もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

幼児虐待死に思う

2018年06月07日 | 社会・政治問題

 またまた5歳児の虐待死が報じられた。

 被害に遭った幼時が両親に許しを請う悲痛なカナ書き文は、自分のような冷血漢にも読むに堪えなかった。今回も、児童相談所は虐待を認識するとともに扶養放棄による2度の書類送検から扶養の適格性に問題ありと認識していたが、転居による児童相談所の引継ぎ不完全に依り最悪の結果となったものである。前の居住地で2度も書類送検された両親のもとに子供を返したこと、転居先の児童相談所が3度も面会を拒絶されたにも拘らず警察に委ねなかったこと、報道を見る限り、何度も虐待死を防ぐ機会があったと思うが、そこには二つの原因があると思う。1つは、子供は両親のもとで育つのが1番という考え方である。幼児期に虐待を受けた人物が成人後にも何らかのトラウマを引きずっていることは統計的に証明されているにも拘らず、いまだに日本人特有のウエットな感情が法を超えて存在しており、扶養放棄の前歴者にも親権を与え続けるという過ちを繰り返している。2は、片方(子供或いは弱者)の人権を守るためには他(両親・強者)の人権は法により制限されて然るべきという、法治国家では当然の考えが日本にないことであると思う。警察・司法は長い間「民事不介入」を鉄則としていたために、こと人権が絡む問題への司法介入に及び腰であることは指摘されつつも改善されない。日本のウエットな土壌では双方の人権が守られることを1義として和解と加害者の更生のみが重視される結果、加害者の人権のみに配慮した司法判断が繰り返されていると思う。

 アメリカではスーパーで買い物をする数分間、子供を車内に放置しただけで車の窓ガラスを破って子供は保護され、親は逮捕される。今回の事象においても、転居先の児童相談所が面会を拒絶した段階で警察が対応していれば違った結果になっていたものと思う。さらに今回でも児童相談所の人手不足が挙げられているが、直ちに警察による対処が為されていたならば、複数回も訪問する手間を省くこともできたのではないだろうか。結論として言えるのは、法を凌駕するウエットな斟酌構造を排除して、ドライな法適用社会に変化すべき時期に来ているものと思う。