先日、或る宝籤売り場で「BIG」を購入した際の出来事。購入したのは何時もと同様に「2口」で、代金は合計600円。千円札1枚を出した所、売り場の女性(30代前半か?)がチケットの上に御釣りの400円を載せて、此方に渡そうとしたのだが、100円玉1枚が落ちてしまった。100円玉が落ちたのはカウンター上、其れも女性の左手の直ぐ傍。当然、其の100円玉を拾い上げ、400円にして渡してくれると思いきや・・・。
女性は横の小銭入れから別の100円玉1枚を取り出し、何事も無かったかの様に残りの300円等と一緒にして、笑顔で「有り難う御座いました。」と渡してくれたのだった。「えっ?何で態々、別の100円玉を出して来たの?」と一瞬不思議に思うも、「あっ、そうか。『籤だけに、御釣りに“落とした小銭”を渡すのは縁起が良くない。』と考えての、客に対する気遣いなんだろうな。」と理解した。以前に落とした御釣りを其の儘渡し、客から文句を言われた経験が在るのかもしれないが、然りげ無い気遣いに感心してしまった。
こういった然りげ無い気遣いが在る一方で、「過剰な気遣いじゃないかなあ。」と思ってしまうケースも在る。「セレブな客が良く買い物に来る。」と言われていたスーパーに、以前1度だけ買い物に行った事が在るのだけれど、其処ではレジで買い物をした際、1点1点を店員がレジ袋に詰めてくれるスタイルが採られていた。自分の様な貧乏人には、そんなスタイルだけでも居心地が悪くなってしまうのだけれど、詰める際に「此れは加工食品なので、別の袋に詰めますね。」、「フルーツですので、別の袋に詰めさせて貰います。」、「御菓子は別の袋に詰めますね。」等々と、兎に角、詰める袋を細分化するのだ。購入した商品は15点で、結局袋は6つに分けられてしまった。
勿論、袋が多くなったからと言って、袋代を別途に徴収する訳では無かったのだが(当時、レジ袋は有料化されていなかった。)、「ドラッグストアで買い物をした際、薬と飲食物が一緒の袋に詰められても全然OK。」という感じの自分なので、「そんなにビニール袋を使って、勿体無いなあ。せめて『ビニール袋を細分化しますか?』と客に聞いて、『御願いします。』と答えた場合に、そうすれば良いのに。」と思ってしまったもの。貧乏人ならではのせこい考え方かもしれないが・・・。
魚屋や八百屋で、買ったものを新聞紙に包んでもらって、買い物籠に入れて持ち帰った記憶のある世代なので、パック商品をさらにレジ袋に入れてもらって、というのはやりすぎ、と思ったこともありましたが、馴れというのは恐ろしいもので・・・。
日本は資源の無い国なのに、世界に冠たる過剰包装大国です。そろそろ本気でダイエットを考えなくてはね。
「行き過ぎたエコ運動」もどうかとは思うのですが、過剰包装等、無駄を感じる事は未だ在りますね。
エコとは無関係なれど、デパートに行くと客が大して居ないのに、手持無沙汰な店員が多いのも「無駄だよなあ。」と思ってしまう訳ですが、其の一方で「効率化を求める余り、人間が介在する部分はどんどん減らされて行ってしまうと、働き場を失う人が今以上に増えてしまうのもまずいなあ。」と懸念したりもします。
年齢的に言えば悠々遊様は私よりも“先輩”に当たられると思うのですが、名古屋の片田舎に住んでいた幼少時には、夕方になると豆腐売りのラッパの音が聞こえ、母親から「豆腐を1丁買って来て。」と頼まれると、豆腐を入れるボウルを持ち、走って買いに行ったものです。豆腐屋のおっちゃんが水に浸かった豆腐を取り上げ、其れをボウルに入れてくれる。街中では個人が経営する八百屋や魚屋が普通に在り、其処でも包装なんかはしていませんでしたね。
何時の頃からか「過剰包装」が当たり前に感じてしまっていて、本当に「慣れ」というのは怖い物です。昔の如く「基本的に無包装」なんていうのは無理にしても、もっとシンプルな包装で在って良いと思います。