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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く37 その18 「水戸学の道です!!」

2022年03月11日 | 大洗巡礼記

 12月27日の月曜日、久しぶりの大洗行きの三日目は、計画上はほぼフリーでした。一日目の朝の悪天候で行けなかった水戸城跡見物を午前中にやることにしましたが、Hさんはそういった歴史散策系には興味がなさそうな感じで、水戸城見物の予定も事前に伝えたものの、それに対しての意見がありませんでした。
 とりあえず、朝食時に一度連絡しましたが、「適当に(大洗へ)移動します」との返事があったのみでした。それならば、昼にどこかで合流する形になるか、と考えました。

 

 そこで朝食後に水戸城跡の地図をネットで見て調べていると、突然、水戸の友人U氏から電話がありました。
「右京大夫殿か」
「おう、水戸の」
「いま大洗?」
「いや水戸の宿に居る。いつものプリンス。これから水戸城跡散策に行こうかと」
「なに城跡散策・・・、大洗巡りは終わったのか」
「いや、午後から行く積り」
「同道の尾張藩のお方は?」
「城跡には興味無いらしいので、午前中は別行動になる。昼に大洗のどこかで合流して飯食べると思う」
「ふーん、それならば、城跡散策のこと、水戸藩28万4千石の誇りにかけて、拙者が同道致そう」
「承知した」

 

 というわけで、思いがけなくも水戸の友人との久し振りの同道と相成りました。久しぶりといっても、11月上旬に京都散策を共にしていますから、一ヶ月余りのことでした。水戸駅北口のペデストリアンデッキ上の水戸黄門銅像前で8時に待ち合わせて、水戸城跡へ向かいました。上図の左奥に、既に水戸城二の丸隅櫓の白壁が見えていました。

 

 デジカメの望遠モードで撮りました。2021年2月に復元整備成ったばかりの水戸城二の丸隅櫓です。初めて見る水戸城跡の復元建築ですので、今回の巡礼旅行の主目的の一つに据えて楽しみにしていました。U氏もそのことを知っていましたから、今回思い付きで散策に付き合ってくれたもののようでした。

 

「おい、星野は確か水戸城跡はずっと以前に行ってるんだったな、復元事業の前だったな」
「ああ、2014年の春やった。もう七年前になるか・・・。そのときも君が色々案内してくれたやろ」(その時の記事はこちら
「そんな昔のことになったのか。その頃はあの二の丸隅櫓も、大手門もまだ無かったなあ」

 

 途中でU氏が「ちょっと立ち寄ろう」と上図の小さな神社に案内してくれました。義公祠堂(水戸黄門神社)といい、聞けばここが「義公」こと徳川光圀の生誕地であるそうです。後の副将軍格、水戸中納言黄門卿は寛永五年(1628)にここにあった家臣三木仁兵衛之次の屋敷で生まれ、四歳まで三木家の子としてここで養育されていたということです。

 

 義公祠堂の裏から国道51号線の歩道を登り、上図のJR水郡線の交差端上に行きました。U氏が線路を指さし、次いで左右の高い急傾斜面を交互に指しつつ、ここが水戸城本丸大手の大堀切跡じゃ、と得意げに言いました。先祖が水戸藩藩士なので城跡には精通しているのみならず、誇りに思っていることがよく分かりました。
 上図の左側が本丸、右側は二の丸で、奥に見える鉄橋がかつての本丸大手への連絡橋の位置にかけられています。

 

 水戸城は、徳川氏入府前の佐竹氏の支配期に城郭のほぼ大部分が出来上がったとされており、この大堀切も戦国末期の様相を色濃く漂わせて佐竹氏期の普請状況をしのばせます。深さ約20メートル、幅は約30メートルを誇る国内屈指の規模の堀切です。丘陵を楔形に掘り下げて立ち切った、土の絶壁と言うべき防御施設です。

 

 この大堀切の西側、二の丸側に登ってゆく道が、いまは上図のように史跡散策路「水戸学の道」として設定されて案内板や標識が各所に設けられています。

 

 案内板にある地図には現在の水戸城跡の史跡指定範囲が復原トレース線をまじえて示されています。私たちが居た地点は、右端の「御本所(本丸)」と「御城(二の丸)」の間の堀切の横でした。

 

 その堀切の西沿いの道を登ってゆくと、復元事業で再建された城門の一つ、柵町坂下門が見えてきました。

 

 小さな門なので縮小再現かと思いましたが、U氏は「小さいけれどこの大きさが大体は標準だったらしい」と語りました。城門というよりは外郭の通用門とみたほうが良いだろう、ということでした。御覧の通り、後ろに回ると高麗門の形式であることが分かります。戦国末期の文禄・慶長の役の頃、つまり1592年から1598年の間に造られ始めた城門の形式なので、それ以前の戦国期の城門の形とは異なります。

 

 説明板です。廃藩まで残っていた柵町坂下門の古写真のほか、正確な所在地が古絵図上に示されていました。それによれば、現在地よりも下、いまの国道51号線から「水戸学の道」へ入る辺りに門が建っていたことが理解出来ました。

 

 復元された柵町坂下門の奥に立っていた、水戸藩初代の徳川頼房の銅像です。徳川家康の十一男(末男)として伏見城にて生まれ、後に水戸徳川家の祖となった人物です。水戸藩士子孫のU氏がうやうやしく頭を下げて一礼しましたので、礼儀としてそれに倣っておきました。  (続く)

 


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