07年6月6日の『朝日』朝刊に次のような記事が載っている。
≪「慰安婦なんか問題にならない」首相ブレーン・岡崎氏≫
<安倍首相の外交ブレーンの岡崎久彦・元駐タイ大使は5日、東京都内で講演し、「20世紀は中国では何千万殺している。(旧ソ連の)スターリンの粛清も何百万、米国も原爆やドレスデン(空爆)をやっている。日本の慰安婦なんか問題にならない」と語った。首相が4月の訪米時に「20世紀は人権があらゆる地域で侵害された」として慰安婦問題での日本の責任に言及した背景を説明したものだ。
「20世紀は人権侵害の時代」
岡崎氏は、首相が訪米前に米メディアのインタビューを受けた後、「この文言(=「20世紀は人権侵害の時代」)を全部使いなさい」と助言したことを伝えた。さらに、「供給が十分な場合に強制は必要ない。どのくらいの報酬で供給が十分だったという資料がそろっているといいが、カネをためて自分の(韓国の売春施設)を開いたやつが報告するはずがない」と、慰安婦の強制性の調査に疑問を示した。>――
文化大革命、天安門事件で中国の国家権力が戦前の日本軍を上回る虐殺を行ったとしても、それは中国自身の問題で、日本自身の問題である日本の国家権力が犯した侵略戦争に於ける数々の戦争犯罪が免責を受けることができるわけではない。このことは勿論のこと、スターリンの粛清に於いても同じことが言える。
広島・長崎の原爆投下と東京及びドイツ・ドレスデンに対する空爆は日本の侵略戦争略行為と同様に相手国民が被害者として関わっているが、それぞれの事実を相対化して日本の戦争犯罪の事実を「問題にならない」と差引きゼロとすることができるわけではなく、それぞれの事実はそれぞれの事実として残るし、それぞれの「問題」として残さなければならない。
それは連合軍のドイツのドレスデンに対する空爆がどれ程に残酷なものであったとしても、だからと言ってナチスドイツのユダヤ人に対する虐殺の事実と罪を相殺できないのと同じである。それとも、「米国も原爆やドレスデン(空爆)をやっている。ナチスのユダヤ人虐殺なんか問題にならない」とすることができると、安倍首相の偉大なブレーンである岡崎久彦は己の非客観性にふさわしく考えているのだろうか。
これは決して比較の問題ではない。それをスターリンの粛清や米国の原爆、ドレスデン空爆、中国の文革や天安門事件等々を持ち出すことで他との比較の問題にすり替え、慰安婦問題や南京虐殺、強制連行や強制労働を相殺しようとしている。
大体が米国の無差別空爆や原爆投下による一般市民に向けた殺戮行為に対する日本の比較対照事項に南京虐殺を持ち出すなら、それぞれの犯罪行為性に関する共通点は比較することはできるが、犯罪性の異なる日本の国家権力及び軍権力が行わさせしめた人権抑圧行為である「慰安婦」問題を持ち出す矛盾自体が、中国やソ連の国家権力による自国民に向けた虐殺行為と比較するならまだしも、自己正当化のためのご都合主義の相対化を示していないだろうか。
安倍首相の偉大なブレーンである岡崎某の「この文言(=「20世紀は人権侵害の時代」)を全部使いなさい」との「助言」を受け入れた安倍晋三は自らも応じる部分があったから助言に従ったのか、便利な説明となるからと受け入れたのか、そのどちらかだろう。例え相手がブレーンであっても、すべての考えが合い通じるわけではないだろうから。
後者なら、ご都合主義の姿を露呈する。そのご都合主義は規範意識のない人間であることの証明でもあろう。このことは自らが政策として目指している「規律を知る凛とした国」云々なる文言がメッキでしかないことを曝し、自らの規律とは無縁の凛としない姿を隠すための奇麗事のインチキを語っているに過ぎないことを暴露する。
前者の「20世紀は人権があらゆる地域で侵害された」に応じる部分があって慰安婦問題を他の人権侵害問題との比較で免罪することに同調したなら、比較対照の方法を使わなければ免罪できないことの証明でしかなく、政治家にあるまじき合理的客観性を欠如させた姿を曝すもので、一国の指導者としての資格を失う。また、それぞれの事実はそれぞれの事実として把えるべきを比較対照の相対化によって同等化すること自体が客観性を破るご都合主義を犯すもので、前者・後者に関係なしに安倍晋三なる政治家がご都合主義者の塊であることを示している。
偉大な首相外交ブレーンである岡崎某のご都合主義の点はまだまだ指摘できる。「供給が十分な場合に強制は必要ない。どのくらいの報酬で供給が十分だったという資料がそろっているといいが、カネをためて自分のキーセンハウス(韓国の売春施設)を開いたやつが報告するはずがない」としているが、「供給が十分な場合に強制は必要ない」は一面的真理に過ぎない。高い報酬と提示上の意を尽くした労働待遇に目が眩んで「供給」に自発的に応じたとしても、実際に労働についた後に「強制」もあり得るのであって、戦前の日本軍は「強制」を可能とするに十分な絶対権力を常に備えていた。それを無視するのはご都合主義の論理展開でしかないだろう。
岡崎某を含めた慰安婦の軍関与否定派は〝強制性〟を示す文書がないから、官憲による強制的な慰安婦狩りはなかったとする、〝文書〟の存在有無と軍関与の有無を関連付ける常套手段を専門としていながら、その一方で「どのくらいの報酬で供給が十分だったという資料がそろっているといいが」と、「資料」(文書)なる証拠が存在しないにも関わらず、「供給が十分」だっとたする立証を行う自分に都合のいい冤罪でしかないご都合主義をも発揮している。
ブレーン岡崎某のご都合主義はさらに続く。「カネをためて自分のキーセンハウス(韓国の売春施設)を開いたやつが報告するはずがない」は、すべての従軍慰安婦をその類だとする合理的判断を欠いたご都合主義からの蔑視を示す考えであろう。
さらに女性国際戦犯法廷や米下院外交委員会、その他での元従軍慰安婦の証言自体を文書等の物的証拠や知人・家族等の裏付け証言もなく、本人が言っているに過ぎないと否定していながら、「カネをためて自分のキーセンハウス(韓国の売春施設)を開いたやつ」の「報告」があった場合、物的証拠となる「資料がそろってい」なくても、また知人・家族等の裏付け証言もなく、本人が言っているに過ぎない事柄であっても、自分たちに都合がいい「報告」は「報告」のみで信用しようとする公平を欠いたご都合主義の姿勢を見せている。
要するにご都合主義に支配された<安倍首相の外交ブレーンの岡崎久彦・元駐タイ大使>の「講演」だったわけである。安倍首相が岡崎某を偉大なお抱え外交ブレーンとしているのは双方が自らの人格としているご都合主義で響き合っているからではないだろうか。そうとしか考えられない。