もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

第九初演100周年に思う

2018年06月04日 | 歴史

 日本でのベートーヴェン第九交響曲初演100周年記念行事が行われた。

 初演は1918年(大正7年)6月1日、徳島県鳴門市の板東俘虜収容所(所長:松江豊壽大佐)でドイツ兵捕虜によって全曲演奏されたもので、背景にある捕虜に対する人道的な処遇や地元民との心温まる交流とともに語り継がれている。第一次世界大戦で連合国の一員として参戦した日本は、ドイツ領であった青島・南洋諸島の攻略や米・加・メキシコの沿岸警備、インド洋・地中海での通商保護等に陸海軍を派遣した。第九を演奏した捕虜は青島陥落時の将兵で、捕虜に対する厚遇は武士道精神の発露や先進国に学ぼうとする国策の反映と云われている。一方、20年後の大東亜戦争では”バターン死の行進”とも呼ばれる捕虜の虐待が連合国から糾弾され、原因は強国に急成長した日本人の驕り・人道無視とする考えが一般的である。しかしながら、両者についても、日本人の特質に関しては大きな差異はないと思いたい。確かに、両者の20年間では”鬼畜米英””神州不敗”教育が行われたが、本来の農耕民族として日本人が持つ”優しさ”が今でも残っていることから考えると、教育によって作り出された狂信的な行動とは思えない。ではなぜ”バターン死の行進”は起きたのかと言えば、そこには輸送力に対する日本の国力の無さに最大の要因があったと思われる。バターン半島を電撃的に席巻した日本軍の輸送手段は専ら徒歩によるもので、「銀輪部隊」と呼ばれた自転車部隊が唯一の機動力で、野砲や山砲も解体して人力と馬匹で輸送したとされている。そのような状態では日本軍に倍する捕虜を輸送する能力は無く、鹵獲したトラックも運転出来る兵がいなかったために米人捕虜が運転したとされている。

 ”バターン死の行進”の例にみられるように、ある事象について当時の背景を無視して後世の価値観で断罪することが広く行われる。慰安婦問題にしても同様で、当時の倫理観と価値観からは「起こり得べくして起こった事象」の一つであると思うのだが。