためだ」とうたい上げ、国民に多大な被害をもたらした。いま国民の多くは、国益は必ずしも国民益にならないと身にしみて知っている。中国側が「国益とはすなわち国民益」ととらえたのは、独立以後、国家に裏切られていないという思いが強いからだろう。
〈5〉日本側は毛沢東の文化大革命を例に挙げ、「政府がうたった国益が国民に深刻な被害を与えたではないか」と追及した。中国側は「毛沢東の全体を10とすると文化大革命失敗の責任は3で、中国共産党を創設して国家を独立させた功績が7ある」と応じた。これは改革・開放を進めた小平が文化大革命を批判したときに示した比率だ。
〈6〉中国側は本音を漏らすこともあれば建前で押し通すこともあったが、討論は両国の参加者が「こんな議論は始めて」と口をそろえるほど充実したものになった。真剣に向き合ったことで、「日中友好の未来をで考える」という交流会議の趣旨にさらに近づいたと言える。そして、中国メディアはいま本当の開放に向けた大きな変革期にあるのだと、実感した。
〈7〉背景には、北京五輪を前に世界からの孤立を恐れる中国政府の思惑もあるだろう。滞在中、日本の報道陣としては就任後初めて習近平(シーチンピン)国家副主席と会見できたのも、その表れだろう。
〈8〉では、五輪が終われば流れは元に戻るのか。そうではない。一度開かれた社会は後戻りすることはない。そこに私は期待する。そう思える訪中だった。(引用終わり)・・・・・・・・・
〈1〉昨年11月の前回会議が議論がかみ合わないまま終わったというのは日中間にこれといった懸案事項が横たわっていなかったからではないのか。靖国参拝を強行してきた小泉時代、さらにその後継であった小泉以上に戦前型の国家主義者であり、内側に靖国参拝衝動を強く抱えた安倍晋三時代と違って首相在任中は靖国参拝をしないと明言している福田政権となり、外交上のこれといったトラブルは発生していなかった。
そのこともあってのことだろう、前回会議1ヶ月後の12月28日の福田訪中は中国側から熱烈歓迎を受けている。だが、ここに来て中国製品の安全性の問題以上にジャーナリズムなら取り上げなければならない基本的人権に関わるチベット問題が騒乱を契機に公の形を取った。
そういった経緯を考えに入れておけば、「昨年11月の東京の1回目とうって変わった展開となった」は当然の推移で、「うって変ら」ないとしたらどうにかしている。ただそれだけのことに過ぎないことを自分を何様だと売り込みたい意識があるから、さも大袈裟に「うって変わった」と言っているに過ぎない。
〈2〉中国側の「EU(欧州連合)や米国のメディアが報じた映像はチベット以外で撮った偽装だ」とする主張に対して日本側が「外国メディアをチベットから閉め出しているから、怪しい映像が出回る。取材させるべきだ」と反論したと言うが、この反論は中国側の「映像は偽装だ」とする主張を「怪しい映像」とすることで認めることになる。そのことに気づいていない単細胞な反応となっている。中国当局に都合の悪い映像だから、「偽装」だと転化する必要が生じた「偽装」宣伝ということもある。こういったことは人権抑圧国家がよく使う情報操作であろう。
市民が撮った映像が欧米メディアに流れた可能性も考えなければならない。考えもせずに短絡的に「怪しい映像」に貶めることができるジャーナリストの才能は素晴らしい。素直過ぎるといえば素直過ぎることになるが、素直過ぎの資質はジャーナリストの資質と相反する関係にあるのではないのか。それとも何様になると、単純なまでに素直になるのだろうか。
〈3〉中国当局がギリシャで行われた聖火採火式の混乱のテレビ報道の都合の悪い場面を暗転させて国民に見せない情報操作を行った。日本側が批判すると、「放送せず、事実を隠すほうがはるかに中国のデメリットが大きい。本当に愚劣な操作だ」と中国当局の対応を決然と批判した。その態度に「日本側の参加者は、その勇気に感心すると同時に、改革・開放が進んでいることを改めて認識した。」
大いに結構な中国に於ける「改革・開放」の大進展と言える。これを以って安請け合いというのであろう。
だがである。相手の批判に同調して自らも批判することで全部が言論抑圧に組しているわけではないことを示して自分たちの評価を高める。あるいはそのことが批判勢力の存在を証明することとなって、結果として中国当局の言論抑圧を相殺する。そういった目的を持ったわざとなゼスチュアと言うこともある。
例えそうでなくても、「愚劣な操作」だとする批判が中国当局に効き目のない単なる言葉なら意味はない。
中国の人権弾圧、共産党・政府高官の腐敗などを批判する文章をネット上などで発表してきた作家の呂耿松氏が国家政権転覆扇動罪で懲役4年の実刑判決を受けたのは今年08年2月初め。同じ中国人人権活動家、胡佳氏は昨年12月に拘束され、逮捕通知が家族に届いたのは08年の今年の1月に入ってから。そして4月3日に懲役3年6月の判決を受けている。
北京で日中ジャーナリスト交流会議が開催されたのは3月24日、25日(08年)の2日間。田原総一郎が上記記事を掲載したのが08年4月10日。優秀なジャーナリストでございますという態度を取る以上、作家の呂耿松氏の国家政権転覆扇動罪での懲役4年の実刑判決の事実、胡佳氏の懲役3年6月の実刑判決の事実を頭に入れて会議の場に臨んでいたはずである。当然「愚劣な操作」が中国当局にはカエルのツラに小便、柳に風の痛くも痒くもない犬の遠吠えで終わっている状況を把握しなければならない。把握していたなら、「改革・開放が進んでいることを改めて認識した。」などと安請け合いは逆立ちしたってできないだろう。
〈4〉自分を何様のジャーナリストだと思っている田原総一郎は戦前の国家と国民の関係を例に挙げて「報道とは国益を損ねることになっても事実を追及して読者(視聴者)に提供することだ」と言い、必ずしも「国民益」と一致しない「国益」に奉仕するために存在するのではないと言う。
だが、戦前の日本の国家権力に迎合・阿諛追従して国家権力の言うがままの御用メディアと化し、協力して国民を戦争に駆り立てたのは戦前の新聞やラジオである。いわばジャーナーリズムなる存在自体が絶対善の姿を取るとは限らない。それは戦前も現在も変りはないだろう。ジャーナリズムの世界に住む人間として常にそのことを自戒していなければならないはずだが、何様の田原総一郎にはそんな思いはないらしい。
田原は「中国側が「国益とはすなわち国民益」ととらえたのは、独立以後、国家に裏切られていないという思いが強いからだろう。」と言っているが、人間が異なる利害の生きものであり、どの利害を代弁しているか、その立ち位置によって姿勢・主張を異にすることを認識していないらしい。
国家の側に立っている人間はその国家が唱える「国益」がすべとなり、当然の経緯としてその「国益」は「国民益」とイコールを成す。例えどのように国民に犠牲を強いようと、その犠牲自体が「国益」と見做される。戦前の軍部・政府が国民を戦争に駆り立て、お国のため・天皇陛下のために命を捧げた名誉の戦死も国民にとっては犠牲であっても、国家にとっては天皇や国への奉仕、「国益」であった。
中国人ジャーナリストの場合で言えば、中国政府の立場に立ち中国政府と利害を一致させているジャーナリスト、いわば御用ジャーナリストだから、「国家に裏切られていないという思い」を持てるのだろう。民主主義と自由を求める人間、勢力にとっては常に国家権力に裏切られているという思いを持たされているはずである。中国人でなくても、中国人人権活動家の呂耿松氏や胡佳氏が逮捕されて実刑判決を受けたという報道に接したりたり、チベット人の抗議デモに対して武力弾圧を見せられると、中国の民主度に改めて裏切られた思いをする人間が多いはずである。「改革・開放が進んでいることを改めて認識した」と把えるのは何様ジャーナリスト田原総一郎ぐらいのものだろう。
〈5〉日本側が毛沢東の文化大革命を例に挙げ、「政府がうたった国益が国民に深刻な被害を与えたではないか」と追及すると、中国側は「毛沢東の全体を10とすると文化大革命失敗の責任は3で、中国共産党を創設して国家を独立させた功績が7ある」と応じる。「改革・開放を進めた小平が文化大革命を批判したときに示した比率だ」という。
ここには国家の内容を問い、その限界を問う姿勢がない。人権の自由を認める民主主義体制になければ、経済大国化しても、政治文化的には国家として発展途上にあると主張すべきではなかったろうか。例え「文化大革命失敗の責任は3」だとしても、基本的人権を一切認めなかった文化大革命をそれ以降の中国はさしたる教訓としていないと。教訓とすることができなかったから、今以て人権抑圧を国家の政策としていると批判すべきだったろう。自分を売り込むことにばかりエネルギーを注いでいるから、そんな配慮は起きなかったのか。
〈6〉田原一郎は有意義な会議だったと自画自賛する。「『日中友好の未来を等身大で考える』という交流会議の趣旨にさらに近づいた」と自信たっぷりである。そして「中国メディアはいま本当の開放に向けた大きな変革期にあるのだと、実感した」と言っている。
果して中国の「改革・開放」は中国人ジャーナリストが握っているのだろうか。お釈迦様の手のひらの孫悟空が手のひらの外に逃れることができなかったように、彼らの活動も国家権力の意志の内側で活動を許されているに過ぎないのではないのか。中国当局のミャンマーやチベットに対する態度がそのことを何よりも証明しているはずである。国家権力の維持・自己保身の利害と一致する限りに於いて、その方向に向けた自由な言論は許すだろうが、一致しない場合は、抑える。その繰返しではなかっただろうか。
田原総一郎は会議を有意義だった、成功したものだとすることで、そこに自分の力の関与をそれとなく示している。自分が何様のジャーナリストだという思いを満足させることができるからだ。
だが、会議だけが成功したとしても、中国の現状に連動させることができない議論で終わったなら、会議のための会議と化す。元々独りよがり、独善が強い田原である。自分を前に出すことばかり考えているから、会議を開いて議論しただけでたいしたことを成したと思い込んでしまったのだろう。
確か去年のことだったと思うが、「サンデープロジェクト」の番組絡みで北朝鮮を訪問して「金(キム)」何とかという外務省関係の要人に拉致問題に関する単独インタビューを行ったことがある。そのとき、「金さんに誠実さを感じた。自分では決められないから、金総書記に会って話すと確約してくれた。拉致問題は必ず進展する」といったことを言って、安請け合いしていたが、あれ以降何ら進展していない。金正日に拉致解決と日本からの経済援助を交換できない事情があることに気づかない見事な客観性の持主なのである。それでいてジャーナリストでございますを名乗っている。
喉から手が出る程に欲しい日本からの経済援助でありながら、拉致解決と交換できない金正日の事情とは拉致首謀者が金正日に他ならないからだろう。
〈7〉田原は中国メディアが「開放に向けた大きな変革期にある」「背景には、北京五輪を前に世界からの孤立を恐れる中国政府の思惑もある」としている。だが、経済のグローバル化に中国も大きく、そして深く関わっている現在、経済面からは世界は中国を孤立させることはできないとする「中国政府の思惑もある」ことも計算に入れなければならない。そういった計算に立って中国は外交を進めている。
そのことを計算に入れると「滞在中、日本の報道陣としては就任後初めて習近平(シーチンピン)国家副主席と会見できた」ことが「北京五輪を前に世界からの孤立を恐れる中国政府の思惑」からだとは必ずしも言えなくなる。会わないことよりも会うメリットは人権だ、自由だ、平等たとうるさい国のジャーナーリストたちに会うことで人権だ、自由だ、平等だに拒絶反応を持っていない、寛容だというゼスチャーを示すことができる。いわば外交辞令上の会見の可能性もある。喜ばせて、なにがしかの恩を売っておこうという計算もなきにしも非ずだろう。
中には就任後初めての外国要人と会見したことを勲章とするお目出度いジャーナリストもいるだろうから、そういったジャーナリストには外交辞令は大いなる効き目を持つ。
〈8〉最後に日本の優秀なるジャーナリスト田原総一郎は「では、五輪が終われば流れは元に戻るのか。そうではない。一度開かれた社会は後戻りすることはない。そこに私は期待する。そう思える訪中だった。」と自画自賛混じりの期待を示しているが、「一度開かれた社会は後戻りすることはない」。どこにそんな保証があるのだろうか。
日本では今の日本を戦前の天皇制時代に後戻りさせたくて常に隙を狙っている人間がゾロゾロいる。ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」を反日だと批判し、上映禁止に持っていこうとしている連中もその類だろう。そういった動きに同調するジャーナリストも存在する。田原総一郎も阿諛追従の性格傾向があるから、戦前の日本のマスコミのようにいつ国家権力に追従しない保証はない。
中国にしたって同じである。危うい綱渡りをしながら、共産党一党独裁体制を国家体制としている。必要と見たなら、後戻りだってするだろう。