もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

日本学術会議元会長「大西隆」氏の主張を読んで

2020年10月18日 | 社会・政治問題

 各術会議会員の任命拒否騒動に関して3人の学者の主張を読んだ。

 中でも、日本学術会議元会長「大西隆(第22・23期(平23~平29)氏」の主張は興味深いものであった。
 氏は、今回の任命拒否と学術会議の在り方(特に軍事研究拒否声明)は別の問題としたうえで論を展開されておられる。
 任命拒否については、現役会員が後任者を推薦する方式が閉鎖的になりがちだと認める一方で、過去の選挙方式は組織票に偏り・学会推薦方式は出身母体の利益代表になった弊害から、個人の推薦を選考委員会で偏りを調整して申請するという現行方式がベターであるとしている。選考委員会が正常に機能して真にバランスをとっているのであれば、政府の任命拒否について説明を求めるに際して推薦と選考の過程を明らかにして、政府・会議何れに理非があるかを問うのが喧嘩の常道と思うのだが、そうしない背景には選考会議による審議は形式的である実態を示しているように感じられる。
 会長在任中の平成29年に出された「3回目の軍事研究拒否声明」については、過去2回の声明を踏襲しているものの「各大学が安全保障分野の研究について技術的・倫理的に厳正に審査する制度を設けるべき」という点を評価して欲しいと述べているが、北大が防衛省の安全保障技術研究推進制度に当選した「艦船の燃費低減研究」をつぶしたり、名古屋大学平和憲章が暴走している現実を見れば、氏の述懐を込めた主張は余りにきれいごと過ぎるように感じられる。
 更に氏は「私自身は自衛のために有用な基礎研究は国民が許容する範囲で受け入れられるべきと考えている」と言葉を継いでおられるが、学問に国民の許容を求めることなど凡そ学者として如何なものであろうか。学問が国民の許容範囲に留まるならば、現在まで地球は平らなままであり太陽は地球を中心として運動しているのではないだろうか。国民の許容(社会通念)を越えたところにこそ新しい発明・発見があり、そのことが人類の発展、少なくとも日本の産業発展の基礎であるように思うのだが。

 大西氏と並んで、3回目の軍事研究拒否声明時の検討委員会幹事で声明に反対した小松利光(九大名誉教授)氏が、軍事・民生技術の線引きが困難な実情から学術会議自体にも「軍事研究」の明確な定義はなく、幹事会の議論では「それを議論すると紛糾して(声明が)纏まらないから」とされたことを紹介されておられるので、巷間で囁かれている「学術会議は一部の学者の恣意的組織」であると云うのは真実であるらしい。通常の議論ではテーマを共有(定義)して論じられると思うが、学術会議では問答無用・結論ありきが常態化しているのではないかと推測されるものの、当該声明を主導した大西氏からの弁護・反論は載せられていない。
 学問・学者は「栄華の巷低く見て象牙の塔に閉じこもる」孤高の学究で成り立っていると思っていたが、一部の範囲ではあろうが、既得権益・毀誉褒貶・立身出世の欲望で成り立っている一般社会と同様であるように感じられる。


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