長良天神様の御祭神「菅原道真公」は、天資学徳にすぐれ給い、五才の時庭の梅花を見て うつくしや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある と和歌を詠じ、十一才の時同じく梅の漢詩 月輝如晴雪 梅花似照星 可憐金競転 庭上玉房馨 (晴れ渡った空に月が輝いて、梅が星のように無数に咲き匂っているので、可愛そうに贅を尽くして造られている金殿玉楼が色を失っている) を作って神童の誉れ高く、十八才にて文章博士となられました。又、書道にも長じ給い、藤原行成、藤原佐理と共に三蹟と称えられ、宇多上皇の御信任厚く、第六十代醍醐天皇の御代右大臣に進まれたが、藤原時平のため強訴されて大宰府に流され、延喜三年二月二十五日薨じ給う。薨去と共に神異が起こり、天満大自在天神として顕現され、大宰府天満宮、北野天満宮に鎮祭されました。 一条天皇の正暦五年(994)朝廷より、本社北野天満宮に「正一位天満大自在天神」(威徳天に充満し自在に霊驗を現わし給う神)の御神号が贈られ、朝廷崇敬二十二社に列された、学徳守護の篤い信仰が寄せられている神であります。 爾後、文学守護の御神徳は、全国に広まり、庶民生活の中に天神信仰となって、科学文化の開けた今日では、学問守護はもちろん文化生活の守護神としても広く尊崇されています。 |
菅公と牛 |
菅公のお生まれが丑年の日であって、菅公も牛に御関心が深く、御年十五才の元服の夜、白牛大木に打たれ死すの夢を見られ、それからその牛像を画かれて御拝されたと云うことです。 寛平五年北山に茸狩のとき、山中で白い小牛を得給い愛育されましたが、其の後配所大宰府に赴かれる途中、河内の「こもやの里」で藤原時平の討手が菅公を殺害せんとするとき、この牛が馳けて来て、角でこの賊を突き殺しお助けしたと云われています。 又、大宰府で薨じられた時、御棺を牛に引かして葬場に向かう途中、牛が坐して動かなくなった。其の処は丁度菅公が生前に御好みになった景地であったので、神意ならんと其の地に葬った。これが安楽寺であり、今の大宰府天満宮の地であると云うことです。こうした数々の言い伝えから菅公と牛とが信仰的に深く結びついています。 |
菅公と梅 |
菅公は菅原是善卿の御子として、第五十四代仁明天皇の御代承和十二年六月二十五日丑の日に誕生されたと伝へられますが、その御屋敷が紅梅殿と称せられ、母君懐妊の時、梅実懐中に入るの夢を見給い御誕生の時、口中に梅実を含んで居られ、この実を庭に植えたるに一本の白梅となる。 後世、菅公が大宰府に流され給うた時、筑紫に飛行したのが、この白梅だと云われて居ります。古来、梅の異称を「好文木」と言われて居り、文神である菅公と梅の結びつきも又神秘なものがあります。 |
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