貴女と初めて会ったのはもう30年以上も前、一年間だけ働いた自宅近くの会社に就職したのがきっかけだったが、もう記憶は朧。
息子たちが小学校に入学した頃から、それまでは徒歩圏内で短時間のみ働いていたのを、電車通勤でオフィス街にある職場のパートタイムに変えた。
勿論オフィス街の方が選択範囲が大きく職を得やすかったこともあるが、そのための通勤時間の増加等のデメリットもあるが、私は敢えて電車通勤を選んだ。
生まれ育ち結婚しても住み続けていた長屋は、絵に描いたような本当の下町で周りは町工場ばかりだった。
戦前の田畑の真ん中に建ったらしい長屋に結婚して済むようになった主人は、サラリーマンだったので当然背広姿で通勤していたが、それに対してご近所で働く顔見知りのおっちゃんは「毎日三つ揃え着てどこ行くの?」と聞いてくる、てくらいの下町、それが嫌だったからと思う。
次男が中学生になり、それまで母親が家で待っていないことを嫌がっていたが、それを機会にフルタイムで働こうと思ったが、母親の体調が思わしくなく、近くだったらすぐ帰宅出来るし、と自転車通勤できる職場を選び働き始めた会社で出会ったのが貴女だった。
でも私はやはり都会のビル街で働きたくて転職してしまったのだが、その後もその会社の同僚たちとカラオケ等へ行く付き合いがあった、それは貴女が誘ってくれたからだったと思う。
そうこうしているうちに私の住んでいる地域にマンションを購入して貴女が引っ越してきて、それから二人の付き合いが始まったと言えるよね。
私には独身の女友達が多かった、私のそれまでの友達は専業主婦ばかりなので仕事人間だった私とは話は合わず、付き合うのは会社関連の独身女性ばかりもしくはたまに男性、となった。
だから飲みに行く機会も多かった、気軽に飲みに行ってお喋りしななおかつ一緒に遊びに行けるのは独身ばかりとなってもおかしくない。
貴女は独身だったが同じ年頃の息子がいたのでよけい話が合ったのかも。でもこんなことを言うと不遜だけど、私は息子の話はあまりしなかったと思う、出来の良い息子を持っていた私には、貴女が息子さんに愚痴るようなことが全く思い当たらなかったからだと思う。
貴女と私は全く違う第一印象を持っていた、愛想の無い貴女に対して社交的な私。
でも根本的なところで似ていたと思う。他人のことには必要以上に関与しない、踏み込まない、無責任な噂話はしない、そして質素な生活、母親に対しての感情が共通していたのが大きな要因だったかも知れないが、それらのこともあり親しくなった。
貴女が50歳の時に急に退社した時はびっくりした。「親戚が住んでいるアメリカへ移住したいと思って」と聞いて更にびっくり。
その夢を叶えるべく貴女は近くの青少年会館へ英会話の習得に通い出した。
私ときたらカタカナにさえ頭が自動シャッターを降ろすぐらいで、映画のタイトルさえ5文字以上になったらまず覚えられなかった。
その少し前だったかwindows95が一気に広まっていたので、パソコンオタクだった私はすぐにwindowsOS対応パソコンを購入し、常時接続でインターネット始めたばかりで、当時はフリーソフトのほとんどが英語版だったので苦戦していたこともあり、私も英会話を一緒に習うことにした。
そして「英語は世界共通語だっ!」と思い始めた頃に貿易会社に転職する機会があり更に英会話習得に嵌り、語学留学もしベトナムで英語での生活が出来たのは、全て貴女がそのキッカケを作ってくれたからだと今は思っている。
主人への愚痴だって言えたし、家出した時にも泊まる場所があったのは貴女がいてくれたこそ。
そしてよく飲みに行った、よくと言っても年に一度か2度だけど、いろんな話をした、成人して同居していた次男と一緒に飲みに行ったこともあった。
私は忘れていたが息子が思い出として語ってくれた、昔から背が高くて細い貴女のことを「ヒョロヒョロおばちゃん」と呼んでいたっけ。
楽に死ぬために点滴を打つ、とは聞いていた、打ったらったら意識が無くなると分かっていた。でも点滴を打つ前に言いたかったことが言えなかった。
点滴を打つ日にお見舞いに行った、でも弟さんも来ていたので言う機会を失してしまった。もっと早く言っておけば良かった。
「私が死んだときは迎えに来てね」って
気になる男性の話や昔のコイバナなどのガールズトークが出来る相手は、貴女だけだった。
お互いに貧乏育ちで金銭感覚も同じなのも話していて安心できた。
そんな30年に及ぶ関係の貴女を亡くしてしまい私は本当に悲しい。