花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

本*幸せながん患者 * 自分の時間を生きる勇気に感動しました。

2017-01-22 14:31:48 | Weblog

医療の世界の歴史に興味を持ったのは、
ヨーロッパの病院を見学しながら、
病院の主宰するゼミナールに参加してからでした。

日本の病院の発祥と大きく違ったのは、
明治生まれの父が、
慈恵会医科大学で、
イギリス医学を取得した外科医であった事。

「パレ」が、

外科医は床屋のような時代から、
当時の外科医が瀉血などで、治療をしていた時代から

学問的に発展し、

ついに
医学の域まで、外科を発展させたと、
子供時代に話してくれました。

医師を舞台裏から観て育った私には

世間の風評は、
自分が病気になったとき、
初めて、医師の真摯な心に触れて、

病気を

自分と一緒に戦ってくれてる感謝が、
素直にかんじとれて、
医師を評価できると思うのですよね。

従兄弟の父上は、
内科医師で、ドイツ医学を学び
昭和の20年年代に、
遊びに行ったとき、

日本の病院では見たことのない

「レントゲン」の

大きな機械を目にしました。

その後、
従妹は内科医になり、
某大学の医局長をしていました。

本当は医者になりたくなかったそうです。

慶応大学のドイツ文学を専攻していたのが
親にばれて、勘当寸前で、我が家に来られ、
母が、彼のお母さんとは親戚で、親友だったことから、

「病院の「跡取り」と思わず、

医学の宇宙探検と考えて、
医学部転校して、
手塚治虫さんのように、森鴎外のように、

ゲーテを原書で読めばよいでしょう!

医師になってから、
もっと多くの事が出来るでしょう」

と説得して
彼は医学部に入学しなおしました。

従兄弟の兄は、医学の歴史にすこぶる詳しくて
エーザイから出版されている翻訳本などの
原書を読んでいました。

之は、私がウエルカム医師博物館の地下で手に入れた
貴重な一冊でした。


ウェルカム医療博物館に見学に行ったとき、
目からうろこの落ちる思いでした。

こんなヨーロッパのど真ん中に、

東洋の、漢方学のすべてのジャンルの歴史遺産や
東洋の、貴重な医療に使われた器具などが保存されていました。
勿論、最先端の医療機械であったと思われる

CTなどの展示もありました。

馬の医療分野の歴史的な貴重な手術器具なども、
わかりやすく展示してあり、
此処には、
政治的な権力のせめぎあいも、つぶしあいもなく、

医学に造詣の深くない経済観念のみ優れた政治家が
医師のビジョンをつぶしてしまうような、
短期の結論を出す、心の貧乏な人が、
居なかったということでしょうか?

500年単位で、古くからの病院が残っていたのでした。

父の卒業した慈恵医科大学の創立者の
高木先生が、留学されていた病院にも行きました。

医療関係者にとって、
時代とともに発展してきた医療が、素直に受け止められました。

又、船をそのまま実験室にと脚気のヴィタミン欠損の結果が出された
日本の医学の黎明期の話も交されました。

その後、この医歯薬医学の歴史の旅を企画された、
東京大学の教授をされていた先生が
留学されていたフランスに

飛行機で飛び、

パリ大学の中を案内していただきました。
ノーベル賞をおとりになった教授の教室が
そのまま歴史展示となって保存されていました。

引率の先生が、ニコニコしながら、額から、
ノーベル賞を。取り出して触らせてくれました。
何という、、、ラッキー!

いつか医薬歴史学会で、発表できたらと、
パリ大学の出版の本ももらってきました。

北海道では、日大出身の私は、
多くの資料を発表するチャンスを見いだせず、
そのうちに、、と思っているうちに
72歳になりました。
タイムアップ!!!

薬剤師会の会報に、連載記事を載せていただきましたが
当時は、北海道には
医薬史の会合が、ほとんど知られてないころでした、
ヨーロッパには、実に多くの歴史的な実績の有った教室が
そのまま、保存されて、
新たな時代に放たれた矢のような学生の夢を刺激していたことか!

パリ大学の付属なのでしょうか?
それとも、一部なのでしょうか?
今日の医学レベルまで発展するプロセスを
一目でわかるミュージアムがありました。

勿論フランス語のガイドブックには、
歴史に沿って、残されている器具や文献、写真。
当時の雑誌の記事や、
使われていた施設の縮図や、

初めての解剖学の授業の描写図。

戦場の野戦病院に、
万策尽きたぼろぼろの白衣の医師のそばに、
イエス様が現れている絵、、

忠実に、歴史を残し、
今日の病院に至るまでの
プロセスを保存している病院にも
先人達の心がそのまま存在して
目から鱗の想いでした。

ペニシリンを発見した、
セントメリーズホスピタルには、
入り口に、
アオカビのシャーレが展示されて、
エリザベス女王のお写真と、栄誉をたたえるコーナーがあり、

ペニシリン発見のタブレットが掲げてありました。
この病院の地下に
、巨大なスペースのある薬局があり
隅々まで写真記録を許可してくれました。

当時、すぐにでも、、、どこかに発表したかったのですが、、
チャンスが見出せませんでした。

実に、荘厳な先代の努力を
歴史としてたどれるように、展示していました。

又、創立550年になる古い石積みの病院は、
考えさせられる歴史に守られて

病院の発足が、「教会」だったことが見て取れました。

食事にも困る貧困の病人が、
頼るところは、教会であったことが見て取れました。

時代を超えて、
奉仕する、
マリアテレサのような修道女の姿が、
幻となって、

目の前に見えるようでした。
後々になって、
教会の敷地に病院が隣接して建立されたのでしょうか?

古びた教会と病院が、向かい合っていました。

ゼミに出席すると、建立当時からの資料が、
そのままスライドになって、紹介されました。

**********************

たとえば外科医の主人のアメリカ横断研修旅行のフィルムからですが、

******************++++

アメリカをめぐり、
ロチエスターをめぐり、「ボストン小児病院まで」、
研修旅行に参加した
外科医の夫のフィルムを
現像して整理し
アルバムにしながら、

アメリカの病院では、
歴代の病院長の写真がズラーと展示されており、

今は使われなくなった
「人工弁」なども保存され、
歴史の功労者の足跡を

現代から、未来に放つ矢の方向付けの
役に立ちそうな、足跡を保存し
時代を忠実に保存して
アメリカンドリームに一役買っている世代継承への心の遺産。

生きた医歯薬医療器具の歴史館に、
ごくごく、
自然に出来上がっている写真でした。

日本では、
昭和30年頃、派閥を超えたビジョンに萌えた
「国立がんセンター」が
築地に、
小さなビルから発足しました。

市川平三郎先生が、
「二重造影」の立体レントゲン写真を発表されてからは
父の診療所にも、鉛の部屋が増設され、
回転するレントゲンが入りました。


今までのかすんだ
白い陰影の中で、
がんを見つけなくても、
立体写真のように、
胃や腸や、内臓のがんがはっきり診断できる
秀逸の発展だと
外科医の父も、内科胃の兄も、興奮していました。

手遅れで見つかる患者さんの数は減り、
手術後の生存率は長寿まで期待できました。

その頃、
千葉大学の外科の医局に居た
「幸せながん患者」の著者は、

市川先生に出逢い、

外科の手おくれな手術を減らしたいという、、、
大きなヴィジョンの為に
市川先生の御誘いのまま、
一年半の無給のスタッフとして、
がんセンターに
夢を求めて行った事が、

「がんはどこまで治せるか」という

同じ著者の単行本に記述されていたのを読みました。

戦後のどさくさの東京は、
国も予算が無かったのか、

一人前の医師になっているにもかかわらず、

無給の妻帯者の医師が
夢に向かって貧困の中から、
ハスの花が開花するように

日本のCT開発の「コロンブスの卵」をやってのけました。

「がん回廊の朝」という柳田邦夫さんの単行本に出ていました。

師と仰いだ市川先生は
国立がんセンターの病院長になられてからも
都内の小学校で、児童に医学の夢を優しく、児童の目線で
授業されていたのをTVで拝見し、

日本の未来の医師達に光のようなエネルギーを
感じさせていました。

この本の「幸せながん患者」という意味は、

生涯を、
患者さんと一緒にがんと闘ってきた著者だから、

言えるし、書けるし、患者さんの心や看護師さんの心に
そしてまた。心ある医師の先生に

感動した体験を、うけとってもらえるのだな~~~~と!!!

寄り添う心のなし得た題目と思いました

ハーバード大学に留学しているときも、
頭の中は、
がんの早期発見の事でいっぱいだったのでしょう!

人生を

「がん患者さんと一緒にがんと闘う人生」に、

絞り込んで生きていたから、
周りは見えなくなっていたのでしょうね。

今回、私も、読者の一人として、
「幸せながん患者」という、この本のエッセンスの

どんな時にも、
何を優先させるかを大切に考えれるように

考え方で、
残りの人生が変わるだろうと思える。

「修験者がひと山越えた修行の果てに、諦観できる人の命」のごとく

自分の「命」でありながら、
がん細胞に占拠されて、
がんのままに苦しんで生きるより

**************************

自分の残された時間を
、自分の優先順位に沿って、
やりたいことをやってのける

*****************************

がんになったがゆえに、
「巨峰の登頂成功した患者さん」の、努力の結晶の文。

自分の時間を過ごす心への道しるべになるような、

実話が盛り込まれ、

72歳の私は、
残された時間は、

がんであろうと無かろうと、

人間は一度は死ぬ運命なのだから、、、
わが身に当てはめて、読破しました。


ピンクリボンの

乳がんの早期発見の
J.POSH(日本乳がんピンクリボン運動)を思わせる、

子供を育てる母親の健康を明るく、元気に、
見守るような、ピンクの想定の本です。

健康なお母さんであってほしい祈りの中で
乳がんにかかる、お母さんもいらっしゃいます。

若き乳がんの患者さんが
夫に、
「おっぱいのない自分と別れてほしい」という文がありました。

僕は、おっぱいと結婚したのではない、、、!

この文を読んだとき、
万感の想いで「夫婦愛」の強さに感動しました。


     ***********************

心の持ちようで、
一日一日を幸せに生きることが、
どんなに大切な事か知りました。

一気に読める感動の実体験の、
医師の貴重な体験談です。

著者の真摯に生きた
がんセンターでの一生と、
がんセンターに居たからこそ、

患者さんに役立つ、

「ヘリカルCT]や、
数々のコロンブスの卵のような

未来の医療界に
貢献できる仕事をできたのではないかと思います。

著者は、
父親も外科医、
兄も、義兄も、いとこも医師という
医療家族の中で、
質実剛健に
、無給で始まったがんセンターの研究から
数々の実績を残し、ご自分の夢を見つけました。

若き日には

「がん回廊の朝」「明日への挑戦」など、


柳田邦夫さんの単行本で、
私は、日本の画像診断の黎明期の
眩しいような、医師達の頑張りのロマンを読んでいました。

日本のがんを、此処まで早期発見に導いたのは

がんセンターの創世記の担い手であることは、
わたしも、多くの患者さんも知るところです。

第二の創世記として、
このような創世記の歴史を、
上塗り保存のように

独立何とかの???組織にして
がんセンターのなじみの薄い人の旗に代わってしまって

検診のファイトが、折れてしまいました。

50周年に、歌舞伎の幕が降りて、
主役が再び出てきて下さるように、

なじみの先生が、
いきなりいなくなってしまうのは
寂しい限りです。

創立から、50年間の現場の功労者の先生方を
削除してしまう、
政治家の考える
独立法人のがんセンターは

患者さんも、心のよりどころの、偉大な巨木を失いました。

医の心をどのように、して
未来の医師の卵に伝え

突き放された患者さんの
物言わぬ医療の共有者の嘆きを伝えたらよいのかと

残念に思います。
日本には、CTも、知らない人の多い時代から、
改良されてきたのですから。

いきなり力づくで、でんぐりかえってしまったような
組織の変わり方で、
日進月歩の積み上げられた、医師と、患者さんの
組み合わせばかりではなく、、、

市川先生や、崎田先生や、
CT開発の「幸せながん患者」の著者の先生は

がんセンターの、医学遺産だと、、、コロンブスだと、、、

医薬史の好きな私は、、もったいない、、、もったいない、、と

思うのです。

パスツール研究所では
ツル首のフラスコが保存されていましたが、

スタッフの油絵や、研究所と一緒に、夫人の椅子まで保存してありました。

誰が、ここまでの医学の進歩に貢献したか?
その、足跡を見て、
若き人の夢も、損得抜きで、経済を考える前に
無給でも、集まって、夢を追うのではないのでしょうか?

ヨーロッパで訪問した、歴史ある病院の数々を、
回想してしまうのです。

第二の創世記は、第一の創世記という
土台の上に花が咲くのであって、
医学は経験の学問であるだけに、
四代中医学院を実習して回った中国も、

トラの骨の生薬まで展示していました。
西暦500年前後の名医の
ソンシバク先生の診療所や、
治療された患者さんの奇病の石像まで
長い石段の欄干に相当する部署に保存されていました。
医学の文献は、本物は、洞穴に保存されていたそうで、

一部は

持ち出され、「養生集」として
日本で本になっていました。


がんセンターを
素晴らしい築地の病院に育て上げ
世界を相手に、医学戦争で生き残ってきた実績が

着実に、創世記の土台に敬意を払って
第二の創世記が積み上げられるのでなければ、

木曽の蝮の言ったように
時代が主という
戦乱の医学世界になってしまい、

あの、、、時を超えて
医薬の歴史が囁く、、、感謝の心が
置き去りになってしまいます。

こういう、、、一般人の私には理解しがたい
政治の力が優位に働くのは、
第二の創世記のリーダーとなる
サポーターとしての、立場から、
内容を大切にしてほしいと思いました。

温故知新
温故知新
いきなりのショックは、
患者さんも置き去りです。

繋がってこそ、重なってこそ

ビジョンに萌えた夢に向かう未来の
心のある医師をそだててゆくのだろうと思い込んでいました。?

私も患者の一人として、
卵巣腫瘍を診断してもらった一人ですが、
15年が過ぎました。

日々、雪搔き、買い物、家事、をこなしています。
思い返せば、あの時、考える暇を持たないように

仕事に戻ったのが、
その後の幸せな日々を感謝できる剣ヶ峰だったと
今更のように、振り返ります。

手術後は、一か月後に、
公立の、大学病院薬局で調剤の仕事に戻りました。

60歳で仕事を辞めて、家事に専念しています。

がん患者さんを担当している、
ドクター、ナース、コメディカルの皆さん

がん患者さんに寄り添うとき、

がん一筋に築地の第一線で経験を積んだ
現場の体験談を胸に
患者さんと接するとき、
きっと何かが違うと確信しました。

医歯薬史の話から、
「幸せながん患者」の、
心の本の話になりましたが、

この素晴らしい実績を残した、

創世記の国立がんセンターは、

第二の創世記に入り、
かっての功労者の先生の実績をHPで知ることはできませんが、

市川平三郎先生と入力すると、
検索で、WIKIページに、
過去の、
がん医療の発展が一部知ることが出来るので、

医歯薬史に余生を送っている友よ!

森山紀之というキーワードで
検索すると、

「がんはどこまで治せるか」

「幸せながん患者」そのほか、

ハーバード大学の教授が、思わず、、

Dr.森山は私の先生です!と
笑顔で喜ばれたという

、肝胆膵の医学生向け教科書も、
ネットで取り寄せることが出来ますよ。

それにしても、
あの、
創世記のビジョンにもえた
50年の
がんセンターの歴史を、
なんで、

歴史学者の為にも、

今日までのプロセスを、
HPに残してくれないのでしょうか?

私は、
築地にがんセンターが出来た頃は、
兄と見学に行きました。
崎田先生の、内視鏡の発展の話は、
オリンパスの胃カメラの発展と

日本の消化器のがんの
早期発見を実現したと、
研修の若き医師が
話してくれました。

東京大学の、大学祭に行ったときは、

まだ、、かなり太い、先端も回転しない胃カメラが展示してあり、


日進月歩に改良される
胃カメラを次々と買い換えて、
パソコン時代と同様、機会に食われた診療所は、
閉鎖することも多くなり、

機械の発展に追いつけない
経済負けしない病院への勤務医は、
自分の技術を磨き続ける


「専門医」「指導医」「認定医」が、
「博士号」に代わって
臨床力を証明するパテントになったようですね。
博士号は。大学からの、貴重な、同朋の力の証明なのでしょうか?

しかし、
がんセンターはそれらのパテントの
さらに新しい時代を
独自に開拓していたので、
患者となって、受付に行ったときは、
東洋の国の王妃クラスの人の
御付きの人が、検診を申し込んでいたことが
印象に残っています。


国立がんセンターの歴史と
入力すると、
政治家の方が、
独立法人化に提案されたようで、

50年の、
血と涙の努力の、CTの開発や、
医師が見て、
必要な箇所が撮影される画像に表現されるように
技師と医師、東北大学の教授となられた方々との、
東芝メディカル?ですかね?
機械担当の寝る暇も惜しんだ
努力を

医学の歴史として残すべきだと、思います
医歯薬史学の研究のためにも、、、



未来の医学の発展に残すのは、
やはり、
政治家の考える合理的なシステムではなくて、

「医の心」を

未来の医師の卵に伝える、
先人の、本当に、
現場で担当していた医師や
スタッフの足跡を、

しっかりと、
心の糧として引き継ぎ、
経済的に担当する部署は

医師の心と、
近代化の機械、

たとえばダヴィンチが果たした前立腺がんの手術の後の
尿漏れなどを解決してゆくプロセスには、

ヒントとなったコロンブスの卵を
やってのけた
創世記の時代の先生方を
師として、
大切にしてほしいと思いながら、

「幸せながん患者」の本を一気に読みました。

現場の医師は、、、
患者さんの心に永遠に生きています。

あたたかな、
寄り添う心を、私も、薬剤師として、
この本から
学ばせていただきました。

親しき友よ、私の、医薬歴史への想いと
感動の一冊を読だ観劇を
聴いてくださってくれてありがとう、

まだ気持ちは若い私です。
又、、、逢いましょうね!!!

日記帳のような、未公開のブログですが
熱気が入りました。

親しいあなたへ、私の個人的な気持ちを
知ってほしくて書きました。




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