もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

海軍の職制と階級ー1(士官編)

2021年07月03日 | 軍事

 先日、勇敢なる水兵の「三浦虎次郎3等水兵」について書いたが、帝国軍の最下級は2等兵ではと思われた人も少なくないと思うので、帝国海軍の職制・階級について2回に分けて書くこととし、本日は士官についてである。

 帝国海軍の職制と呼称については、極めて複雑でかつ幾多の改正・変遷を重ねていることから、簡潔にすることは困難であるので大東亜戦争直前の昭和16年を基本とすることを予めご承知いただきたい。
 海軍士官は職制によって大きく「将校」と「将校相当官」に分類され、将校と呼ばれるのは兵科士官と機関科士官のみであり、その他の軍医科・薬剤科・主計科・造船科・造機科・造兵科・水路科・歯科医科の士官は将校相当官とされていた。
 士官の養成は、兵科将校は海軍兵学校(江田島)、機関科将校は海軍機関学校(舞鶴)、主計科士官は海軍経理学校(東京)で行われ、その他の士官は大学からの採用であった。兵科とは概ね攻撃に関連する職で、艦艇では砲術・水雷・船務・航海等で、航空職も含まれていた。
 階級の呼称について、大尉(海軍ではタイイではなく、ダイイと発唱)を例に記述すると、兵科将校は「海軍大尉」であるが、その他の将校(機関科)・将校相当官は「海軍機関大尉」のように職域を付して示される。さらに、将校相当官にあっては最高位は中将(薬剤科・歯科医科は少将、水路科は大佐)であり、提督になれば兵科に統合される「機関」将校にあっても終戦jまで大将は出なかったとされている。
 また、職制・階級が最終改定された大戦末期の昭和19年までは、戦闘部隊や戦闘地域にある後方部隊の指揮官は海軍兵学校卒業の兵科将校に限られ、例えば戦地にある野戦病院では海軍少佐が海軍軍医中佐を指揮するようなケースも有った。さらに、艦長以下の主要幹部が戦死した巡洋艦では生き残った海軍中尉の航海長が海軍機関中佐や海軍主計少佐を含めて艦を指揮(臨時艦長)することもあったとされている。
 海軍には、経済的理由で旧制中学に進めなかったものの優秀な下士官が数多く、彼等には選抜・選考されて前述した士官養成学校で1年間学んで士官に任用される制度があったが、当該士官は「海軍特務大尉」や「海軍特務機関大尉」のように「特務」を付せらて区別され階級的にも「大尉」止まりであったらしい。更には大型艦では大尉以上は士官室で、中尉以下は「士官次室(通称:ガン・ルーム)」が公室とされて食事・休憩・執務を行っていたが、特務士官にあっては大尉であってもガン・ルーム士官であり、士官室は利用できなかったとされている。
 何故ガンルームと呼ばれるかについて。英国軍艦では、小銃や拳銃などを格納した武器庫(ガン・ルーム)を若い士官や候補生の公室としていたことに由来しており、その伝統に日本海軍も倣ったとされているが、敵性用語(英語)禁止とされた時代にあっても、海軍ではお構いなしに他の英語呼称と同様に使用され続けていたとされる。

 士官の区分・呼称について書いたが、将校、それも海軍兵学校卒業者が極めて優遇されるように感じられるかもしれない。これは、帆船時代の映画等に見られるように大勢の荒くれ男を少人数の正規士官で統御しなければならない歴史から必然的に生まれたものであると思う。反面、衣服や食事が無料である下士官・兵と違って、士官は全て自弁であり、そこから「貧乏少尉・遣り繰り中尉・ヤットコ大尉」なる自虐・世評が生まれたともされているが、大尉(ダイイ)になるまでは結婚など考えられない経済事情であったのは事実であったらしい。
 明日は、下士官・兵に関して書く予定であります。