花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

教育という言葉の怖さ、、、「命の展示の資格と死角」

2010-08-03 04:24:06 | Weblog
       子供が生まれたとき、、、
    感じるだろう、、、

       こんにちわ!、、、あかちゃん!
       これからは、私があなたの僕なのよ、、、(^^!

    天真爛漫、、、何でも私に伝えてね!

        私が「あなたで、、、」
        あなたが、、、「私、、、??」

    母親という「生まれたばかりの母親と新生児」の私と我が子は
    「赤ちゃんが育つのと一緒に
    「新生児同様の母の心が育ち続けた、、、」

    私の「ミニチュア」になることだけは恐れながら、、、
    約束しました。
    「あなたの子供時代が、
    子供らしくあなた自身で生きてゆくこと。」

     お母さんになった私は
     あなたの後ろから、、、
    見守りながら付き添ってついてゆく。

    あなたという「天に放たれた矢」が
    飛んでゆく先を、私は追う。

    教えることはしなかった。
    二人の間には
   「言葉も要らなかった。」

    片時も我が子を忘れることは無かったから、、、。

    小学校に入学したとき
    、「名前がやっと書ける」

    ここから出発だった。

    「先生は大変な職業」だと思います。

    「教育」という
    高所から見下ろしたような言葉の中には

    先生が導いてゆくという
    ハートにあふれたイメージがありません。

    「教案」を書くという段階で
    「多くのルール」や
     方針や校風や、
     校長先生の希望、、、など。

     時代背景に沿った
     文部省の方針で

    「教育」という枠の中の導きが
     個性を無視せざるを得ない
    一律教育になってゆくのだろうか?

    自分の能力の限界のとき
    父兄の中に
    「専門家」がいる事だって多いのですから、

     時には「実績のある父兄」に
     講義を手伝ってもらうことが
     あってもいいと思うのです。

    母親が、
   「学校」や「サークル」に
    子供を預け

    子供の自発的な学習に
    「応援席」から弁当を作るように、、、

    先生だって、、、
    不得手な理科の授業など
    父兄に手伝ってもらって

   、地球と対話できるエッセンスを
    父兄から引き出す事だってあっていいと思うんです。

    先日、野村監督が
    故郷の母校で
    生徒たちに授業をするTV番組に
    感動しました。

    野村監督は若きころ
    「長島はバラの花」
     「私は野原に咲く月見草、、、」のようなことを言われました。

    40歳過ぎても野球の命を燃焼していたのを覚えている人は

    きっと「野村監督の心のフアン」でしょう!
    野村監督の授業は体育館で
    生徒自身で作戦して、点につなげ次につなげるという
    「野球は頭で考えるスポーツだ」ということを
    短時間で感動のうちに生徒たちに伝えたのです。

    生徒たちの成長は「失敗」を成長と読む野村さんによって
    「野球って何なのか!?
    「味」のある香りのある、、、
    新種の「花」だと思いました。
    
    校長先生も、先生もすばらしい企画をされたと思いました。、

    野村さんの生涯のエネルギーを
    先生として迎えたと思いました、

    良いものは良いものとして受け入れる
    心の広さが先生側にもあったと思いました。
    いつも自分の存在が
    教壇の上になければならないという
    「爪先立ちの主役をこなす
     無理を重ねる必要は無いのではないかと思いました。

        先生自身が職員室ごと
    「自由な発想」を
    柔軟に受け入れてゆくことが
    「本当に、、、先生、、、」なのだと思いました。
    父兄と先生とが
    「良い関係の教育現場」で協力出来るのは
    素敵と思いました。

        すごい人です!
    野村さん!!   大好きです!。

 
          *** たとえば、***
、、
    子供たちの欲しがる「カブトムシ」や「クワガタ」

       これらは
   「幼虫が、、、さなぎになって、
    羽化したり、
    成虫になる過程」が

    実際に飼っている「経験者」でなければ
    わからない難所難問に突き当たる。」
      たとえば、、、温度、
             「虫たちの家に相当する容器」
                 「土!」

   「ファーブル昆虫記」のように
   「土は昆虫の命の温床である。」   
    業者から一括納入された土があったとする、

*********************************、、

   そのまま使う事は
   問題も起きることがある。

   土は消毒されていたり

   長い間、
   ビニール袋に入れてあったものを使うと

 ***  昆虫の変体に必要不可欠な        ***
 ***  「土の命」が死んでいることがある。   ***

   昆虫の変体や成長を
  「正常に促す土」には
   「腐葉土」の中の「菌」が

   パンを焼くときの
   「生イースト」のように
   「土」、、、自体が
   生きていることが必要です。

   そして、昆虫の幼虫を育てるとき
   見える幼虫と、
   見えない「菌」の育成を
   温度管理、
   湿度管理、
   光の管理、
   「空気の対流」など

   総合力の「見えないものを見る」という

   理科的な力のほかに、

   昆虫の幼虫を
  「昆虫が好きですという昆虫への愛のまなざしで出来る発見」が必要です。

*******************************

   白い色ではあるが、、、
   芋虫のような昆虫の幼虫を

   「気持ち悪いと思うようでは、

   「虫の病気」
   「虫の変異」
    虫の喜び、快適、気持ちよいと言ってることに
    気がつくことは無理です。」
    
    幼虫はかならだくねらせ
    話しかけてくるのです。
 
    苦しいとき、、、動かなくなったり、、、

   子供たちへ
   「昆虫の変態を教えてあげよう!」という
   一段高い教壇からの
   「文献博士」では、
   生きた命の変体を展示することは
   もっと考えたほうがいいと思います。

       たとえば、、、
       先生という身分と
       「命」を扱えるのとは別物ではないでしょうか?
   
   「授業」でカリキュラムの中で教えるのは
   子供の将来の考えに影響するだけに
   「命」を扱う実力者が
   「命の不思議を伝える」事が大切です。

   昆虫に対する知識の不足や環境の知識の未熟から
   「奇形」の命を産ませてはなりません。

   子供たちの前で
   「奇形昆虫を実験の結果展示しては問題が残ります。

  「医学部」の「基礎研究」の
   教授や学者は
   高い地位に
   「人間界」では位置づけられているようです。」
   しかし
   患者さんを診る経験は無いのですから
   臨床医としての「認定や、指導医としての認定をされている
   臨床医が「命」にかかわって、病気を診てくれますよね。

   実際の
   命を扱うのは
   『臨床医』である「病院の先生」や
    町のお医者さんのほうが、
    学問では
    解決しない「私たちの身体の変化」を見抜き
   対応してくれます。

   「先生としては、
   自分で飼ったことの無い
   昆虫の本物を「展示授業」するなら

   その虫が「奇形であるか無いか」ぐらいは
   分別できる注意が必要と思うのです。

 未熟な知識で安易に「命」を教材にすると

   「命をはぐくむ手厳しさの壁」に
    突き当たると思うのです。」

   大切な昆虫の、
   「身をくねらせて訴える病気」を
   発見する事は
   「命」に対する
   「滅私奉公」の「熟練」と「昆虫への愛」と必要です。

   自分で
   育てたことも、
   飼ったことも無い
   「カブトムシ」や「クワガタ」
   安易に「命の展示をしようとして、」

   教材として取り寄せた規格品の土。

 *****  土の管理が未熟なため  *****

   昆虫が、途中で死んだり、
   奇形の昆虫になったり

   子供には
   「見せてはならない命の展示」になることも
   珍しくありません。

   「クワガタ」や
   「カブトムシ」を飼って

   いろいろなことに出会い

   いろいろな場合を解決してきた
   「努力の蓄積の体験のデーター」がない場合、

   昆虫を安易に、
   生徒に飼うことを「展示」して
   「形だけの授業をしては
   ならないと思うのです。

   「命の不思議」を
   「ぎっしりと持っている」のが
    昆虫です。

   「先生」という職業は、
      教案に沿って、
   虫の生態を実験しなくてはならない場合もあるでしょう!。

   しかし、、、
   昆虫に関しては、
   「命」の不思議の謎を多く含むだけに、

   学校の外の、
   スペシャリストにお願いして
   「命」を守ることの
   リレーの大切さの方を
   子供に伝えるべきだと思います。

   昆虫は色の中でも特殊な色を好んだりもします。
   光も布も好き嫌いがあります。

   蝶が特殊な花に集まりやすいように
   昆虫にも「特殊な土」が必要です。

   昆虫の好きな木や葉が
   特殊な菌類で発行した匂いも好きです。


   イージーに扱うことは
   罪悪なのだと
   子供たちに伝えることは大切です。

   未熟な理科実験で

   変態の奇形児を出現させてはならないのです。
   「命」なのですから!
   土、温度、光、空気、、広さ、樹液、、、
   すべてに地球環境の

   天与の呼吸を心得る繊細さが必要であります。
   実験で「奇形昆虫が生まれている」のも
   区別がつかない先生がいたとしたら!
   虫たちの「命」
   人間の「命」
   不思議さにおいて科学するには対等以上かも知れない昆虫たちです。
   正確なデーターを基礎として緻密な環境を、まず、学ばせてください。

   地球を次代につなげ守るのは
   「命」の不思議を知っていることが大切です。

   地球環境を大声で伝えることも大切ですが
   昆虫を環境と絡めて学習し「命」を学ぶことが大切です。

   命の展示は、
   「愛」
   「心」
   「虫たちの可愛さに。不思議さに
   ひざまづき
   命に奉仕できる緻密さ」

   先生自ら虫の世話をし、排泄物を分析し
   環境と、虫の変体を見つめ続け

   虫とともに生きる時間が
   虫たちの正常な「命」をはぐくむのです。

      しかし、、、昆虫という
  「命の実験は控えました。」

   昆虫をCTで撮影した写真を、
   ある有名な研究所で見せてもらいました。

   空洞でした!、、空気が写っていました。

   蛹の中には「丸い閉じ込められた「空気」が写っていました。
   その先生は「昆虫の不思議」の中から
   制癌剤を見つけられないか模索していました。

      天然物化学を学びに通学したとき、

   カメムシを
   5万匹集めて
   研究していた人の話を聴くことが出来ました。


   理科の不思議、、、「命の不思議」、、、
   この難解な生態の変化を

   理論も解らず展示することは出来ませんでした。
   あまりにも
   「恥ずかしい、人間の傲慢さが罪にも思えました。」

   ペットショップのプロのおじさんに

   お店の
  「正常な成虫」になったものを持ってきてもらって、」

「正常な昆虫を生徒に見せて、
 「正常とは、、、」を、語るべきです。

      
      大腸菌の検出された水道水を、
   生徒に飲ませることはしないでしょう!
   
   樹木を一本切り倒したら
   苗を植えましょう!

   昆虫の奇形は
   多くの問題の警鐘を鳴らしていることを
   生徒たちに知らせるべきです。

   その前に、、、
   「命」だけは

   未熟な経験者が展示できるものでは無いことを
   先生自ら、、、
   「もう一度吟味してください。、」

  
    生徒たちは
    「命」の前に謙虚な人々の話を聞いて
   「命」の重さ。
    命の不思議を知るのではないかと思いました。
   奇形の虫を孵化させて、それに気がつかない授業が
   仮に、、、あったとしたら。

   先生であろうとするための
   「自己の存在のアピール」のための、
   先生の先生であるための実験と言われ、

   授業の感謝が、
   父兄からの質問に
   置き換えられても
   弁解できないような
   昆虫の「奇形変態」を生徒に見せているのも気がつかないのは
   都会の教壇の怖さ、、、
  「教育」という言葉の怖さですよね。

   気がつくことの大切さ!
   「命」を教えることを
   教壇で抱え込まないで
   父兄と、社会と、医師や研究者と連携し

   子供時代の心の無垢なキャンパスに
   輝く命の不思議を
   一緒に描いてみようと思うのです。

  「教育」という言葉の中には
   「人間が万物の霊長よ!」と言ったような、、、

   怖ろしい「傲慢な、一段高い教壇を連想するのです。」
  
  
      祖父は「校長先生」でした、
   祖母は「お裁縫の先生」でした。

   私は母乳を知りません。
   母の台所には、雇われた近所のおばあさんがいました。

   おじさんは、「学徒出陣」の帰還後、
   早稲田の理工学部を卒業し、
   中学、高校の「理科の教師」を経験後、
   大学の教官になりました。

   おじさんは授業をしながら
   55歳で教壇で死にました。

   学校には、
   おじさんの本が寄付されたときのまま
   「おじさんの名前がついた文庫のラベルが輝いています。」

   おばさんは、小学校の教頭でした。

   「あなたは、
    自分の子供を育てただけ。
    私は何千人も我が子同然の教え子を育てたわ。」
   表彰状にグルート取り巻かれた書斎で
   素敵な彼女は、よく説教をしてくれました。

    、医師である兄弟、
   医師である息子、、、

   私は「便利やをしているのではありません。」
   「患者さんの命を一番に生きる家族を、私なりに理解して、
    『患者さんが一番』ということの実行できる家庭運営をしていたら、、、。
   「便利屋さんになっていたと言うだけです、」

、 私は「グローバルな視点で命とのかかわりを学ぶ薬剤師です。」
  60歳までは現場の薬剤師もしました。

   私自身、生薬栽培のときの「肥料の成分構成」にこだわり
  、土の分析も、空気の分析もしっかりやっているのです。

   私自身の心からの叫びです。

   昆虫こそ、「命の不思議のメッカです!」
   昆虫の命を安易に見よう見まねで生徒に展示するのは
   「命をもてあそぶ結果になります。」
   安易な土選びで、奇形昆虫を羽化させてはなりません。

   デリケートな環境で変わる昆虫は
   敬意を持って繊細に扱うべきです。
   「ホルモン」「フェロモン」「変体」「奇形」「未成熟」を
   展示するのは
   昆虫学のみならず科学の造詣の深さが必要です。
   

   生徒の前で、
   生き物を「命の展示」に
   使えるためになるまでの実力は

   「昆虫といっても
   「命である」という
   「命」の重さの認識が大切と教えるべきです。、
  
   「その道のプロ」にお願いすべきであると、、、思います。

   奇形のまま展示されていた、
   小学校の理科室で

   先生自身が
  「奇形であることにすら気がつかない哀しいこと。」

   それに気がつかない
   「教育」ということの

   [両刃の剣]を思うとき、

   父兄も協力して、
   先生の不得手なことを手伝うことの大切を
   思い知った、、。

   大人の無知と
   ネットなどの表面的な情報からくる
   イージイーな
   「解ったつもり」の「短慮」は
   「教師」という「子供の未来の心も育てる立場」を考えると

 
   「奇形」の展示に気がつきもしない、、、事はショックです。

   
    「無知という罪」
   「罪」を認識するのでした。
   
     人間の何百倍も優れたところがある命であることを知り
   多くのメッセージを科学の世界に送ってくれていることを
   再確認すべきです。
         昆虫が、静かに、、、

   身をくねらせる「体話!!!で話しているように聞こえました。」