もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

袴田事件における高裁判断に思う

2018年06月12日 | 社会・政治問題

 東京高裁が、袴田事件の再審を認めない判断を示した。

 今回の判断は、平成26年に静岡地裁が示した再審決定判断を不服として検察が抗告したものに対して、地裁が新たな証拠として採用したDNA鑑定の信憑性に疑問があることを判断の理由としていいる。事件の真相は依然として闇の中であるが、今回の東京高裁の決定で不審に思うのは再審を否定しながら「再審に対する最終判断が確定するまで、刑と拘置の執行停止は有効」としている点である。平易に言えば「自分(高裁)の判断には自信がないので、被告は最高裁の判断を仰いで下さい。でも高裁(自分)が嫌われるのは嫌なので被告は檻の外で普通の生活を送って下さい」と云う事ではないだろうか。複雑な事件になればなるほど、被告と検察の双方が納得できる判決は困難であることは理解できるし、そのために3審制度が存在することも理解できる。また、下級審における裁判官や裁判員であっても自分の判断が最終判断として確定することを覚悟して判決を下しているとも思っている。しかしながら、今回の決定は上級審に判断を丸投げしたもので、裁判官の覚悟として如何なものであろうか。再審が不適当と考えるならば、例え被告が高齢であっても収監し死刑囚として処遇すべきであり、万が一被告が最高裁に上告せずに結審した場合は、死刑囚が刑の執行を受ける恐れのない状態で、普通の生活を続けるということになるのだろうか。今回の判断を下した東京高裁の「O判事」が累進して最高裁の判事となって上には誰も頼る人がいなくなった場合は、全て下級審に差し戻して最終判断を逃れるのだろうか。

 今回の判事を例えれば、部下からの進言・提案に対してどうとでも取れる意見を付して上級機関に丸投げする凡庸な中間管理職の処世術にも似ていないだろうか。自分が最終判断をするという覚悟を窺えない裁判官に一抹の不安を覚えるものであるが、法律と法曹界に暗い自分の杞憂であってほしとも願うものである。